ジャズ・ディスク・ノート

第306回2019年3月18日

フレッチャー・ヘンダーソン1935年
ルイ・アームストロング入門 その27 1935年

No.306 Fletcher Henderson & Louis Armstrong 1935

第301回から1935年の録音を聴いている。まず最初にフレッチャー・ヘンダーソンについてだが、自己名義の録音はディスコグラフィーでは見当たらない。ヘンダーソンは、BGの項で触れたように、バンド経営がうまく行かずほとんど解散状態だったことで、この年はBGへの楽曲、アレンジ提供が主な活動内容だったように思われる。

左の写真の左上にルイ自身の書き込みがあり、日付が記載されている。大変読みにくいが「16/11/34」、つまり1934年11月16日のような気がする。本来は第294回のルイ・アームストロング1934年の回で取り上げるべきだったが、紹介が漏れたので今回取り上げた。
ルイは1933年8月にイギリスに渡り、10月21日にはデンマーク・コペンハーゲンでショート・フィルムに出演し、ついでスウェーデンのストックホルムでもその足跡を残し、さらに1934年10月にフランス・パリでレコーディングをしている。それが前回第294回で取り上げた録音だった。その後ルイはそのままパリに滞在し、長い休暇を楽しんだという。
翌1935年1月にアメリカに戻り、新たにジョー・グレイサーがマネージャーとなった。そして今回の録音が行われる1935年10月からルイ・ラッセルのバンドをバックに従えるようになったという。ルイ・ラッセルのバンドは一時期最もニューヨークで力のあるバンドと言われたこともある実力派である。そして新たにデッカとレコーディング契約を交わし、吹込みを開始する。
しかし1月に帰国した後10月までルイは何をしていたのだろう。その間にアメリカの音楽シーンは激変を遂げる。ベニー・グッドマンという白人率いるバンドが爆発的な人気を得て、全米中を席捲しているのを目の当たりしてどんな思いを抱いただろうか。それもかつて自分だ在団したこともあるニューヨークの名門バンドの棟梁、フレッチャー・ヘンダーソンをアレンジャーとして抱え込んで、白人が「スイング・ミュージック」なる新語を掲げて受けまくっているのを見て何を思ったのだろうか。
ともかく今回は、スイング・イーラに突入した1935年に行われた録音を聴いていこう。


The Chronogical “Louis Armstrong and his orchestra 1934-1936”classics 509

<Personnel> … ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・オーケストラ(Louis Armstrong & his club orchestra )

Trumpet , Vocal & Band leaderルイ・アームストロングLouis Armstrong
Trumpetレオナード・ディヴィスLeonard Davisガス・エイキンGus Aikenルイ・ベイコンLouis Bacon
Tromboneハリー・ホワイトHarry Whiteジミー・アーチ―Jimmy Archey
Alto saxヘンリー・ジョーンズHenry Jonesチャーリー・ホルムズCharlie Holmes
Clarinet & Tenor saxビンギー・マディソンBingie Madison
Tenor saxグリーリー・ウォルトンGreely Walton
Pianoルイ・ラッセルLuis Russell
Guitarリー・ブレアLee Blair
String Bassポップス・フォスターPops Foster
Drums & Vibraphoneポール・バーバリンPaul Barbarin

ルイは生涯自己の固定的なバンドというものを持たなかった。このバンドももともとはルイ・ラッセルがリーダーを務めていたバンドだった。それをどのような事情でルイは傘下に置くようになったのだろうか?フレッチャー・ヘンダーソンに見られるように、大分明るい兆しが差し始めたと言っても不況から立ち直りきっていないこの時期、やはりバンド経営は難しくルイのようなスターが必要だったのであろうか?
いずれにせよ1935年に行われる録音は全てこのメンバーを従えてのものとなる。

<Contents> … 1935月10月3日〜12月15日 全てニューヨークにて録音

オール・マン・モーゼアイム・シューティング・ハイ
CD-7恋の気分でI’m in the mood for love10月3日
CD-8ユーアー・マイ・ラッキー・スターYou are my lucky star10月3日
CD-9ラ・クカラーチャLa Cucaracha10月3日
CD-10ガット・ア・ブラン・ニュー・スーツGot a bran’ new suit10月3日
CD-11アイヴ・ガット・マイ・フィンガーズ・クロスドI’ve got my fingers crossed11月21日
CD-12Ol’ man Mose11月21日
CD-13I’m shooting high11月21日
CD-14(ウォズ・アイ・トゥ・ブレイム・フォー)フォーリング・イン・ラヴ・ウィズ・ユー(Was I to blame for) Falling in love with you11月21日
CD-15夕日に赤い帆Red sails in the sunset12月13日
CD-16オン・トレジャー・アイランドOn treasure island12月13日
CD-17サンクス・ア・ミリオンThanks a million12月19日
CD-18シュー・シャイン・ボーイShoe shine boy12月19日
CD-19ソリチュードSolitude12月19日
CD-20アイ・ホープ・ガブリエル・ライクス・マイ・ミュージックI hope Gabriel likes my music12月19日

CD-7「恋の気分で」は後に様々なアーティストに取り上げられるスタンダード・ナンバーとなるが、このルイのものが初演。ルイのヴォーカルとTpソロが中心となる典型的な作品。
CD-8「ユーアー・マイ・ラッキー・スター」も後に様々なアーティストに取り上げられスタンダード・ナンバーとなるが、これもこのルイのものが初演。ゆったりとしたヴォーカルの後のTpソロはテンポを倍に取りスインギーな感じにしている。
CD-9「ラ・クカラーチャ」は、メキシコ圏の童謡だという。のたり庵も子供のころ歌った覚えがある。中間部はルイのスキャット・ヴォーカルが存分に聴ける。
CD-10「ガット・ア・ブラン・ニュー・スーツ」は、ルイのヴォーカルの後Ts⇒Asとソロが続き、最後はルイのTpソロで締める。
CD-11.「アイヴ・ガット・マイ・フィンガーズ・クロスド」は、この時期らしいポップ・ソング。
CD-12.「オール・マン・モーゼ」は、ルイとバンド・マン(多分)とのかけあいのヴォーカルが楽しい。少しゴスペル調の曲。
CD-13.「アイム・シューティング・ハイ」においては久しぶりにエンディングを高音連発で締め括っている。
CD-14.「(ウォズ・アイ・トゥ・ブレイム・フォー)フォーリング・イン・ラヴ・ウィズ・ユー」においてもエンディングはハイ・ノートである。曲はポップス。
CD-15.「夕日に赤い帆」は、この年1935年に作られ後にスタンダードとなる有名曲。
CD-18.「シュー・シャイン・ボーイ」とは、そのまま「靴磨きの少年」という意味。レスター・ヤングやデューク・エリントンも吹き込んでいるスタンダード・ナンバー。
CD-19.「ソリチュード」はご存知デューク・エリントンのナンバー。エリントンとは全く違ってそれほど明るくないポップス・チューンとなっている。
CD-20.「アイ・ホープ・ガブリエル・ライクス・マイ・ミュージック」。”ガブリエル”とはキリスト教ではミカエル、ラファエルと並ぶ三大天使の一人だという。なぜミカエルではなく、ラファエルでもなくガブリエルなのかという点については、知識がなく分からない。

全体としては、完全にコマーシャリズムに乗っかったポップス・ナンバー集である。ジョン・ハモンド氏のアドヴァイスとはいえ、コマーシャル風を避けスイングに重点を置いたベニー・グッドマンと異なり、とことんポップス系統を狙っていると思われる。

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第305回2019年3月10日

スイング時代の幕開け その5
ベニー・グッドマン入門16 1935年 その5

No.305 Benny Goodman 1935 Vol.5

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

さてここからは、BGがスターダムにのし上がる1935年ロス・アンゼルスのツアーの話題です。このエピソードはよく知られたものですが、油井正一氏が記述するものとCDボックス解説のモート・グッド氏の書くものとは若干内容に食い違いがあります。
先ず油井正一氏から
ホテル・ルーズヴェルトの契約が終わりに近づくと、マネージャーのウィラード・アレクサンダーは、ニューヨークから始まってロス・アンゼルスのパロマ―で終わる一大コンサート・ツアーの計画を押し付けてきました。

この頃、BGは団員の給料、経営上のごたごたに辟易し、一兵卒ならクラリネットを吹くだけで週に300〜500ドルは楽に取れるのにな、と考えると、熱心に後押しをしてくれる二人の支持者(ハモンド氏とアレクサンダー氏)が、後援者どころか自分を苦しめる妖魔の化身にさえ見えたといいます。
「ワシはもう降りる。バンマスはもうこりごりだ。」とひどく落ち込んだBGをハモンドとアレクサンダーはなだめすかし、脅かし、おだて、さんざんかき口説いて渋々承諾させましたが、デンヴァーでは初日が終わるとボールルームのマネージャーから、早くも契約破棄を通告される始末、BGのノイローゼも極限に達し、いよいよお手上げの決意を固めたものの、二人の後援者に「ロスまであと一息」と声援されると、これまでの行為をすっぽかすわけにもいかず、とうとうロスのパロマ―までたどり着いたのです。
ところが人間の運なんてものは分からないもので、別にロスについてからバンド・スタイルを変えたわけでもなく、さんざんののしられ、あざ笑われてきたニュースタイルのダンス音楽をそのまま心細げにやっただけなのに何ということでしょう。
「パロマ―にデビューしたBGのダンス音楽−俄然、市民の絶賛を浴びる」というニュースがアメリカ中に伝わり、レコード屋でホコリにまみれていた彼のレコードは、羽が映えたように売れ出したのです。カリフォルニアこそジャズを正当に受け入れてくれる要素に満ちていたのです。
BGがロス・アンゼルスまで尻をひっぱたかれながらたどり着いたことこそ、幸運の始まりだったのです。ハリウッド放送局のアル・ジャーヴィス(ディスク・ジョッキーの草分け)が、毎日のようにBGのレコードをかけ、ファンを作っていてくれたこと、それに不況から立ち直って人心が安定してきたことが何よりの背景となりました。 これに続いてシカゴのコングレス・ホテルとの契約、そしてニューヨークのペンシルヴァニア・ホテルへ…。NBCネットワークを通じて流れ出るBGの音楽は、実にジャズが何らの懸念なしに、全米の善良な家庭のスピーカーを通じて流れ出した最初の出来事になりました。

続いてグッド氏
7月13日のトリオ録音直後からバンドは長いツアーに出、ロサンゼルスのパロマ―における3週間にわたる公演のため、西海岸に向かった。このツアーの間にミシガン州ジャクソンの「オーシャン・ビーチ・パイアー」、オハイオ州コロンブスの「オレンタジー・パーク」、ミシガン州レイクサイドの「ルナ・パーク」、ウィスコンシン州ミルウォーキーの「モダニスティック・ボールルーム」、コロラド州デンヴァーの「エリッチズ・ガーデンズ」(3週間 前回写真を掲載)、コロラドのグランド・ジャンクション、カリフォルニア州のピスモ・ビーチといったといったダンス・スポットに出演した。
BGはウェスト・コーストのツアーに際し、何人かのメンバー移動を考えていた。ルーズヴェルトでの災難以来、レコーディングを除いてはさほど大きなメンバー・チェンジは無かった。ハイミーはその時のことを思い出して語る。
「BGはピッツバーグから何人かのメンバーを選び出した。ビル・デピュはアルトを吹き、バンドのサウンドを補完した。ジェス・ステイシーも入ってきた。それにトロンボーンのジャック・レイシーもだ。この連中は、BGのバンドでやりたい一心で現地のラジオの仕事を放り出しても全然気にしなかった。」
トゥーツがツアーに参加しなかったのは、ニューヨークに留まっていたからである。トゥーツがこの町を愛しているのは現在(1987年以前)でも変わりない。彼は当時ショウ・ビジネス会の人間やミュージシャンたちの溜まり場だった、ホイットビー・アパートメントに住んでいた。BGもそこに住んでいたことがあり、グレン・ミラーやジーン・クルーパ、その他にも大勢いた。トゥーツは今なおそこに住んでいる。
トゥーツや他のメンバーは、BGからツアーを強制されたわけではなく、バンド自体もハッキリと確立されたものではなかった。ニューヨークにはラジオやスタジオの仕事がいくらもあった。そしてトゥーツとジョージ・ヴァン・エプスとピー・ウィー・アーウィンは組んでレインボウ・グリルのレイ・ノーブル楽団で働いていた。シャーツアーは次のように回想する。
「ルーズヴェルトの一件があり、仕事を失くしたからと言って、デンヴァーのエリッチズ・ガーデンズに着くまでは、バンドを根底から揺さぶるようなことは何もなかった。だけど、あの時は本当にひどいものだった。客の入りは良くなかったが、我々はいつも“レッツ・ダンス”の時のアレンジ譜や録音の時のアレンジで演奏していたから、旅は楽しかった。ある程度成功も収めたしね。
ところがエリッチズでは、客が全然入ってこないんだ。ひと握異の連中がダンスをしていると、オーナーが飛んで来て言った。『ヘイ、あんた、アレンジが長すぎるんだよ。1分を超えないようにカットしてくれ―ここのダンスは一踊り幾らのダンスのスタイルなんだから』そういう類の店だったのさ。彼はホステスを抱えていて、音楽が途切れないよう望んでいた。全く参ったよ。仕方なく私たちはアレンジを変え始めた。私たちは2、3週間そこに留まりその後ワンナイト・スタンドでオークランドに行ったのだった。

写真右はツアー中の右からBG、ヘレン・ウォード、レッド・バラード、バラードの妻アジ―
私たちが到着すると、ボールルームはぎっしり人が詰まっていた。何百人もの人が私たちの前に立っている。それというのもウエスト・コーストでは、彼らが私たちのレコードを持っていたからで、ディスク・ジョッキーの一人、アル・ジャーヴィスだったと思うが、彼が私たちのレコードを定期的にかけてくれていたからだった。彼らは私たちのアレンジをよく知っていて、バンドを愛してくれた。」
翌日バンドはこの幸せな気分で「パロマー・ボールルーム」に出演。それは8月21日のことで、この日がスイング時代の幕開けとされている。
バンドはその日の演奏を、何曲かの比較的静かな曲で開始した。最初のセットでは、熱狂的な反響を得られなかった。BGは、メンバーの旅の疲れを思いやって調子を落とした演奏をやらせていた。その内にジーン・クルーパがたまりかねBGに言った。
「もし俺たちが死にかけてるんなら、俺たち自身の演奏をしながら死のうじゃないか」
BGはそれに同意して次のセットではヘンダーソンと他のスインギーなアレンジを使うことに決めた。BGがその反応を書き記している。
「ベリガンが立ち上がり、“サムタイムズ・アイム・ハッピー”と“キング・ポーター・スイング”を吹いた時、場内は爆発した。
そのニュースは大陸を横切り、ニューヨークのMCAのオフィスに届いた。当時ウエスト・コースト・オフィスのバンド契約担当者だったタフト・シュライバーは、翌朝ニューヨークに電話を入れた。今では自信を失いかけていたバンドの擁護者ウィラードは、それまで行く先々で聴衆の不評に気を落としていた。その時彼はビリー・グッドハートのオフィスに呼び出され、ソニー・ウェーブリンと3人のエージェントたちは、ロスからの電話の声に耳を傾け、それぞれ自分の耳を疑った。タフトがバンドのウエスト・コーストでの大成功を知らせてきたのだ。
ハイミーはこう言う。
「とても信じられなかった。何百人もの人間がバンドの前に立っていた。彼らはアレンジを知っていたし、それを好んでいた。それにもう一つ不思議なことにい、私たちがバンドを呼び出すのに演奏した曲は、“レッツ・ダンス”ショウからのいつものテーマ曲じゃなかったんだ。BGはオープニングとして、呼び出し用テーマに“グッドバイ”を使い、しかもそれはつぎはぎだらけのアレンジだった。約6分間も続いたんだが。」
スイング・イーラが活動を開始した―ウエスト・コーストで。だがBGバンドの成功は、まだローカルなものだった。「パロマ―」では、ハリウッドのファンに爆発的に受けはしたが、まだ全国的な人気とは言えなかった。

1935年8月21日の「パロマ―の爆発」の後の最初のレコーディングは9月27日に行われた。グッド氏の解説に拠れば、パロマ―での契約終了後、バンドはシカゴのシカゴのコングレス・ホテル内の「アーバン・ルーム」の仕事に入ったが、その時はバニー・ベリガンは故郷に帰るためにバンドを離れていたとある。9月27日の録音にはベリガンの名前が見えることから推測すると、シカゴでの仕事の前に録音は行われたのであろう。そしてこのメンバーは、グッド氏の解説と照合すると長期のツアーをBGに帯同し、パロマ―の爆発を経験したメンバーである。

「コンプリート・ベニー・グッドマン」(BMGヴィクター BVCJ-7030)CD-2

<Contents> … 1935年9月27日 ロスアンゼルス・ハリウッドにて録音

CD2-2.サンタが春にやって来たSanta Claus came in the Spring
CD2-3.グッドバイGoodbye
CD2-4.マッドハウス テイク1Mad house take1
CD2-5.マッドハウス テイク2Mad house take2

<Personnel> … ベニー・グッドマン・アンド・ヒズ・オーケストラ(Benny Goodman and his orchestra)

Clarinet & Band Leaderベニー・グッドマンBenny Goodman
Trumpetバニー・ベリガンBunny Beriganネイト・ケイズビアNate Kazebierラルフ・ムジロRalph Muzzillo
Tromboneレッド・バラードRed Ballardジョー・ハリスJoe Harris
Alto saxハイミー・シャーツァーHymie Shertzerビル・ドペゥBill DePew
Tenor saxアート・ロリーニArt Rolliniディック・クラークDick Clark
Pianoジェス・ステイシーJess Stacy
Guitarアラン・リュースAllan Reuss
Bassハリー・グッドマンHarry Goodman
Drumsジーン・クルーパGene Krupa

楽曲解説の野口久光氏は、この3曲(別テイクあり)について全く触れていない。特に触れる必要もないという判断なのであろう。録音は西海岸ハリウッドで行われている。パロマ―の後他のボールルームなどに出演し9月末まで滞在していた可能性がある。
CD2-2.「サンタが春にやって来た」はヴォーカル入りだが、歌っているのはトロンボーンのジョー・ハリス。
CD2-3.「グッドバイ」はラジオ・ショウ「レッツ・ダンス」のクロージング・テーマ。ゆったりとしたちょっとセンチメンタルなナンバーで、いかにも別れの寂寥感を感じさせる。
CD2-4,5.「マッドハウス」は新加入のピアニスト、ジェス・ステイシーの初ソロが聴ける。BGのソロも好調である。
全体としてブンブンと低音部を支えるハリー・グッドマンと全体を鼓舞するクルーパの役割が効いている。

パロマ―との契約が終了すると、バンドはシカゴのコングレス・ホテル内の「アーバン・ルーム」の仕事に入った。部屋は他のバンドによって汚されており、ホテルもトップ・クラスではなかったという。
そして先ほども触れたように、バニー・ベリガンは故郷のウィスコンシン州フォックス・レイクに帰るためにバンドを去り、ジャック・レイシーはハリウッドで、ジョー・ハリスはバンド・ヴォーカリストの椅子を引き継ぐためにニューヨークで既にバンドを去っていた。
グッド氏は以下のように記す。「どのような魔術だったのか、「アーバン・ルーム」ではそれが一時に起きた。若者たちがやって来た、聴き、踊り、声援を送るために。オーケストラは成功を収め、その音楽の人気は急上昇した。

そしてヴィクターへの1935年最後の録音が11月22日に行われることになるのだが、左のプレスティッジ盤に11月19日吹込みの4曲が収録されている。「あれ?BGはヴィクターの専属ではなかったか」と思ってTime-Lifeのボックスを見るとこの4曲中の1曲が収められており、名義は「ジーン・クルーパと彼のオーケストラ」となっている。Time-Lifeの解説に拠れば、この録音はコングレス・ホテルに出演中にシカゴで行われたものだという。ジョン・ハモンド氏がクルーパ名義の録音をイギリスのパーロフォン(Parlophone)社に残したいと考えて行われたものだという。

「Benny Goodman and the giants of swing」 Prestige 7644 輸入盤

<Contents> … 1935年11月19日 シカゴにて録音

A面5曲目ザ・ラスト・ラウンドアップTheLast roundup
A面6曲目ジャズ・ミー・ブルースJazz me blues
B面1曲目スリー・リトル・ワーズThree little words
B面2曲目ブルース・オブ・イスラエルBlues of Israel

<Personnel> … ジーン・クルーパ・アンド・ヒズ・オーケストラ(Gene Krupa and his orchestra)

Drums & Band Leaderジーン・クルーパGene Krupa
Trumpetネイト・ケイズビアNate Kazebier
Tromboneジョー・ハリスJoe Harris
Clarinetベニー・グッドマンBenny Goodman
Tenor saxディック・クラークDick Clark
Pianoジェス・ステイシーJess Stacy
Guitarアラン・リュースAllan Reuss
Bassイスラエル・クロスビーIsrael Crosby

EMI系のレコード会社パーロフォンに版権があるとすると、中々再発売はしにくいのかもしれない。あまり見かけない録音のような気がするが、実に重要な録音である。まずこの録音は当時のBGのバンドから8名が選ばれる形で行われた。しかし一人だけBGバンドのメンバーではない人物が加わっている。ベースのイスラエル・クロスビーである。黒人で10代でフレッチャー・ヘンダーソンのバンドでデビューし、天才と騒がれた逸材である。当時はブギ・ウギ・ピアニストのアルバートアモンズと仕事をしているところをジョン・ハモンドによって発見され、BGに紹介して起用することになった。この逸話は後のチャーリー・クリスチャンをBGに引き合わせたエピソードと酷似している。ハモンドという人は実にフェアな感覚の持ち主で、天才の肌の色が黒いと何か問題なのか?とでも言わんばかりに素晴らしいタレント・スカウトをしている。
A面5曲目「ザ・ラスト・ラウンドアップ」は、いきなりアモンズの所で磨き上げたブギ・ウギの強烈なリズムで始まる。しかしブラス、ホーンが入るとこれまた突然にデキシーランド風になるという不思議な展開を見せる。ソロはケイズビア⇒BG⇒ケイズビア。
A面6曲目「ジャズ・ミー・ブルース」。こちらは最初からデキシーランド風のスタイルである。なぜこの時期にこのようなスタイルを取って演奏を行ったのだろう?グッド氏が正当な評価を受けていないトランぺッターというように、全般を通して彼の高い能力がうかがわれる吹奏ぶりである。
B面1曲目「スリー・リトル・ワーズ」。これもデキシーランド風に始まる。まずTsのクラーク、続いてステイシーとソロが続き、最初はベースのみ、その後クルーパのドラムをバックにBGが2コーラスのソロを取る。このソロが見事で、クルーパは「BGのレコードで聴かれる最上のソロの一つ」と言っていて、BGもそれを認めているという。
B面2曲目ブルース・オブ・イスラエルの「イスラエル」は国ではなくベーシストの方。タイトル通りイスラエルをフューチャーしたブルース。イスラエルの力強いベース・ソロに始まり、ケイズビアのTpソロ、ステイシーのピアノ・ソロの左手はブギ・ウギ調である。続くハリスのTbソロも素晴らしい。そしてイスラエルのソロで終わる。
全般を通してクルーパとイスラエルの力強いビートにプッシュされ、2人にインスパイアされたBG、そしてこの3人に鼓舞され各人が素晴らしい演奏を展開している。

<Contents> … 1935年11月22日 シカゴにて録音

CD2-6.サンドマンSandman
CD2-7.ヤンキー・ドゥードル・ネヴァー・ウェント・トゥ・タウンYankee doodle never went to town
CD2-8.ノー・アザー・ワンNo other one
CD2-9.イーニー・ミーニー・マイニー・モーEeny meeny miney mo
CD2-10.ベイズン・ストリート・ブルースBasin street blues
CD2-11.イフ・アイ・クッド・ビー・ウィズ・ユーIf I could be with you
CD2-12.仏陀のほほえみWhen Buddha smiles

<Personnel> … ベニー・グッドマン・アンド・ヒズ・オーケストラ(Benny Goodman and his orchestra)

Trumpetバニー・ベリガンハリー・ゲラーHarry Geller

クルーパ名義の録音の3日後の11月22日ヴィクターへのこの年最後となる録音が行われる。ヴィクターへの録音なので、ベースのイスラエルがグッドマンに戻り、ベリガンが抜けた後にはハリー・ゲラーが入った他は9月27日と同じメンバーである。
CD2-6.「サンドマン」はヘンダーソンのアレンジ。3日前と違って典型的なスイング・スタイルで演奏されているのが面白い。
CD2-7〜9はヘレン・ウォードのヴォーカル入り。CD2-8のアレンジはスパッド・マーフィ―。
CD2-10.「ベイズン・ストリート・ブルース」は、BGは1931年にチャールストン・チェイサーズというバンド名で一度吹き込んでいる(拙HP第114回)。その時はTbとヴォーカルはジャック・ティーガーデンだった。ここでは同じTbのジョー・ハリスがティーガーデンに似せて歌いソロを取っている。出だしの部分など実にそっくりである。
CD2-11.「イフ・アイ・クッド・ビー・ウィズ・ユー」、CD2-12.「仏陀のほほえみ」もヘンダーソンのアレンジ。それにしても「仏陀のほほえみ」とは、変わった題名だなぁ。

モード氏は1935年を次のような言葉で締めている。
「12月8日BGとそのバンドは、アメリカにおける初のジャズ・コンサートの一つを開催した。「アーバン・ルーム」は満員で大騒ぎになった。全国的なパブリシティも得た。「タイム」誌は、1ページ全面を使った写真入りの賞賛記事をBGのために割いた。スイング・イーラに突入したのである」と。「アーバン・ルーム」に出演したのは12月8日が最初だったのだろうか?それともずーっと出演していたが爆発したのが、12月8日だったのだろうか?この辺りの詳しい状況よく分からないが、ともかく「スイング時代」に突入したのである。

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第304回2019年3月3日

スイング時代の幕開け その4
ベニー・グッドマン入門15 1935年 その4

No.304 Benny Goodman 1935 Vol.4

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

アメリカの夏はいつ始まるのでしょうか?
「レッツ・ダンス」のラジオ放送が終了後、BGは仕事を探していたといいます。この頃はまだ、BGのバンドは安定していたとは言えない状況だったことは、メンバーでTp奏者のピー・ウィー・アーウィンが証言しています。つまり次々と仕事を入れて稼がないとバンドの維持は難しくなったのでしょう。
そこでMCAのマネージャー、ウィラード・アレクサンダーは、MCAのボス、ビリー・グッドハートとソニー・ウェーブリンに、BGのバンドとルーズヴェルト・ホテル・グリルとの契約について話をしました。そのグリルは落ち着いた店で、いつもはスイート・ミュージックのガイ・ロンバードのバンドが出演していました。もしロンバード楽団がツアーに出ている場合には、バーニー・カミンズのバンドが代役でしたが、これもコマーシャルなスイート・バンドでした。ガイ・ロンバードのバンドが1935年の夏季の不在期間、ウィラードの熱意により、ルーズヴェルト・グリルとの出演契約が締結されたとグッド氏は書いています。一方油井正一氏は、ウィラードとハモンド二人の肝入りで、ニューヨークのホテル・ルーズヴェルト出演が決まったと書いています。
しかしこの時期油井氏は、BGは本当に自信を失っていたと記しています。「ドア・ボーイまでが、このろくでなしのミュージシャンと僕の顔を眺めていたんだ」と言っていたそうです。
ということは、BGのバンドはレコーディングは順調でしたが、バンド自体はうまく行っていなかったのでしょうか?これは僕の推測ですが、当時レコーディングはそれほど実入りの良い仕事ではなかったのではないでしょうか?印税が得られる契約だったことは前に書きましたが、儲かるのはレコードが売れた場合で、売れなかったらそれに伴って収入は減るはずです。「パロマ―」での大成功によって、売れ残っていた大量のBGのレコードが大量に売れ、ファンが探し回る事態になったことは後の話です。

さて、このルーズヴェルト・ホテル・グリルへの出演の出来事について、グッド氏は次のように書いています。
「ルーズヴェルト・グリルはさほど広くない店で、ガラスのパネルが部屋を包み、同じ高さで掲げられている。バンド・スタンドは、ロンバードやカミンズのように少人数のバンドにはピッタリだが、BGのバンドのサウンドには不向きだった。クルーパの大きなドラム・セットを入れるだけでスタンドはいっぱいになってしまった。バンドの音はそれまでのソフトなムードを一変した。ガラスのパネルはビりついた。」さらにAs奏者のハイミー・シャーツアーは、その夜のことを思い出して次のように語っています。
「そりゃもう恐ろしいもんだった。ヘッドウェイターはこう喚いた。デカ過ぎるよ!デカすぎる。」
ホテルの社長ハインズ氏は最初の演奏を聴き逃し、2回目の演奏の丁度強烈な個所に差し掛かったところに姿を現しました。そしてウィラードとBGのバンドに向かって、聴いている全員に向かって、騒音取締令を読み上げました。ハインズ氏は激怒を込めてこう締めくくった。「全員クビだ!たった今だ!」
しかしその夜そこに居合わせた人達の中には、少し違った感じ方をした人もいました。例えばジョージ・サイモン氏で彼は『メトロノーム』誌にこのバンドの批評を次のように書いています。
「メンバー全員一体となったビッグ・サウンド、最高のアレンジと驚くべきアンサンブル、強烈なスイング感は驚嘆に値するが、この場所は必ずしも適切とは言えない。それでもベニーと楽団は巧みにプロの面目を保って落ち着いたタイプのスイング・ミュージックを演奏し、それはグリルのいたあらゆる年齢層の人々を引き付けた。すべて趣味の良いものだった」と。

「コンプリート・ベニー・グッドマン」(BMGヴィクター BVCJ-7030)

<Contents> … 1935年7月13日 ニューヨークにて録音

CD1-19.君去りし後After you’ve gone
CD1-20.身も心もBody and soul
CD1-21.フーWho
CD2-1.サムディ・スィートハートSomeday sweetheart

<Personnel> … ベニー・グッドマン・トリオ(Benny Goodman Trio)

Clarinet & Band Leaderベニー・グッドマンBenny Goodman
Pianoテディ・ウィルソンTeddy Wilson
Drumsジーン・クルーパGene Krupa

いろいろと調べてはみたが、現段階で僕はこの録音がホテル・ルーズヴェルト・グリルの後か先かが分かっていない。今後判明したら追記しよう。

さて、この7月13日の初のトリオ・セッションは内容の素晴らしさもさることながら、歴史的にも非常に重要なものとされる。野口久光氏の解説によれば、それは「白人ミュージシャンと黒人ミュージシャンとの共演は、レコードの上では度々行われていて別に問題にはならなかったが、同じステージで共演することは黒人差別意識を持った白人の妨害を恐れて一種タブーのようになっていたのだという。しかしBGは黒人ピアニスト、テディ・ウィルソンを自分のグループの一員にしたいと思い、まずレコードの上でその共演を果たしたのだった。それが即ちBG、ウィルソン、ジーン・クルーパのトリオによる初吹込みとなったCD1-19、20、21、CD2-1の4曲である」という。
なお、この見返りにテディ・ウィルソンのブランズウィックへの吹込みにBGがサイドマンとして参加するという取り決めになっていた。それが前回取り上げたビリー・ホリディを歌手に立てた吹込みである。
このトリオの誕生は、BGがニューヨークのフォレスト・ヒルズにあるレッド・ノーヴォとミルドレッド・ベイリーの邸で行われたパーティーで座興的に共演してすっかり惚れ込んだのだという。その時はたまたま居合わせたミルドレッドの甥がドラムを叩いたのだが、それでは不十分なのでバンドのドラマージーン・クルーパを加えてトリオにすることにしたのだという。
さらに野口氏は、「この吹込みは簡単な打ちあわせとキーの取り決めだけで演奏したジャム・セッションともいえるものだったが、最上級のインプロヴァイザー三者によるテクニック、精神性(ジャズ・スピリット)を一丸としたプレイには、ジャム・セッションにありがちなルーズさもなく、完璧な構成美をも発揮している。
このBGトリオ以前に、これだけ質の高いコンボ演奏は少なくともレコードには見られなかった。黒人ピアニスト、テディ・ウィルソンには、珍しく黒人的な一種の訛りがなく、ソフィスティケイトされた彼のピアノは、BGのクラリネットに見事にフィットしている。このトリオの発想は勿論BGのものであり、彼はクラリネットにリーダーとしての貫禄を見せているが、ウィルソン、クルーパを同等同格にプレイさせていることも見逃せない」と述べている。
確かにこのトリオ演奏は重要なものという評価が定着しているようで、以前取り上げたTime-Life社で出している”Giants of jazz”シリーズのベニー・グッドマンのボックスは、レコード会社を跨いでいるので1927年から1946年まで膨大な吹込みがある中から40曲が取り上げられているが、1935年のこのトリオの演奏が2曲(「君去りし後」と「身も心も」)も選ばれている。

今の感覚で聴くと特段目新しいところのないトリオ演奏のように聴こえるが、これまでレコードを年代順に聴いてきた耳からするとかなり斬新な演奏である。つまりこの演奏が次世代のスタンダードになって行ったということが言えると思う。4曲ともそれぞれ聴かせ処のある素晴らしい演奏である。テディ・ウィルソンは、ピアノについてはつい最近までストライド奏法かハインズ系かなどという話とは程遠く一人モダンにまで通用するようなスイング・スタイルである。この人はどこでこういうスタイルを身に着けたのだろうか?BGも負けじとジャズ魂を込めて吹き上げる。クルーパはバックに廻っている時の奏しているのは「ブラシ」ではないだろうか?この時代ブラシ・プレイというのは聴いたことがない。誰かドラム奏法におけるブラシ・プレイの歴史を書いてくれないかなぁ。CD1-21「フー」で聴かれるブラシによるドラム・ソロなど見事なものだ。

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第303回2019年2月24日

スイング時代の幕開け その3
ベニー・グッドマン入門14 1935年 その3

No.303 Benny Goodman 1935 Vol.3

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

先ず左の写真の説明から。右上を見ると”Elitch's 1935”とあります。ツアー中に公演を行ったデンヴァーの 「エリッチズ・ガーデン」での写真と思われます。左上に”Benny Goodman's Let's dance band”とあります。後列スタンディングは、左からハリー・グッドマン、ジョー・ハリス、ヘレン・ウォード、BG、ネイト・ケイズビア。前列座っているのが左から、ジェス・ステイシー、ディック・クラーク、ハイミー・シャーツアー、ジーン・クルーパ、ジャック・レイシー―、バニー・ベリガン、ビル・ドフュー(Bill DePew)、アート・ロリーニ、ラルフ・ムジロ、レッド・バラード、アラン・リュースです。なんか楽しそうに見えますが、ここでの公演は本当にひどいものだったとハイミー・シャーツアーは後に回想しています。

さて前回は1935年4月行われたヴィクターへの初録音を聴いた。今回は、ヴィクターに移籍して2回目のセッションを聴いていこう。
ヴィクターでの第1回の録音と2回目の録音の間に重要な出来事があった。5月25日に”レッツ・ダンス”の放送が終了した。ナビスコはこのヒット番組を何故か早まって終わらせてしまったとグッド氏は述べているが、ともかく放送は終了した。
グッド氏は、番組の終わりころ、BGは出来るだけ聴衆にアピールするようにコマーシャルなサウンド作りを考えていたそうだが、ジョン・ハモンド氏はスイングに重点を置くべきだと穏やかに助言し、プレイヤーやアレンジャーをスカウトして、よりクリエイティヴなサウンドを目指すようBGに決意させたと書いている。現在で考えれば、「聴衆にアピールするようにコマーシャルなサウンド」が「スイング」ではないかという気がしますが、当時はヴァイオリンなどを入れたスイートな音楽が聴衆にアピールするとBGは考えていたのだろう。
一方プレイヤーたちは音楽的な興奮を楽しんでいたともグッド氏は書いている。しかし「レッツ・ダンス」でのBGのバンドはまだ定着していたとは言えなかったようで、ピー・ウィー・アーウィン(Tp)の証言によれば、ピー・ウィー、ジョージ・ヴァン・エプス(Gt)とトゥーツ・モンデロ(As)は同時期レイ・ノーブルのバンドでもプレイしていたという。そしてそれは特別なことではなかった。というのもまだBGの仕事はまだステディなものではなかったからだという。

BGにとってとても幸運なことは、非常に熱心な救援者が二人いたことである。一人はこれまでも何度か登場した大金持ちのお坊ちゃんジョン・ハモンド、もう一人は今回初登場のウィラード・アレクサンダーという人物である。このウィラードについてグッド氏と油井正一氏では記述が異なる。
まずグッド氏の弁。「ウィラード・アレクサンダーは、ダンス・バンドのブッキング・オフィスの最大手MCAの駆け出しエージェントだった。彼はBGのバンドが気に入り契約を結んだ。彼はBGがカサ・ロマ・オーケストラに比肩する大成功を収められると信じていた。」
一方油井氏の弁。「ペンシルヴァニア大学在学中から、バンド・マネージメントの才腕を買われていたウィラード・アレクサンダー。」
少し前のこととなるが、このウィラードとBGのエピソードを紹介しておこう。
ウィラードは、BGのバンドに対して1934年末頃から35年にかけてのことだが、ワンナイト興行の話を持ってきた。それはペンシルヴァニア州のジョージ・F・パヴィリオンでの仕事で、このパヴィリオンは全米きっての大ボールルームの一つだった(現在と言っても1987年では「ザ・ファウンテンズ・パヴィリオン」として残っていた)。
BGはサイドマンとして週300ドル稼いでいた。ウィラードは契約を交わしてからBGに報酬の話をした−350ドル+歩合、BGはそれを聴いてまぁ、良かろう、妥当な線だ、でバンドはいくらもらえるんだね?
ウィラード「350ドルというのは、君とバンドの分だ」
BGは金切り声を上げたという。が、結局BGはその仕事を受けた。かなり強引な手腕ぶりがうかがえるが、まだまだ不景気の中そのくらいの剛腕でなくてはこの世界ではやっていけないということであろう。

「コンプリート・ベニー・グッドマン」(BMGヴィクター BVCJ-7030)

<Contents> … 1935年6月25日 ニューヨークにて録音

CD1-11.ゲット・リズム・イン・ユア・フィートGet rhythm in your feet ( and music in your soul)
CD1-12.バラード・イン・ブルーBallad in blue
CD1-13.ブルー・スカイズBlue skies
CD1-14.ディア・オールド・サウスランドDear old southland

<Personnel> … ベニー・グッドマン・アンド・ヒズ・オーケストラ(Benny Goodman and his orchestra)

Clarinet & Band Leaderベニー・グッドマンBenny Goodman
Trumpetバニー・ベリガンBunny Beriganネイト・ケイズビアNate Kazebierジェリー・二アリーJerry Neary
Tromboneレッド・バラードRed Ballardジャック・レイシーJack Lacey
Alto saxハイミー・シャーツァーHymie Shertzerトゥーツ・モンデロToots Mondello
Tenor saxアート・ロリーニArt Rolliniディック・クラークDick Clark
Pianoフランク・フローバFrank Froeba
Guitarジョージ・ヴァン・エブスGeorge van Eps
Bassハリー・グッドマンHarry Goodman
Drumsジーン・クルーパGene Krupa

注目はTpのベリガンであろう。またこの日のアレンジは、フレッチャーがCD1-11,13、弟ホレスがCD-14、弟子のスパッドがCD1-12と分担して担当。野口氏は「バンドに一段と張りが出て好調としている。
CD1-11.ゲット・リズム・イン・ユア・フィート
はどこかで聞いたことのあるメロディ。ウォードのヴォーカルが入る。ソロはBGのCl、ものすごく短いベリガンのTpくらいで、ベリガンのソロはない。サックス・アンサンブルが美しい。
CD1-12.バラード・イン・ブルー
は、タイトルの通りのバラード。BGのClソロは入るが、アンサンブル中心で、柔らかなアンサンブルが心地よい。
CD1-13.ブルー・スカイズ
こちらもアンサンブル中心でソフトなナンバー。最後にベリガンのTp⇒BGのソロが聴かれる。
CD1-14.ディア・オールド・サウスランド
Tpソロは入るが短くてよく分からない。

<Contents> … 1935年7月1日 ニューヨークにて録音

CD1-15.サムタイムズ・アイム・ハッピーSometimes I’m happy
CD1-16.キング・ポーター・ストンプKing porter stomp
CD1-17.絶体絶命The devil and the deep blue sea
CD1-18.ジングル・ベルJingle bells

<Personnel> … ベニー・グッドマン・アンド・ヒズ・オーケストラ(Benny Goodman and his orchestra)

Trumpetジェリー・二アリーラルフ・ムジロRalph Muzzillo

約2週間後の7月1日の吹込みでメンバーはそれほど移動はない。野口久光氏は、「BGは最高のプレイで我々を圧倒する」と述べている。
CD1-15.サムタイムズ・アイム・ハッピー
ミュージカル「ヒット・ザ・デック(Hit the deck)」(1927)の主題歌。フレッチャー・ヘンダーソンのアレンジを十分生かした上にBG、ベリガンのソロによって第一級のビッグ・バンド・ジャズに仕上げている。
CD1-16.キング・ポーター・ストンプ
ジェリー・ロール・モートンの傑作曲をフレッチャーがアレンジしたもの。ヘンダーソン・バンドとは一味違った明朗で力強い演奏で、BGバンドのベストに上げたいくらいだとは野口氏。確かに最後のリフの部分など聴き応え十分で、全曲とこの曲が水準を超えた素晴らしい演奏であることはよく分かる。
CD1-17.絶体絶命
ウォードのヴォーカル入り。ハロルド・アーレンの曲で拙HPでは初演キャブ・キャロウェイやルイ・アームストロングのナンバーなどを取り上げてきた。
CD1-18.ジングル・ベル<
超、超有名なクリスマス・ソング。当時からクリスマス・ソングだったのだろうか?野口氏も何もコメントしていないが、この時代からある曲なんだなぁと感じ入ってしまう。

さて、BGを中心に録音履歴を見ると、次の録音はテディ・ウィルソンのコロンビア系ブランズウィックへの録音に見返り参加したものになる。テディ・ウィルソンは、会社が望むものは何でも録音するという条件で週に100ドルを保証され、ブランズウィックと契約していた。ジョンはブランズウィックの重役たちに、テディがBGと一緒にヴィクター・レーベルに吹き込む許可が得られるように頼み込んだ。その条件として彼は将来BGがテディのブランズウィック・セッションに加わることを申し出た。ブランズウィックの社長ディック・アルトシュラーはその要請を承認し、BGは7月2日にテディのオーケストラのサイドマンとして録音に参加することになった。
さてこの録音は、現在どのレコードで入手可能であるか?この録音は写真左ビリー・ホリディのレコードで聴くことができる。そしてこの4曲は拙HP第107回で取り上げ済であるので、そちらをご覧ください。

ビリー・ホリディ物語Vol.1

<Contents> … 1935年7月2日 ニューヨークにて録音

record1-3.月に願いをI wish on the moon
record1-4.月光のいたずらWhat a little moonlight can do
record1-5.ミス・ブラウンを貴方にMiss Brown to you
record1-6.青のボンネットA sunbonnet blue

<Personnel> … テディ・ウィルソン・アンド・ヒズ・オーケストラ(Teddy Wilson and his Orchestra)

Piano & Band Leaderテディ・ウィルソンTeddy Wilson
Trumpetロイ・エルドリッジRoy Eldridge
Clarinetベニー・グッドマンBenny Goodman
Tenor saxベン・ウエブスターBen Webster
Guitarジョン・トルーハートJohn Trueheart
Bassジョン・カービーJohn Kirby
Drumsコジー・コールCozy Cole

僕はどうしても気になることがある。以下は右ビリー・ホリディの自伝『奇妙な果実』(油井正一、大橋巨泉訳 晶文社)の次のくだりである。1973年に刊行された初版十刷ではP68〜69にかけての記述である。
いつのころのことかは明確な記述はないが、
「毎朝仕事が終わってから、きっとどこかで大きなジャム・セッションがあった。ベニー・グッドマンやハリー・ジェイムスのようなミュージシャンもラジオの仕事が終わってからよく現れた。そして優秀な黒人、ロイ・エルドリッジ、レスター・ヤング、ベン・ウエブスターなどと一緒にジャムを楽しんだ。みんなが私の友達だったが、ベニー・グッドマンとの交際は特別の関係である。
私と彼は1週間に一度は、きっとこういうジャム・セッションの席で落ち合い、数時間を一緒に過ごしたが、ママはこの点では特に私に厳格で、白人の青年と一緒に歩き回ってはいけないと、くどいほど私に注意を与えた。
ベン―の姉のエセルは当時、彼のマネージャーをやっていた。彼女は、ベニーがきっとバンド・リーダーとして大物になるに違いないと目安を付けていたので、弟が黒い女と問題を起こして出世を棒に振ることを望まなかった。
ベニーは立派な男だった。絶対に退屈な男ではなかった。二人は一緒に過ごすために、ママや姉の裏をかいた。ベニーとの交際は私が別の恋愛に悩むようになるまで、相当長い間続いた。」
この後その別の恋愛のことに話題は移るのだが、ビリー曰く「二人は<いい仲>で、それは相当長い間続いた」と。しかしこのことについて触れた記述を他に見たことがない。
ベニー側の考えは姉の言う通り、「黒人女と問題を起こして出世を棒に振りたくない」という一点に尽きるであろう。そしてビリー側は、このことをあげつらって白人ジャズの王様、ベニー・グッドマン或いはその側近、さらに利害を共にするレコード会社などの連中に潰されたくないということでダンマリを決め込んだのだろうか?それとも単なるビリーの妄想であったのであろうか?
確かにこれは単なる男女のスキャンダルで音楽には関係ないという意見もあるかもしれない。それなら著名なジャズ評論家レナード・フェザー氏が、「彼(BG)は、意味深いことに、アリス(ジョン・ハモンド氏の妹)の誠実な夫であり、二人の娘たちの愛情深い父親であり、かつアリスが前の結婚でもうけた三人の子供たちの献身的な養父でもあった」というのも意味をなさないこととなる。
僕は、ビル・クロウがその著『さよなら、バードランド』に書くようにBGは自分のイメージ管理に最も腐心した男であったような気がする。最近で言われる『好感度』重視である。「良き夫であり、良き父親」であるというイメージがこの後彼の成功に大いに貢献したのではないかと思うのである。成功したミュージシャンが数多くの発表の機会を持ち、録音の機会を持つのは当然である。そして一面そうやってジャズの歴史は作られていったのである。

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第302回2019年2月16日

スイング時代の幕開け その2
ベニー・グッドマン入門13 1935年 その2

No.302 Benny Goodman 1935 Vol.2

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

前回は1935年初めに行われたBGのコロンビアへの録音を聴いた。今回からは、ヴィクターに移籍してからの録音を取り上げていこう。
モート・グッド氏は、「1935年初めころコロンビアへの録音は、アーヴィング・ミルズによって大幅な制限を受けた。報酬は当時の慣行通り―均一価格で、レコード印税もなかった」と書いている。どうしてミルズ氏はそのようなことが出来たのだろう?そしてどうしてそのような制限を設けたのだろう?僕には確かめようがないが、グッド氏はそう書いている。
一方RCAヴィクターの社長だったテッド・ウォーラーシュタインは、アーティストに対して非常に尊敬の念を抱いていた。彼の哲学には、アーティストは、レコードの売れ行きに準じて継続的に印税を受け取るべきだという一項が含まれていた。ヴィクターの重役たちは、その考えに抵抗したが、BGとウォーラーシュタインは友人だったこともあって、その条件を入れてBGはRCAと契約した。これがジャズ・アーティストにとって初の印税が与えられるようになった大きな転機であるという。野口久光氏も、この契約はジャズメンとして初めての印税方式よるものだったと書いている。こうしてジャズメンにとって大きな転機となる契約が1935年3月に取り交わされたのだった。
さて、そのヴィクターにBGは1939年まで専属契約を行い多数の吹込みを行っているが、その音源の全曲集が今回からしばらく取り上げることになる左のCDボックスである。
これは、日本ではBMGビクター株式会社から発売された「コンプリート・ベニー・グッドマン」というもので、多分アメリカで発売された“Benny Goodman The RCA years 1935-1939”の日本盤CD12枚組という結構大型のボックスものである。日本側の解説は野口久光氏が書いていてこのCDボックスを「RCAの専属アーティストとして吹き込んだ全曲集である」と書いているのでそうなのであろう。
そしてアメリカ盤でも付いているかどうかは分からないが、「ベニー・グッドマン秘蔵名演集」というCDが付いている。このCD は資料としては大変な優れもので、17歳の時ベン・ポラック楽団で行った初吹込みから1930年のビックス・バイダーベックとの共演まで、他ならどうやって入手したらいいか分からないような貴重な音源を収録したCDが付いている。まぁ拙HPではすべて紹介しつくしましたが…。
こうしてBGはヴィクターと契約が成立し、初録音が4月4日、24丁目スタジオで行われた。この時点ではまだ、ラジオ番組「レッツ・ダンス」は放送中である。

こうしてヴィクター時代に入るのだが、この時代はBGにとってどういう時代かというと、ずいぶん前に紹介した油井正一氏の『生きているジャズ史』のBG―三期説によれば第二期に当たる。
曰く
「第二期は、1935年に始まり絢爛たるビクター時代を経て、コロンビアに鞍替えした1939年ごろまで『キング・オブ・スイング』の盛名をほしいままにしたころ。技巧といい、フィーリングといい、非の打ち所のない立派なスタイルですが、第3期に至って完成を見る音色の豊麗さには、幾分欠けます。これが戦前戦後のビクター盤のフル・バンドとコンボを通じて、皆様におなじみのグッドマン・スタイルです」と。「皆様におなじみの〜」という表現が時代を感じさせますよね。今どきBGに馴染んでいる人というのはどのくらいいるんだろうか?
さてそんな高価そうなCDボックスが買えたなと思われる方が多いかと思う。現時点で帯が見当たらず定価で幾らだったのかは分からないのが、町田のディスク・ユニオンで3,000円を少し超えるくらいで購入した。多分今の日本ではベニー・グッドマンといってもほとんど「?」というくらいであろうし、そもそもボックスものは重いし嵩張るので嫌われるという当世の志向の反映かと思う。
ということで、今回は4月に行われた第1回目レコーディング(4月4日)と2回目(4月19日)を聴いていこう。

「コンプリート・ベニー・グッドマン」(BMGヴィクター BVCJ-7030)

<Contents> … 1935年4月4日 ニューヨークにて録音

CD1-1.ハンカドーラHunkadola
CD1-2.アイム・リヴィン・イン・ア・グレート・ビッグ・ウェイ テイク1I’m livin’ in a great big way take1
CD1-3.アイム・リヴィン・イン・ア・グレート・ビッグ・ウェイ テイク2I’m livin’ in a great big way take2
CD1-4.フーレー・フォー・ラヴ テイク1Hooray for love take1
CD1-5.フーレー・フォー・ラヴ テイク2Hooray for love take2
CD1-6.ディキシーランド・バンドThe Dixieland band

<Personnel> … ベニー・グッドマン・アンド・ヒズ・オーケストラ(Benny Goodman and his orchestra)

Clarinet & Band Leaderベニー・グッドマンBenny Goodman
Trumpetピー・ウィー・アーウィンPee Wee Erwinジェリー・二アリーJerry Nearyラルフ・ムジロRalph Muzzillo
Tromboneレッド・バラードRed Ballardジョー・ハリスJoe Harris
Alto saxハイミー・シャーツァーHymie Shertzerトゥーツ・モンデロToots Mondello
Tenor saxアート・ロリーニArt Rolliniディック・クラークDick Clark
Pianoフランク・フローバFrank Froeba
Guitarジョージ・ヴァン・エブスGeorge van Eps
Bassハリー・グッドマンHarry Goodman
Drumsジーン・クルーパGene Krupa
Vocal-CD1-2,3バディ・クラークBuddy Clark
Vocal-CD1-4,5,6ヘレン・ウォードHelen ward

この初セッションに立ち会ったジョン・ハモンド氏は、これまでと違った“くぼみをつけたワックス盤”に記録され、その結果はより忠実度の高い録音になったことを後に語っている。またハイミー・シャーツアーは、その録音時ピアニストのフランク・フローバの足を踏み鳴らす音を消すために、彼の足の下にパッドを入れたことを思い出話に語っているという。なお、この「コンプリート・ベニー・グッドマン」の楽曲解説は野口久光氏で活躍ある。
初吹込みは会社側の意向で当時の新作映画の主題歌が取り上げられた。CD1-1「ハンカドーラ」は「スキャンダルス35年(George White's scandals of 1935)」のCD1-4,5「フーレー・フォー・ラヴ」は「青春万歳(Hooray for love)」の主題歌であるそうな。
CD1-1「ハンカドーラ」はBGのソロから始まり、BGが大活躍する時代を感じさせるナンバー。
CD1-2,3「アイム・リヴィン・イン・ア・グレート・ビッグ・ウェイ テイク」はテイク1と2が収録されている。この内テイク2がSP盤で発売されたもので、テイク1は初お目見えだというが、BGのソロが若干異なるだけでほぼ変わりはない。ヴォーカルを取っているのは、ディック・クラークである。僕が注目するのは、出だしの4小節が終わって、5小節目からホーンがメロディを1小節吹くと答えるようなフレーズをブラスが1小節吹くところで、これはまさにコール&レスポンスの手法である。今聴くと何ら新鮮味もないがこうしてアフリカン・アメリカンの手法がアメリカン・ポップスに浸透していったのだなぁと思う。
CD1-4,5は上に触れたように映画の主題歌でヘレン・ウォードが歌っている。こちらもテイク2がSP盤で発売されたもので、テイク1は初お目見えだという。この曲のヴォーカルを聴くとヘレン・ウォードという女性は結構強い性格の娘だったのではないかと感じるのたり庵でありました。
CD1-6「ディキシーランド・バンド」もウォードの歌入り。バーニー・ハニゲン(曲)、ジョニー・マーサー(詞)の曲でコロンビア系列のブランズウィックに吹き込んだばかりだという。他社に吹き込んだばかりの曲を直ぐ追っかけで録音するのは通常御法度なのだが、この時はヴィクターがブランズウィック専属だったテディ・ウィルソンの吹込みにサイドマンとして参加するという条件で吹込みがOKになったという。こうまでしてヴィクターがこの曲を録音したかったのは、BG自身はこの曲を気に入っていたわけではなかったが当時ヴィクターのA&R部門の長イーライ・オバースタインがこの曲を”ヒット曲”と考えていたからだという。

<Contents> … 1935年4月19日 ニューヨークにて録音

CD1-7.ジャパニーズ・サンドマンThe Japanese sandman
CD1-8.あなたは天使You’re a heavenly thing
CD1-9.レストレスRestless
CD1-10.オールウェイズAlways

<Personnel> … ベニー・グッドマン・アンド・ヒズ・オーケストラ(Benny Goodman and his orchestra)

Clarinet & Band Leaderベニー・グッドマンBenny Goodman
Trumpetネイト・ケイズビアNate Kazebierピー・ウィー・アーウィンPee Wee Erwinジェリー・二アリーJerry Neary
Tromboneレッド・バラードRed Ballardジャック・ティーガーデンJack Teagarden
Alto saxハイミー・シャーツァーHymie Shertzerトゥーツ・モンデロToots Mondello
Tenor saxアート・ロリーニArt Rolliniディック・クラークDick Clark
Pianoフランク・フローバFrank Froeba
Guitarアラン・リュースAllan Reuss
Bassハリー・グッドマンHarry Goodman
Drumsジーン・クルーパGene Krupa

初録音から約2週間後の4月19日に第2回目の吹込みが行われた。グッド氏は、「ジャック・ティーガーデンが加わっている。彼は、ブロードウェイのパラダイス・レストランに出演中だったポール・ホワイトマン楽団で演奏していた。彼は録音当日に参加しただけだった―そしてビッグT(ティーガーデン)がBGのヴィクター・バンドと共演したのはこの時だけであった」と述べティーガーデンの参加が注目点としているが、わが野口氏は、CD1-7,8がフレッチャー・ヘンダーソンの、CD1-10はフレッチャーの弟ホレスの、CD1-9はヘンダーソン・スクールの優秀なアレンジャー、スパッド・マーフィのアレンジの初吹込みであることが注目としている。さすが野口氏の指摘の方が重要だと思う。 そしてCD1-7「ジャパニーズ・サンドマン」、CD1-10「オールウェイズ」はBG=ヘンダーソンコンビならではのビッグ・バンド・ジャズの迫力が素晴らしいとしている。
CD1-7「ジャパニーズ・サンドマン」というタイトルは日本人である我々には気になるところであるが、以前にも登場したことがあり当時はなぜか”ジャパニーズ・サンドマン”がやって来て砂を撒くと眠くなるという言い伝えがあったという。
グッド氏が注目するティーガーデンはCD1-8「あなたは天使」と次曲CD1-9「レストレス」で短いソロを取るだけで、演奏自体にそれほど影響はしていないような気がする。またこの2曲ともヴォーカルはいずれもヘレン・ウォードである。
野口氏の解説を読んで、演奏を聴くと確かに前回セッションと比べてグッと良くなった気がする。

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第301回2019年2月9日

スイング時代の幕開け
ベニー・グッドマン入門12 1935年 その1

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

今回は2月7日、関東地方では4月下旬の気温となった日に家の近くで撮影しました。以前HPをご覧になっていた方からも何故ジャズに関するサイトで森?という質問をされたことがあります。それも追々書いていこうと思いますが、やはり緑のある風景(今回はほとんどないですが)が最も心を癒してくれると思っているからです。写真が下手で癒されない?スイマセン、何かと至らないことが多いですがご勘弁ください。
前回第300回を1月6日にアップしてから1か月以上経ってしまいました。この間何をしていたのかというと、僕がHPでお願いしていたYahooのジオシティーズというサービスが3月末を以ってサービスを中止するというので、移転先を探し移管作業をしていました。通常こんなに時間はかからないのかもしれませんが、HPなどを開設していますが実はものすごいネット音痴で、ネットは作業は苦手中の苦手なのです。初めてHPをアップするにも4か月くらいかかりました。この遅さから自分のペットネームを<のたり庵>と思い付きで付けたくらいです。
前回ともかくどんどん進めたいと書きながらこの為体、情けないですが、アップ先がはっきりしないとどうも落ち着いて、HPを書く気になれません。更に告白すると今回から週一アップの記事はブログにしようと思ったのでですが、ブログのアップが果たせませんでした。もう少し時間がかかるかもしれません。

残り5週

2月3日から始まる週は4月下旬並みに暖かくなったかと思うと観測史上記録的な寒気団が襲うなど不順さが半端ではありません。インフルエンザが猛威を振るっています。僕はインフルエンザは今のところ罹っていませんが、花粉症がひどい状態になりつつあります。
2月9日東京都区内でも雪が降ったようですが、僕の住む辺りはちらほらと舞う程度で今のところ雪害も免れています。しかし寒い、寒い。でもおかげで近所への買い物の他外出はせず何とか別のプロヴァイダーさんでHP表示させるところまでこぎつけることが出来ました。
僕のサラリーマン生活も終わりに近づきつつあります。今週は最後の通勤定期を買いました。来週辺りから送別会も増えて来ます。

では今回からは“1935年のジャズ”に入りましょう。

No.301 Benny Goodman 1935 Vol.1

スイング時代は1935年ベニー・グッドマンとともに始まった。
と言われます。
つまりこの1935年という年はジャズ年表上、ベニー・グッドマンによって一つの時代を画する「スイング・イーラ」、「スイング時代」の幕が開いた年であるということでしょう。
こういう言い方をすると、ベニー・グッドマン(以下BG)がスイングの生みの親みたいに聞こえるかもしれませんが、もちろん音楽的にはそうではありません。ではなぜこのような言い方をされるのでしょうか?
ともかく今回(第301回)からしばらくはBGのレコードを聴きながら1935年について学習していきましょう。
1934年までのBGについては、かなり前HP第119回でまとめて触れたが、少し復習しておこう。
繰り返しになりますが、BGは1934年当時週に300ドル稼ぐニューヨークきっての高ギャラ・プレイヤーの一人でした。自己のバンドを持つことを決意したBGは、最初のレギュラー・バンドを組織してビリー・ローズのレストラン・シアター(「ザ・ミュージック・ホール」)に出演しました。
この背景には、1933年世紀の悪法という人もいる「禁酒法」が1933年に撤廃されたことがあると相倉久人氏は述べています(『ジャズの歴史』新潮新書)。つまり禁酒法がなくなれば、酒を自由に買うことができるようになります。飲みたければ、近所の店で買えば安く飲むことができます。そして裏商売だった酒を売るキャバレーやナイト・クラブも裏商売ではなく表商売となります。表商売となったナイト・クラブは、切実に客集めのためのエンターテイメントを求めていました。それもひときわ人目を引くようなものを。それは30年代にはラジオが一般家庭にも普及して、客の出足が悪くなっていたからです。
折から規模の大きいクラブ経営に乗り出したあるオーナーが、呼び物になる白人バンドを探していました。そこで選ばれたのがBG率いるオーケストラでした。このオーナーとナイト・クラブ名、年代を相倉氏は明確に書いていないのですが、他の記述から推測すると、オーナーはビリー・ローズという人物で、ナイト・クラブとは、「ザ・ミュージック・ホール」だったと思われます。

因みにその時のBGバンドの楽器編成は、リードが4本(BGはテナー・サックスを吹いたという)、3本のトランペット、2本のトロンボーン、それにリズムという編成だったといいます。これはスイング・バンドの標準的な編成でしたが、クラブ側の要求でさらにヴァイオリンが加わっていました。
The RCA years 全曲集の原盤の解説を担当するのはモード・グッド(Mort Goode)氏です。彼はジャズ評論家というよりは、ミュージシャンでありBGのバンドに加入して一緒に演奏したこともある人物です。グッド氏は、自己紹介として次の様なくだりを書いています。
「当時のダンス・バンドにはヴァイオリンが2人居ると思われていた。ベニーは、ヴァイオリニストを一人雇っていたが、もう一人二番手としてヴァイオリンもできるアルト・サックス奏者がいると考えていた。それがつまり私だった」と。つまりグッド氏は、内部事情に詳しい人間ということになります。
また、グッド氏はBGのバンドは、すんなりとビリー・ローズの「ザ・ミュージック・ホール」のオーディションに受かったわけではないとし、ヴォーカリスト、ヘレン・ウォードの存在が大きな力になったと書いています。
「彼女はウォルドフ・アストリアに出演中のエンリケ・マドリゲラのラテン・バンドで歌っていたが、ローズのオーディションのために歌いに来た。それはBGの2回目のオーディションの時で、ヴォーカリストを加えることによって契約に成功したのだった。
だが、ザ・ミュージック・ホールがオープンした時、そこにはヘレンの姿はなかった。ブロンド美人のアン・グレアムがBGと共に幕を開けた。ヘレンはウォルドフ・アストリアに戻っていたのである。しかし2か月後には、ヘレンはBGのバンドに参加し、ラジオ番組“レッツ・ダンス”にも出演した。ハイミー・シャーツアーは、「彼女はあの時のバンドにぴったりだった。彼女は何をやってもナチュラルで魅力的だった」と語っている。また、1935年4月に設けられた『メトロノーム』誌でダンス・バンド評を担当していたジョージ・サイモンの『ザ・ビッグ・バンズ』によれば、「声と同時に見た目もまた魅力的な歌手。彼女のスタイルは、温かみと官能的なジャズ・ビートを体現したもので、彼女の身体は非常にセクシーに動いた」という魅惑の女性ヴォーカリストでした。
しかしこの時の演奏について油井正一氏は、世評は散々なものだったと書いていますが、相倉氏は、BGにとってはそれが次のステップに繋がったと書いています。ともかく「ザ・ミュージック・ホール」での仕事は1934年10月まで続きます。

さて、この後BGの出世の第1ステップラジオ番組出演となるのですが、その経緯についてはちょっとばかり記述が異なる点があるのでご紹介しておきます。
前出の相倉氏は、「さてそのクラブの出演契約満了の日、広告代理店の男が新たに始まるラジオ番組のオーディションの話を持ってきました」としているのに対して、グッド氏は『1934年10月に「シアター・レストラン」の仕事が終えてから間もなくして…』と書いています。まぁ余り大した違いではないですが。
その番組とは、ナショナル・ビスケット・カンパニー(略してナビスコ)をスポンサーとして、ラジオ・ネットワークの最大手NBCが企画したニューヨーク時間で土曜の夜10時30分開始の3時間の音楽番組です。出演バンドは3組、ザビア・クガートのラテン・バンド、ケル・マレイのソサエティ・オーケストラ、そしてBGのバンドでした。各バンドの持ち時間は約1時間弱ですが、毎週それだけの時間をこなすには相当なレパートリーが必要です。
そこで登場するのがフレッチャー・ヘンダーソンです。ヘンダーソンはその当時、「バンドが経営に行き詰まって解散したばかり」(相倉氏)、「バンドは仕事がなく、マネジメントのまずさもあって、解散に瀕していた」(モード氏)。ともかくヘンダーソンは、編曲の売り渡しに同意し、新たな編曲も手掛けることになりました。
こうして1934年12月1日ラジオ番組『レッツ・ダンス』が、BGの演奏するテーマ曲に載って全米に向けて放送を開始しました。因みにこの番組は翌1935年5月25日まで続きます。BGにとってこのラジオ番組出演は、1935年後半に起こる熱狂的なBG人気を下地を作ったという意味で非常に重要です。

BGは「レッツ・ダンス」放送中の1935年1月と2月に、コロンビアに8曲を録音しましたが、その演奏は日増しに充実していった」とグッド氏は書いています。
まずは、スイング時代幕開け直前、BG人気沸騰直前に吹き込まれたコロンビアへの吹込みを聴いていきましょう。といっても僕は1935年コロンビアへの吹込みは2曲しか持っていません。その内の1曲はBG名義ではなく、イギリスの作曲家でピアニストのレジナルド・フォーサイスのレコーディングに参加したもので、この曲をグッド氏が含めて8曲としているのかどうかは分からないのですが。

「新たなる宝庫・黄金時代のベニー・グッドマン」(The protean Mr. Goodman) ノスタルジア・レコード CSM 890・1

<Contents> … 1935年1月15日 ニューヨークにて録音

record2A面4.ブルー・ムーンBlue moon

<Personnel> … Benny Goodman and his orchestra

Clarinet & Band Leaderベニー・グッドマンBenny Goodman
Trumpetピー・ウィー・アーウィンPee Wee Erwinジェリー・二アリーJerry Nearyラルフ・ムジロRalph Muzzillo
Tromboneレッド・バラードRed Ballardジャック・レイシーJack Lacey
Alto saxハイミー・シャーツァーHymie Shertzerトゥーツ・モンデロToots Mondello
Tenor saxアート・ロリーニArt Rolliniディック・クラークDick Clark
Pianoフランク・フローバFrank Froeba
Guitarジョージ・ヴァン・エブスGeorge van Eps
Bassハリー・グッドマンHarry Goodman
Drumsジーン・クルーパGene Krupa
Vocalヘレン・ウォードHelen Ward

ロレンツ・ハートの作詞、リチャード・ロジャース作曲の今でもよく取り上げられるいわゆるスタンダード・ナンバー。歌手のヘレン・ウォードはBGファンにとってはかなり有名な歌手。一時期BGと恋愛関係にあり、結婚寸前までいったが、結婚までは至らなかった。その原因を油井正一氏は、1936年ころBGは、思いのたけを打ち明けて結婚してくれと迫ったのだが、振られてしまった。変に真剣に思いのたけを打ち明けたりせずに、クラーク・ゲーブルやジェイムズ・ギャグニーのように、彼女の髪の毛をわしづかみにしてグイグイ引きずり回していたら(中略)。とにかくヘレンはBGを振り切りバンドを去って行ったと書いています。しかしウォード自身の告白によると、BGは自分のキャリアのことを考えて、つまりキャリアにプラスにならないと考えて求婚を断念したのだと話しているそうです。こういった人間臭いエピソードは面白いですよね。って僕だけ?でもどっちが本当なのでしょうね?何の根拠もないですが、僕にはウォードの言っていることが本当のような気がしますが。
肝心の演奏ですが、BGのソロもほとんどなく、いかにもこの時代の雰囲気を漂わせる、ソフトでビロードのような柔らかさを感じさせるアンサンブルとヴォーカルを楽しむナンバーだと思います。ヴォーカルのウォードは当時まだ21歳のはずですが、その歌いっぷりには”初々しいセクシーさ”というよりも、”熟女的なセクシーさ”をぼくは感じてしまいますが、これは録音のせいかもしれません。

「新たなる宝庫・黄金時代のベニー・グッドマン」(The protean Mr. Goodman) ノスタルジア・レコード CSM 890・1

<Contents> … 1935年1月23日 ニューヨークにて録音

record2A面1.ダッジング・ア・ディヴォースDodging the divorcee

<Personnel> … The new music of Reginald Foresythe

Piano & Band Leaderレジナルド・フォーサイスReginald Foresythe
Clarinetベニー・グッドマンBenny Goodmanジョニー・ミンスJohnny Mins?
Alto saxハイミー・シャーツァーHymie Shertzerトゥーツ・モンデロToots Mondello
Tenor saxディック・クラークDick Clark
Bassジョン・カービーJohn Kirby
Drumsジーン・クルーパGene Krupa

この吹込みはBG名義ではなく、作曲・編曲家でピアニストでもあるレジナルド・フォーサイスというイギリス生まれの音楽家の率いるバンドとBGバンドともコラボのような形で吹き込まれたもの。フォーサイスはフランスやハワイなどを渡り歩いてアメリカにやって来たという変わり種。非常にいろいろなタイプに興味を抱くような好奇心旺盛なタイプの音楽家だったと思われる。30年代から種々の木管楽器を用いて斬新な響きを追求していたと言われます。この録音について語られた記事をほとんど見かけたことがありませんが、後にエディ・ソーターをアレンジャーとして招いたり、ストラヴィンスキーやバルトークと共演したりと新しいサウンドに取り組むBGの創造性と合致して行われた重要なセッションのような気がします。
パーソネルについてもレコードのライナー・ノートにはほとんど触れられていませんが、クラリネットにBGの他にジョニー・ミンスという人物が加わっていますがこの人とバスーンのソル・ショーエンバックそしてピアノの御大フォーサイスはフォーサイス側他はBGバンド側からの参加ではないかと思われます。ここでもリズム・セクション以外はすべて木管で金管のトランペットなどは加わっていません。アンサンブルはクラシックを彷彿とさせるユニークなものです。


最後に付け足しの用で恐縮ですが、この間ジャズとも大きく関わりのあったフランスの音楽家ミッシェル・ルグラン氏や講演を聞きに行きHPでも取り上げた元スイング・ジャーナル編集長だった評論家の児山紀芳先生が亡くなられました。謹んでご冥福を申し上げます。合掌。

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