アルバータ・ハンター (ヴォーカル)

Alberta Hunter (Vocal)

アルバータ・ハンター

1895年4月1日、テネシー州メンフィス生まれ(他1897年4月1日生まれと記載するものもある)。
1984年10月17日ニューヨーク州ルーズヴェルトで死去。

彼女はブルース・シンガーであり、ソングライターであり、看護婦でもあった。
生れはメンフィスだが、11歳の時に家出をしてシカゴに移った。
シカゴでしばらくはジャガイモの皮むきなどをしていたが、15歳で「ダゴ・フランクス」というクラブでブルース歌手としてデビューした。
これがなかなか好評で2年間このクラブで歌い、その後「パナマ」、「ドリームランド」など有名クラブにも出演するようになった。
21年にニューヨークに出、23年にブロードウェイ・ショウ「ハウ・カム」に主演した。
1927年、彼女は、英国やヨーロッパなどにも遠征し、ヨーロッパの聴衆にブルース・シンギングを紹介した人と言われた。20年代には多くのジャズ・マンと録音を行っている。
その代表的なキャリアはデューク・エリントンであり、ルイ・アームストロングであった(どちらも24年に共演)。
ソングライターとしては、名歌「ダウンハーテッド・ブルース」の作者として有名である。
1920年代の歌手である彼女は、ジャズやショーのスタンダード・ソングを彼女のブルースやポップ・ソングと調和させるためにレパートリーに組み入れ、
古典的なブルースとショー的な要素の強いポップ・ミュージックとの間のギャップを埋める橋渡し役を果たしたといわれる。
彼女のヴォーカルの多彩さと、彼女自身の暖かさを感じさせる洗練された口調、魅力的なヴィブラートで、20年代の古典的ブルースの時代を超えて
広域に渡って活躍することができたといわれる。
第二次世界大戦中、彼女は多くの時間を海外で過ごし、USOの援助の元で、中国やミャンマー、インド、韓国、ヨーロッパの国々の軍隊を慰安活動を行った。
第二次世界大戦後もショウなどで活躍したが、自分の時代は終わったの感じたのか1956年芸能界を引退、看護婦の資格を取るためにY.W.C.A.スクールに入る。
57年5月からニュー・ヨークのゴールドウォーター・メモリアル病院で看護婦の仕事を始めた。
しかし、1977年82歳の高齢になってカムバックして歌い周囲を驚かせた。その間もバスター・ベイリーとレコーディング等は行っていたが、
グリニッチ・ヴィレッジの”Cookery”での6週間に渡る連続出演は大変な話題にもなった。
実質的な復帰作は「アムトラック・ブルース」(1980年)
彼女はその後もレコーディングやクラブ出演を続け、その活動は1984年に89歳で亡くなるまで続けられた。

レコード・CD

”Archive of Jazz/Duke Ellington”(BYG 529.071)
“The Smithsonian collection of classic jazz”(P6 11891)
”The Indispensable Fats Waller”(PM 43686)
「アムトラック・ブルース」(CBS 25AP 1914)