アート・ティタム (ピアノ)

Art Tatum  (Piano)

アート・ティタム

1910年(1909年という記載あり)10月3日(10月13日という記載あり)オハイオ州トレド生まれ。
1956年11月5日カリフォルニア州ロスアンゼルスにて尿毒症のため死去。

不世出のピアノの天才と言われる。その華麗なテクニックと天才ぶりの逸話が絶えないが、突然現れた驚異の天才ピアニスト的色彩が強く、また直接的な後継者というのも見当たらないため、まさに「孤高の」という形容詞が付されることが多く、ジャズの歴史などを扱った本などを見てもその孤高ぶりからか「こういうすごいピアニストがいた」的な取り上げ方のような気がする。
両親ともアマチュアだが、父はギター、母はピアノを弾いた。先天的な白内障のため、片目は全盲で、もう片方もわずかな視力しかなかった。幼時に数回手術を受けたが生涯片目が25%、もう片方は全盲であった。幼い頃からピアノを弾き、コロンバスのクーシノ盲学校に学んだ。他にもギターやヴァイオリン、アコーディオンも習得したという。その後2年間トリド音楽学校でも学んだという。
1926年ごろトリドでコンボのバンドを作ったという。
スピード・ウェッブ楽団のピアニスト、ハーマン・ベリーの代役として2週間同楽団で働いたのが縁で、同楽団のレギュラーとなり3か月過ごしたという。
1928年ごろは「チキン・チャーリーズ」というクラブを中心にトリドのクラブで働き、29年にはクラブ出演の傍らラジオ局「WSPD」のハウス・ピアニストを務めた。
193〜31年にかけては、同市「シャトー・ラフランス」のミルトン・シニア・バンドで働いた。
1932年彼の腕前を高く評価したピアニストのジョー・ターナーによって歌手アデレイド・ホールの伴奏者に推薦され、同年冬ニューヨークに出る。ホールの伴奏者となったが、この時期もう一人のピアニスト、フランシス・カーターとデュオを演じていたという。アデレイド・ホールとの仕事は約1年半に及んだが、同時に彼はニューヨークのナイト・クラブに時間を見つけては出演していた。アデレイド・ホールは拙HP289回でエリントンとの録音を取り上げた歌手である。
1933年マッキニーズ・コットン・ピッカーズのピアニスト、トッド・ローズが病気となった時、2週間ほど代役を務めた。
1933年に初めてレコーディングでピアノ・ソロで4曲を録音したという。
その後デッカ・レコードとの契約を得て、多くの演奏を残した。

レコード・CD

「アート・ティタムの芸術」(MCA-3073〜75)