ジャズ・ディスク・ノート

第249回2018年2月18日

フレッチャー・ヘンダーソン入門 その8 1929年

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

近所の梅の木

なかなか暖かくなりません。今日(2月18日)は、朝から晴れましたが、冷え込みが厳しく、日中も温度が上がらない寒い1日でした。またまた厳しい寒波が襲ってきている中、日本海側はまたまた大雪になっているようです。僕の住んでいる地区などはかなり過ごしやすい方でしょう。右の写真のように梅の花もだいぶ咲き始めました。
今日は諸々所用があり、午後に、15時以降に散歩に出かけました。森の中は少し日が陰りだしたような感じです。
左はこのホームページでよく満開の風景をご紹介している枝垂桜です。今はまだご覧のように寂しい感じですが、春には花が流れ落ちるように咲きます。あと1か月余り後にはそんな光景が見られるはずです。しかし今日のような寒さが続くと本当に春はやってくるのかなと不安にさえなってきます。


2月15日 丸の内ライトアップ

勤務先の東京丸の内・仲通りでは、街路樹を使ったライトアップがまだ行われています。でも来週末にライトアップも終了するようです。これ以上続けると新芽の伸長に影響が出るのかもしれません。

今は冬季オリンピックの真っ最中です。昨日羽生結弦選手がフィギュア・スケートで、そして今日小平奈緒選手がスピード・スケート500メートルで、金メダルを獲得しました。何といっても、金メダル確実と言われ、その重圧の中でその通り実力を発揮して金メダルを取る、これほど難しいことがあるでしょうか?実力は勿論のこと人並み外れた精神力に感嘆するばかりです。

第249回Fletcher Henderson Vol.8 1929
“A study in frustration” Vol.3

Essential・JAZZ・Classics EJC55511 CD3枚組 made in EU

ガンサー・シュラー著『初期のジャズ』

さて、1929年についてはほぼ取り上げたかなと思っていたら、たいへん重要なバンドが残っていた。フレッチャー・ヘンダーソンのバンドである。このバンドは最重要バンドではあるのだが、活発に活動していたかというと全くそうではない。
『ジャズマンとその時代』の丸山繁雄氏及びガンサー・シュラー氏も、1928年から30年にかけてはレコーディングで見る限り、フレッチャー・ヘンダーソンとその楽団の活動は低迷期であったという。その大きな原因はやはりアレンジャー/ドン・レッドマンの退団が大きいという。シュラー氏はレッドマン退団の打撃がそうさせたのかどうかは判然としないが、ヘンダーソン自身が不可解なことに、この時期バンドというものに興味を失ってしまったという。さらに1928年夏に自動車事故にあって元気を失くし、とりわけバンドの実務面に対してはますます無頓着になってしまったという。このことがバンドの音楽的な側面でも規律を低下させたという。
さらにシュラー氏は次のように書く。「1928年と29年の短期間に、フレッチャー・ヘンダーソンのバンドで楽員の重大な変更が発生した。ヘンダーソンと楽員の関係がひどく悪化して、解雇や自発的退団が相次いだ。トロンボーンのジミー・ハリソン、ベニー・モートンも辞めた。フレッチャーの運営上最悪の失策で、ジューン・コールとカイザー・マーシャル(ヘンダーソンの最も古い友人)も辞めた。バンジョーのチャーリー・ディクソンも去って、ビリー・ホリディの父親クラレンス・ホリディに代わった。クーティー・ウィリアムスは束の間この楽団に在籍し、結局はエリントンに引き抜かれることになったが、少なくとも一つの優れたソロ(“Raisin’ the roof”)を残していった」と(後述)。
ヘンダーソンがレッドマンの退団や交通事故によって元気を失くしたことが、楽団員とのトラブルの原因だったのかまた「運営上最悪の失策」とはどのようなものだったのかは記述がないが、ともかくこの時期はヘンダーソン楽団にとって冬の時代だったことは間違いないのだろう。
さて、以上のような事情からかヘンダーソン楽団は1929年、録音を4面分しか残していない。その4曲が「スタディ・イン・フラストレイション」に収録されている。

「ア・スタディ・イン・フラストレイション/フレッチャー・ヘンダーソン」CD3枚組 CD2ジャケット

<Contents>…1929年4月 ニューヨークにて録音

CD2-10.フリージー・アンド・メルトFreezy and melt

<Personnel> …フレッチャー・ヘンダーソン・アンド・ヒズ・オーケストラ (Fletcher Henderson and his orchestra)

Band readerフレッチャー・ヘンダーソンFletcher Henderson
Trumpetボビー・スタークBobby Stark
Cornetレックス・スチュワートRex Stewart
Tromboneジミー・ハリソンJimmy Harrisonチャーリー・グリーンCharlie Green
Clarinetバスター・ベイリ―Buster Bailey
Alto saxハーヴェイ・ブーンHarvey Boone
Tenor saxコールマン・ホーキンスColeman Hawkins
Banjoクラレンス・ホリディClarence Holiday
Tubaデル・トーマスDel Thomas

<Contents>…1929年4月 ニューヨークにて録音

CD2-11.レイジン・ザ・ルーフRaisin’ the roof

<Personnel> …フレッチャー・ヘンダーソン・アンド・ヒズ・オーケストラ (Fletcher Henderson and his orchestra)

替わったパーソネル
Tubaデル・トーマスジョン・カービーJohn Kirby
追加のパーソネル
Drumsウォルター・ジョンソンWalter Johnson

まず1929年の最初の録音は4月に行われている。1928年最後の録音は12月だったので約4か月後の録音である。異なるのはアルト・サックスとアレンジを担当していたベニー・カーターが抜けている。
それに同じ4月の録音でありながら、CD-10とCD-11ではわずかながら、メンバーの移動がある。これは当時のヘンダーソン楽団の不安定さを表すことなのであろうか?
CD-10は、前半は殆ど合奏に終始するがどうも中途半端な感じがする。バンドとしてやりたいことがはっきりしていない感じがする。
CD-11は前述のように、シュラー氏はTpソロをクーティー・ウィリアムスとしているが、CDの解説ではクーティーは参加していない。しかしここに聴かれるミュートによるTpソロは、CD-10とは明らかに異なる雰囲気をたたえており、CDの解説のパーソネルが間違っているかもしれない。

「ア・スタディ・イン・フラストレイション/フレッチャー・ヘンダーソン」CD3枚組 CD2

<Contents>…1929年5月16日 ニューヨークにて録音

CD2-12.ブレイジンBlazin’
CD2-13.ワン・ワン・ブルースWang wang blues

<Personnel> …フレッチャー・ヘンダーソン・アンド・ヒズ・オーケストラ (Fletcher Henderson and his orchestra)

追加のパーソネル
Trumpetラッセル・スミスRussell Smith

O.D.J.B.のCD-12.ワン・ワン・ブルースは、1927年にも一度録音している。シュラー氏はこの作品はよく売れたと書いているので、そのヒットにもう一度あやかろうとしたものかもしれない。
両曲のソロでは、ホーキンスのソロがやはり印象に残る。Tpいい感じを出しているが、誰のソロか分からないところが残念である。

ディスコグラフィーを見ると、ヘンダーソン楽団の次の録音は、翌1930年の10月までない。これは大恐慌の影響ももちろんあるのであろうが、バンマスのやる気のなさが一番の原因だったような気がしてならない。

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第248回2018年2月11日

20年代ビッグ・バンド入門 その6
ベニー・モーテン 1929年 その2

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河津桜の花芽がほころびている

典型的な冬型の気圧配置とのことで、北陸地方は、記録的な豪雪になっているようです。一方僕の住む関東地区は、晴れていて、湿度が低くカラカラに乾いています。相変わらず朝晩の冷え込みは厳しいものがありますが、季節がらしかたのないことでしょう。
2月11日日曜日は朝から晴れて、気温も3月中旬並に上昇しました。右はテニスコート脇の河津桜の花芽です。今にも咲きそうに花芽が膨らんできています。もうすぐ春となるでしょうか?

そんな中、お隣韓国では2月9日金曜日冬季オリンピックが開幕しました。このオリンピックは、ロシアの組織的なドーピングにより国としては欠場という問題や北朝鮮の突然の参加表明もあり、かなり政治色が色濃く出た大会となっています。「スポーツの祭典」であるオリンピックは、いつの間にやら政治利用されることが多くなったような気がします。かつて「参加することに意義がある」と言われていたものが、今では「メダルを取ってなんぼ」というような言われ方もされるようになりました。「オリンピック」は我々観戦者にとって、純粋にスポーツを楽しむということからどんどんかけ離れて行っているように感じられてしかたありません。

さて、今回はベニー・モーテンの1929年10月の録音、カウント・ベイシーのレコード・デビューとなります。

第248回Study in 1920th The Big Band Era
”ベニー・モーテン Bennie Moten’s Kansas City Orchestra”Vol.4

ベニー・モーテン Bennie Moten’s Kansas City Orchestra
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1集」 レコード 8枚目 RA-52

さて、今回は1929年10月の録音、瀬川氏の言う「ニュー・モーテン・バンド」の最初の録音となる。
では1929年7月までの前期モーテン・バンドと10月以降の「ニュー・モーテン・バンド」ではどこが違うのであろうか?瀬川氏は、演奏スタイル上のリズム面でもアンサンブルの面でも大きな変化が見られるという。
さて、ではなぜこの時期にこのような急激な変化を遂げたのであろうか?その変化の要因は、メンバーが変わった、いや強力なメンバー、ピアノのカウント・ベイシーと以前にも触れたトロンボーンとギターという珍しい掛け持ちプレイヤーであり先進的なアレンジャーでもあるエディ・ダーハムが加わったことによるものである。
瀬川氏は、モーテン・バンドの変化について詳しく述べているが、その背景については一顧だにしていない。もしかすると知っているが書くことを忖度した可能性もあるが。
そのあたりを詳細に記述しているのがガンサー・シュラー氏である。シュラー氏は次のように述べる。

この1928年前後という時期は、モーテンが根拠地にしていたアメリカ南西部において、ジェス・ストーンのブルース・セレネイダーズ、アルフォンス・トレント、T・ホルダー、トロイ・フロイド、ジョージ・リーや、ウォルター・ペイジのオクラホマを根城とするブルー・デヴィルズなどの―彼らのすべてのバンドが活動の盛りの時期を迎えていた。これらのバンドが覇を競ったのは、単にNo.1の地位を競うということだけではなく、バンドの維持そのものもかかっていたのだろう。
その頃、モーテン楽団にとって最大の競争相手だったのは、2つのバンド、アルフォンス・トレント楽団とウォルター・ペイジのブルー・デヴィルズだった。シュラー氏はブルース・セレネイダーズ、トロイ・フロイドなのにも言及しているがその紹介は別の機会に譲りたい。
先ずアルフォンス・トレント楽団であるが、このバンドを聴いたことのある多くの音楽がその独特な音楽性を証言しているという。当時ジョージ・リーの楽団に所属していたバド・ジョンソンは、次のように証言している。
「彼らは、俺が聴いた中で最高のバンドだった。奴らは俺を興奮させてくれた。20年代では、後のベイシーみたいに神様だった」と。
そうしてもう一つが、ウォルター・ペイジのブルー・デヴィルズ。
彼らは不安定で、短命な活動経歴しか持てなかったが、野心的なグループだった。このバンドは、この地域の何人かの最良の奏者を抱えていた。アルト・サックスのバスター・スミス、Tb奏者で編曲家のエディ・ダーハム、トランペット奏者のオラン・ホット・リップス・ペイジ、トロンボーン奏者のダン・マイナー、ドラムのアルヴィン・バロウズ、そして少し後にはカウント・ベイシーのみならずジミー・ラッシングも在団していたのである。
このバンドは1926年にオクラホマ・シティで結成され、北はミズーリ州ジョプリン、カンサス州エンポリア、ネブラスカ州オマハまでの周辺地域を巡業していた。
そしてこのバンドは、バンド合戦では常勝で、ヴィンセント・ロペズやローレンス・ウェルクなどの白人バンドすらも含めて、どんな挑戦者との対戦も引き受ける元気のよい、果敢な部隊だったともいう。バンド間の様々な合戦において、ペイジはジェス・ストーンもジョージ・リーも屈服させ、その地域全域から放逐したと伝えられているが、ペイジの最大の野心は最強のモーテンと対決することにあった。モーテンは出来る限り長い期間、対決を回避していたが、とうとう1928年に対決が行われた。そしてその合戦においては、ペイジのブルー・デヴィルズがモーテンのバンドを「粉砕」したという噂があるのである。

写真右は、1928年11月25日カンサス・シティ・パセオ・ホールで行われるジョージ・リーとブルー・デヴィルズの「世紀の合戦」を告知する広告。
時期的にこの事件の後と思われるが、モーテンはジョージ・リーのバンドに在籍していた優秀なテナーサックス奏者で編曲家でもあるバド・ジョンソンの引き抜きに着手する。しかしこれは不成功に終わってしまう。そこでモーテンは、 ブルー・デヴィルズをそのまま買収して引き継ぐことを画策するがそれも失敗すると、今度はペイジのバンドから大掛かりな引き抜きを始めたのである。
まず1929年の初頭にベイシーとダーハムを強奪した。採算の取れない出演契約が続いて、バンドの将来が危うくなった段階で、ラッシングとホット・リップス・ペイジも辞めた。シュラー氏が書いていることから想像するに、ウォルター・ペイジという人は音楽の面はさりながら、バンド経営という面での才覚はあまりなかったように感じられる。
因みにブルー・デヴィルズは、公開のバンド合戦では当時最も評判の高かったトレント楽団とは一度も戦ったことはなかった。それはトレントの楽団は20年代後半と30年代前半ではもっぱら東部にいたからであるという。
ではなぜこのような強奪とまで言われるような引き抜きが可能であったのであろうか?シュラー氏は、モーテンが有利だったのはヴィクターとの録音契約があったからであるであるという。20年代後半モーテンのバンドよりも高く評価されていたトレント楽団でさえ、モーテンの勝ち得た幅広い大衆的名声を享受できなかった。ヴィクターという大手レコード会社と契約を獲得したことがモーテンの自慢の種だった。ピアニストというよりは優秀なビジネスマンだったモーテンは、この要素の利用の仕方をよく心得ていたのである。
トレント楽団、ジョージ・リー、ブルー・デヴィルズもわずかではあるが録音を残している。しかしそれはジャズ専門のようなマイナー・レーベルであり全国区のヴィクターとはわけが違うのであろう。

さて瀬川氏は、「ニュー・モーテン・バンド」は、演奏スタイル上のリズム面でもアンサンブルの面でも大きな変化が見られるというが、いったいどのような変化が見られるであろうか?

<リズム面>

瀬川氏は、リズム的には、26〜29年ころまでは初歩的な2ビートが主であったという。モーテン・バンドの本来のリズムの強調は1拍目と3拍目にあったのだが、26年(29年の誤り)にカウント・ベイシーが参加してから、そのブルー・デヴィルズ・リズムの長所である2拍目と4拍目の強調が加わった。その結果が、30年以降の「ワン・ツー・スリー・フォー」というリズムアクセントとなり、これが後年のベイシー・スタイルの原型になったという。
一方シュラー氏は次のように書く。1929年のレコードでは、バンドはその保守的な姿勢のために動きが窮屈にされていた。明らかにモーテンは、荒々しい、多少旧式なビートでもって、中産階級の広い聴衆に受けようとしていた。3人の大物ソロイスト―エド・ルイス、ハーラン・レオナード、ジャック・ワシントン―の試みですら、このバンドの単調な「ブーン・パ」のリズムに帳消しにされている。これは残念である。なぜならば、特に、ワシントンが、エリントンの若いハリー・カーネィと肩を並べる一流のソロイストへと成長してきたところだったからである、と。つまり1929年ですらそうなのだから、それ以前は当然ということであろう。

アンサンブル面

瀬川氏は、演奏スタイルも総合的に、ブルー・デヴィルズのグループからベイシー、ラッシング、リップス・ペイジ、ウォルター・ペイジ等が次々と参加するにつれて、バンドの感覚が新しく迫力を増していった。その推進力となったのが上記の4人の他に、アレンジャーとして加わったエディ・ダーハムの進歩的なスコアーであったことは特記されなければならない。と書いている。つまりアレンジャー、エディー・ダーハムの存在が大きいというわけだ。
ダーハムは、弟のアレン・ダーハムとローカル・バンドを持っていたが、29年にモーテン楽団に入団し、33年まで在団した。ギターとトロンボーンという2種類の楽器を演奏するとともに、編曲にも秀でていたのである。彼は、アンプリファイド・ギターを初めて使用したギタリストと言われ、ジミー・ランスフォード楽団の初期のレコーディングにそのプレイのいくつかが聴かれる。しかし何といっても彼の功績はモーテン・バンドの演奏スタイルを完全に一変してモダンなバンドに改造してしまった点にあった。
しかし瀬川氏によれば、ダーハムが自分の考えを完全にバンドの演奏の上に具現化することができたのは、1929年の最終レコーディングにおいてであったという。
そして少し先のことになるが、エディ・ベアフィールドと協力してダーハムが書き上げたスコアによる1932年のレコーディングは、ビッグ・バンド・スイングのクラシックスと称されているほどである。ここには時代に先駆したモーテン・スイングを充分に聴き取ることができるという。
一方シュラー氏はアンサンブルについて項を設けては述べていないが、1929年10月の録音全体について述べているので、<コンテンツ>紹介の際に触れて行こう。

<Personnel> … Bennie Moten's Kansas City Orchestra

Band leader & arrangerベニー・モーテンBennie Moten
Trumpetエド・ルイスEd Lewisブッカー・ワシントンBooker Washington
Tromboneサモン・ヘイズThamon Hayes
V-Trombone 、Guitar & Arrangeエディー・ダーハムEddie Durham
Alto Sax & Clarinetハーラン・レナードHarlan Leonard
Clarinet & Tenor Saxウッディー・ウォルダーWoody Walder
Alto Sax & Baritone saxラフォレスト・デントLaForrest Dent
Alto Sax & Baritone saxジャック・ワシントンJack Washington
Accordionバスター・モーテンBuster Moten
Pianoカウント・ベイシーCount Basie
Banjoルロイ・ベリーLeroy Berry
Tubaヴァ―ノン・ペイジVernon Page
Drumsウィリー・マックワシントンWillie McWashington

パーソネルについては、以前取り上げた“Bennie Moten K.C. Orch. 1929-31/Harry Dial quartet 1946”(IAJRC 7)に記載された1929年10月23、24日の録音時のものとWeb版ディスコグラフィー(カウント・ベイシー版)でのものとが一致するので、以上で間違いないと思われる。
逆にこの録音では、従来のモーテン・バンドにベイシー、ダーハムが加わったものということであれば、2人を除いたものが1929年7月の録音メンバーと言えるかもしれない。

<Contents>

 
A面1曲目ルンバ・ニグロRumba negro(Spanish stomp)1929年10月23日シカゴにて録音
A面2曲目ジョーンズ・ロウ・ブルースJones law blues1929年10月23日シカゴにて録音
A面3曲目バンド・ボックス・シャッフルBand box shuffle1929年10月23日シカゴにて録音
A面4曲目スモール・ブラックSmall black1929年10月23日シカゴにて録音
A面5曲目エヴリディ・ブルースEveryday blues1929年10月23日シカゴにて録音
A面6曲目ブート・イットBoot it1929年10月24日シカゴにて録音
A面7曲目マリー・リーMary Lee1929年10月24日シカゴにて録音
A面8曲目リット・ディット・レイRit-dit-ray1929年10月24日シカゴにて録音
A面9曲目ニュー・ヴァイン・ストリート・ブルースNew vine street blues1929年10月24日シカゴにて録音
A面10曲目スイートハート・オブ・イエスタディSweetheart of Yesterday1929年10月24日シカゴにて録音

録音は10月23日と翌24日に行われた。2日に分かれてはいるがほぼ同一セッションと考えてよいだろう。この10月の録音に関してガンサー・シュラー氏は、「前の7月の録音よりは多少改善された様子がうかがえる。ベイシーがピアニストとして参加したが、ベイシーのプレイには、ファッツ・ウォーラーとアール・ハインズの間でどちらとも決めかね、自己のスタイルを模索している演奏を耳にすることができる。彼のここでのソロは、若きベイシーの才能の可能性やスタイルの萌芽を示すものではあるが、とりとめがないか、あるいはピアノの常套句に頼るきらいがある。
新たにブルー・デヴィルズから加わったエディ・ダーハムは、トロンボーンとギターを掛け持ちした。彼のソロもまたいささか不安定ではあるが、後にカンサス・シティ・スタイルと重要な編曲家となる人物の、和声とリズムについての革新的な志向を確かに反映している。しかもそうしたものは、当時のモーテンバンドが設定していた音楽のスタイルの枠組みをはみ出てしまうソロでもあった」と評している。

では曲を聴いていこう。

A-1.ルンバ・ニグロ
カウント・ベイシーが参加した初吹込みであると同時にベイシーの初吹込みである。先ずタイトルが衝撃的だと思う。つまり「ニグロ(Negro)」という語は「くろんぼ野郎」という差別用語だと思うし余り曲のタイトルに使われたのを見たことが無いのだが、誰も何も言わない(と言っても瀬川氏とシュラー氏しか知らないが)ので、当時としては大した問題ではなかったのだろう。
モーテンとベイシーの共作で、「スパニッシュ・ストンプ」のサブ・タイトル通りエキゾチックな曲で、瀬川氏によれば、当時大いに流行ったという。冒頭のルイスのTpソロが輝かしく素晴らしいと思う。
A-2.ジョーンズ・ロウ・ブルース
瀬川氏は、「ベイシーの短いPソロが聴かれるが、彼らしくない古い古いスタイルで、ジェリー・ロール・モートンの演奏に酷似している」とベイシーのPについてだけ述べ、バンド全体については触れていない。一方シュラー氏は「その2週間後に録音された「ブルー・デヴィル・ブルース」(ブルー・デヴィルズの録音 未聴)と酷似しているがゆえに、いささか興味深い。誰が誰に影響を与えたかという点については、憶測するしかない。なぜならばどちらのバンドもこれらの曲を、しばらくの間、彼らの演奏曲目の一つとして取り上げていただろうからである。いずれにしても、これら二つの曲は、モーテンの半の方がいささか長めだとしても、双方とも基本的には同じフォーマット、同じ調整、同じテンポ、Cマイナーの導入部の後にE♭長調のブルース展開という同じ設定を持っている」と述べ、ベイシーのPには触れていない。
僕にはよく分からない解説ばかりだが、この曲はタイトルとは異なり、ブルースではないのではないかと思う。なんとなく西部劇を思わせるような牧歌的な旋律もあるところが面白いと思う。
A-3.バンド・ボックス・シャッフル
瀬川氏は、「新加入のエディー・ダーハムのアレンジメントの威力が発揮された作品で、彼のモダンなリズムへのアプローチがよく出ている。彼自身の優れたGソロと、終わりの部分のセクション合奏の新鮮さが傑出している」と高評価である。
僕は、イントロからして合奏の音節が新鮮だと思う。後半もベル方式の合奏以降は非常に手の込んだアレンジメントが堪能できる。
A-4.スモール・ブラック
この曲をめぐる2人の評は面白い。まずシュラー氏は、「バンドはより革新的なスイング感覚を表現しようとするのだが、その成果はジャズ評論家マーチン・ウィリアムスの適切な言い回しを借りれば、『本物のスイングというよりは元気あふれる感じ』でしかない」と評している。一方瀬川氏も同じマーチン・ウィリアムス氏の評を引用し、「マーチン・ウィリアムス氏は、古い20年代のモーテン・バンドの”Peppy”な演奏スタイルと評しているが、ルイス(Tp)、バスター・モーテン(アコーディオン)、ダーハム(Tb)、ウォルダー(Cl)、レナード(As)等のソロは一流である」としている。”Peppy”という言葉を辞書で調べると「元気いっぱいの」とか「元気あふれる」とあるので、両者及びマーチン・ウィリアムス氏の3人はまず「元気あふれる活気ある演奏」ということは認めている。ただその前後の文章がないので分からないが、ウィリアム氏とシュラー氏は「本物のスイングではない」としているが、瀬川氏はそこには触れず「でもソロはいいよ」としている。
もっと興味深いのは、瀬川氏の次の発言であろう。「ベイシーのピアノ・ソロは米国原盤(LPV-514)編集の際に、2つのテイクのピアノ・ソロを結合したもので、前半は新しいアール・ハインズの影響、後半は従来のファッツ・ウォーラーのスタイルが看取され、ベイシーが見事に両者をブレンドしているところが面白い」と評している。この発言は重要である。確かにそう言われて聴くと2部に分かれたベイシーのピアノ・ソロは不自然である。この演奏はもともとテイクが2つあった。モーテンのディスコグラフィーを見ると確かに2つ載っており、どちらのシリアル・ナンバーも<Victor 23342>である。では、米国原盤(LPV-514)とはなにか?ググってみるとRCAヴィクターから発売されたLPレコード”Count Basie in Kansas City”のレコード・ナンバーである。そしてこのレコードは1965年5月に発売された。要は1965年5月に発売するLPレコード”Count Basie in Kansas City”の原盤作成時に、2つのテイクを編集して一つにした。その際ベイシーのピアノ・ソロはテイク1及びテイク2を繋げたと言っているのである。そして2つのピアノ・ソロのうち最初はアール・ハインズ風、2番目がファッツ・ウォーラー風だとしている。そしてこれはベイシー自身が意図的弾き分けたのか結果的にそうなったのかは記載がなく分からない。その後に瀬川氏が「両者を見事にブレンドしている」という発言はおかしい。ベイシーが2種類のソロを弾いたものを、レコード会社が後で編集しくっ付けたのだから、ブレンドしたのはレコード会社である。
この評はシュラー氏の「ベイシーのプレイには、ファッツ・ウォーラーとアール・ハインズの間でどちらとも決めかね、自己のスタイルを模索している」という発言と呼応しているのだろうか?それはシュラー氏がどの録音を聴いたかによるであろう。氏の『初期のジャズ』は初版が1968年であり、1965年に発売されたLPレコード”Count Basie in Kansas City”を聴いたことも考えられる。しかしモーテンについては1923年からの録音、その他にもブルー・デヴィルズ、ジョージ・リーなどの録音まで聴いて評論を行っている氏のことである。原盤のSP盤を聴いて評論を行っているのであろう。もしかすると2つのテイク双方とも聴いて上記の評論をしたのかもしれない。
ただ、僕が残念なのは、アール・ハインズ風、ファッツ・ウォーラー風の違いがよく分からないことである。僕は冒頭のレナードのAsソロが一番良いと思う。
A-5.エヴリディ・ブルース
瀬川氏は、「この頃から合奏部が多くなり、洗練もされてきたが、もう一歩厚みに欠ける」と書いている。しかし「この頃から」がよく分からない。A1〜5は同日の録音であり、録音順は必ずしも曲の順番とは限らないようだ。では「この頃から」とはいつごろからなのだろうか?もしこの録音が行われた10月23日以来そういう傾向があるというのなら、そう書くべきではないかとおもう。
続いて氏は、「ダーハムのギター・ソロが単調感を救っている感じで、彼の重要度が分かる」と書く。確かにダーハムは初めは単音でソロを取り、続いてコード・プレイでソロを取るが、こういった組み立ては後のウエス・モンゴメリーにまで踏襲される展開の先駆けとも考えられる。
A-6.ブート・イット
瀬川氏は、珍しくアップ・テンポで、合奏もまとまってスッキリとした演奏としている。ウォルダーのClに続き、バスター・モートンのアコーディオンが出てくる。その後Gt、チューバやTp、Tbの短いソロが続く。
A-7.マリー・リー
瀬川氏は、ここでもアコーディオンが出て、合奏に、ソロに活躍しているのが珍しいとするが、それほど前面に出ているわけではない。ここでもBs、Cl、Tb、Ts、Tpとソロイスト総出演の形になっている。
A-8.リット・ディット・レイ
瀬川氏の解説に拠れば、ヴォーカル(スキャット)を取るのはウィリー・マクワシントンで、テーマのTs(「ハイ・ソサイエティ」の旋律が引用されている)、エド・ルイスが吹いているのは珍しくコルネット、ベイシーのPのソロはリズミックな迫力に満ちているという。ベイシーのソロの時はバックが伴奏していないのも珍しいのではないか?
A-9.ニュー・ヴァイン・ストリート・ブルース
瀬川氏は、モーテン・バンドが1924年の初吹込みで演奏した曲の再演。この期の演奏の中では非常にダイナミックで優れている。ソロは、ルイス(Tp・プランジャー・ミュート)、ウォルダー(Cl)、ジャック・ワシントン(Bs)といずれも個性的であるとしている。確かにウォルダーは低音部を強調した演奏で、ジョニー・ドッズのソロを思い起こさせる。
A-10.スイートハート・オブ・イエスタディ
瀬川氏は、Asのリードする甘いサックス合奏が美しいとし、続けてダーハムのGtソロも好ましく、ウォルダー(Cl)、サモン・ヘイズ(Tb)、ルイス(Tp)のソロも聴けると書いている。確かに各人聴き応えのソロを披露してくれている。

日本ジャズ評論界のリジェンド瀬川昌久氏の解説は、ここでも突っ込みどころ満載で、解説を読みながら演奏を楽しむという感じにはならないのが残念である。

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第247回2018年2月4日

20年代ビッグ・バンド入門 その5
ベニー・モーテン 1928・29年

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2月4日 近所の森

寒い日が続いています。先週この辺りでも今年2回目の雪が降りました。2月1日木曜日の昼頃から雨が降り始め、夜になると雪に変わりました。2月2日金曜日の朝、東京では1僂らいの積雪でしたが、僕の住む辺りは5冂積もりました。朝5時過ぎに起きて、雪掻きをどうしようかと思いましたが、まだどんどん降っていることと何となく直ぐ溶けそうな柔らかい雪だったので、雪掻きはせずいつもより45分早く会社に向かいました。通勤に使う電車も遅れておらず、始業時間までに余裕をもって出社することが出来ました。
驚いたのは、雪が降る前日夜、テレビの天気予報を見ていたら、気象予報士の方が「明日の東京は積雪1僂梁臉磴砲覆觚込み」と言ったことです。女性アナウンサーが「1僂蚤臉磴任垢?」と突っ込みを入れていましたが、予報士の方は「雪に慣れていない東京では、1兩僂發譴仟臉磴任后廚噺世辰討い泙靴拭
ところで右は今日(2月4日)の近所の森の写真です。雪はほとんど融けています。

2月1日 皆既月食

先週は、もっと遠い空、宇宙でも大きな話題を呼んだことがありました。「皆既月食」です。1月31日の夜九時半くらいから月が欠け始め、10時くらいにはすっぽりと地球の陰に入ってしまいました。右の写真は僕がいつも使っているデジカメで写した月が欠ける進行中の写真です。手持ちで撮った割にはきれいに撮れました。

2月3日 焼肉 和牛カルビ

手振れ補正機能は付いていますが、手元で1センチずれると、月は大きくブレてしまいます。また月が全て隠れた状態の写真も撮ったのですが、全て陰に入ってしまうと、肉眼では暗く見えるのですが、写真を撮ると赤っぽく見えてしまいます。不思議なものです。

さて、お天気や天候の話題ばかりではなんなので…。右はよく行く焼肉屋さん「味ん味ん(みんみん)」の和牛カルビです。我が家は娘が2人居ます。長女が1月、次女が2月生まれです。2人とも結婚していますが、割と近所に住んでいます。そして孫が1人で1月生まれということで、3家族合同の誕生会を2月3日節分の日に行いました。
会場の焼肉屋さん「味ん味ん(みんみん)」は、西東京、神奈川などに20店舗を展開するチェーン店です。味もおいしく値段も安いので、大人数での食事にはお勧めです。因みに写真は「和牛カルビ」2人前(1人前790円)です。
お肉をドンドン焼いて食べる娘たち家族に対して我々夫婦は食べる量がぐんと落ちました。お肉を一杯食べられなくなってきています。歳を取ったということなのでしょう。

第247回Study in 1920th The Big Band Era
”ベニー・モーテン Bennie Moten’s Kansas City Orchestra”Vol.3

ベニー・モーテン Bennie Moten’s Kansas City Orchestra
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1集」 レコード 7枚目 RA-51

瀬川氏によれば、モーテン楽団は、1926年にRCAヴィクターに移籍し多数のレコーディングを開始した。そして1929年半ばまでが前期のモーテン・バンド、以降1932年の最終セッションまでが後期のニュー・モーテン・バンドと大別することができるとしている。モーテン楽団は後で述べるが、1929年7月と10月にレコーディングを行っている。いわばこの間で変化が起こり、1929年7月までが前期モーテン楽団、1929年10月から1932年までが後期モーテン楽団としている。
では、先ず1928年の録音から聴いていこう。まだまだ前期の演奏ではある。

まずパーソネルについて、再三で申し訳ないが録音データがないので、瀬川氏、シュラーの解説から拾えるものを拾うこととする。バンジョーなども入っていると思うのだが、記載がないので割愛する。

<Personnel>…1928年、1929年7月共通

 
Bandleader & Pianoベニー・モーテンBennie Moten
Trumpetエド・ルイスEd Lewisポール・ウエブスターPaul Webster
Tromboneサモン・ヘイズThamon Hayes
Alto Sax & Clarinetハーラン・レナードHarlan Leonard
Clarinet & Tenor Saxウッディー・ウォルダーWoody Walder
Alto Sax & Baritone saxラフォレスト・デントLaForrest Dent
Alto Sax & Baritone saxジャック・ワシントンJack Washington
Tubaヴァ―ノン・ペイジVernon Page

<1928年Contents>

 
B面1曲目ジャストライトJustrite1928年9月6日ニュー・ジャージー州キャムデンにて録音
B面2曲目スロー・モーションSlow motion1928年9月6日ニュー・ジャージー州キャムデンにて録音
B面3曲目カンサス・シティ・ブレークダウンKansas City breakdown1928年9月7日ニュー・ジャージー州キャムデンにて録音
B面4曲目ホエン・ライフ・シームズ・ソー・ブルーWhen life seems so blue1929年7月18日イリノイ州シカゴにて録音
B面5曲目ゲット・ロウ・ダウン・ブルースGet low-down blues1928年9月7日ニュー・ジャージー州キャムデンにて録音

先ず問題は、B面4曲目「ホエン・ライフ・シームズ・ソー・ブルー」である。瀬川氏は、レコード収録は録音順に並べたと述べている。とすればこの曲の録音は「1928年9月7日キャムデンにて録音」しかありえない。しかしWeb版のディスコグラフィーには、上記記載のように「1929年7月18日シカゴにて録音」とあるのである。もちろん僕には、決め手がない。ので双方記すことにする。

瀬川氏の解説

B-1ジャストライト
氏の解説を紹介する前に、僕はこのヴィクターという会社の編集方針、瀬川氏の解説というものが非常に不思議なのである。まずこの曲の解説を以下そのまま掲載する。
「1928年の吹込みだが、この時期にモーテン・バンドは「サウス(South)」という曲が最大ヒットとなって人気が上昇した」
これが「ジャストライト」という曲の解説である。おかしくないですか?僕はシュラー氏の著作を今回読み返したことで、この年吹き込みの「サウス(South)」がヒットしたことは知っていた。ところがこのヒット曲が「これまで発表されたことのない曲も含めて主なものを網羅した世界初の企画」と自賛するのになぜ代表的なヒット曲を収録しないのだろう?そしてなぜ瀬川氏は解説で、当の「ジャストライト」の演奏に一言も触れないのだろう?訳の分からないことばかりである。
B-2スロー・モーション
全体にセンチメンタルなムードに溢れ、ブラスの合奏にも、まとまりが見える。バンジョーやアルトのブレイクが盛んに挿入される。トランペット・ソロはエド・ルイス。
B-3カンサス・シティ・ブレークダウン
ウォルダーの作品らしく、クラリネット合奏のリフ、クラリネットのソロが聴ける。チューバがバックでコードを刻んでいるのが目立つ。
B-4.ホエン・ライフ・シームズ・ソー・ブルー
作者ヘイズのトロンボーンに始まり、サックス合奏はまだ薄っぺらだ。ルイスのTp、ウォルダーのTs、レナードのAsとソロを取る。
B-5.ゲット・ロウ・ダウン・ブルース
ピアノが弾き始めたのを制してスローなブルースを歌い出すのは、ラフォレスト・デントだろうか。バリトンの低音プレイはモーテン・バンドの多用するところで、奏者はワシントン。

シュラー氏の解説

モーテンのバンドは、まとわりついていたラグタイムの影響をとうとう断ち切った。
「B-5ゲット・ロウ・ダウン・ブルース」はこの転換の兆候を示す作品である。モーテンの冒頭のラグタイム風なピアノは、「冗談音楽の常套句」によって妨害されるわけだが、その常套句で、エド・ルイスは、ベニーに対して「そんなラグタイムはやめましょう。本門のグッとくるやつでやりましょう」といわば忠告しているのだ。そのため過去の楽句は続いて「本物の」ブギウギ・ピアノに乗って歌われるスキャットの歌唱で後続される。
このレコードは、それがなければ出来映えが不揃いで、しかも相互に関連のないソロのつながりを並べただけの凡作である。とは言え、やはりカンサス・シティ生まれの音楽家で、当時17歳になったばかりのジャック・ワシントンの、たいへん革新的(1928年の基準では)で、ビックリするほど音の大きなバリトン・サックスを録音の世界に紹介する役目を果たしている。ここでのソロにおける彼の音色と音量の制御、とりわけ低いd音の扱いは、10年後カウント・ベイシーのサックス・セクションの重鎮となる音楽家の早熟な才能を示している。
エド・ルイスの18番、「ジャストライト」では、その背景で演奏されるサックスのさらに複雑なアンサンブルがこのバンドの揺れ動くビートに新たな流動性をもたらしている。
同時に、モーテンのバンドに一時在籍したTp奏者で、高音域を奏する最初のリードTp奏者の一人でもあったポール・ウエブスターが、アウト・コーラスのアンサンブルに新しい華麗な味を添えた。ヴァ―ノン・ペイジの深くて、大きなチューバ音と合わさって、アンサンブルの音域を広げたからである。
1928年の録音の中には、「B-2スロー・モーション」や「タフ・ブレイクス」(未収録)のように、ティン・パン・アレイやヴォードヴィル劇場と映画館の専属バンドなどに由来する常套句を満載した、いくつかの編曲過剰な曲も含まれる。新しいコミュニケーション・メディアの影響は健全とは限らないことが明白だった(?)。商業的に成功した大半のバンドが用いた公式や技法を頼ろうとする誘惑が常にあったし、そうしたバンドの中には、厳密にいえば、ジャズのグループとは言えないものも多かったからである。
しかしこうした誘惑は別としても、1927年と1928年までには、録音とラジオの普及、それらを通じてのヘンダーソンやエリントンやその他のバンドの影響のために、ビッグ・バンドのスタイルがますます標準化され、いわば国民化され、その過程で地域的特色の消滅を引き起こすこととなった。
モーテンの1928年の録音の中で最良の作品、「B-3カンサス・シティ・ブレークダウン」の華麗で、活気のある集団的アンサンブルを提示できる限り、彼の楽団の未来は、地元で有力な競争相手にまみえたとしても、実質的には危険にさらされることはなかった。

のたり庵の感想

B-1〜B-4までのナンバーについては、評論家の方々が言うようにエド・ルイスを始めとしたソロイスト陣の力量を感じる。B-2がシュラー氏の言うように「ティン・パン・アレイやヴォードヴィル劇場と映画館の専属バンドなどに由来する常套句を満載している」としても今日の耳にはよく分からないというのが正直なところではないだろうか?B-4について先述したように1929年の録音という記載もあるが、シュラー氏は全く触れておらずよく分からない。この並びで不自然な感じがしないので、Web版ディスコグラフィーが誤っているのかもしれない。
B-5について、瀬川氏はピアノを制止して歌い出すのはデントではないかとするが、シュラー氏はエド・ルイスと言い切っている。シュラー氏はかなり踏み込んでいるが、ちょっと大げさな感じもする。解説を読んでいるせいかもしれないが、ワシントンのBsソロは確かに将来性を感じさせる。

さて、このバンドのレコーディング、通常は巡業や地元での演奏活動が忙しかったためか時期を決めて、まとめて録音を行っていたようであるが、1929年の録音は、まず1929年7月16日と翌17日シカゴで行われた。前期モーテン・バンドの最後の録音である。

<1929年Contents>

 
B面6曲目レッツ・ゲット・イットLet’s get it1929年7月16日シカゴにて録音
B面7曲目ライト・タイトRite tite1929年7月17日シカゴにて録音
B面8曲目ザット・サーテン・モーションThat certain motion1929年7月17日シカゴにて録音
瀬川氏の解説

B-6.レッツ・ゲット・イット
これも相変わらず訳の分からない解説なのでそのまま掲載する。
「この1929年7月の吹込みには他に“Terriffic stomp”という傑作があり、ルイスのトランペットと、新加入のバスター・モーテンのアコーディオンのソロが意外にイカしている。」
疑問その1
なぜ傑作という“Terriffic stomp”を収録しないのか?それよりもここに収録した3曲の方が傑作だというならば、別に特別な解説は要らないのではないか?
疑問その2
何故収録していない曲を解説して、収録している曲の解説をしないのか?どうも瀬川氏ご乱心としか思えないのである。
B-7.ライト・タイト
Tpのルイスがシャープな良いソロを聴かせるが、レナードのAs、ヘイズのTb、ワシントンのBsと短いプレイが頻繁で、ややまとまりがない。
B-8.ザット・サーテン・モーション
Tpのリードするテーマに続き、ルイスのTp、ヘイズのTb、モーテンのP、ワシントンのBs、ウォルダーのClと気取らぬ好演奏。

シュラー氏の解説

1929年、モーテンのバンドはシカゴまで録音のために2度旅をして、およそ20面分の録音を行った。それらの出来映えは、エリントンやその他の東部の楽団は言うに及ばず、その他の南西部のバンドでさえ完璧にモーテンを凌駕していたことを明らかにしている。
これらの録音で唯一新しい要素は、些末で、しかも音楽的には退行的なもの、すなわち、セクション層におけるロンバード楽団のサックスの響きの模倣の増大であり、バスター・モーテン(瀬川氏…ベニーの甥、シュラー氏…ベニーの兄弟)のアコーディオン・ソロの追加だった。

シュラー氏は回りくどい表現をするのが常だが、つまりこれらの演奏は当時のビッグ・バンドのレベルで最低クラスのものだといっている。B-7のアコーディオン・ソロについて瀬川氏はイカしてるに対し、シュラー氏は時代に退行と逆の評価を下している。シュラー氏の頭には、この頃の白人ダンス・バンドで使われたアコーディオンを持ち出すなど不届きだという想いがあるのだろう。2018年という耳で聴けばそれほど違和感もなく、目先を変えるという点では効果的だと思う。

いよいよ次回は、ベイシーはじめブルー・デヴィルズの強力メンバーが入ったモーテン・バンドを聴いていくことになろう。

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お寄せいただいたご意見等は本文にて取り上げさせていただくことがあります。予めご了承ください。

第246回2018年1月31日

20年代ビッグ・バンド入門 その4
ベンー・モーテン 〜1927年

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

1月23日 東京・丸の内

前回予想していましたが、ついに先週月曜日関東地方にも雪が降りました。30僂砲睨たない降雪でしたが、北国の方には笑われそうですが、雪に慣れていない首都圏の交通機関は乱れに乱れ、夕方から帰宅するのにかなり苦労された方が続出したようです。僕などは、残り少ない会社員生活で、有給休暇を余らせてもしようがないので、13時30頃にはさっさと半日休暇を申請し、帰宅の途に就きました。前回も書いたように電車が止まって帰れなくなった苦い経験があるからです。早く帰宅したおかげで、電車はかなり遅れましたが、ほとんど混乱にも合わず帰宅することが出来ました。

そしてその後は数十年に一度という強烈が寒波が押し寄せています。
東京都区内でも−4℃を記録したそうですから、僕の住む辺りは、大体都内よりも2〜3℃気温が低いのが普通なので、おそらく−6〜7℃くらいであったろうと思います。
僕の家は、安普請でしかも古いため気密性が低く、さらに日当たりが全くないので毎日寒くて仕方ありません。

ブランフォード・マルサリス「ロイヤル・ガーデン・ブルース」
最近買った当たりレコード

久しぶりにレコードの話題です。最近入手して「当たり!」と思ったレコードをご紹介します。
右上はご存知ブランフォード・マルサリスの「ロイヤル・ガーデン・ブルース」です。何が当たりかというと、オリジナル盤で、傷がなく盤面もきれいでチリ音もありません。いわゆる「ニアミント」盤です。これをなんと100円で入手しました。
そしてその下もご存じウエザー・レポートのセカンド・アルバム「アイ・シング・ザ・ボディ・エレクトリック」です。これもオリジナル盤で傷もなくチリ音もない「ニアミント」。350円でした。
先週大雪騒動が一段落し、でも路面には雪の残るある日、会社の帰りにいつもの「ディスク・ユニオン」に寄りました。その日は、「百円均一セール」が行われており、対象のレコードが段ボールに入れられていました。そういうコーナーにジャズのレコードは殆どないので普段は見ないのですが、ふとパラパラと2、3枚覗いてみると何と上のブランフォードのレコードがあり、「US original」との表記があります。少々驚きました。そして即抱え込みました。ブランフォード・マルサリスは人気がないのでしょうか?それにしても「オリジナル」盤が100円とは……。
ただこのレコードは、以前購入して持っているのです。しかし100円で購入できるなら、持っているリイッシュー盤と聴き比べるのも面白いし、失敗してもまぁ100円だしということで即買いです。

ウエザー・レポート「アイ・シング・ザ・ボディ・エレクトリック」

ブランフォード盤を抱えて他のコーナーに移動します。実はこの前の土曜日にジャズのレコードの放出があったので、残り物に福はないかいな、と思ってやってきたのです。そして新着コーナーで、右下ウエザー・レポートの2枚目”I sing the body electric”オリジナル表記で350円を発見したのです。実はこれも持っています。しかし僕が持っているのは程度が最悪で、これを聴きたいと思っていた時に見つけた盤は傷だらけ、チリ音だらけという劣悪盤です。なので余裕が出来たらまともな盤に買い替えたいなと思っていました。
ところが何と盤はきれいで、ジャケットに傷もなく「US original」という表記のある盤が、「350円」で出ていたのです。僕のボロボロの再発盤よりも安い。一体どういうことだ?と思いながらこれも即買いです。
ウエザー・レポートはデヴュー盤がヒットしたので、期待の2枚目は数多くプレスされ、「オリジナル」盤の希少性が低いことは十分に考えられます。しかしニアミントで350円とは…。
こういう盤を入手した時の楽しみは、保有している再発盤との聴き比べでしょう。ところが整理が全くダメな僕は、保有盤を見つけられないでいます。情けない!ということで聴き比べはまだですが、この2枚を聴いた感想は、最初に書いたようにどちらも先ず傷がなく、チリ音も全くなく素晴らしい音で鳴ってくれました。臨場感が極めて良いです。
やっぱりレコード屋さんには行ってみるもんですねぇ。

第246回Study in 1920th The Big Band Era
”ベニー・モーテン Bennie Moten’s Kansas City Orchestra”

「Bennie Moten K.C. Orch. 1929-31/Harry Dial quartet 1946”」

ベニー・モーテンについては一度取り上げたことがある。その時にはこの「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1週」という組み物を持っていなかった。
その前回というのは2015年7月で、第105回であった。もうかれこれ2年半前のことになる。なぜその時ベニー・モーテンを取り上げたのかというと、カウント・ベイシーとの関連であり、僕が勝手に師と仰いでいる師粟村政昭氏が、その著書『ジャズ・レコード・ブック』において、ベニー・モーテンの項において、次のように書いているからである。

「モーテンはその早すぎる死によって来たるべきスイング全盛時代の脚光を浴びることなく終わったが、モーテン楽団の残した足跡を丹念に辿っていくことは、カンサス・シティ・ジャズの研究者にとって先ず第一になさねばならぬ重要な仕事である。(中略)カウント・ベイシー往時のヒット作を聴いたぐらいでは、モダン・ジャズ最大の温床となったカンサス・シティ・ジャズのルートを探ることなど不可能に近いことをファンは銘記すべきである」と。
さすがに師は厳しい。ベイシーの諸作を聴いたぐらいで、KCジャズが分かったなどとは片腹痛いということであろう。
そして師は、
1.「K.C. Orchestra」(History 9)
2.「カンサス・シティ・ジャズ」(Victor RA-5341)
3.「カンサス・シティのカウント・ベイシー」(Victor VRA-5008)
4.「B.Moten & his Orch. Vol.1」(独RCA LPM-10023)
の4枚を上げている。これで十分ということではないのだろうが、このくらいは聴いておきたいということであろう。
とはいうもののモーテンのレコードというのは、現在では先ずお目にかからないということも前回記述した。やっと1枚見つけて買っていたのが、前回取り上げたハリー・ダイヤルなる人物と片面ずつ分け合った“Bennie Moten K.C. Orch. 1929-31/Harry Dial quartet 1946”IAJRC 7というレコードであった。このレコードはタイトル通り1929〜31年の録音を集めたものだ。
そしてその後に入手したのが、「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1集」で、この組み物は全9枚のレコードの内3枚をベンー・モーテンに充てている。RCAということもあり多分粟村師の上げる4枚の大部分をカヴァーしていると考えてよいだろう。

ベニー・モーテン Bennie Moten’s Kansas City Orchestra
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1集」 レコード 7枚目 RA-51

まず貴重なことは、解説を担当しているのは、チャーリー・ジョンソンと同じ瀬川昌久氏であり、6頁に渡りかなり詳しくモーテンを紹介していることである。瀬川氏の解説ともう一つガンサー・シュラー氏の『初期のジャズ』を水先案内人としてカンサス・シティ・ジャズの草分けベニー・モーテンの音楽を聴いていこう。シュラー氏もモーテンのバンドを中心に置きながら、約50ページに渡ってカンサスやミズーリ、オクラホマ、アーカンサスなどの位置する南西部ジャズにおけるジャズ発展の歴史をつづっているのである。

ガンサー・シュラー氏はまず、20年代のアメリカの地域ごとのジャズ事情というか状況を述べる。そしてカンサスやミズーリ、オクラホマ、アーカンサスなどの位置する南西部のジャズ事情、バンド事情を述べた上で、その特殊性、つまりこの地域ではずっと大衆音楽としてラグタイムが人気を保っていたことを指摘する。つまりジャズの先進地。ニューヨークやシカゴにおいてラグタイムが衰退した後もこの地域では、ラグタイムの伝統が維持されたという。そしてこの伝統は1923年秋に録音を開始したモーテンのバンドの録音でも聴くことができるとする。
一方瀬川氏は次のように述べる。 「ベニー・モーテンといえば、カンサス・シティ・ジャズの代表格の一つとして、カウント・ベイシー・バンドを生む温床となったのであるが、その歴史は極めて長い。
カンサス・シティが、アメリカの有力なジャズ・センターの一つとして、ニュー・オリンズ、シカゴ、ニューヨークとともに多くのジャズメンとグループを生み出したことは、疑う余地がない。ベニー・モーテンの他にも、ジョージ・E・リー、ジェシー・ストーン、ポール・バンクス等のバンドがあげられるし、またのちには、ジェイ・マクシャン、アンディ・カーク等のバンドもここから育ったのである」と。
シュラー氏が地域の特殊性に言及しているのに対し、瀬川氏はこの地域は昔からジャズが盛んで、有力なジャズメンを輩出してきたことを述べている。

<モーテンの経歴>
ベニー・モーテン

さてはまず今回の主人公ベニー・モーテンの経歴について見て行こう。
瀬川氏は、ベニー・モーテンは、1891年11月13日にミズーリ州のカンサス・シティに生まれたと書いている。一方シュラー氏は、モーテンは1894年の生まれとする。『ジャズ人名事典』でも1894年11月13日ミズーリ州カンサス・シティ生まれとなっており、他のいくつかの資料を見ても全て「1894年11月13日生まれ」となっているので、これは瀬川氏の誤りであろう。
モーテンの生まれたカンサス・シティという町は、カンサス州とミズーリ州の境にあって、二つの州に属しているのであるが、カンサスという名にも拘わらず、このミズーリ州にある市の方が歴史的にも栄えていた。
瀬川氏は、「子供のころから少年クラブに入って、始めはバリトンを吹いていたが、母親がピアニストであったので、自然に自分もピアノを習うようになった」と書いているが、シュラー氏はこのモーテンのピアノ教師が重要で、ピアノ教師は2人いたが、2人ともラグタイムの初期の偉人スコット・ジョプリンの弟子だったという。すなわちモーテンはラグタイムのピアニストとしてキャリアをスタートさせたのだという。
さて、モーテンは10代でローカル・バンドのピアニストとなって働き、1918年には、パナマ・クラブでピアノ・トリオ(他の2人は歌手とドラムスだった)を率いて、なかなかの人気を得た。1920年代に入ると、クインテットにまで拡大したが、シュラー氏は、この時期彼らのレパートリーは、ラグタイム、第一次大戦後のティン・パンアレイの甘い通俗歌謡で構成されていたことは明らかであるとする。モーテンがラグタイムを演奏していたことは、1924年の録音「12番街のラグ(Twelfth street rag)」からも明白であるという。
さらにシュラー氏は、このようなことはモーテンに限らず、ジェス・ストーン、ジョージア・リー、偉大なアルフォンス・トレントのような他の音楽たちもラグタイムや「ノヴェルティ」の伝統の下で訓練を受け、客の求めに応じて、「スイート」から「ノヴェルティ」やラグタイムに及ぶあらゆるスタイルの通俗音楽を演奏していたという。
モーテンの最初の録音は、1923年9月に8面分が行われた。(シュラー氏が)それを聴くとリズムが信じられないほど硬直していて、同時期のキング・オリヴァーやO.D.J.B.やルイジアナ・ファイヴなどのグルーヴ感を全く欠いているという。しかも上手なラグタイムともいえず、ほとんど全てがB♭で書かれた編曲(あるいは出来合いの編曲)にいくつかのソロを挿入しただけのものであり、ビートについても、このバンドのビートは常に重く、4ビートを強調したが、当時の多くの2ビートや最良のニューオリンズの楽団の軽快で流麗な4ビートとは対照的であると述べる。
更にシュラー氏は、モーテンのバンドが23年と24年にオーケーに録音したおよそ20面分の録音の半分がブルースであることが重要であるとする。それは、1920年マミー・スミスの「クレイジー・ブルース」でブルース・ブームのきっかけを作ったオーケー社は、1923年ブルース・レコードの参入してきたパラマウントやコロンビアに対抗して、拡大する市場への供給を確保するために、より一層のブルース的素材を探し求めていたという。そしてとくに南西部においてはブルースは最も強力な基盤を持っていた。というのは、初期の最も有名な無学なブルース歌手の中には、テキサス、オクラホマ、アーカンソーで生まれ、育った人たちが多かったからであるとする。1920年代以前、ブルースは、ホテルやダンス・ホールで演奏されるオーケストラの音楽とは別個な、社会的・文化的・音楽手水準において存在していた。しかしながらブルースがいったん都市の中産階級の世界に進出すると、南西部の大きなオーケストラは、この形式を採用し、他のどの地域のバンドよりもこれを首尾一貫して使用するようになった。この地域の聴衆はブルースをたっぷり聞くことに拘っていたのであると述べる。そしてこの音楽の土臭い、深々とした感覚の中からニューオリンズやニューヨークのスタイルに、最終的にはとってかわるジャズ演奏の手法が誕生したのである。

1924年のモーテン楽団の録音では、粗野なブルース演奏においてニューオリンズの純粋なアンサンブルのスタイルと南西部に固有の重たいアクセントのつけられたブルース感覚とを併せ持つ魅力を備えているという。後に単純な機櫚検櫚垢力太漆聞圓亡陲鼎これらのブルース曲の中で、リフがますます頻繁に、巧みに使われるようになっていく。この手法は後期モーテンとベイシーのバンドにおいて、ジャズ・オーケストラの基本技術となる。事実1924年のモーテンの録音の多くは、多少の変奏を伴うリフの展開に過ぎない「ソロ」を前面に押し出していると解説している。
一方瀬川氏は、「モーテンのバンドのレコード歴は1923年まで遡る。そこから1925年までにオーケー・レーベルに計14曲、その他にブルース歌手の伴奏をいくつか吹き込んでいる。この時の演奏はまだビッグ・バンド・ジャズというには程遠いものである。スタイルも多種多様で、ラグタイム風もあれば、キング・オリヴァーのクレオール・ジャズ・バンドに似通ったものもあったという」と述べてるに留まり、どうも23、24年の演奏は聴いていないようだ。

1925年は、歌伴の他は余り録音数は多くはない。そして1926年バンドは、RCAヴィクターに移籍し、多数のレコーディングが行われるようになる。即ちRCAでの録音を集めたこの3枚のアルバムに収録されているのは、この時期からとなる。

ではまず1926年の録音から聴いていこう。

毎回のことで申し訳ないが、例によって録音データの記載がないため、メンバーは解説文中から推測しようと思うのだが、まことに残念なことだが、瀬川氏の表記は大きくブレてよく分からないのである。瀬川氏の文章を以下そのまま記す。

『モーテンは、1923年9月に初吹込みを行った。それは6重奏団によるもので、メンバーは、ラマー・ライト(Tp)、サーモン・ヘイズ(Tb)、ウーディー・ウォルダー(Cl&Ts)、モーテン(P)、サム・バンジョー・ジョー・トール(Bj)、ウィリー・ホール(Dr)の6人であった。
1年後の1924年には、この6人に、ハリー・クーパー(Tp)、ハーラン・レナード(As&Cl)を加えた8重奏団で吹込みを行った。
1925年には、ラフォレスト・デントがトールに代わってバンジョーを引き、ヴァ―ノン・ペイジ(チューバ)がクーパーに代わり、ウィリー・マクワシントンがホールに代わっていた。
26年には、ホールが戻ってバンジョーに復帰し、デントはAsとBsを吹くようになった。』

これは分かりやすそうで分からない。そもそも「サム・バンジョー・ジョー・トール(Bj)」って何だ?本当にこういう名前なのか?他の資料から推測するとバンジョー奏者は「サム・トール(Sam Toll)」である。
次の疑問は「ヴァ―ノン・ペイジ(チューバ)がクーパーに代わり」という文章である。クーパーという名前はここまでTpのハリー・クーパーしか出てこない。ヴァ―ノン・ペイジ(Tu)がTpのハリー・クーパーと交替したとしか読めない。交替してTpを吹いたのだろうか?それともTpが1本減ってチューバが入ったということなのだろうか?その場合「代わる」とは言わないのではないだろうか?
さらなる疑問、「26年には、ホールが戻ってバンジョーに復帰」という文章。ホールとはドラムス担当でマクワシントンに代わった人物のはず。元ドラムス担当が一端辞め、復帰する時はバンジョーで復帰したということになる。ではバンジョー奏者は2人になったのだろうか?これはたぶん「ホール」と「トール」の書き間違いであろう。しかし「トール」が復帰するためには一度辞めなければならないはずでそのことは書いていない。
もう一つ「デントはAsとBsを吹くようになった」で、このまま意味するところは、「デントはバンジョー奏者として入団したが、辞めたはずのバンジョー奏者が戻ったのでアルト・サックスとバリトン・サックスを吹くようになった」ということである。本当だろうか?まぁこれはあるかもしれない、後に出てくるエディ・ダーハムはギターを弾き、トロンボーンを吹いたというのだから…。しかし瀬川氏はダーハムのことは詳しく述べているのに、デントについては全く触れていない。どうも間違いではないかという気が強くするのである。

<Personnel>…瀬川氏とシュラーの記述を元に作ってみた。

 
Bandleader & Pianoベニー・モーテンBennie Moten
Trumpetラマー・ライトLammar Wrightエド・ルイスEd Lewisorハリー・クーパーHarry Cooper
Tromboneサモン・ヘイズThamon Hayes
Alto Sax & Clarinetハーラン・レナードHarlan Leonard
Clarinet & Tenor Saxウッディー・ウォルダーWoody Walder
Alto Sax & Baritone saxラフォレスト・デントLaForrest Dent/td>
Banjoサム・トールSam Toll
Tubaヴァ―ノン・ペイジVernon Page
Drumsウィリー・マクワシントンWillie McWashington

シュラー氏は総勢10名だったとするが、一部を除いてメンバーを記載していない。瀬川氏は混乱の中でトータルの人数を記載していない。
ところで右は1926〜27年にかけてのベニー・モーテン楽団の写真という。左から右に、サモン・ヘイズ(Tb)、ラマー・ライト(Tp)、ウィリー・マクワシントン(Dr)、ルロイ・ベリー(Bj)、ベニー・モーテン、ハーラン・レナード(S)、ヴァ―ノン・ペイジ(Tu)、ウッディー・ウォルダー(S)、ラフォレスト・デント(S)であるという。これによればTpは一人しかいない。しかし撮影時にたまたまいなかっただけかもしれない。まぁ、これ以上僕には追及のしようがないので、何か決定的なことが分かるまでは、1926年の録音時は上記のメンバーであるとしよう。ともかく1926年

<1926年Contents>

 
A面1曲目シック・リップ・ストンプThick lip stomp1926年12月13日
A面2曲目ハーモニー・ブルースHarmony blues1926年12月13日
A面3曲目カンサス・シティ・シャッフルKansas City shuffle1926年12月13日
A面4曲目ミズーリ・ウォブルMissouri wobble1926年12月14日

モーテン・バンドの1926年の録音は他にもあるようだが、この4曲が収録されている。録音場所については、Web版ディスコグラフィーではシカゴとしているのに対してシュラー氏はニュージャージー州のキャムデンとしている。これも僕には決め手がないので、こういう2つの説があることを紹介しておくだけとする。

瀬川氏の解説

A-1シック・リップ・ストンプ
いかにも1926年らしいダンサブルで甘美な演奏とし、レナード、ヘイズ、のソロのバックで、リズムが休止するのもこの時代らしいと解説している。
僕は、レナードのソロがこの時代にしてはちょっと傑出しているのではないかと思う。
A-2ハーモニー・ブルース
初めのサックス・アンサンブルがちょっと奇異な感じを与えるが、全体のアンサンブルとソロのバランスも良く美しい演奏。ラマー・ライトのコルネット・ソロが秀でている。
A-3カンサス・シティ・シャッフル
バンジョー・ソロはサム・トール。クラリネット合奏のパッセージが入る、ラストのディキシー風の絡み合いは、モーテン・バンドの特色だった。
A-4ミズーリ・ウォブル
主旋律をラマーのコルネットがリードし、他のホーンが絡む。ヴァ―ノンのチューバ・ソロも珍しい。

ガンサー・シュラー氏の解説

この1926年の録音についてシュラー氏はまとめて以下のように述べる。
この録音は、ヴィクター(という大手)に移ってニュージャージー州キャムデンで行われたのだがこのこと自体がすでに、南西部のバンドの偉大な勝利を物語る。
バンドの演奏は、この頃にはアンサンブルの点でよりまとまりだし、ソロがあるい程度様式的な統一性を持ち始めた。メンバーに関して最も重要な追加はトランペット奏者のエド・ルイスで、後にベイシー楽団の不動のメンバーとなった人物であった。当時はまだ10代後半のルイスが、ヘンダーソン楽団のスター・トランペットを務めたジョー・スミスを聴き込んでいたことは明らかである。彼は、ルイ・アームストロングも聴いていて、モーテンの楽団では、新しい世代、少なくともより新しい音楽指向を代表していた。
ルイスの影響、とりわけトロンボーンのサモン・ヘイズへの影響はA-3「カンサス・シティ・シャッフル」などの1926年の録音を通じて感じ取ることができる。ヘイズの演奏はそれまでは常に喜劇的なまでに素朴な側面を強調していたが、1926年では、彼のソロの中に新しいドライヴ感と「ホットな」精神がこもっていた。アルトとバリトン・サックスを演奏するラ・フィレスト・デントが加わって、リード・セクションは3人にまで膨れ上がり、ウッディ・ウォルダーの依然としてノヴェルティ効果やワウワウ音に拘ったクラリネットのソロを中和するような、もう一つのソロの声部を提示することになった。
こうしたメンバーの変化や南西部でのこのバンドの地位向上の結果として、演奏が次第により洗練されたものとなった。ヘンダーソンやその他の東部のバンドの録音や放送に影響されて、モーテンは、より興味深い音楽形式を探求し、より洗練された水準のアンサンブルとソロの演奏を創造することによって、彼の地元やその外部において増加してきた競争相手に対抗した。しかしそれでも、このバンドの演奏は、ジェリー・ロール・モートンのこの時期の録音あるいはまたヘンダーソンの最良の録音の典雅さと構造的なまとまりを持っていなかった。しかしながら、どの曲も彼らの初期のレコードの、形式が単調で、反復の多いアンサンブルやソロと比べれば、少なくともわずかながらの成長と発展を披露している。
過去の痕跡が残るのは避けられないことであった。「カンサス・シティ・シャッフル」の最後のアンサンブルのコーラスは冒頭のコーラスのほとんどそのままの再現であり、ニューオリンズの発想がこれらのアンサンブルにまだまとわりついている。「Midnight Mama」(未収録)のクラリネットとテナー・サックスの二重奏や「ミズーリ・ウォブル」のサックスによる三重奏などにうかがえるように、より変化にとんだ楽器奏法の模索もちらちら登場する。音楽的内容の観点から見れば、それらの試みはごく平凡であるのだが、多彩なフォーマットと表現に対する殆ど子供のような探求心を物語るものである。
「Yazoo blues」(未収録)では、いくつかの新しい影響も姿を現している。例えばモーテンが、モートンかヘンダーソンのレコード(例えばヘンダーソンの「シュガー・フット・ストンプ」)で聴いたかもしれない、讃美歌のような末尾のコーラスとか、12小節の構造を4小節のストップ・タイムめいたソロとそれに後続する8小節のアンサンブルへと分解する手法である。
シュラー氏は次のようにまとめる。「この時期の録音が優れたダンス音楽であることは明らかであって、激しく揺れるビートを備えたモーテンのバンドが地元で最も人気を得た理由はすぐさま理解できる」と。僕などはそれほどダンサブルとは思わないのだが、例えば「A-2ハーモニー・ブルース」等でも踊れたのだろうか?ただ黒人のリズム感はものすごいものがあり、どんなものでも踊ってしまうところがある。もしかすると十分にダンサブルなのかもしれない。ただ1926年録音全体として、雰囲気は明るいのである。

こうしてモーテンのグループは、カンサス・シティの代表的な存在となり、1927年ごろには、伝統的な楽器編成のビッグ・バンドにまで拡大した。そして次回の録音は、1927年6月に行われる。ガンサー・シュラー氏は、これらの録音を聴くと、国中のジャズ・バンドの影響からの影響やそれらのバンドの洗練の高まりが、モーテンのバンドにも投影されて、モーテンのバンドがヘンダーソンのバンドのような東部の楽団に懸命に追いつこうとしていた様子が分かるという。他方彼らの地元周辺では、アルフォンス・トレントの注目すべき楽団やサンアントニオのトロイ・フロイド、ダラスのテレンス・ホルダー、南西部のジェス・ストーンやドン・レッドマンの楽団などとの競争も生じていた。彼らはカンサス・シティそのものは避けながらも、ミズーリやカンサス州を巡演していたのである。

さて、A面残り6曲、1927年の録音を聴いていこう。まずパーソネルであるが、例によって録音データがないので、瀬川氏の解説から拾うこととする。文中には、「1927年頃パーソネル」として記載があるが、これがそのままレコーディング・パーソネルかどうかは記載がない。

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<Personnel>…1927年 瀬川氏による

 
Bandleader & Pianoベニー・モーテンBennie Moten
Trumpetエド・ルイスEd Lewisポール・ウエブスターPaul Webster
Trombone & Vocalトーマス・ヘイズ(?)Thomas Hayes
Alto Sax & Clarinetハーラン・レナードHarlan Leonard
Clarinet & Tenor Saxウッディー・ウォルダーWoody Walder
Alto Sax & Baritone saxラフォレスト・デントLaForrest Dent/td>
Banjoルロイ・ベリーLeroy Berry
Tubaヴァ―ノン・ペイジVernon Page
Drumsウィリー・マクワシントンWillie McWashington

瀬川氏は、バンドのメンバーを上記としたうえで、これは、3ブラス、3リーズ、4リズムというビッグ・バンドの初期の標準編成であったとする。疑問なのは、「Tbのトーマス・ヘイズ」でWeb版にはこの名前は出てこない。もしかするとThamon Hayesの誤りの可能性もある。
そして前後の関係が分からないが、間もなく(何の後の間もなく?)モーテンは、このバンドを率いて初の東部楽旅に出発し、バッファローのボールルームに相当期間滞在したのである。この頃Tpのウェブスターが辞めて、ブッカー・ワシントンが入った。
東部旅行から再びカンサス・シティに戻ったモーテン・バンドに彼の甥であるアイラ・バスター・モーテンが歌手兼アコーディオン奏者として入り、またモーテンに代わって指揮棒を振る役を務めた。瀬川氏は、日本人固有(?)の曖昧さで上記のように記載している。
さてシュラー氏は、1926年12月の録音の次は1927年6月に行われたとしている。はっきりした日付を記載しているのは、Web版だけなので一応それを採用しておく。

<1927年Contents>

 
A面5曲目シュガーSugar1927年6月11日
A面6曲目ザ・ニュー・タルサ・ブルースThe new Tulsa blues1927年6月11日
A面7曲目12番街のラグTwelfth street rag1927年6月11日
A面8曲目パス・アウト・ライトリーPass out lightly1927年6月12日
A面9曲目ディン・ドン・ブルースDing dong blues1927年6月12日
A面10曲目モーテン・ストンプMoten stomp1927年6月12日
瀬川氏の解説

A-5シュガー
この1927年の録音からセクションごとに編曲上の進歩が見られる。リズムはバンジョーとチューバがよく効いている。ミュートTpソロはエド・ルイス、Tsソロはウォルダー、ジャック・ワシントンのBsソロが聴けると書くが、これでまたよく分からなくなる。自分で書いたメンバー表に「Bsジャック・ワシントン」の名前はない。メンバー移動についても書いているが、そこにもない。一体どうなっているの?編曲では、チューバの吹奏ラインがかなり複雑化している。
A-6ザ・ニュー・タルサ・ブルース
この頃の演奏としては、リズム的によりスムースに進歩した跡がうかがえる。
これは、シュラー氏の言うように(後述)、ブギ・ウギのリズムの導入に注目すべきではないかと思う。それと後半部にはリフの萌芽のようなフレーズが聴かれる。
A-712番街のラグ
イントロが変わっており、ヘッド・アレンジ的なテーマ合奏は、ディキシーとも異なるにぎやかなもの。Asソロ(ワシントン)、Tb(ヘイズ)に続くPソロは、多分にラグタイム調。全体にノヴェルティな演奏。僕は、ディキシーの楽曲を新しいアレンジで聴かせる意欲作だと思う。
A-8パス・アウト・ライトリー
2本のCorと2本のサックスのかけ合いが見事な迫力を聴かせる。詳細はシュラ ー氏の解説を参照。
A-9ディング・ドング・ブルース
ショウ・バンド的な面白さがあり、ハミングのデュエットと、そのバックにカズーのような効果を出しているのは、Corのラマー・ライトである(?)。瀬川氏自身のパーソネルでは、ラマー・ライトは抜けたことになっている。
A-10モーテン・ストンプ
ウォルダーのTsとルイスのミュートTpの迫力ある鋭いソロ。長いバンジョー・ソロ、ラストのディキシー的絡み合いの高音Tpはウエブスターであろう。

ガンサー・シュラー氏の解説

モーテンの録音には、新しい要素が続々と登場してくる。1927年の録音のアンサンブルは、ニューオリンズの集団的アンサンブルの揺れるビートを強化したリズム基盤を備えている。「モーテン・ストンプ」の最後のアンサンブルのコーラスでは、独特な凝集度を持つニューオリンズのアンサンブルのポリフォニーが、アームストロング的な、個人主義の濃度の高いものへと置き換えられた。奇妙なことに、このバンドは、その頃にはブルース的素材の演奏を減らしており、明らかにより広い聴衆(より多い白人)の受けを狙っていた。その結果初期のブルースの録音に登場するリフの技法の展開もまた中断されている。楽器法の面では新たな展開が見られる。「ディア・ハート」(未収録)では、ピアノと2本のミュート・トランペットによる和声的に「高度な」間奏がクラリネット・トリオ―レッドマンの手法がとうとう南西部のバンドまで浸透した―へと受け継がれ、これがまた全音階のコードを用いたバンジョーのブレイクで中断される。「12番街のラグ」では、二つの手の込んだコード、ドラムのブレイク、ユニゾンでのサックスのメロディ・ライン、高度な転調(初期の録音における単一の調性への頑ななこだわりと対照的である)などが披露される。

「ザ・ニュー・タルサ・ブルース」は、南西部一体に山火事のごとく広まっていったブギ・ウギ・ピアノの土臭く揺れるビートのせいで、重く進行する。
活発な「パス・アウト・ライトリー」では、短調の「ジャングル・ムード」的な音の連鎖(レコードとして発売されたばかりのエリントンの”Black and Tan fantasy”から示唆されたものかもしれない)が、二つのチェイスのコーラス、すなわち一方は2本のTp、他方はテナーとバリトンのサックスによるコーラスと、交互に登場する。Tpのコーラスでは、エド・ルイスとポール・ウエブスターが8小節の楽句構造を(譜例14)に見られるような、興味深い重複する方に分割していることが分かる。
モーテンが彼のスタイルを少しずつまとめつつあることは明らかである。その過程で、古いものと新しいものとが融合しないことがしばしばあった。「ディン・ドン・ブルース」では、例えばヴォードヴィルの劇場バンドの出来合いの編曲から直輸入された二つの古めかしい感想が、新スタイルのヴォーカル・トリオ(黒人バンドとしては最初の録音のひとつ)やエド・ルイスのモダンなソロやマクワシントンのヒップなチャールストン風のシンバルと張り合う個所に現れてくるように、それらが相互にぎこちなくぶつかり合ってしまう。
このグループの1927年の録音としては最強力な「モーテン・ストンプ」の場合ですら、場違いなバンジョーのソロに過去の影響がいまだに露呈されてしまう。とは言えこの演奏は聴き応えがあると僕は思う。

今回は久しぶりに週1回のアップという自ら決めたルールを外してしまった。残念!
僕はこれまでジャズのレコードは単体のものが望ましいと思ってきた。正直こういう組み物は好きではないのである。しかし今の世の中こういった組み物を利用しないと聴くことのできない音源がたくさんある。今回のベニー・モーテン、前回までのミズーリアンズ、チャーリー・ジョンソン、マッキニーズ・コットン・ピッカーズなどである。そして組み物の良いところは、日本の碩学の評論家の方々の懇切な解説文が付いていることだと思っている。
しかしこの「ベニー・モーテン」に関する解説にはがっかりした。書いてあることがメチャクチャである。それも遅れた原因の一つになっている。僕はどこかで、評論家の批評というのも絶対に必要だと思っている。

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第245回2018年1月21日

20年代ビッグ・バンド入門 その23
ザ・ミズーリアンズ 〜1929年

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先週日曜日 どんと焼き

先週の日曜日は近所の「御嶽神社」では、「どんと焼き」が行われました。お正月に飾った注連縄や松飾りなどを集めて燃やす行事です。僕は近所にいながらこの地のどんと焼きに行くのは初めて、だるまを燃やすのも初めて見ました。一体どんないわれがあるのでしょうか?この日に当たりこの日で焼いた団子を食べれば、1年間無病息災でいられるという民間伝承があるようですが、ここで焼かれたのは「お餅」でした。
因みに僕は森の都仙台市の出身ですが、仙台では「どんと祭」といってそれはそれは大きなお祭りです。今頃になってググってみると、「どんと焼き」を「どんと祭」と呼び、注連縄や松飾りを焼くだけではなく、裸参りなども行い一大イヴェントにし、「どんと祭」と呼んでいるのはどうも宮城県地方特有のものらしいことが分かりました。

1月18日 紅梅

特に家が大崎八幡宮に近かったせいもあり、子供のころ何度か見に連れて行ってもらいました。それで「どんと祭」というのはああいうものと思い込んでいたのですが、日本一「どんと焼き」⇒「どんと祭」が盛んな宮城県でも最も大きいお祭りなのが、大崎八幡宮のものだとあり「やはりそうか!」という思いです。というのは他の地域で「どんと焼き」に因んであんなお祭りをするのを見たことが無いからです。一年で最も寒い時期、小雪の降る中白鉢巻きに白の褌、白足袋をはいただけの男たちが何人かで組になり、街を歩き境内に至る階段を駆け上がったような記憶があります。子供ながらに寒いだろうなぁ、大人になったらあんなことをしないといけないのかなぁと思った記憶があります。んー子供のころから情けない男だったんだなぁ〜。
でも「どんと祭」って前向きな名称ですね。何故って、「どんとさい(”Don't sigh”(ため息をつくな)」ですから。 おあとがよろしいようで。

1月18日 紅梅

さて、今日僕の住む関東地区は、朝から快晴でした。ただ気温は低く、朝の冷え込みは厳しいものがありました。季節は大寒で一年で最も寒い時期なので、当然とも言えます。それでも久しぶりに朝散歩をしていた時、道端にうっすらと良い香りが漂っています。紅梅です。この寒さの中でも咲き始めたのですねぇ。
と言っても安心はできません。明日22日月曜日は、昼過ぎから雪になるかもしれないという予報が出ています。心配です。
僕は15年ほど前、夕方から強く降り出した雪のため通勤に使う電車が、帰宅途中に止まってしまったことがあります。電車は、家の最寄り駅まで行かず戻る電車も止まり、二進も三進もいかなくなりました。たまたま会社の先輩が一緒で、その方の最寄り駅までは電車が行くとのことだったので、そこで一緒に降りて一晩泊めてもらいました。
その先輩宅は駅から少し遠いのですがバスが止まってしまい、住宅街と言え急な上り坂や下り坂もある道を雪を掻きながら歩かざるを得ませんでした。何とかたどり着くと先輩のご長女が明日受験とのことで、最後の追い込みのお勉強の最中です。完全に邪魔者状態です。心の底から恐縮しましたが、交通機関がすべてストップして帰るに帰れず、お世話になりました。もしあの時先輩が一緒でなかったら、いったいどうしたんだろうと思うととても怖い感じがします。雪に慣れていない地域に大雪が降ると、本当に大変です。因みにご長女の受験結果は怖くて聞けませんでした。


第245回Study in 1920th The Big Band Era
”The Missourians”

ミズーリアンズの解説は、池上悌三氏でまず冒頭「ザ・ミズーリアンズという名前はあまり知られていない。僅かにキャブ・キャロウェイ楽団と関係して言及されるくらいであろう」と述べているが、まず「あまり知られていない」どころか「ほとんど知られていない」。引き合いに出された「キャブ・キャロウェイ」も、そもそも現代においては映画「ブルース・ブラザース」第1作に出ていたオッサン以上の知名度があるとは思えない。しかしこのバンドは、キャブの前身というだけではなく、「ザ・ミズーリアンズ」として十分存在意義のあるバンドであったという。
このバンドはその名の通りミズーリ州に生まれた。ミズーリ州はアメリカの中央、ミシシッピ川を遡ってセントルイスに達し、支流のミズーリ川を登ると西の州境にカンサス・シティ・ミズーリがある。この地方はニューオリンズ、シカゴ、ニューヨークというジャズの歴史の本流からは外れているが、その発展の中では無視できない重要な一つの拠点であった。ニューオリンズからのバンドもその行先が先ずシカゴ止まりであったころ、地方からニューヨークに出てきたバンドの先駆者として、そして他とは違った新しいスタイルで「スイング」の形成に刺激を与えたバンドとして「ザ・ミズーリアンズ」の名を忘れることは出来ない。池上氏は、このバンドが、この時期にレコードを残したことはテリトリー・バンドの一面を知る上でも重要なことである、という。

ジャズがニューオリンズを離れて広がると、大都会のシカゴ、ニューヨークがその中心となる。仕事も、収入も、そしてレコード等音楽関係の仕事も大都会に集中し、そこで成功しなければ全国的に知られるようにはならなかった。しかし一方広いアメリカでは、いろいろな地方でそれぞれのジャズが成長していた。テリトリー・バンドともいわれるこれらのバンドは地方の都市にそれぞれ縄張りを持って活躍していた。知られなかったのはチャンスが無かったのか、それよりも故郷を離れられず井の中の蛙のように自分の地方に安住していたからかもしれない。レコード会社の出張録音もブルースが主でビッグ・バンドまでは手が回らず、地方の子会社にわずかのレコードを残したバンドもあったが、レコードもなく全く知られないで消えて行ったバンドもたくさんあった。有名バンドのプレイヤーで地方バンドの出身者は意外と多い。野球のビッグ・リーグのファームのような状態だった。だがバンド全体で大都会に出て成功した例は少ない。その中でミズーリアンズは比較的早く都会に出、そしてついに有名バンドに成長したという珍しい例であるという。
もともとこのバンドの前身は、1923年セントルイスで結成されたウィルソン・ロビンソンのボストニアンズという名前の共同組織のバンドで、トランペットのR.Q.ディッカーソンとクラリネットのウィリアム・ソーントン・ブルーはセントルイス育ちだが、他はカンサス・シティ出身者が多く、トロンボーンのデ・プリースト・ホイラー、ベースのジミー・スミス、ドラムのルロイ・マキシー、それに一時期在団したサックスのイライ・ローガン、トランペットのハリー・クーパー等はみなリンカーン高校の音楽部でメージャー・N・クラーク・スミス、に教育された仲間だった。なお、ウォルター・ペイジも同じ仲間だし、時代は少し下るがチャーリー・パーカーも同校出身である。

セントルイスを出た巡業の後、1924年ニューヨークに出、翌年ハーレムのコットン・クラブに出演した時はヴァイオリニストのアンドリュー・ブリアを指揮者にしてコットン・クラブ楽団と名乗った。ルイ・メトカーフ、シドニー・ド・パリスも一時期在団したことがある。ローガンが辞めてブルーが戻り、バンジョーはチャールス・スタンプの死でセントルイスのモーリス・ホワイトが入った。
27年ブリアが死亡し、コットン・クラブにはデューク・エリントンが入ってきて、バンドはザ・ミズーリアンズと名前を変えて巡業に出た。トランペットにはベニー・モーテン楽団からリンカーン高校でのラマ―・ライトが加わり、指揮者にはフェス・ウィリアムス楽団のサックス奏者兼歌手のロックウッド・ルイスを頼んで、サヴォイ・ボールルーム等ニューヨークの一流のクラブで活躍をつづけ、そして1929年レコード吹込みとなった。
池上氏によれば、ミズーリアンズの真価はその演奏内容にある。ソロは当時の有名バンドの一流プレイヤーには及ばないものの立派なものだし、リズムもまだバンジョー、チューバだがマキシーのリードする強烈な4ビートでよくスイングする。そしてブラス、サックスのまとまりの良いセクション・プレイを身に付け、ブルースやリフも取り入れた新しいアレンジを巧みにこなしてホットなプレイを聞かせた。
サヴォイの呼び物だったバンド合戦の常連で、南北対抗では、北のデューク・エリントンを容易に打ち負かした。左右に分かれたサックスとブラスが交互に立ち上がって速いパッセージを熱狂的に応答する“タイガー・ラグ”は他のバンドの脅威だった。ミズーリアンズはホット・ジャズの新しいスタイルの先駆だったのである。
間もなく大恐慌、そして不景気の時代に入ると、バンドの生存競争は激しくなった。宣伝とニュー・スタイルの時代となり、リーダー、歌手、エンターティナーが必要となってきた。強力なパーソナリティを持たないミズーリアンズは、サヴォイの常勝者、ミュージシャンのバンドであったが、大衆的な人気はまだ得られなかった。この頃アラバミアンズというバンドがサヴォイに出た時、シカゴの出身の新進歌手キャブ・キャロウェイを指揮者兼歌手として使った結果、キャブの歌が注目された。アラバミアンズがサヴォイを辞める時、ミズーリアンズは前にも使ったことのあるキャブを引き抜いてリーダーとしたが、これがうまく当たってバンドの名前もキャブ・キャロウェイ楽団と改めたのである。
1931年にエリントン楽団が5年に渡るハウス・バンド連続出演をしていたコットン・クラブから巡業に出ると、キャブ・キャロウェイ楽団が変わってハウス・バンドとして入り、その後3年のレギュラー出演することになる。その間にバンドは大衆の人気者となった。レコードも出て全国的に有名となり、一流プレイヤーをどんどん補強したが、その優れた音楽はキャブの歌に占領されることが多くなってしまった。
右上の写真は1930年に取られたもの。その下は同じ写真を使った1931年1月29日にミズーリアンズが「ニュー・アルバート・オーデトリーム」に出演する告知である。この時には「キャブ・キャロウェイと彼のミズーリアンズ」という名称になっている。

一方、ガンサー・シュラー氏のミズーリアンズに対する分析はどのようなものであろうか?曰く、
「ザ・ミズーリアンズは20年代中頃ニューヨークを熱狂させたもう一つのバンドだった(他のバンドとはフレッチャー・ヘンダーソン、デューク・エリントン、M.K.C.P.そしてチャーリー・ジョンソンなどである。)元来、セントルイス出身のこのバンドは、エリントンが1927年の後半にその座を奪うまでは、ハーレムのコットン・クラブの専属バンドだった。
後に(1931年)、ザ・ミズーリアンズの面々はキャブ・キャロウェイの楽団の中核となって、再びコットン・クラブに身を落ち着けた。彼らは、1929年と1930年前半に12面分の録音を行ったが、これらの録音は、この楽団がモーテンの20年代半ばのバンドと同様に洗練されていないアンサンブルであることを明らかにしている。ザ・ミズーリアンズは、中部や南西部の大半のバンドと同じように、ニューヨークに4年に渡る演奏歴でもたわむことのなかった、荒々しくて、乱暴なスタイルを持っていた。このバンドのスタイルは、依然としてラグタイムに近いもので、疲れを知らない、力強いツゥー・ビートのリズムを備えていたが、これには少なくとも踊りやすいという長所があった。
このバンドの限界の一端は、「オザーク・マウンティン・ブルース」、「マーケット・ストリート・ストンプ、「ストッピング・ザ・トラフィック」のように題名は奇抜でありながらも、録音された12曲中の5曲が全て「タイガー・ラグ」だったという事実からも察知できる。
これらの曲では、バンドは絶好調であって、ニューヨークの他のどのバンドもおそらく対抗できない―あるいは対抗することを望まない―単純で元気溢れるドライヴ感を披露した。ザ・ミズーリアンズは基本的には常套句に基づいて演奏するバンドだった。とは言え、ルロイ・マキシーのドラムに駆り立てられた、ラマー・ライトの妖しい姦(かしま)しいトランペットのソロやジョージ・スコットの無鉄砲なクラリネットの装飾的旋律やバンド全体の徹頭徹尾喧しい響きを耳にすれば、ヘンダーソンやエリントンと言えども、幾多の不安な夜を過ごしたに違いない。」

「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1集」日本盤レコード(RCA RA-497)

<Personnel>…例によって録音データの記載がないため詳細は不明だが、文中に記載のあるものを記す。

 
TrumpetR.Q.ディッカーソンR.Q. Dickerson
Trumpetラマー・ライトLammar Wright
Saxデ・プリースト・ホィーラーDe Priest Wheeler
Saxウィリアム・ブルーWilliam Blue
Saxアンドリュー・ブラウンAndrew Brown
Saxウォルター・トーマスWalter “Fut” Thomas
Pianoアーレス・プリンスEarres Prince
Tubaジミー・スミスJimmy Smith
Drumsルロイ・マキシーLeroy Maxey

さて、曲を聴いていこう。瀬上氏によると、全曲メンバーのオリジナルということになっているが、よそから持ってきたものもあるようだと穏便に書いているが、前述のようにガンサー・シュラー氏は「タイトルは異なるが、録音された12曲中の5曲が全て『タイガー・ラグ』だった」と述べている。実際はどうであろう。

<A面Contents>

 
1.マーケット・ストリート・ストンプMarket street stomp1929年6月3日
2.オザーク・マウンティン・ブルースOzark mountain blues1929年6月3日
3.オザーク・マウンティン・ブルースOzark mountain blues1929年6月3日
4.ユール・クライ・フォー・ミーYou’ll cry for me , but I’ll be gone1929年6月3日
5.ユール・クライ・フォー・ミーYou’ll cry for me , but I’ll be gone1929年6月3日
6.ミズーリ・モーンMissouri moan1929年6月3日
7.アイヴ・ガット・サムワンI’ve got someone1929年8月1日

1〜6の1929年6月3日の録音は、デキシーランド的な演奏に終始している。これまで聴いたM.K.C.P.、チャーリー・ジョンソンに比べると演奏自体コーニィで古臭い感じがするが、最も元気がよい感じがする。こういう演奏が好きな人物も当時は多くいたのかもしれない。

1.マーケット・ストリート・ストンプ

ディッカーソンの曲。面白いクラリネットの合奏の後、ホィーラーのソロがあり、ピアノの後ウィリアム・ブルー(Cl)、ブラウンのTs、ディッカーソンのホットなソロ、そしてClのリードするエンディングに向かう。

2〜3.オザーク・マウンティン・ブルース

瀬上氏は、ディッカーソンの作ということになっているが、テリトリー・バンドの希少な一角ジェシ・ストーンの「ブーツ・トゥ・ブーツ」が原曲らしいと書く。そう書きながら、{タイガー・ラグ」を思わせると素直に書いてもいる。シュラー氏は端的に「タイガー・ラグ」のパクリとする。
さらに池上氏は、素晴らしい演奏で、当時のホット・ジャズの代表作の一つと書く。静かなイントロから一転してホットな演奏となり、ディッカーソンのTp、ブルーのAs、Tb、ライトのTp、ブラウンのTsが熱演、リフをバックにディッカーソンのホットなソロで締めくくる。

4〜5.ユール・クライ・フォー・ミー

ライトの曲とはなっているが、古巣モーテン楽団のヒット曲「サウス」から取ったらしい。ゆったりしたテンポでサックスの合奏、そしてディッカーソンをバックに、ロックウッドの・ルイスの話しかけるようなヴォーカルとなり、Tbが古いスタイルのプレイを聴かせる。
A-3でメロディが「サウス」からということがはっきりするという。

6.ミズーリ・モーン

池上氏は、ジミー・スミスの曲ということになっているがエリントンの「ドゥーイン・ザ・ヴーム・ヴーム」に似ているという。サックスのリフをバックにラマーのTpソロがあり、サックス合奏の後Tpのユニゾン、Clのユニゾン、瀬上氏曰くジェリー・ロール・モートン風のピアノからTbソロに移り締めくくる。

7.アイヴ・ガット・サムワン

この曲から1929年8月1日の録音となる。瀬上氏は触れていないが、この録音は大部ディキシー風が抜けスイングに近くなった感じがする。各人の短いソロの連続するにぎやかな演奏。

<B面Contents>

 
1.フォー・ハンドレッド・ホップ”400”hop1929年8月1日
2.ヴァイン・ストリート・ドラッグVine street drag1929年8月1日
3.スコッティ・ブルースScotty blues1929年8月1日
4.トゥー・ハンドレッド・スクウォブルTwo handred squabble1930年2月17日
5.スインギン・デム・キャッツSwingin’ dem cats1930年2月17日
6.ストッピン・ザ・トラフィックStoppin’ the traffic1930年2月17日
7.プロヒビション・ブルースProhibition blues1930年2月17日
1.フォー・ハンドレッド・ホップ

A面最後7曲目と同じ8月1日の録音だが、また元のディキシー風サウンドに戻っている。作ったのはホィーラーという。Tbソロの後、As、ブルーのClソロ、ラマー・ライトのブレークでのソロが入る。

2.ヴァイン・ストリート・ドラッグ

サックスのアンサンブルの後Tb、Bjのソロが入り、ブラウンのTs、ディッカーソンのTp、ブルーのAs、続くClソロはジョージ・スコットではないかと瀬上氏。ジョージ・スコットについては確定ではないので、プロフィールは割愛した。

3.スコッティ・ブルー

ジョージ・スコット作のブルースという。各自の短いソロが展開される軽快な曲。

4.トゥー・ハンドレッド・スクウォブル

モーリス・ホワイトの作。モーリス・ホワイトといってもEWF(アース、ウィンド&ファイアー)ではない。
この曲から1930年2月の録音となる。メンバー的には、ブルーが抜けウォルター・トーマスが入り、ブラウンがClに回ったという。
これも短いアンサンブルを挟みながら各自の短いソロが展開される。

5.スインギン・デム・キャッツ

これも短いソロが各人繰り広げられる。

6.ストッピン・ザ・トラフィック

瀬上氏はルロイ・マキシーの作という。シュラー氏は、奇抜なタイトルだが、中身は「タイガー・ラグ」だという。Cl⇒Tp(ラマ―)⇒Ts(トーマス)⇒As⇒Tb⇒Clとソロが回る。

7.プロヒビション・ブルース

トーマス作のしみじみとしたブルース。ディッカーソンのミュート・ソロの後アンサンブルが入り、トーマスのTs、ラマーのTp、ブラウンのCl、再びディッカーソンのミュート・プレイで終わる。チャーリー・ジョンソンの「ボーイ・イン・ザ・ボート」に対抗する演奏という。

よく聴くと各自のソロは結構聴き応えのある素晴らしいものが多いのだが、なにせサウンドが古臭い。ルイ、デュークの29年の録音を聴いた耳にはどうしても古臭く感じてしまうのである。

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第244回2018年1月14日

20年代ビッグ・バンド入門 その2
チャーリー・ジョンソンズ・パラダイス・オーケストラ 〜1929年

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

僕の目下の宝物

非常に強力、この冬最強の寒気団が日本列島を襲っています。北日本、日本海側だけではなく、中国地方や九州でも大雪に見舞われているようです。僕の住む関東地方は、カラカラに乾いた晴天ですが、気温はこの冬一番の低く実に寒い日が続いています。左の写真は1月13日の森の様子です。
雪がたくさん降った地方の方々は、雪かきや交通の確保で大変ご苦労をされていると思います。特に今は受験、センター試験が行われています。受験生の皆さん、お疲れさんです。
さて僕も今週1月9日(火)から、通常よりも遅いですが仕事を始めています。そしてイキナリ残業の毎日です。
今週は、初日はほぼ定時で帰りましたが、後は残業で帰宅は10時を過ぎました。大した残業ではないですが歳のせいか疲れます。そして何よりつらいのは、拙HPに取り組む時間が無い。僕は前にも書きましたが、平日ウィークデイに少しずつ内容を書き溜め、土日に編集するというローテイションを組んでいます。残業をして帰宅が遅くなると、内容を入力する時間が取れなくなります。いやこのHPの記事を書こうとすれば、睡眠時間を削るほかなく、体調に影響します。睡眠時間を優先すれば、何もできません。
ところで右はちょっと贅沢な写真。左の「獺祭」は行きつけの酒屋さんのポイント貯めて年末にいただいたもの。右の「百年の孤独」は、お世話になっている方に頼まれたことを実行したらお礼にいただいたものです。日頃お世話になっているので、お礼など恐縮ですが自前では買えないのでありがたく頂戴しました。どちらも高級な酒類です。このお酒を、ゆったり、じっくりいただくのが今のところ僕の最高に楽しみにしていることです。もちろん芳醇なジャズでも聴きながら…。いつになることやら??。

第244回Study in 1920th The Big Band Era
”Charlie Johnson's Paradise Orchestra”

チャーリー・ジョンソンと彼のパラダイス・オーケストラ Charlie Johnson’s Paradise Orchestra
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1週」 レコード 4枚目

さて今回は、チャーリー・ジョンソンのパラダイス・オーケストラ。前回のマッキニーズ・コットン・ピッカーズ以上に現代のわが国において知られていないバンドであろう。
とエラそうに書いたが僕自身も全く知らなかった。かろうじてガンサー・シュラー氏の著作によって、その名前だけは聞いたことがあるという感じであった。
チャ―リー・ジョンソンの項を担当しているのは、生けるリジェンド瀬川昌久氏である。氏は冒頭次のように述べる。
「名著『ビッグ・バンド・ジャズ』の著者アルバート・マッカーシーによれば、1920年代後半から30年代初頭、すなわちスイング以前の時代の米国東部においてフレッチャー・ヘンダーソン、デューク・エリントン、マッキニーズ・コットン・ピッカーズに次ぐ優れたジャズ・オーケストラは、チャーリー・ジョンソンのバンドであった。ただここに収録した20年代の演奏しかレコーディングされなかったので、ほとんど埋もれてしまった」と。

1891年生まれのチャーリー・ジョンソンは、1914年ニューヨークに出てしばらくはトロンボーン奏者として活動していた。間もなくアトランティック・シティに移り、ピアノに転向、1919年初め(1924年という記述あり)に自己のバンドを結成した。
1925年10月22日ニューヨークに移り、「スモールズ・パラダイス」というクラブのオープンに伴い、そのハウス・バンドとなり以後約15年間にわたってレギュラー・バンドとして演奏を続けた。もちろんその間他のクラブや劇場に出演したこともあったし、夏季シーズンにスモールズ・パラダイスが閉じている間は、アトランティック・シティで演奏するのが常であったという。
バンドのメンバーには、初期にはシドニー・ド・パリス、ジャボ・スミス、後期にはベニー・カーター、ロイ・エルドリッジ、フランク・ニュートン、ビル・コールマン、ディッキー・ウエルズ、エドガー・サンプソンらを抱えていた。 38年にバンドを解散した後はローカルで不定期に活動を行っていたが、健康上の理由で50年代には引退していた。 「スモールズ・パラダイス」というクラブは20〜30年代に栄えたビッグ・バンドが出演するクラブの中で今でも(1970年代中期)まだ開いている実に稀な場所の一つである。

このクラブの名称は経営者のエド・スモールズの名前からとったもので、クラブのオーナー、スモールズとバンド・リーダーのジョンソン、そしてバンドのミュージシャンたちの関係は他では見られないほどハッピーなものであったという。
トロンボーン奏者ディッキー・ウエルズが自著『ザ・ナイト・ピープル』という本の中で、スモールズとジョンソンについて親しみを込めて回想している。
それによると、1929年の大恐慌とその影響が到来するまでは、このクラブは他に類がないくらい、景気がよかった。スモールズは実に気前の良い経営者で、バンドのメンバー全員に自動車が十分に買えるくらいの金を貸し、返済はいつでも可能な時に5ドルでも10ドルでも少しづつ返せばよい、というほどに寛大だった。
リーダーのジョンソンは、ピアニストとしては決して偉大とは言えなかったが、優れた才能を聴き分ける耳を持っていたので、いつも良いメンバーをそろえ、バンドを指揮することができた。彼はまたギャンブルが大好きで、時々バンド・スタンドをそっと抜け出してスロット・マシーンを廻していたりしたし、また酒を飲むことも大好きで、時に酔っぱらって記憶をなくし、メンバーたちに週給を2回も支払ったこともあったという。
そんなジョンソンのバンドにも、1930年代に入って大不況の波が押し寄せ、クラブの経営難から、バンドのサイズを小さくすることを余儀なくされるような事態がしばらく続いた。しかし1935年には、再び元のレギュラー・サイズに復帰することができたという。
バンドのサックス奏者でアレンジャーでもあったベニー・ウォーターズによれば、初期のジョンソンのバンドはフレッチャー・ヘンダーソンに次ぐ偉大な実力を有するとみなされていた。サウンド的にはヘンダーソンのバンドよりも、もっとカラフルなものを持っていた。ブラスにハットとダービーをかぶせて吹いたり、ワウ・ワウ・ミュートを使うやり方を初めて採用したのが彼のバンドだった。ヘンダーソンのバンドはクリーンで揃ったスイング・サウンドを誇ったが、ジョンソンのバンドは同じスイングでも、独特のちょっとした工夫を加えたサウンドを持っていた。ベニー・ウォーターズがバンドに在籍したのは、1925〜32年と、36〜37年と2度に渡ったが、この初期の期間こそ、このバンドがその特異なサウンドを完成した時期であった。ブラスにハットやダービーやワウ・ワウといったミュート奏法を取り入れたことは明らかにデューク・エリントンの初期のバンドのサウンドに酷似している。むしろエリントンの方がジョンソンのバンドのサウンドをコピーしたともいえるのである。
スタイルの点で比較すると、ジョンソンのバンドはヘンダーソンとエリントンのちょうど中間に位置するともいえた。すなわちエリントン・バンドがコットン・クラブに専属した時代のエキゾチックなサウンド効果と、ヘンダーソン・バンドのもっと自由にスイングするアプローチとの奏法をジョンソン・バンドは兼ね備えていた。しかしジョンソンとエリントンとのサウンドの類似は、互いに真似をしたというよりも、ともに有名なナイト・クラブの専属バンドであった、という事実に基づいていたといえよう。当時これらの豪華なクラブは、いずれも大変に贅沢で、目を楽しませる素晴らしいレヴューを売り物にしていたので、ステージに登ってその伴奏を務めるという目的のためには、客の注目を引くようなユニークなサウンドを発することが必要だったのだ。

ジョンソンのバンドは、スモールズというナイト・クラブで人気があっただけではなく、その余暇に大学のダンス・パーティに盛んに招かれ、大学生に非常に人気があった。政治、大学のキャンバスに同時に4つのバンドが揃ったことがあった。フレッチャー・ヘンダーソン、ドーシー・ブラザーズ、ザ・メンフィス・ファイヴ、そしてチャーリー・ジョンソンのバンドが代わる代わる出演した。そしてジョンソンのバンドが最大の人気を獲得したのだった。彼のバンドの前には、いつも多くの人々が群がってダンスを楽しんだ。もちろん白人バンドは当時から美しい音色を持っていたし、ヘンダーソンのバンドはそれに加えてさらにスイングしたが、いずれもショーマンシップに欠けていた。ジョンソンのバンドは、後のジミー・ランスフォードにも比すべき優れたショーマンシップを備えていたのだ。しかもアレンジメントについてもカラフルなチャートを持つことを忘れなかった。ジョンソンは、ケン・マッコーバーという白人の編曲者に何曲か書かせていたし、その他にも良いアレンジがあればリハーサルをしてすぐにも書いとった。アレンジ費やすほど、金にも恵まれていたのだ。
バンドのサイドメンには、著名な一流プレイヤーが去来している。このアルバムの吹き込まれた1927年から29年までの期間はパーソネルの移動も少なく、比較的安定した時代だった。29年5月の最後のセッションの後、数か月して未曽有の大恐慌が起こったためレコーディングも中断されてしまった。その間「スモールズ・パラダイス」も経営不振となり、バンドの人員を削減せざるを得なくなり、サイドメンはより良い待遇を求めて他に移動するものが多くなった。
不況が終わってスイング時代が到来し、レコード会社が再びレコーディングを考え始めたころにはチャーリー・ジョンソンはバンドの解散を考え始めていた。そのため残念ながら、二度と吹込みの機会に恵まれることはなかったのであった。
しかしそれにもかかわらず各セクションには常に一流のプレイヤーが残っていた。特にトランペット人にはスイング期の最も優れた奏者が何人か参加した。ヘンリー・レッド・アレン(1932年末から1933年春)、エドワード・アンダーソン(1930年)、ビル・コールマン(1930年)、ハーマン・オートリ―(1933年末)、ロイ・エルドリッジ(1930年代初期)、バーナード・フラッド(1936年から37年)、ルノー・ジョーンズ(1930年代初期)、フランク・ニュートン(1930年から31年及び1933年秋から35年末)、ケネス・ロウン(1932年)等著名な名前(?)が並んでいる。
またトロンボーンには、ロバート・ホートン(1930年)、ジョージ・スティーヴンソン(1932年から33年)、ディッキー・ウエルズ(1933年)、アルトン・スリム・ムーア(1938年)、ジョー・ブリットン(1936年)らが参加した。 サックス・セクションには、テナーのレオン・チューベリー(1932年末から33年初め)、テディ・マクレー(1930年代初め)等のスター・ソロイストがいた。
このような一流プレイヤーを揃えた30年代のジョンソンのバンドは、確かに優れた演奏水準を最後まで維持したに相違なく、レコーディングに恵まれなかったのは誠に残念なことであった。
チャーリー・ジョンソンのレコーディングについて述べると、1925年エマーソンというレーベルに2曲“Don’t forget you’ll regret”(Emerson 10856)と“Meddin’ with the blues”(Emerson 10854)とが吹き込まれているが、今日このレコードは殆ど入手し難く、かつ正確なパーソネルとデータが判明していない。
したがって1927年2月から29年5月までの間にRCAヴィクターに録音された12曲が、このレコードで今日聴くことのできる全てである。
そのうち2曲“Getting away from me”と“Mo’lasses”とは発売されず、今日でもテイクが入手できない。したがってこのアルバムには、残り10曲とそのうちテイクが余分にあるものを加えて計13タイトルが収録してある。各吹込みのパーソネルについては諸説があり、チャールズ・デロネイのホット・ディスコグラフィー、アルバート・マッカーシーのジャズ・ディスコグラフィー、ブライアン・ラストのディスコグラフィーの3種の間にもいくつかの相違がある。レコードジャケット裏のパーソネルはブライアン・ラストによるものを記載した(記載されていない)。

<Personnel>…例によって録音データの記載がないため詳細は不明だが、文中に記載のあるものを記す。

 
Band leader & Pianoチャーリー・ジョンソンCharlie Johnson
Trumpetジャボ・スミスJabo Smith
Trumpetシドニー・ド・パリスJabo Smith
Trumpetトーマス・モリスThomas Morris
Trumpetレナード・ディヴィスLeonard Davis
Tromboneジミー・ハリソンJimmy Harrison
Tromboneチャーリー・アーヴィスCharlie Irvis
Trombone ジョージ・スティーヴンソンGeorge Stevenson
Alto sax , Clarinet & Arrangementベニー・カーターBenny Carter
Alto sax , Clarinetベン・ウィチッドBen Whittet
Clarinet & Tenor saxベニー・ウォーターズBen Waters
Violinエドガー・サンプソンEdger Sampson
Vocalモネット・ムーアMonette Moore

<A面Contents>

 
1.パラダイス・ウォブルParadise wobble1927年2月25日ニューヨークにて録音
2.バーミンガム・ブラック・ボトムBirmingham black bottom1927年2月25日ニューヨークにて録音
3.ドント・ユー・リーヴ・ミー・ヒアDon’t you leave me here1927年2月25日ニューヨークにて録音
4.ユー・エイント・ザ・ワンYou ain’t the one1928年1月24日ニューヨークにて録音
5.チャールストン・イズ・ザ・ベスト・ダンスCharleston is the best dance after all1928年1月24日ニューヨークにて録音
6.ホット・テンパード・ブルースHot-tempered blues1928年1月24日ニューヨークにて録音

A面1〜3までの3曲は1927年2月25日ニューヨークで行われたRCAへの初吹込みであるとレコード解説にあるが、Web版ディスコグラフィーによれば1925年2月25日となっている。どちらが正しいのか?1927年と1925年では大分違う気がするが…。

1.パラダイス・ウォブル

バンジョーのよく聴いたリズムがいかにも古めかしいジャズ的サウンドである。Tbソロはチャーリー・アーヴィスで、続く流麗で高音のよく聴いたTpはジャボ・スミスであろうという。
瀬川氏は、サックスの合奏が薄いというが、こんなものだろうと思う。またモネット・ムーアのヴォーカルはなかなかに黒人歌手の気分が出ているというが…?。ムーアは黒人なんですけど…。短いクラリネットは、ベニー・カーターかベン・ウィチットであろう。合奏がディキシー風の絡みが多いのも20年代のビッグ・バンドの特色であるという。

2.バーミンガム・ブラック・ボトム

アンサンブルの後に素晴らしい輝きに満ちたプレイはジャボ・スミス。後半Bjソロが出るのが懐かしく、ラストのTpソロに他のホーンが絡んでいくのが時代を感じさせる。

3.ドント・ユー・リーヴ・ミー・ヒア

ジェリー・ロール・モートンの作。ムーアのヴォーカルの後に出るプランジャー・ミュートのTpソロが、シドニー・ド・パリスかトム・モリスかと説が分かれているという。次のTbはアーヴィスという。

A4〜6の3曲は解説、Web版ディスコグラフィーとも約1年後の1928年1月24日の吹込みと一致している。この吹込みには初レコーディングでははっきりしなかったベニー・カーターが参加していることは確実であるという。また、エドガー・サンプソンもヴァイオリンで加わっている。わずか1年後の録音だが、前の演奏に比べるとアンサンブルに格段のまとまりが出ているのは、ベニー・カーター効果だという。

4.ユー・エイント・ザ・ワン

  これもムーアの歌入り。ジャボ・スミスのリードするアンサンブルの後、初めてAsソロが登場するが、これはカーターであろうとする。続くTbはアーヴィス。最後にビッグ・バンドらしい見事なサックス・アンサンブルで締めている。

5.チャールストン・イズ・ザ・ベスト・ダンス

ガンサー・シュラー氏によるとベニー・カーターが編曲し、指揮をしたとし、サックス・アンサンブルのコーラスの見事な演奏で、この曲がこのバンドの唯一素晴らしい演奏という評価を下している。
一方解説の瀬川氏も、整然たるアンサンブル、特にカーターが得意とするところのサックス・セクションの合奏が光っていて、高音を駆使するジャボ・スミスのTpソロが輝かしいと高評価をしている。

6.ホット・テンパード・ブルース

これもおそらくカーターのアレンジで、サックスとブラス、サンプソンのVlの入った合奏がユニークな響きを創り出している。Tbソロはアーヴィス、続くミュートTpソロはレナード・ディヴィスという。
ガンサー・シュラー氏は、このバンドは作曲上の規則やその他の配慮に縛られないで、自由闊達な集団即興に没頭できる場合に、最良の演奏を行ったとし、その最も刺激的な演奏の例がこの曲の最後の2コーラスだとしている。シュラー氏曰く、特に最後の頂点の、集団即興のコーラスでは、時代に先んじたやり方で、スイングし、揺さぶる。そして自由奔放なままに、この不協和音溢れる音楽を終了させる。集団即興の技巧の勝利というべき出来映えであると激賞している。

<B面Contents>

 
1.ザ・ボーイ・イン・ザ・ボートThe boy in the boat1928年9月19日ニューヨークにて録音
2.ザ・ボーイ・イン・ザ・ボートThe boy in the boat1928年9月19日ニューヨークにて録音
3.ウォーク・ザット・シングWalk that thing1928年9月19日ニューヨークにて録音
4.ウォーク・ザット・シングWalk that thing1928年9月19日ニューヨークにて録音
5.ウォーク・ザット・シングWalk that thing1928年9月19日ニューヨークにて録音
6.ハーレム・ドラッグHarlem drag1929年5月8日ニューヨークにて録音
7.ホット・ボーンズ・アンド・ライスHot bones and rice1929年5月8日ニューヨークにて録音

レコード解説の瀬川氏によれば、B面の1〜5の5曲はこの時代のビッグ・バンド・ジャズの最高の部類に属すると評価されているという。

1、2.ザ・ボーイ・イン・ザ・ボート

瀬川氏は、イントロからのエキゾチックなリズムの扱いが面白い。メランコリックな旋律がブラスとClの合奏され、ジミー・ハリソンのTbの鋭いソロに受け継ぐ。ド・パリスによるプランジャー・ミュートの輝くようなソロが素晴らしく、数ある彼のレコード・プレイの中でもベストと評価されているという。Clとの掛け合い、ラストのタップのようなサウンドも興味深いと記載しているが、シュラー氏は「シドニー・ド・パリスによる卓抜なプランジャー奏法によるしゃべるようなソロは素晴らしい」と書いている。「輝くような」と「しゃべるような」は大分かけ離れているような気もするが…。

3、4、5.ウォーク・ザット・シング

  イントロのピアノのフレーズは、一時期よく使われたロックン・ロールのフレーズである。アップ・テンポの迫力に満ちたリズムにチューバの低音がよく効いている。珍しいTsソロはベン・ウォーターズで、メロディックなプレイである。ジョンソンのバンドはブラスやClに比してサックスによるソロが少ないのも特色の一つである。
リズムなしのエキサイティングなミュートTpソロはレナード・ディヴィス。続くハリソンのTbソロもなかなか良い。さらにTpClソロはベン・ウィチット前合奏にTuやBjのソロが挟まれているのも面白い。

B-6,7の2曲は1929年5月8日ニューヨークにて録音されたジョンソンのラスト・レコーディング。

6.ハーレム・ドラッグ

スローなテンポでベン・ウォーターズのCl、ド・パリスの輝かしいTpソロが光っている。最後のTbはジョージ・スティーヴンソンである。

7.ホット・ボーンズ・アンド・ライス

いかにも黒人らしい、ブルーな感じのブルース。特にスティーヴンソンのTbソロが素晴らしいプレイを聴かせる。さらにプランジャー・ミュートのTpソロは、ド・パリスの名演である。

最後にガンサー・シュラー氏のこのバンドに対する評価をまとめてみよう。
「チャーリー・ジョンソンのパラダイス・バンドは、その全盛期には多くの人々によって、デューク・エリントンと同じくらいに高く評価された。ハーレムのナイト・クラブ「スモールズ・パラダイス」を本拠とするこのバンドは、ある意味では、デュークの最も身近な競争相手だった。というのは、デュークもまたダウンタウンからやってくる白人のお客のために、ショウやジャングル物の音楽を提供していたからである。
このバンドには、ジミー・ハリソン、ジャボ・スミス、ベニー・カーター、シドニー・ド・パリス、チューバのサイラス・セント・クレアやビリー・テイラー、驚異的なバンド・ドラマーのジョージ・スタッフォードなど数多の優秀な音楽家が在籍した。しかしこのバンドは長続く生き延びることができなかった。
このバンドには、フレッチャー・ヘンダーソンやマッキニーズ・コットン・ピッカーズのようなバンドと競合するために必要な正確さや腕の良い編曲家を持たなかったし、エリントンのような想像的な才能と規律を備えた指導者を持たなかった。このバンドは、ドン・レッドマンの編曲手法を熱心に模倣したが、おおむね身に付けることができなかった。 また、このバンドでのジャボ・スミスは、自身のバンドとは比べものにならないくらい劣っている。」
確かに瀬川氏は、Tpジャボ・スミスのソロを全て「輝かしい」と高評価だが、少々もたついている感じがする個所もあり、僕にも全篇素晴らしいとは言えないような気がするが…。

前回のM.K.C.P.に比べれば確かに粗削りなところはあるが、こちらの方が楽し気に演奏している感じがして好感が持てる。「パラダイス・バンド」(天国楽団)という名前のせいだろうか?

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第243回2018年1月7日

20年代ビッグ・バンド入門 その1
マッキニーズ・コットン・ピッカーズ 1928・29年

あけましておめでとうございます。
ご覧いただきありがとうございます。2018年第1回目の定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。
昨年末から強烈な冬型の気象が続き、北日本、日本海側では大変な大雪に見舞われているようです。僕の住む関東地方は、カラカラに乾いた晴天が続いていますが、気温は低く実に寒い年の瀬でした。

2018年1月1日 初詣

2018年最初の「ジャズ・ディスク・ノート」、第243回です。昨年末はバタバタとしたアップになってしまい、反省しきりです。今年度は少し落ち着いた、少しでも内容のあるコンテンツを目指していきたいと思っております。ぜひ皆さま引き続きのお付き合いよろしくお願いいたします。
皆さんはお正月はいかがお過ごしでしたでしょうか?僕は1月1日先ずは、午前中に近所の神社に初詣に出かけたのですが、ものすごい行列、もう30年近く参っていますが、これまで見たことも無いような行列だったので、家がすぐ近いこともあり引き返し、午後改めて参拝に行きました。他に何も用事が無いようですが、明日2日は嫁いだ娘2人が夫婦、一人は孫を連れて年始に来るのでその準備です。年末に買えなかった魚屋さんなどへの買い出しを行い、狭いリヴィングの片づけ、これまた狭い庭掃除などに追われました。

箱根美術館前

1月2日は早めに来た孫と遊び、みんなで食事をし、食後にまた孫と遊んで日を過ごし、翌3日は、疲れを癒そうと近場の温泉へ1泊旅行に出かけました。行先は「箱根」です。
箱根は関東大学駅伝、いわゆる「箱根駅伝」の熱戦が繰り広げられるところですが、3日は復路、選手たちは朝8時に箱根を出発し10時頃には、平塚、茅ケ崎といったところまで走り抜けます。とんでもなく速いです。僕ら夫婦はその熱戦をラジオ放送で聴きながら、ゆっくりと箱根に向かいます。駅伝の一団が去った後の箱根までの道は意外に混まず、すんなりと目的地まで行き着けることをここ3年の経験で知っているからです。
この日は当初久しぶりにロープウェイで大涌谷まで行ってみようかと思っていましたが、もう一つの目的地「箱根美術館」が1月1〜3日まで開館し1月4日は休刊することをネットで知り、急きょ予定を変更し1月3日に訪ねてみました。この美術館は、庭一面に生えている苔と紅葉、新緑がマッチして特に美しいと評判で、この季節はシーズン・オフのためか人影も疎らでゆっくりと館内を見学できました。
その後は箱根ビジター・センターを少し見学した後、宿に向かいます。今年で3度の目の宿なので道にも迷わず早めに着き、明るいうちに温泉に入りまったりと過ごしました。

噴煙を上げる大涌谷

1月4日も晴天に恵まれました。左の大きめの写真は午前11時ころ大涌谷から写した富士山です。ラジオによると、翌1月5日箱根には雪が降り高速道路は通行止めになったそうで、スタッドレ・タイヤでもなく、チェーン装備もない我々は間一髪でセーフだったことになります。
この日は、ガスの状況が悪くロープウェイは運行休止しており、クルマで大涌谷まで登りました。そういう方が多かったと見えて道は大渋滞、たどり着くまで1時間ほどかかりました。
大涌谷では、これを食べると7年長生きするという名物の「黒たまご」を買って食べ、お土産品を買い求め、早めの昼食「激辛地獄ラーメン」を食べ、元箱根に向かいました。今日は、一般には仕事始めということもあり空いているかと思っていたのですが、道路は大渋滞で湖畔にたどり着くまで何時間かかるか分からないという状況だったため元箱根行きは断念し、箱根新道〜西湘バイパスを通り帰途につきました。
どこにも寄らずに箱根を下りてきたので、少し早すぎるかなと思い途中高速を降り、久しぶりに「寒川神社」に参拝に立ち寄りました。以前は毎年初詣に訪れていたのですが、余りに人出が多くご無沙汰していました。

寒川神社に参拝

「寒川神社」は相模国一之宮と称され、1600年の伝統を持つ格式の高い神社です。全国で唯一八方除の守護神として、すべての悪事災難を取り除くといわれる厄除けのご神徳があるといわれています。初詣に参拝される方が多いのは当然のことでしょう。参拝者が多いなぁと言いながら結局自分も参拝するわけです。
一年の初めにおみくじをひかないと気が済まないカミサンは、ここでおみくじを引くことも大きな目的としていて、気合いを入れて引いていました。結果は「末吉」、僕は「小吉」でした。おみくじによると、今年の僕は、すぐにというわけではないが願い事は叶うそうです。おっと、他人に話していけなかったかな?ともかく悪くない運勢で安心しました。今年も頑張ろう!

「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第9巻レコード・ボックス」

ジャズの歴史を扱った本などを読んでいて、1920年代後半から30年、40年代にかけてアメリカにはいったい幾つくらいのビッグ・バンドがあったのだろうと思う。全てのローカル・バンドをを含めれば何百という数のバンドがあったように思われる。もちろんそれらを全て追うなどということは、出来ももしないし、やろうとも思っていない。僕は、今日日本にもその名が残っているようなバンドは、やはりそれなりに優秀というか存在価値があるから残っているのだろうと楽観的というか安易に考えている。そういったバンドの代表がフレッチャー・ヘンダーソンであろう。しかし前回ヘンダーソンの項でも触れたが、ヘンダーソンは時に優柔不断で不安定な時期があった。そんなときヘンダーソンの地位を脅かすようなバンドが出来てきていた。その中で最終的に最も重要なのはデューク・エリントンであったのだが、ガンサー・シュラー氏によれば他の3つのバンド―マッキニーズ・コットン・ピッカーズ、チャーリー・ジョンソン、ザ・ミズーリアンズの方がむしろ脅威と思われていた。
これらのバンドの名前は、本などで見かけるがレコード・CDはほとんどレコード・ショップで見かけないバンドというのも多い。そういったバンドを取り上げてくれていて便利なのはやはり最近では、今回紹介するような企画編集した組物ということになろう。本来は単体でレコードが欲しいのだが、そういったものを探していたのでは、その演奏をいつ聴くことができることやら分からない。そういった意味でこのレコードボックスは大変にありがたいものだ。
まずざっと収録内容をご紹介しよう。全体で9枚組である。

レコードフレッチャー・ヘンダーソン その1
レコードフレッチャー・ヘンダーソン その2
レコードマッキニーズ・コットン・ピッカーズ
レコードチャーリー・ジョンソン
レコードザ・ミズーリアンズ
レコードジミー・ランスフォード
レコードベニー・モーテン その1
レコードベニー・モーテン その2
レコードベニー・モーテン その3

フレッチャー・ヘンダーソンに関しては、その年代ごとに項を設定して記述進行中である。今回はレコード靴房録された「マッキニーズ・コットン・ピッカーズ」について聴いていこう。
ただその前にこの編集物の不備を指摘しておこう。それは、この「マッキニーズ・コットン・ピッカーズ」解説の瀬上保男氏は、パーソネルについて、「(吹込み)メンバーについては、中ジャケット裏のデータをご参照いただきたい」と述べているが、中ジャケットの裏にはパーソネルの記載は無いのである(写真右)。これと同様の苦言を以前第135回ColemanHawkins”Body and soul”でも記載した。
ここからは僕の想像であるが、元々「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ」には、録音データが記載された中ジャケットがあったのである。ところが何らかの事情で再発する時に別のタイプを用いるようになった。その別のタイプが右の黒の用紙を使ったものではないかと思う。何らかの事情とは?これも想像だが、この黒用紙タイプに全てを統一したのではないかと思う。そうすればこのタイプの中ジャケットだけを大量に一括印刷・製本できる。それぞれの録音データを印刷する必要が無くコストが削減できる。
そう思わせるのは、同じシリーズの「Jazz Classics of Jelly Roll Morton」の中ジャケットである。写真左はその裏面。きっちり録音データが載っている。
もちろん正式なことは分からない。というのも「2版目以降経費節減のため中ジャケットに録音データ記載を辞めました」などとメーカーがいう訳がない。しかし解説者の記載と現実を突き合わせると以上のような想像にたどり着く他ないのである。
この編集にも携わった僕の師粟村政昭氏は他の所で、「このような歴史的な録音の再編集盤の場合、最も大事なのはそのパーソネルや録音期日を記したデータであると述べている。このような編集員の下で編集されたレコード・セットに録音データが最初から記載されていないわけはなく、再発の時に記載を止めたとしか想像できないのである。このことから分かるのは、この再発にかかわった人物がジャズ・ファンでないことだけは確かである。

第243回Study in 1920th The Big Band Era
”McKinney's Cotton Pickers”

「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1週」でマッキニーズ・コットン・ピッカーズ(以下M.K.C.P.と略)の解説を担当する瀬上保男氏は冒頭で、「M.K.C.P.の日本における知名度は決して高くない」と述べている。この「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ」が発売された昭和50年という時期においてはそうだったろうが、2018年の今においては「ほとんど知られていない」という方が正しいだろう。ジャズの歴史を扱った本などには必ずと言っていいほど登場し、拙HPでもその名前は何度か登場している。しかし彼らの録音自体を取り上げるのは初めてのことである。
僕はそれほど熱心にショップに通っているわけではないが、そもそも彼らの録音物(レコード・CD)についても単体、いわゆるM.K.C.P.名義のものはまず見たことが無い。そういった意味でこういう企画もの、組み物は貴重だが、こういうものでないとお目にかからないというのも寂しい感じがする。
それというのもこのバンドを率いたウィリアム・マッキニーが、他のバンドでの活躍歴がほとんどなく、リーダー自身の知名度低さがバンド自体の知名度の低さにつながっていると思われる。
それでも瀬上氏は「1920年代にあっては、フレッチャー・ヘンダーソン、デューク・エリントンと肩を並べるところまで行った一流バンドとしてジャズ史上不滅である」と微妙な表現ではあるが、高く評価している。そしてこの1枚のレコードは、油井正一氏が選曲したM.K.C.P.の傑作集であり、ビッグ・バンド・ジャズのオリジネーター、ドン・レッドマンが生み出したユニークなサウンド再認識できると述べており、何が彼らを「ジャズ史上不滅」にしているのであろうか?それをこれからこのレコードを聴くことによって学習していこう。
M.K.C.P.は、1924年ごろオハイオ州スプリングフィールドで旗揚げしたシンコ・セプテットに始まる。リーダーのウィリアム・マッキニーはサーカス出身のドラマーで、グループは多分にショウ・バンド的色彩を持っていた。このユニットはやがて、シンコ・ジャズ・バンドと改名し、キューバ・オースチン(Dr)、ジョン・ネスピット(Tp、Arr)、クロード・ジョーンズ(Tb)等の参加を得て次第に充実していく。
そして、自身バンド・リーダー兼ダンスホール経営者ジーン・ゴールドケットに招かれてデトロイトに進出し、同地の「グレイストーン・ボールルーム」を根城にするようになる。バンド名をM.K.C.P.と名乗るようになったのは、その頃からであると瀬上氏は記述する。しかし別資料によれば独自にデトロイトに進出し、そこでゴールドケット氏の知己を得、「グレイストーン・ボールルーム」を根城にするようになったとある。しかしバンド名をM.K.C.P.と名乗るようになったのは、その頃とある。2つの説の違いは、デトロイトに進出したのはゴールドケット氏に呼ばれたのか独自だったのかということであり、いずれにしろゴールドケット氏の「グレイストーン・ボールルーム」を根城にするようになって、バンド名をM.K.C.P.と名乗るようになったというところは変わりない。

そもそも”Cotton Pickers”という名称はどう意味であろうか?辞書を見ても特別な意味はないようで、そのまま「綿摘み達」ということでよいだろうか?「綿摘み」と言えばプランテーションで綿摘みの重労働に従事させられた黒人奴隷を連想させるような名称であり、わざと付けたのだろうが少しばかり「?」と思わされる。
ともかく1926年「グレイストーン・ボールルーム」登場に前後して、このバンドに二つのビッグ・イヴェントが起きる。
一つは、この年アメリカを訪問中だった英国皇太子(後のエドワード8世)の前で演奏する機会を与えられ、しかも皇太子自らがドラマーとなってステージを共にするハプニングに恵まれたことである。
もう一つは、ゴールドケット氏のバック・アップにより、全米中に中継されるラジオ番組に出演したことである。
この二つの出来事は、当時の黒人バンドとしては破格であり、異例だった。彼らの名が上がったこと言うまでもない。
デトロイトでのM.K.C.P.は日ごとに人気を獲得していき商業的な成功を収めた。しかしバンドにはこれといった特色もなく、客の求めに応じて何でもこなすという感じだったという。しかし名実ともに一流を目指すマッキニーはゴールドケットと相談の結果、フレッチャー・ヘンダーソン楽団からドン・レッドマンを招いて、バンドの再編を図ることにした。マッキニー自身は目立たない人で、キューバ・オースチンの入団以後、ビジネス・マネージャーに専心していたが、レッドマンに目を付ける辺りはさすがである。
招きに応じたレッドマンは、さっそくジョン・ネスビットの協力を得てバンドの全スコアを書き直し、バンド・カラーを一新させてしまった。レッドマンはビッグ・バンド作りのノウハウを実によく心得た職人肌の天才であったが、ヘンダーソン時代に開発したサックスとブラスの対比など、いろいろの手法をフルに生かしてM.K.C.P.を平凡なダンス・バンドから一流ジャズ・バンドへ脱皮させてしまった。
レッドマンはM.K.C.P.の再生に当たって、ソロイスト偏重の姿勢を取らず、ユニットとしてのサウンドやスタイルによって、他のバンドと一線を画すことを心掛けたという。1920年代にあって、グループ・サウンドの表現に着眼したリーダーは、決して多くなかった。
M.K.C.P.のレコーディング史は、2トランペット、1トロンボーン、4サックスという編成で始まったが、特にサックス・セクションに重点を置いた音作りに特徴があった。フレッチャー・ヘンダーソンでさえ、1933年以前は3サックスであり、この点では後輩にあたるM.K.C.P.の方が5年も先行していたことになる。その結果全体として白人指向を思わせる一面はあったものの、極めてユニークなスタイルが出来上がったのである。
しかしガンサー・シュラー氏によれば、コットン・ピッカーズを録音のみによって正確に評価することは難しいという。 というのは、このバンドは生の響きと同じくらいに素晴らしい録音が一つもなかったという説があるからである。つまりこの楽団の質の高さについては、(シュラー氏よりも)年長の音楽家たちの証言があるのだという。
そもそもこのバンドには、優秀な音楽たちがたくさんいたし、編曲を担当したジョン・ネスビットとドン・レッドマンはその分野のエリートであった。それにもかかわらず、録音されたものは、当時の標準を上回るとはいえ、なんら大編成のジャズに新しい次元を付け加えるものではなかった、とシュラー氏は評する。
M.K.C.P.は、その後もソロイストの充実とともに一流バンドの名声を維持していたが、1931年夏、レッドマンが自己の楽団結成のために退団すると急激に生気を失い、ベニー・カーター、キューバ・オースチンをリーダーとして挽回を図ったもののわずか3年後の1934年には解散の憂き目を見てしまった。この一事をもってしても、M.K.C.P.が本来は、ドン・レッドマンズ・コットン・ピッカーズと呼ばれるべきユニットであったことが分かる。
しかし、短期間のうちに消滅してしまったとは言え、最盛期のM.K.C.P.の同行、吹き込んだレコードは、常にジャズ界での最大関心事であったことはデューク・エリントンも証言しているという。
また、レッドマン時代の再発LP(英RCA RD-7561)が、1963年イギリスのジャズ誌『ジャズ・ジャーナル』によってレコード・オブ・ジ・イヤーに選ばれるなど、当時のM.K.C.P.は、後に至るまで高い評価を受けた。
バンドが解散して38年後の1972年に、シカゴのDJデヴィッド・ハットソン氏が旧メンバーを集め、レッドマンのオリジナル・スコアによるM.K.C.P.の再演を狙ったのも、単なる懐古趣味とはいえないと瀬上氏は書いている。

「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1集」日本盤レコード(RCA RA-47)

<A面Contents>

 
1.プット・イット・ゼアPut it there1928年7月11日シカゴにて録音
2.ミレンバーグ・ジョイズMilenberg joys1928年7月11日シカゴにて録音
3.チェリーCherry1928年7月12日シカゴにて録音
4.ストップ・キディングStop kidding1928年7月12日シカゴにて録音
5.ノーボディーズ・スイートハート Nobody’s sweetheart1928年7月12日シカゴにて録音
6.サム・スイート・ディSome sweet day1928年7月12日シカゴにて録音
7.シム・ミ・シャ・ウォブルShim-Me-Sha-Wabble1928年7月12日シカゴにて録音
8.イッツ・タイト・ライク・ザットIt’s tight like that1928年7月23日シカゴにて録音
9.ゼアズ・ア・レインボウ・ラウンド・マイ・ショルダーThere’s a rainbow ‘round my shoulder1928年7月23日シカゴにて録音

<A面Personnel>…上記のように録音データの記載がないため詳細は不明だが、文中に記載のあるものだけ記す。

 
Band leaderウィリアム・マッキニーWilliam McKinney
Arrangement & Alto sax(?)ドン・レッドマンDon Redman
Trumpet & Arrangementジョン・ネスビットJohn Nesbitt
Tromboneクロード・ジョーンズClaude Jones
Clarinet & Tenor saxプリンス・ロビンソンPrince Robinson
Pianoトッド・ローデスTodd Rhodes
Drumsキューバ・オースチンCuba Austin

M.K.C.P.の処女録音が1928年7月11日、12日の両日に渡って10曲も残されたのは、その頃としては珍しいと解説の瀬上氏は記載するが、何が珍しいのかよく分からない。2日間10曲録音したことか、通常は録音しても捨てられるのに10曲も残したことか?ともかくA面1〜7曲目がその10曲からのピック・アップであるという。
ドラムのキューバ・オースチンは当時を回想し、「我々が初録音した頃は、雑音を拾わないようにするため、全員靴を脱いでスタジオ入りし、足の下枕を並べて音を取ったものだ。ところがテンポの速い『ミレンバーグ・ジョイズ』では、演奏しているうちに枕がずれて、NGを出してしまった」という。
A面中編曲者がはっきりクレジットされているのは5曲、◆↓、ァ↓Гレッドマン、いジョン・ネスビットだけだが、残りの曲にも当然レッドマンのペンになるものがあるであろうという。
レッドマンがリーダーシップを取るようになってから約1年後の録音だが、黒人らしさが余り前面に出ない洗練されたアンサンブルは完成の域に近づき、他のバンドとは一味違ったスイング感を出している。

以上は瀬上氏の解説である。僕自身の感想を書くと、
洗練されているというが、A-1、2の低音部を支えているのはストリング・ベースではなくチューバであり、ちょっと古めかしい感じがする。A-1のピアノはアール・ハインズに似ている感じがする。
A-3の洗練された感じはレッドマンによるものか?線の細いヴォーカルも後のスイング時代を感じさせる。 A-4のサックスを中心としたアンサンブルなどは時代を先取りした感じがする。これはネスビットのアレンジのようだ。
A-5のヴォーカルはジョージ・トーマスという人だそうだが、ルイ・アームストロングの模倣のように感じる。
A-8の”イッツ・タイト・ライク・ザット”は、少し後12月12日レッドマンとルイ・アームストロングの共演で賛否両論がある”It's tight like this”の事前ヴァージョンのような気がするが、このことに評論家の先生方は誰も触れていないので全く関係ないのかもしれない。

<B面Contents>

 
1.プレイン・ダートPlain dirt1929年11月5日ニューヨークにて録音
2.ジー・エイント・アイ・グッド・トゥ・ユーGee , Ain’t I good to you1929年11月5日ニューヨークにて録音
3.ザ・ウェイ・アイ・フィール・トゥディThe way I feel today1929年11月5日ニューヨークにて録音
4.ミス・ハナMiss Hannah1929年11月5日ニューヨークにて録音
5.ホェアエヴァ・ゼアズ・ア・ウィル・ベイビーWherever there’s a will , baby1929年11月7日ニューヨークにて録音
6.ゾンキーZonky1930年11月17日ニューヨークにて録音
7.ロッキー・ロードRocky road1930年11月3日ニューヨークにて録音

B面は1929〜30年にかけてのニューヨークでの録音。A面がM.K.C.P.のメンバーによる録音であるのに対し、B面は強力なソロイストを補強した臨時編成バンドによる録音だという。
デトロイトで仕事があったために、ニューヨークには一部のメンバーしかこれなかったということになってはいるが、ソロイストにスターがいないという弱みをカバーするためのアイディアとみることもできるという。ニューヨークでの録音に参加したM.K.C.P.のメンバーは以下の通りである。
注目はトランペットのジョー・スミスで、フレッチャー・ヘンダーソンの楽団でプレイしていた彼は、M.K.C.P.としては初めて迎えた一流のソロイストである。またバンジョーのデイヴ・ウィルボーン、チューバのビリー・テイラーはA面の録音にも加わっていたと思われるが、記載がないので記載のあるB面のメンバーとして記載した。

<B面Personnel>…上記のように録音データの記載がないため詳細は不明だが、文中に記載のあるものだけ記す。

 
Band leaderウィリアム・マッキニーWilliam McKinney
Arrangement , Alto sax & Vocalドン・レッドマンDon Redman
Trumpetジョー・スミスJoe Smith
Tromboneクロード・ジョーンズClaude Jones
Banjoデイヴ・ウィルボーンDave Wilborn
Tubaビリー・テイラーBilly Taylor

基本的には上記のメンバーに、ゲスト的にソロイストが加わり録音が行われた。このことによって、A面に比べてよりエキサイティングな仕上がりとなり、一連のニューヨーク録音は、非常に好評を博したという。

まず1929年11月5日の録音から4曲ほど選ばれているが、これには上記M.K.C.P.のメンバーに加えてシドニー・ド・パリスコールマン・ホーキンスベニー・カーターといった一流どころのプレイヤーが呼ばれた。

1.プレイン・ダート

編曲はジョン・ネスビットで、ソロ・オーダーはシドニー(Tp)⇒クロード(Tb)⇒ホーキンス(Ts)だというが、いずれも極めて短く思う存分その腕を発揮したという感じではない。。

2.ジー・エイント・アイ・グッド・トゥ・ユー

レッドマンの編曲で、ソロ・オーダーはスミス(Tp)⇒シドニー(Tp)⇒カーター(As)⇒レッドマン(Vo)だという。テーマ部分のソロはスミスで美しい音色である。続くオープンのソロはシドニー、続くカーターのソロも見事、解説に拠るとこの時期カーターは全てのサックス奏者の目標になっていたという。

3.ザ・ウェイ・アイ・フィール・トゥディ

レッドマンの編曲で、ソロ・オーダーはクロード(Tb)⇒スミス(Tp)⇒レッドマン(Vo)⇒ホーキンス(Ts)だという。短いからかもしれないが、クロードもスミス、ホーキンスに引けを取らない吹奏ぶりだと思う。

4.ミス・ハナ

ソロ・オーダーは、レッドマン(As、Vo)⇒シドニー(Tp)⇒カーター(Cl)⇒ホーキンス(Ts)。このB面すなわちニューヨーク録音面では、レッドマンはこの曲しかソロを取っていない。その理由を聞かれたレッドマンは「私は、ベニー・カーターのように演奏できるとは思っていないからだ」と語ったという。ここで聴かれるカーターのクラリネット・ソロは彼の代表作の一つと言われているという。また、アームストロング直系と言われるシドニーのソロも素晴らしい。シュラー氏はこれらに全く触れず、チューバのビリー・テイラーの華麗なプレイによって、ジャズ・レコードでの最低音D♭が披露されていると記載している。

5.ホェアエヴァ・ゼアズ・ア・ウィル・ベイビー

こちらは2日後の11月7日の録音。M.K.C.P.のメンバー以外について変動があるかどうかは不明。ソロ・オーダーはシドニー(Tp)⇒レッドマン(Vo)⇒ホーキンス(Ts)。ホークは少々粗削りな面もあるが、後の男性的な持ち味を先取りするような堂々たるソロを展開している。

残りの2曲は1930年に入ってからの録音である。

6.ゾンキー

解説で、ソロ・オーダーはカフェ⇒スミス⇒ウィルボーン(Vo)となっている。ここで初めてカフェなるプレイヤーが唐突に登場する。録音データが無いので定かなことは分からないが、想像するにエド・カフェ(Ed Cuffee Tb)のことかもしれない。

7.ロッキー・ロード

ソロ・オーダーはレッドマン(Vo)⇒スチュワート(Tp)⇒カーター(As)⇒レッドマン(Vo)だという。このスチュワートは後にデューク・エリントンの楽団で活躍するレックス・スチュワートである。またここでのトランペット・セクションのトリルは素晴らしいとシュラー氏は評する。

最後にガンサー・シュラー氏のM.K.C.P.に対する全体的な評価を紹介しよう。曰く、
「優れた点は色々あるのだが、このバンドは、全体として熱意を欠いた印象を与える。ホワイトマン楽団の正確さと多面性を見習おうとしているようだが、趣味の悪さが目立つところがある。1920年代の音楽家たちにとっては、M.K.C.P.は高度な実力を備え、収入の良い楽団として、素晴らしいものに見えたかもしれない。しかし、歴史は、この楽団がエリントンやカウント・ベイシーの楽団のような持続力を持たなかったことを明らかにした。」

今回はM.K.C.P.の1928、1929年のつもりだったが、30年の録音が2曲だけなので改めて回を設けるのもどうかと思い一緒に扱った。結構長くなってしまったが、この時代のビッグ・バンドにはなじみが薄く色々調べなければならないことが多い。学習することが多い1年になりそうだ。

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第242回2017年12月31日

マイルス・ディヴィス 入門その11
「ライヴ・イン・ヨーロッパ 1969」

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

12月28日 仕事納めの日の夜

2017年最後の更新です。押しに押し詰まった大晦日12月31日です。
このシーズン最強の寒気団が南下しているとのことで、本当に寒い日が続きます。左は、僕の仕事納めの12月28日の朝の勤務先周辺の光景、右は帰る時の写真です。この光景も今年は最後、少しばかり長いお正月休みに入ります。
どのくらい長いかというと、通常12月29日から翌年1月4日までの7日間なのですが、1月5日が金曜日なので有給休暇を取り、1月8日は成人の日の祝日ということで11日間の休暇となります。やらなければならないこと、やりたいことがたくさんありますが、押し寄せてくる野暮用もありであっという間に終わるんだろうなぁ〜。
休暇第1日目、12月29日は切れかかった蛍光灯の代替を買いに行き、お正月用のお酒を買い、年賀状を作ったら(いまごろ?)、1日が終わってしまいました。本当はゆったりジャズが聴きたいなぁ。
2日目の12月30日は注文していたお餅を取りに行き、正月の飾り付け、夜は娘夫婦が孫を連れてきてのお年取りです。これは楽しい。

2017年レコード買い納め

カレーの店「アサノ」東京・町田

少し前のことですが、今年のレコード買い納めに、12月22日金曜日東京町田のディスク・ユニオンに出かけました。この日は社会的には休日ではありませんが、我が会社の親会社は、12月23日天皇誕生日が土曜日と重なったための振り替え休日となっています。僕もそれに便乗して有給休暇をいただきました。
さてその目的は、ディスク・ユニオンの年末のセールの売れ残りを漁ることです。ディスク・ユニオンのセールと言えば、朝早くから並び整理券を貰って、11時の開店を待つというのが恒例だそうですが、僕は行ったことがありません。朝並んだことがないばかりかセール当日に行ったことすらありません。ジャズ喫茶「ビッグボーイ」の店長も「ジャズ東京」のセールはすごいよ、殺気立っている」と言っていました。僕が聞いたところでは、そういうセールでは、オリジナルの希少盤が15万円とか20万円とかで取引されるとか。全く僕には縁遠い話です。そんな高額盤に目もくれないというか買えるはずもない僕などが、そんな混み合った中でウロウロしていては申し訳ない。それでいつも少し後に売れ残りで、僕にも買えるような良盤が無いかなと漁りに行くのが常となっています。
ということで師走の街に繰り出したのですが、ストレートに向かうわけではありません。先ずは眼科医院で緑内症の検査をし薬をもらい、整形外科で五十肩のリハビリをしてから向かいます。ああ、年寄りはイヤだなぁ!

「アサノ」名物カツ・カレー

僕が年内かかりつけの医者に行けるのはこの午前中が最後、考えてみればよいタイミングでの休暇です。
カレーの店「アサノ」はこの近辺では大変に有名なお店ですが、僕は初めて伺いました。お店はカウンターだけの、10人も入れないような狭さで、行列ができる店としても近隣では有名です。僕が行ったときは満員でしたが、僕の前に並んでいるお客はなく、10分ほど待って入店することが出来ました。
メニューはチキン、ポーク、ビーフなど一般に定番のカレーが揃っていますが、何といっても有名なのはブランド豚「高座豚」をとんかつにしてごはんに載せた「カツ・カレー」が有名です。僕がいる間に来店されたお客の9割はカツ・カレーを注文していました。カラっと揚がったとんかつは見た目ヴォリューム満点ですが、食べてみると全くしつこくなく実においしい。またカレーも薬膳カレーとのことで、それほど辛くはないスパイスがバッチリと効いておりおり、これまたとてもおいしい。揚げ物のカツが全くしつこく感じられないのは、このルーにも原因があるかもしれません。
全体にヴォリュームがあるのですが、すんなり胃に収まってくれます。一人で来店される若い女性の方も多く、その女性たちも皆さんカツ・カレーを注文し、完食していました。因みにお値段は1,450円、ちょっと高いような気もしますが、味・量ともに申し分のなく満足できるお店です。

「ポール・ウィナーズ/ライド・アゲイン」ステレオ盤オリジナル

おっと、昼食のことばかり書いてしまいました。肝心のセールでの成果ですが、左の「ポール・ウィナーズ/ライド・アゲイン」のステレオ版のオリジナル、ニア・ミントを3,700円でゲットしました。
僕はベースのレイ・ブラウンが大好きで、「ポール・ウィナーズ」シリーズも何枚か持っており、このレコードも持っていました。しかしオリジナルのNM(ニア・ミント)ということと、僕にも手が届くお値段でしたので即購入決定です。家に帰って再発盤と比べてみようと思ったのですが、現在のところまだ再発盤が見つかっていません。情けない!ともかく本盤はさすがにレイのベースが唸る好録音盤です。あぁデカいスピーカーで、ヴォリュームを上げて聴いてみたい。因みに師である粟村政昭氏は何枚か出ている「ポール・ウィナーズ」ものの中で本作がベストと評価しています。そのこともあって買ったのですが…。
その他3枚、計4枚を約7,000円で購入し本年の打ち止めとしました。最後はちょっと贅沢したかな?

そこで恒例の2017年12月31日現在の所有ジャズ・レコード、CDの枚数を計算しました。

5308枚
昨年末が5073枚でしたので、230枚ほど増えたことになります。月20枚弱買っている計算になります。そんなに買ったかなぁ?この数値をカミサンに知られたら大変なことになります。ご内密に!

さて、2017年最後の今回は、自分で決めたルール・シリーズ第3弾「マイルス・ディヴィス」。マイルスを前回取り上げたのは、2016年9月の第167回で、1946年の録音を取り上げた。それからの録音については、やはりチャーリー・パーカーとの絡みもあるので、後に順番に取り上げていきたい。ということで今回は本年買ったマイルスのCDをご紹介しよう。

第242回Miles Davis vol.11
”Miles Davis Quintet live inEurope 1969”

“Miles Davis Quintet Live in Europe 1969 The bootleg series vol.2” 輸入CD3枚+DVD1枚 Columbia/legacy 8872541853 2

<Personnel>

Trumpetマイルス・ディヴィスMiles Davis
Tenor & Soprano saxウエイン・ショーターWayne Shorter
Pianoチック・コリアChick Corea
Bassデイヴ・ホランドDave Holland
Drumsジャック・ディジョネットJack DeJohnette

<CD1 Contents> … 1969年7月25日 フランス・アンティーブ・ジャズ・フェスティヴァルにてライヴ録音

1.イントロダクションIntroduction
2.ディレクションズDirections
3.マイルス・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウンMiles runs the Voodoo down
4.マイルストーンズMilestones
5.フットプリンツFootprints
6.ラウンドミッドナイト‘Round midnight
7.イッツ・アバウト・ザット・タイムIt’s about that time
8.サンクチュアリSanctuary
9.ザ・テーマThe theme

<CD2 Contents> … 1969年7月26日 フランス・アンティーブ・ジャズ・フェスティヴァルにてライヴ録音

1.イントロダクションIntroduction
2.ディレクションズDirections
3.スパニッシュ・キーSpanish key
4.マスカレロMasqualero
5.マイルス・ランズ・ザ・ヴードゥー・ダウンMiles runs the Voodoo down
6.ノー・ブルースNo blues
7.ネフェルティティNefertiti
8.サンクチュアリSanctuary
9.ザ・テーマThe theme

先に書いた僕の持っているレコード、CDの枚数でアーティスト毎にいうと、最も数が多いのがDuke Ellington156枚、次がマイルスで149枚である。Dukeは多分ジャズ史上最も録音数の多いアーティストなので当然として、僕の最も好きなアーティストであるマイルスの保有数も多い。重複しているものもあるので、149種類というわけではないが、ほぼ正規発売盤は揃っている。正直に言うともうマイルスに関しては、音源を購入する気持ちはなかった。彼の素晴らしさはよく分かっているつもりであり今後これまでに経験したことのない新しい面を発見できるとは思えず、これからは数多くの音源をじっくり味わうことにしようと思っていたのである。ところが買う気が無くなってからも実は何枚か買っている。それは全て海賊版である。中古ショップで500円とかで売られているとついつい買ってしまう。多分2000円なら買わないと思うのだが。
そもそも僕はマイルスに限らず、あるアーティストの音源の全てを集めたいという気持ちが全く無い。それでもファンか!と怒られそうだが、まぁそんな程度のファンとお笑いください。
ところが今回これまで全く知らなかった音源を偶然発見して驚いてしまった。購入は今年4月、右のCDを近所のブックオフの500円コーナーで見つけたのである。いかにも海賊版ぽいが、500円なので買ってみた。実に久しぶりのマイルスものの購入である。海賊版(英語ではブートレッグ(略してブート)というらしい)である。発売元は“Scorpio”で、これをググってみると、イタリアを根拠地にしていたが、日本に移転したとある。えっ!日本は海賊版製作会社の暮らし易いところなの?
まずこのCDだが、裏面を見ると1969年7月26日フランスのアンティーブ・ジャズ・フェスティヴァルにおけるライブ録音で、“from Pre-FM master tape”とある。さらにCD本体には、”Promotional use only Not for sale”と書いてある。フランスのFMラジオで放送用に編集される前のマステープからCD化した、プロモーション用で非売品ということであろう。これはどういうことだろう?こんなことが可能なのだろうか?なんか犯罪の匂いさえするではないか。ということでこの辺りのことには目をつぶろう。
さて、このアルバム録音日1969年7月26日というのは、公式盤でいうと1969年2月の「イン・ア・サイレント・ウェイ」録音のの6か月後、8月の「ビッチェズ・ブリュー」録音の直前に当たる。
僕はこのCDがきっかけでディスコグラフィーを見てみると、「1969 Miles - Festiva De Juan Pins」というCDがCBS/Sonyから出ており、録音日が前日の7月25日とある。このCDのことは全く知らなかった。中山康樹氏「マイルスを聴け!」にも載っていない。もっとも「1969 Miles」は1993年に発売されたらしく、僕の持ってる「マイルスを聴け!」は1992年発行版なのでその時点では、中山氏は聴いていなかったのかもしれない。
ここから想像すると、マイルス・ディヴィス・クインテットは7月25日と26日の2度フェスティヴァルに登場した。そのうちの7月25日分はCBSから正規版として出たが、7月26日分は正規版としては出ていないが、上記Scorpioのブートとして世に出ているということである。
そんな程度の知識を持ってある時いつも行く町田のディスク・ユニオンに行った折、通常はレコードだけを見てCDは見ないのだが、ふと虫の知らせかCDのマイルスのコーナーを覗いた。そこで今回の”Miles Davis Quintet Live in Europe 1969 The bootleg series vol.2”を発見したのである。この組み物はCD3枚(アンティーブの実況7/25、7/26各1枚と11/5ストックホルムでのライヴ録音1枚)と11月7日のベルリンでのライヴのDVD1枚、計4枚組というまさに優れもの。そしてお値段がな、な、何と1400円という驚くような金額でしかも中古ではなく新品だった。迷わず購入したのであった。

思い入れ

僕は、このCDセットに格別の感慨を抱いてしまう。もちろん個人的な感慨である。それは拙HPの第1回に詳しく書いたが要約すると、僕は高校生になりそろそろジャズを聴こうと思い立ち、初めて『スイング・ジャーナル』を買った号の特集がマイルスの「イン・ア・サイレント・ウェイ」で、誌上ではエレクトリック・マイルスに喧々諤々の議論が行われていた。そして僕はそれで初めてマイルスの名前を知った。さらに初めてジャズのレコードを買いに行った時が、マイルスの「イン・ア・サイレント・ウェイ」が一般発売された時なのである。初めて仙台ヤマハのジャズ・コーナーに足を踏み入れた時、壁には「イン・ア・サイレント・ウェイ」のジャケットがたくさん壁に貼り付けられていた。そしてマイルスは翌年発表する次作「ビッチェズ・ブリュー」でさらなる論議を巻き起こすことになるのはご承知の通りである。
僕がこの問題作「イン・ア・サイレント・ウェイ」を実際に聴くのは後のことだが、確かに「ジャズど真ん中」という作品ではないし、熱く燃え上がるような作品でもない。念のためマイルス以外の「イン・ア・サイレント・ウェイ」のパーソネルを示すと
ウェイン・ショーター … ソプラノ・サックス
ジョー・ザヴィヌル … オルガン
チック・コリア&ハービー・ハンコック … エレクトリック・ピアノ
ジョン・マクラグリン … ギター
ディヴ・ホランド … ベース
トニー・ウィリアムス … ドラムス
である。

そして次作「ビッチェズ・ブリュー」の録音はわずか3週間後の8月19日に始まる。「ビッチェズ・ブリュー」のパーソネルはたくさんいるので書かないが、これこそ「イン・ア・サイレント・ウェイ」以上の問題作という評判となった。
これは僕だけの感じ方かもしれないが、良し悪しは別にすると「イン・ア・サイレント・ウェイ」、「ビッチェズ・ブリュー」という作品においてマイルスはジャズ・プレイヤーというよりも「サウンド・クリエイター」として新しい作品に取り組んでいるという印象がある。では「サウンド・クリエイター」として取り組んだ2作品の中間に位置する本作はどんな作品であるのか?チックはエレクトリック・ピアノを弾いているが、ズバリ「ストレート・ジャズ」、トランぺッターとしてのマイルス全開である。挑戦的ともいえるフレーズを吹きまくる。熱い、熱いライヴである。
何が感慨深いのか?日本では、一人の高校生がジャズを聴き始め、ジャズ専門誌において「ジャズを捨てたのか云々」という悪評も飛び交う中、当の本人はヨーロッパで燃えに燃えて伝統的なクインテットを率いトランペットを吹きまくっていたのである。「ジャズを捨てた」処の話ではない、「ジャズに燃え上がっていた」のだ。
もう一つ感慨深い点がある。ドラムのジャック・ディジョネットである。前にも書いたが、僕はたぶん1970年か71年の1月来日したジャックを見ている。「ドラム合戦」という企画ものコンサートで来日したのだ。その時彼は若手のホープ的な紹介しかされていなかったと思うが、これを見るとすでにマイルスのバンドに採用され歴史に残るレコーディングを経験した、「単なるホープ」どころではない若手ナンバー1といった存在だったのだ。ものすごいドラマーだとは思ったが、そこまですごいとは思っていなかった。お見逸れしました。そんなすごい人物が日本の雪の積もる片田舎で、ものすごいプレイをしまくっていたのだ。ありがたいことだ。

「マイルス・ディヴィス/ライヴ・イン・ヨーロッパ 1969」について

前書きが長くなりすぎてしまった。本作の内容について書く時間が無くなってしまった。来年が近くなってきてしまったのだ。本作の内容については改めて、マイルスを年代順に聴いていく時に取り上げよう。本作について評価を一言ですれば、もしマイルス・ファンでこのCDをまだお持ちでない方がいたら、ぜひ買いです。買って絶対の後悔しない作品ですとだけ申し上げて2017年の「ジャズ・ディスク・ノート」は締めといたしましょう。肝心なことに触れられず申し訳ない。

拙HPをお読みいただいた方へ 本年はありがとうございました。実に、実に拙いHPですが、来年も更新を続けていく所存ですので、是非お時間に余裕のある時にまた覗いてみてください。
では、よいお年を!

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第241回2017年12月24日

ジョン・コルトレーン 入門第7回 1946年
「ファースト・ジャイアント・ステップス」

メリー・クリスマス!!
ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

東京・町田「八十八」

毎日寒い日が続きます。日本有数の温暖地である、僕の住む辺りの森もすっかり葉を落とし、冬本番の装いです。皆さん、風邪などひかれてないでしょうか?
さて、「メリー・クリスマス」などと洋風のスタートをしましたが、今回はぐっと和風の話題です。
我が家では、というか我が夫婦は「夫婦忘年会」称し、ちょっとばかり贅沢をして、おいしいものを食べ、おいしいお酒を飲んで過ごす一夜(一夜だけです)を設けています。今年は12月9日土曜日に、夏にランチにうかがって以来の「八十八」さんにうかがいました。
実は、「うなぎ」のおいしい季節、旬は夏場ではなく、冬だといわれています。「冬饅(とうまん)」と呼ばれる冬場のウナギは、厳しい冬を乗り切るために体に脂肪分をため込んでいるので、脂が乗ってまことにおいしいとか。そのことを江戸時代の庶民はよく知っており、「うなぎ」は冬が旬、夏場は脂が乗っておらず、うまみに欠けることから売れ行きが良くない。その対策として考案されたのが「土用の丑の日」キャンペーンであることはよく知られています。

山口瞳さんの色紙

ということで、今年は、以前夏にもご紹介したウナギの名店「八十八」で忘年会ということにしました。しかしさすがにこの時期の「うなぎ」を食される方は多いと見えて、夕方早い時間はすべて満席、19時30分からの予約となりました。
「八十八」町田店は、基本的には障子に仕切られた個室で、ゆったりと食事が楽しめるようになっています。我々が通された部屋には、このお店、といっても横浜の本店の方だと思いますが、贔屓にされていた作家の故山口瞳氏の色紙が飾られていました。

ウナ玉

この日ばかりはちょっと贅沢をし、先ずは喉を潤すビールを注文。その後は日本酒のぬる燗に切り替えて、お新香、白焼き、ウナ玉を当てに豪華な酒盛りです。
白焼きもおいしいのですが、ウナ玉が絶品でした。なんでもだし巻き卵の「だし」にはうなぎのだしを使っていて、他ではなかなか無い味だと思いますとお店の方が言う通り、ふわふわとした卵焼きと中のウナギとの相性が抜群で、さすが老舗の逸品です。
何かの本で読んだのですが、鰻重を待つ間に、白焼きだのウナ玉だのと注文するのは邪道だそうで、本来はせいぜい「お新香」辺りでちびちびと一杯やりながら、うなぎが焼きあがるのを静かに待つというのが「粋」というものなのだそうです。しかし年に一度か二度しか行くことのない贅沢なので、ついついあれもこれもと食べたくなってしまいます。故山口瞳氏のいうところの「田舎者」なのでしょう。

八十八「鰻重」

そしてしめは勿論「鰻重」。ふわふわと柔らかく、脂が乗っていて正に絶品。

町田の元ジャズ・バー「バード」

「八十八」の「鰻重」はヴォリュームたっぷりでかなりお腹がいっぱいになりました。そこで腹ごなしに少し歩き、町田のジャズ・バーの老舗として地元では有名な「バード」で、一杯やって帰ろうということになりました。このお店は、吉祥寺の「メグ」と同様スピーカーに「アヴァンギャルド」を入れていることで知られています。などと書きましたが、僕は初めての訪問です。
お店に入り、スコッチ・ウィスキーのロックを、「ストレート・ノー・チェイサー」と言いたいところですが、お水ももらってチビチビとやっていました。お店に入った時には、ライトなスムース・ジャズがかかっていたので、「あぁ、こういうのもかけるんだなぁ」と思いながら、ストレート・ジャズがかかるのを待ちましたが、一向にかかりません。ジャズ・バーは夜はヴォーカルものがかかることが多いと聞いていたので、お店のお兄さんに「何かリクエストがあったら?」と言われたので、「ヘレン・メリルをお願いします」というと、「ヘレン・メリル? 聞いたことがある名前ですが…」という驚くような答えが返ってきました。僕が余りに驚いているので、お店の年嵩の店員さんが、説明してくれました。ちょうど4日前にオーナーが変わり、まったく不慣れなことそして本日はCDプレイヤーが故障し、今はスマホからダウンロードした曲を流していることなどです。
愛想のいいオニィチャンでしたが、もう行くことはないでしょう。
折角のクリスマスなのに最後は愚痴っぽくなってしまいました。皆さん、良いクリスマスを!!

さて今回は、僕が買って決めているルール、「年に1回はマイルス、コルトレーン、エヴァンズを取り上げる」に従い、ジョン・コルトレーンの巻です。

第241回John Coltrane vol.6 1946

“First giant steps” RLR 88619

<Personnel>

Alto saxジョン・コルトレーンJohn Coltrane
Trumpetデクスター・カルバートソン Dexter Culbertson
Pianoノーマン・ポールショックNorman Poulshock
Bassウィリー・ストーダーWillie Stauder
Drumsジョー・タイマーJoeTimer (aka Joe Theimer)
Vocalベニー・トーマスBenny Thomas

<Contents> … 1946年7月13日 ハワイにて録音

CD1曲目エンブレイサブル・ユーEmbraceable you
CD2曲目オーニソロジーOrnithology
CD3曲目スィート・ミスSweet Miss
CD4曲目イッツ・オンリー・ア・ペイパー・ムーンIt’s only a paper moon
CD5曲目スィート・ロレインSweet Lorraine
CD6曲目ココKo-ko
CD7曲目ナウ・ザ・タイムNow the time
CD8曲目ホット・ハウスHot house
藤岡靖博氏著『コルトレーン』

僕は、コルトレーンの前々回第100回で僕の持っている最も初期のコルトレーンの吹込みとして1951年録音の“First ride”を取り上げた。その時にこのCDに触れ、聴いてみたいのだがレコード、CD・ショップで見たことが無いと書いた。今年に入ってふと思いついて、アマゾンで検索してみるとあるある、至るところで売りに出している人がいるのである。そして安い。結局イギリスの方から(信用できそうなので)、送料込みで約1000円ちょっとで新品のCDを手に入れたのであった。案ずるより産むが易しとはこのことか、ちょっと違うかな?
さて、このCDは、1945年海軍に徴兵されたコルトレーンが、翌年除隊する時に記念として海軍のバンド仲間と録音したものである。詳しい事情はプロフィールを参照してください。
この78回転SP盤4枚のレコードで驚くことは、藤岡靖博氏『コルトレーン』によれば、このレコードは巡り巡って数か月後マイルス・ディヴィスの耳に届く。そしてマイルスはこのコルトレーンの演奏にいたく感銘を受けたというのである。その記憶からマイルスは1949年、ハーレムの「オーデュボン・ボールルーム」でのダンス・ギグにコルトレーンを誘い、更には55年初代マイルスのクインテットに抜擢されることにつながっていくというのである。要は、マイルスはこの演奏を聴いて、将来の大器を見抜いたというのである。

ただこういう歴史的に貴重という録音は、入手に際して少し迷うのである。ビル・エヴァンスの「ヴェリー・アーリー」同様絶対に愛聴盤にはならないのである。今回は安いからいいかということで購入したが、具体的な金額は思いつかないが、高額であったら買わなかったかもしれない。

原田和典氏著『コルトレーンを聴け!』

一方『コルトレーンを聴け!』で原田氏は、「なんて貴重なのだろう。レアなのだろう」としながらも「聴いていて引き込まれるような『いい演奏』かというと話は別。」と冷静である。そして「たどたどしい半熟ビ・バップで、あくまでマイルス・バンドやプレスティッジやアトランティックやインパルス時代のコルトレーンの音楽にはまったファンが、若き日の恋人が写っている卒業アルバムをそっと見るような気持ちで、何年に1回か秘密の小箱をこじ開けつつにやりと楽しむ、そんなパフォーマンスだと思う。」とうまい表現をしている。

マイルスに挑戦して、ここから将来の大器を感じることができるかそれとも恋人の昔のアルバム写真としてひっそりと楽しむか…。ジャズ耳の未熟のことだからマイルスに挑戦するのはおこがましい。恋人の昔の写真としてひっそりと楽しんでいくのがふさわしいかな、僕には。

「ファースト・ジャイアント・ステップス」CD

さて、演奏曲目を見ると、スタンダードかチャーリー・パーカーものと大きく分かれる。僕は、他の連中、特にヴォーカル君などは「スタンダードでいいんじゃないの?」と思っているところに、「いやパーカーだ!」とコルトレーンが主張し、結局スタンダード4曲、パーカーも4曲に落ち着いた、しかしどうせスタンダードやるならパーカーが何度も録音している”Embraceable you”を入れようということで話がまとまったという感じを受ける。
この時代コルトレーンンもご多分に漏れずパーカーに憧れ、模倣に明け暮れていたのであろう。なおコルトレーンは全ての曲でソロを取っている。このバンドのナンバーワン・ソロイストであったことは疑いない。
1曲目の”Embraceable you”はパーカーが何度も録音しているバラード・ナンバーだ。しかしここではベニー・トーマス君のヴォーカルが入る。ヴォーカルの合間にトレーンのソロが入る。少しTpとの絡みもあるが、このTpが危なかっしい。このたどたどしい演奏をバックに何とか雰囲気を出そうとしているトーマス君がいじらしい。
2曲目”Ornithology”はズバリ、パーカーの曲。偉そうに言って申し訳ないが、「ああ素人の演奏だなぁ」という感じ。まだまだだが、やはりこのメンバーでは、トレーンが頭一つ抜けた存在だったことがよく分かる。
3曲目”Sweet Miss”は知らない曲。Tpのデクスター君が覚束ないながら頑張っている。しかし次にトレーンがソロを取ると力量の差が分かってしまう。自分も下手くそなバンドをやっていたことがあるから分かるが、バンドの中に一人だけうまい奴がいると全体を引き上げてくれて良いのだが、他の連中の至らなさがかえって目立ってしまう。これは仕方が無いことだが、至らない人間にはつらい。このつらさよく分かる。
4曲目はよく知られているスタンダード・ナンバーで1曲目以来のヴォーカル入り。ここでのトレーンのソロはちょっと覚束ない感じ。パーカー風に無理して吹いてみようとしたら失敗したという感じがする。
5曲目”Sweet Lorraine”もスタンダード・ナンバーでヴォーカル入り。
6曲目”Ko-Ko”は勿論パーカーもの。『コルトレーンを聴け!』で原田氏は、曲名こそパーカーの歴史的名演と同じだが、あのテーマ・メロディはメンバーには難しすぎたのか演奏されていないとし、この録音8曲中で断トツのベスト、コルトレーン録音史上最初の熱演と評価している。確かにたどたどしい部分はあるが力演である。
7曲目”Now the time”もパーカーものだが、ヴォーカル入り。僕の不勉強のせいかこの曲のヴォーカルものは余り聴いたことが無い。
8曲目”Hot house”は、タッド・ダメロン作のビ・バップ・ナンバー。パーカーものと言っていいであろう。

このCDのデザインは誰が行ったのであろうか?僕にはどうにも「やっこさん」をイメージしたように思えてならない。
ところでこのCDにはほかに1954年6月これもトレーンにとって憧れだったジョニー・ホッジスのバンドに加わったライヴ演奏も収録されているが、それはまた改めて取り上げよう。

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