ジャズ・ディスク・ノート

第262回2018年5月21日

20・30年代ビッグ・バンド入門 その8
ジミー・ランスフォード 1930年

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

映画「デトロイト」パンフレット

5月14日からの週の前半は夏到来を思わせる汗ばむような陽気となりました。この間まで「寒い、寒い」と言っていたのが嘘のようです。僕の勤務先の丸の内・仲通りは日中歩行者専用となり、椅子・テーブルを並べ自由にランチやお茶が楽しめるようになっています。この季節は外で木漏れ日を浴びながらコーヒー・ブレイクと洒落込みたいところですが、余りに勤め先に近いとなかなかできないものです。

映画「デトロイト」を観ました

またまたゴールデン・ウィーク中のことになりますが、映画「デトロイト」を観に行きました。観に行ったのは、第258回でご紹介した厚木にある「アミューあつぎ」です。「私が殺したリー・モーガン」を観に行った際に次はこの映画がかかることを知ったのです。もともと日本では本年の1月に封切られ話題となりましたが、愚図な僕は観に行こうと思いながらもグズグズしていたら、封切館での上映は終了していて、ああまた見逃したかと思っていたら、近くで上映されることを知ったという次第です。

この映画は

1967年夏にデトロイトで実際に起こった黒人たちの暴動の中で起こった黒人射殺事件を扱った映画です。監督は2010年「ハート・ロッカー」で女性として初めてアカデミー賞監督賞を受賞したキャスリン・ビグロー氏です。チラシには「本年度アカデミー賞最有力候補」と大きく謳っていましたが、結果的にはノミネートにも至りませんでした。

テンプテーションズ「マイ・ガール」シングル盤

実際のところは僕などには分かりませんが、次のような憶測も飛び交ったようです。
ことは2016年にさかのぼります。2年連続でアカデミー賞のノミネートが全て白人に占められ黒人がいなかったことから、黒人映画監督スパイク・リーがアカデミー賞のボイコットを表明すると、次々と俳優など黒人映画関係者がボイコットを表明しました。いわゆる「アカデミー賞ボイコット事件」です。そしてそのガス抜きのために2017年度は大方の予想「ラ・ラ・ランド」を覆し、黒人バリー・ジェンキンス氏が監督した「ムーンライト」が作品賞を受賞したというのです。そしてその煽りを喰らい黒人暴動を扱ったこの「デトロイト」は忌避されたというのです。穿ち過ぎの見方のようにも思えますが、完全に否定することもできないような気もします。

ストーリー

映画は先ず、黒人たちが南部を離れ北部に至る経緯など時代背景を実に手際よく、アニメーションで伝え、一気に暴動のきっかけとなった黒人のベトナムからの帰還を祝うパーティーの場面となります。このパーティーで最初に流れるバックのダンス・ナンバーは、モータウンの大スター・グループ、テンプテーションズの「イッツ・グローイン」で、さすがモータウンのお膝元デトロイトだなぁと思わせます。このお祝いのパーティーに突然警察が押し入ってきます。パーティーが行われている店が無許可営業の酒場というのです。それで警官隊は、強引にパーティーを中止させ、抵抗する者を次々と逮捕していくのです。この横暴な取り締まりに対し、地元住民と警察の小競り合いが起こります。そしてこれをきっかけに一部の市民が暴徒化し、商店の破壊、略奪、放火へと発展してしまうのです。
そんな暴動でデビューのチャンスを逸したヴォーカル・グループ「ザ・ドラマティックス」のリード・ヴォーカルのラリーと親友が、暴動と取り締まる警察、州兵たちが入り乱れる中真っすぐ家には帰れず、比較的平静な地区にある「アルジェ・モーテル」にチェック・インします。しかしこれが大変なことに繋がっていきます。

ジェイムス・ブラウン自伝「俺がJBだ!」(文芸春秋)

先にこのモーテルにチェック・インしていたある黒人青年が悪ふざけで、競技用のピストルを窓から撃って警察を驚かすのですが、これは悪ノリが過ぎました。このモーテルに狙撃者がいると思い込んだ警察が、突入してくるのです。そして黒人たちを拘束し、誰が撃ったのか、拳銃はどこに隠したかを問い詰め、暴力の限りを尽くし、ついには3人の無抵抗の黒人を殺害してしまうのです。
やがて暴動も静まり、暴動の後始末となっていきます。警察内部の調査で、現場で捜査に当たった警察官は明らかに行き過ぎで殺害する必要のない人間を殺害したのではないかということで起訴されます。もちろん現場に居合わせた黒人たち、そして少数の白人も警察の暴力を糾弾しますが、結果的には無罪となってしまいます。この不条理さ…。かの国ではいったい何が正義なのか?監督のビグロー氏は冷酷なまでに突き付けてきます。
ストーリーには、「?」と思う個所もあるのですが、「実際はそうだったのだ!」と言われれば納得するしかありません。そもそもこの映画何らかのメッセージを伝えるために、ストーリーを考え、演出するというものではなく、メッセージを伝えるために事実を忠実に再現するという珍しいスタイルの映画だと思います。

デトロイトそして黒人暴動

この事件が勃発した1967年、1954年生まれの僕は13歳でした。中学2年生だったはずです。僕は、「アルジェ・モーテル」事件は当然のこととして、この「デトロイト暴動」事態も全く知りませんでした。田舎の中学生が知るほど報道されなかったのでしょうか?それとも僕が迂闊だったのでしょうか?迂闊だったのは事実です。僕は中学時代は、軟式テニスの部活動に熱中し、社会的な動きなどにはほとんど関心も持っていませんでした。

ミッチ・ライダーとデトロイト・ホィールズ「悪魔とモリー」シングル盤

僕は、小学4年生か5年生の時ビートルズを聴き、欧米にポップス、ロックにのめり込みます。そしてべンチャーズの大ブームに乗り、自分もTV番組「勝ち抜きエレキ合戦」に出場しようと友達と語り合っていました。しかし僕は1966年に発売され日本でも大ヒットとなった右下のレコード、ミッチ・ライダーとデトロイト・ホィールズの「悪魔とモリー」を聴き、一気に志向が黒いものに移っていきます。バンド名は「デトロイト・ホィールズ」です。アップしたのはこのバンドのテーマ・フォトともいうべき写真が使われています。よく分からないかもしれませんが、みんな黒っぽいもの=車のタイヤに乗っかているのです。そう、これがデトロイトのイメージです。
「黒っぽいもの」に惹かれた僕が行きついた処は、ジェイムス・ブラウンです。「悪魔とモリー」の「黒さ」に惹かれた僕は、翌年ヒットしたジェイムス・ブラウン「ビート天国(Let yourself go)」で、決定的に黒い世界に入り込むことになります。そして僕が中学時代は自分もR&Bに惹かれまくりますが、日本全体にもR&Bブームが吹き荒れます。その頃はシュープリームス、テンプテイションズ、スティーヴィー・ワンダーなどを擁するモータウンとオーティス・レディング、サム&デイブ、アレサ・フランクリンなどを擁するアトランティック系と人気を2分して盛り上がります。因みに僕はどちらも大好きでした。でも、モータウンのお膝元デトロイトであれほどの事件が起こっていることは知りませんでした。
どうもアメリカでは、この1967年に何かが起こることは予想できたと言います。”ゴッドファーザー・オブ・ソウル”ジェイムス・ブラウンもその自伝「俺がJBだ!」でこの年の前後のアメリカの状況を黒人の、成功した側にいる黒人としての思いを述べています。「この年に何かが起こる。これは、俺だけではなく多くの人々が感じていたことだった」と。実際1964年ハーレム、フィラデルフィア、65年カリフォルニア州ワッツ、66年クリーヴランド、オマハ、67年はデトロイトの他ニューアーク、プレインフィールドその後もシカゴ、ワシントンD.C.で暴動が起こりました。僕が日本で能天気にリズム&ブルースに浮かれている時にその源アメリカの黒人は、虐げられた境遇に対し抵抗の火花を燃やしていたのです。
ジャズの歴史をたどる時、人種差別問題を避けて通ることは出来ません。そしてこの種の暴動とまでいかなくても小競り合いは今日でも起こっています。そこに「人種差別」が行われている限り、抵抗の暴動或いは小競り合いが無くなることはないでしょう。

No.262 Study in 1920,30th The Big Band Era
”Jimmy Lunceford”Vol.1”

さて、今回から 「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1週」で解説を担当するのは、僕の最も信頼する評論家粟村政昭氏である。
ジミー・ランスフォード・オーケストラはスイング時代に台頭した数あるビッグバンドの内でもエリントンやカウント・ベイシーと並び称される第一級のフル・バンドであったという。但し彼のバンドが本当の意味でのマチュリティーを獲得したのは、バンドの契約がヴィクターからデッカに移り、サイ・オリヴァーが縦横にアレンジの腕を揮うようになった30年代中期以降のことであって、それに先立って吹き込まれた、本アルバムの諸作品は、いわゆる「ランスフォード・スタイル」と呼ぶにはやや生硬な、時にメカニカルな響きさえ混じった、個性薄のものが大半を占めていた。
したがって、このアルバムの鑑賞に当たっては、あくまでもこれをジミー・ランスフォード楽団の傑作集とせず、スイング時代に名を成した偉大な黒人バンドの、成熟途上の姿を記録したものとして聴く必要がある。もちろん後年アレンジャーとして重きをなしたエル・ウィルコックスは、発足当時から在籍していたし、33年以来、サイ・オリヴァーもスタッフに加わってはいたが、彼ら自身もまた、自らの才能を伸ばすべき形成期にあったことを納得せねばならない。
何と正直なレコード解説なのだろう。さすがわが師である。何でもかんでも傑作とは言わないのである。これだから粟村師は信頼できるのである。

ジミー・ランスフォードは、1902年6月6日、ミズーリ州フルトンに生まれ、47年7月13日オレゴン州シーサイドに巡業中突然心臓発作に見舞われてこの世を去った。当時、ランスフォード楽団は、メンバーの移動が激しく、バンドとしては必ずしも往時の水準を維持しているとは言い難かったが、それでも享年いまだ45歳という若さは、前途になお多くの可能性を残すものであった。
ランスフォード楽団の前身は、メンフィスにあったマナッサ・ハイ・スクールのスクール・バンドであった。
ランスフォードは、黒人としては中流以上の恵まれた家庭に育ち、早くから各種のリード楽器やアレンジを手掛けていたが、フィスク・ユニヴァーシティを卒業後ニューヨークのシティ・カレッジに学び、その後体育並びに音楽の教師として、上記メネッサ・ハイ・スクールに赴任してきた。大学時代より、すでにランスフォードは、各地のプロのバンドに加わって演奏経験を積んでいたが、教員となってからも、ジャズに対する情熱醒め難く、やがて学内にバンドを作って、その指揮を取ることになった。これがいうなればランスフォードが率いた最初のバンドで、この時選ばれて参加した生徒の中に、ドラムのジミー・クロフォードやベースのモーゼズ・アレンがいた。そして間もなく、フィスク大学の後輩であったウィリー・スミスやエド・ウィルコックスらもこれに加わってついに1929年、彼らは正式にプロのバンドとして、メンフィスのダンス・ホールでデビューしたのであった。
これより先の27年12月に、ランスフォードはバンドを連れてテキサスのダラスに赴き、“Chickasaw Syncopators”のバンド名で2曲ほど録音をしているが、これがランスフォード楽団としては実質上の初吹込みとなった。そして30年6月に、彼らはメンフィスで第2回目の録音(ランスフォードの名を冠した最初の吹込み)を行い、このあと31年から楽旅に出て一路ジャズ史に残る名バンドへの道を歩み始めたのである。



ジミー・ランスフォード・アンド・ヒズ・オーケストラ Jimmy Lunceford and his Orchestra
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1集」レコード6枚目 RA-50

<Contents> … 1930年6月6日 メンフィスにて録音

Record6/A面1曲目イン・ダット・モーニンIn dat mornin’
Record6/A面2曲目スィート・リズムSweet rhythm

<Personnel> … Jimmy Lunceford and his Orchestra

< /tr>
Band leader & Alto saxジミー・ランスフォードJimmy Lunceford
Trumpetチャーリー・ダグラスCharlie Douglas
Clarinet & Alto Saxウィリー・スミスWillie Smith
Tenor Saxジョー・トーマスJoe Thomas
Pianoエド・ウィルコックスEd Wilcox
Bass & Vocalモーゼズ・アレンMoses Allen

何度も繰り返しで申し訳ないが、上記パーソネルは一部である。このヴィクターの企画編集盤は素晴らしい内容を持ちながら、やってはいけないところで経費を節減した結果実に情けないものになってしまった。粟村氏自身が解説本文中に次のように記している。「本アルバムの録音が採られた当時のランスフォード楽団のサイドメンについて紹介しておくが―。別掲のディスコグラフィーにて明らかなごとく…(後略)」と。ところが別の箇所にディスコグラフィーはないのである。この組み物に収容されている他のバンド、ベニー・モーテンやチャーリー・ジョンソンなどのように色々調べたが、この時期のランスフォード楽団のパーソネルはよく分からなかった。そこで粟村師の解説に出てくる人物だけを取り上げたのが、上記パーソネルである。

Record6/A面1曲目イン・ダット・モーニン

ランスフォード自身の作編曲になるもので、ジミー・ランスフォードの名を冠した最初の吹込みに当たる。モーゼズ・アレンの唄―というよりはプリーチングが聞かれる。プリーチングとは、多分「Preachin'」で、いわゆる教会で牧師が説教することである。確かに唄ではないし単なる語りではない。牧師が教会で教えを垂れる口調をまねたものであろう。ソロはチャーリー・ダグラスのTpとウィリー・スミスのAs。スミスのプレイに、ジョニー・ホッジスの影響が聞かれる辺りが興味の中心となろうと粟村師は解説している。
ある解説では、これがモーゼズ・アレンの最もよく知られたプレイであると書いてある。多分演奏ではなく唄―プリーチングのことかもしれない。


Record6/A面2曲目スイート・リズム

前曲と同日に同じくメンフィスでの録音。作編曲は終止リーダーと行動を共にしたエド・ウィルコックスの手になるのだが、後年サイ・オリヴァーと共にランスフォード楽団の屋台骨を支えたウィルコックスの才能も、この初期作品においては、いまだ十分に開花していないという印象を受ける。ここでのウィリー・スミスのソロにも、ジョニー・ホッジスからの影響が感じられるという。ウィルコックスも短いソロを取るが、ストライドともラグタイムとも異なる独自性を感じる。

ここのところ20年代から30年代にかけてのビッグ・バンドを取り上げることが多いが、というかこの時代がそういったビッグ・バンドがジャズの中心の担い手であったのだろうが、このランスフォード楽団は他のヘンダーソンやモーテン、エリントンとも異なる全く独自のサウンドを持っているように感じる。

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第261回2018年5月12日

20年代ビッグ・バンド入門 その7
ベニー・モーテン 1930年

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

大室山

楽しかったゴールデン・ウィークも終わり、今週5月7日月曜日からお仕事に復帰されている方も多いと思います。各言うワタクシのたり庵も仕事復帰です。本来余りゴールデン・ウィーク期間中に旅行等はしたくないというのが、のたり庵の本音ですが、カミサンの執拗な攻めに会い一泊だけ温泉に旅行しました。「いまさらゴールデン・ウィークかい?」と叱られそうですが、お許しください。
出かけたのは5月2日水曜日、この日は祝日でも休日でもなく平日なので、それほど混雑していないのではないかと思い、我々の住んでいる地域からはそれほど遠くない伊豆高原に一泊で出かけました。クルマで出かけたのですが、予想は的中し、一般道、西湘バイパス、真鶴道路、135号線と渋滞はなく、目的地の東伊豆・伊豆高原に到着しました。写真左は同地の観光スポット「一碧湖」です。写真が拙くよくお分かりならないと思いますが、水面に映る新緑が実に美しく、ゆったりと散歩するにはうってつけの場所です。ただ、車で行かれると駐車場が分かりにくいとは思います。我々は閉鎖されている美術館の駐車場に停めました。

鯵丼

天候は、5月2日は晴れて汗ばむような陽気でしたが、夕方から曇り始め夜半から翌朝までは宿泊したホテルの窓を強い雨が打ち付け、風はビュービューと唸るような大荒れの天候となりました。ところが、5月3日(木・憲法記念日)の朝食を済ませたころから、天気はグングンと回復し、チェックアウトするころには晴れ間も見えるようになりました。
どうも最近の転向の変化は急激で、崩れるのも早いが回復するのも早いような気がします。日本の天気元々こんなだったでしょうか?
そんなことで一転して観光日和となったので、東伊豆のもう一つの観光スポット「大室山」に行ってみることにしました。大室山にはずいぶん以前子供たちが小さいころに来たことがあります。その時はロープウェイで頂上まではいかず、麓の「さくらの里」でお弁当を食べました。子供たちがロープウェイに乗るにはまだ幼いと思ったからですが、今回は幼いどころか十分に薹が立った熟年夫婦です。頂上までロープウェイで登り約1キロの外輪をゆっくりと歩いて回りました。右上の写真はロープウェイの役のちょうど反対側から写したものです。
さて、伊豆の名物食べ物です。

キンメダイの煮付け

写真右中は「鯵丼」。右下は伊豆と言えば「キンメダイ」、その煮付けです。写真は5月2日伊東市の135号線沿いの食堂「旬蔵」さんでいただいたものです。
「鯵丼」アジフライ付きで約1900円、キンメ半身煮付け定食約2000円とちょっと値は張りましたが、鯵は実に新鮮でおいしく、アジフライも大判で身が厚く食べ応えがあります。キンメの煮付けも甘辛い味付けが絶妙で、夫婦で取り換え引き換えしておいしくいただきました。観光地の観光客向けの飲食店というと値段は高いがそれほどおいしくもなく、店員の態度も横柄というのが相場ですが、このお店は店員さんも明るく親切で、とても居心地よくおいしい食事が出来ました。観光地に出向くのである程度の高額な食事は覚悟していますが、地のものを活かしたおいしくいただけ、店員さんも感じのよいこういうお店に出会うと本当に旅は楽しくなります。

第261回Study in 1920th The Big Band Era
”ベニー・モーテン Bennie Moten’s Kansas City Orchestra”Vol.5

さて、本篇です。カンサス・シティ・ジャズの雄ベニー・モーテン楽団の第3回、1930年の録音を聴いていきましょう。です。

ベニー・モーテン率いるカンサス・シティ・オーケストラの1930年の録音は、10月27日から10月31日にかけて集中的に行われたようである。幾つかのディスコグラフィーを見ても、同バンドの1930年の録音はこの時期しかない。
そしてこの録音から、ヴォーカルのジミーラッシングとトランペットのホット・リップス・ペイジが加わった。
ブルース歌手として有名なジミーであるが、この時点では時にはブルースを歌うバラード・シンガーだったという。そしてリップス・ペイジは第3トランペットとして加わった。しかしこのバンドの再構築を開始したのはアレンジを担当するエディ・ダーハムだった。ガンサー・シュラー氏によれば、ダーハムの最初の狙いは、ヘンダーソン=レッドマン=カーターの路線のスタイルを模倣するところにあったという。この路線の楽想は、Record8/B面3曲目「オー・エディ」、Record9/A面6曲目「サムボディ・スト−ル・マイ・ギャル」などの曲に一貫して登場するという。ビートは、4/4の楽想をより濃厚に伝える方向に傾いているという。


ベニー・モーテン Bennie Moten’s Kansas City Orchestra
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1集」レコード8枚目 RA-52 & 9枚目 RA-53

<Personnel> … Bennie Moten's Kansas City Orchestra

Band leader & arrangerベニー・モーテンBennie Moten
Trumpetエド・ルイスEd Lewisホット・リップス・ペイジOran "Hot Lips Pageブッカー・ワシントンBooker Washington
Tromboneサモン・ヘイズThamon Hayes
V-Trombone 、Guitar & Arrangeエディー・ダーハムEddie Durham
Alto Sax & Clarinetハーラン・レナードHarlan Leonard
Clarinet & Tenor Saxウッディー・ウォルダーWoody Walder
Alto Sax & Baritone saxジャック・ワシントンJack Washington
Piano & Accordionバスター・モーテンBuster Moten
Pianoカウント・ベイシーCount Basie
Banjoルロイ・ベリーLeroy Berry
Tubaヴァ―ノン・ペイジVernon Page
Drumsウィリー・マックワシントンWillie McWashington




<Contents>…1930年10月27日〜31日 カンサス・シティにて録音

Record8/B面1曲目ウォント・ユー・ビー・マイ・ベイビーWon’t you be my baby ?1929年10月27日
Record8/B面2曲目アイ・ウィッシュ・アイ・クド・ビー・ブルーI wish I could be blue1929年10月28日
Record8/B面3曲目オー・エディOh ! Eddie1929年10月28日
Record8/B面4曲目ザット・トゥ・ドゥThat too , do1929年10月28日
Record8/B面5曲目マックズ・リズムMack’s rhythm1929年10月28日
Record8/B面6曲目ユー・メイド・ミー・ハッピーYou made me happy1929年10月28日
Record8/B面7曲目ヒア・カムズ・マージョリーHere comes Marjorie1929年10月28日
Record8/B面8曲目ザ・カウントThe count1929年10月28日
Record8/B面9曲目ライザ・リーLiza Lee1929年10月29日
Record9/A面1曲目ゲット・ゴーインGet goin’(Get ready to love)1929年10月30日
Record9/A面2曲目プロフェッサー・ホット・スタッフProfessor hot stuff1929年10月30日
Record9/A面3曲目ホエン・アイム・アローンWhen I’m alone1929年10月30日
Record9/A面4曲目ニュー・モーテン・ストンプNew Moten stomp1929年10月30日
Record9/A面5曲目アズ・ロング・アズ・アイ・ラヴ・ユーAs long as I love you1929年10月30日
Record9/A面6曲目サムボディ・スト−ル・マイ・ギャルSomebody stole my gal1929年10月31日
Record9/A面7曲目ナウ・ザット・アイ・ニード・ユーNow that I need you1929年10月31日
Record9/A面8曲目バウンシン・ラウンドBouncin’ round1929年10月31日



Record8/B面1曲目「ウォント・ユー・ビー・マイ・ベイビー」
ジミー・ラッシングの作。僕は、後年の彼即ちベイシー楽団での彼を聴いて彼を知ったので、意外と思うが解説の瀬川氏によると、この頃ラッシングはもっぱらバラードを歌っていたので、彼としては珍しい力強いナンバーで、バックの不断に4ビートを送っているリズムとともに、モーテンならではの演奏という。でも僕は力強さというよりこの時代らしいポップなナンバーという感じがする。バンドとしてのアンサンブルは厚みを増したように感じる。
Record8/B面2曲目「アイ・ウィッシュ・アイ・クド・ビー・ブルー」
瀬川氏は、サックスとブラスの合奏ハーモニーも分厚く近代的になった。リズムも4ビートのスイングで、全体を合奏で通しても飽きさせない良いムードになっているという。僕はこの曲も悪くはないが、前曲の方が合奏のサウンドは素晴らしいと思う。
Record8/B面3曲目「オー・エディ」
曲名通りエディ・ダーハムのオリジナル。演奏スタイルは古いモーテン・バンドの感覚。ベイシーのピアノ、バスター・モーテンのアコーディオンのブラスと絡み合ったプレイが聴かれる。アンサンブルも素晴らしいと思う。
Record8/B面4曲目「ザット・トゥ・ドゥ」
ジミー・ラッシングがモーテン・バンドと吹き込んだ唯一のブルース・ナンバーでダーハムのギター伴奏が素晴らしい。後のベイシー・バンドでのラッシングのブルース唱法が既に聴かれる。エド・ルイスの輝かしいTpとバンドとが応答形式で掛け合っている、とは瀬川氏の解説。
Record8/B面5曲目「マックズ・リズム」
瀬川氏は、「マックというのはおそらくドラムのウィリー・マクワシントンのことで、彼のリードするモーテン・バンドの新鮮なリズム・セクションの迫力をフューチャーした作品であろう。この頃からモダンなリズムに脱皮しつつあったモーテンの、カンサス・シティ・リズムの変貌がよく看取できる」と述べている。
しかしこの演奏を聴いてマクワシントン、リズム・セクションの技量を感じろというのは所詮無理な話だと思う。この曲は、短いが数少ないドラム・ソロが入る、つまりマクワシントンをフューチャーしたというぐらいのことではないだろうか?
Record8/B面6曲目「ユー・メイド・ミー・ハッピー」
瀬川氏は、ノヴェルティ的なダンス音楽で、合奏、Tb,Cl合奏、アコーディオンと演奏技術は確かに向上していると述べている。僕はいかにもこの時代の音楽だなぁと思うくらいである。
Record8/B面7曲目「ヒア・カムズ・マージョリー」
サックス・セクションの合奏におけるよく揃ったハーモニーが美しく、合奏編曲技術の向上は顕著なものがあるというが、合奏技術はこのレコーディング集中期間の初めから感じることである。
Record8/B面8曲目「ザ・カウント」
アップ・テンポのブラスとサックスのリフの応答形式に迫力がある。ソロ・プレイはアコーディオンとTpだけだが、リフの面白さで聴かせているとするが、リフをこれでもかというくらいに繰り返し重ねていくことで迫力が出るのである。
Record8/B面9曲目「ライザ・リー」
エド・ルイスのコルネット、ハーラン・レナードのアルトとソプラノサックスのソロとラッシングの楽し気なヴォーカルが聴きものである。レナードはソロイストとしてあまり高く評価されていないが、1931年までのモーテン・バンドにける数多くのプレイは、同時代の奏法としては傑出していたという。
ここでレコードは最終9枚目に移る。

Record9/A面1曲目「ゲット・ゴーイン」
全体に大変メロディアスな甘い演奏で、アンサンブル、アコーディオン、P、アコーディオンとテーマを奏し、ラッシングのヴォーカルに引き継がれる。ポップな路線のナンバー。
Record9/A面2曲目「プロフェッサー・ホット・スタッフ」
アップ・テンポの合奏の次にギターの長いソロがある。ミュートTpとテナー・サックスのホットなプレイが優れている。次いでアコーディオンとPというソロの配列が変わっているというが、短いソロが入り乱れる感じである。
Record9/A面3曲目「ホエン・アイム・アローン」
ジミー・ラッシングのバラード歌手としてのうまさを充分に発揮した曲である。そしてこのようなバラードの伴奏をする時でも、スイング期の4ビートのリズムを既に使用して、近代的感覚を創り出しているところに、1930年代に入ってからのモーテン・バンドの進歩がうかがわれると瀬川氏は書くが、この曲を聴いてバラード・ナンバーと思う人はかなり稀有なのではないだろうか?瀬川氏はラストのブラス合奏が、いかにもフレッシュな感じに溢れているという。僕はオープンのTpソロが素晴らしいと思う。
Record9/A面4曲目「ニュー・モーテン・ストンプ」
1927年の「モーテン・ストンプ」は、バンド出演の度にリクエストされるほど大ヒットしたが、この新しいヴァージョンはバンドのリズミックな新しさを充分に誇示した野心的な作品という。いずれにしろアンサンブルが見事な出来映えである。
Record9/A面5曲目「アズ・ロング・アズ・アイ・ラヴ・ユー」
ジミー・ラッシングの歌は。クルーナー式なバラード唱法で、ミュートTp(ホット・リップス・ペイジ)のメロディアスでセンチメンタルなプレイにぴったりのムードだという。さすがに「クルーナー式」というのがよく分からない。年代の違いだろう。しかしこの曲が「センチメンタル」だろうか?僕の感性がおかしいのだろうか?
Record9/A面6曲目「サムボディ・スト−ル・マイ・ギャル」
珍しいことにベイシーのスキャット・ヴォーカルが入っているので有名な曲である。ベイシーの歌のバックで応答しているのは、アルトのハーラン・レナード。ベイシーのPも非常に楽し気であり、ブラスの合奏が、後のベイシー楽団のリフの到来を既に暗示している。Bs、Tp、Tsのソロによるジャングル・ジャイヴと呼ばれたスタイルの効果も面白いとは瀬川氏。しかし「ソロによるジャングル・ジャイヴと呼ばれたスタイル」というのが分からない。それぞれのソロが並ぶのにスタイルがあるのだろうか?それよりも冒頭の部分のアンサンブルの音使いが「ジャングル・スタイル」を感じさせる音の響きだと思う。
Record9/A面7曲目「ナウ・ザット・アイ・ニード・ユー」
瀬川氏は、「アップ・テンポだが、ラッシングのヴォーカルは、流行りのクルーナー調。ミュートTpが合奏の上をハイ・トーンで吹き、ラストの合奏をホットに盛り上げる」と解説する。
Record9/A面8曲目「バウンシン・ラウンド」
瀬川氏は、「ブラスとサックスの厚みのある合奏が印象的。ミュートTpのソロはリップス・ペイジか?」と解説する。

1930年10月27日から31日にかけて一挙に17曲が録音された。ほぼLPレコード1枚表裏に該当するような感じだ。そう思って一気に聴くと少々飽きる。このバンドの演奏は全体的に明るい感じがする。そしてもちろん多少の速い遅いはあるが、テンポがほぼ同じなのである。アップ・テンポと言ってもそれほど速くなく、バラードと言ってもスローではない。要はメリハリがないのである。それぞれ曲ごとにメモを取って聴くと上記のような曲感想となるのだが、ただただ聴くと飽きてしまうのである。

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