アーティー・ショウ (クラリネット&バンド・リーダー)

Artie Shaw (Clarinet & Band leader)

アーティー・ショウ

フルネイム:アーサー・ヤコブ・アーショウスキー
1910年5月23日ニューヨーク生まれ。
2004年12月30日死去。

粟村政昭氏は『ジャズ・レコード・ブック』の中で次のように評している。
「今日のモダン・ファンはアーティー・ショウのレコードなどには鼻も引掛けぬであろうし、その昔を知る人の中にもショウの礼賛者というのはあまり見当たらない。
しかし僕は昔からショウという人を大いに買っている。彼がスローで吹く甘いクラリネットは、テンポの遅いものを苦手としたベニー・グッドマンをはるかにしのいでいたし
何よりもまず彼はリーダーとして野心的な人であった。」
確かに僕もこの人はスイング時代を代表するスイート・スイング・バンドのリーダーとばかり思っていたが、ビリー・ホリディの著『奇妙な果実』などを読み、
彼女をバンドのフルタイム専属歌手に据え、黒人女性ヴォーカリストを採用した最初の白人バンド・リーダーであるなど意外に硬派な一面を知り興味を持つようになった。
ただし、硬派な反面気まぐれな面も強かったようだが。

生まれはニューヨークだが、7歳の時に両親と共にコネチカット州ニュー・ヘヴンに移り、その地で成長した。
10歳の時にウクレレを覚え、12歳で初めてサックスを習った。その後クラリネットに持ち替えて練習した結果めきめきと腕を上げて、
同地のハイ・スクールの学生バンドに加わったという記述とハイ・スクールでサックスを習い、やがてクラリネットに転向したという記述がある。
友人のバンジョー奏者ジーン・ビーチャーと組んでローカル・コンテストに出場して入賞したことから、卒業後自分のグループを作った。
15歳の時に家出し、ケンタッキーでミュージシャンとして働いたがうまく行かず一度故郷に帰った。
その後フロリダを経てクリーヴランドで3年間滞在し、その地のいくつかのバンドで演奏活動を行った。
29年カリフォルニアでアーヴィング・アーロンソン楽団、コマンダーズに参加し、テナー奏者として働いた。
テナーでの参加はクリーヴランド時代からのサックス仲間であるトニー・バスターの勧めによるものであった。
その後このバンドと共にシカゴを経てニューヨークにきたショウはここでバンドを離れる。
それからはニューヨークのクラブでウィリー・“ザ・ライオン”・スミスと共演したりしていた。
また31年からニューヨークのCBS専属となり、レッド・ニコルスやフレッド・リッチなど多数のレコーディングに参加した。
33年一時一緒に仕事をしたロジャー・ウルフ・カーンのバンドに再加入し、その他アンドレ・コステラネッツやポール・ホワイトマン楽団にも一時加わり、
またフリー・ランサーとしてラジオの仕事やレコーディングにも参加している。

ところが34年暮に突如ペンシルヴァニア州バックス・カントリー地方に小さな農場を取得し、全く音楽を離れ、
その地でビックス・バイダーベックについての本を著そうとしたが、数か月でまたニューヨークに戻り、
フリーランスの仕事をしながら楽回に復帰したのであった。

そして35年25歳の時に、自身のクラリネットに、ストリング・カルテット(弦楽四重奏)、ギター、ベース、ドラムスという異色の編成のスモール・グループを結成し、ニューヨークのインペリアル・シアターで開かれたジャズ・コンサートに出演した。そこで演奏した『B-フラットの間奏曲 "Interlude in B-flat"』で初めての大きなセンセイションを引き起こした。
間もなく弦、ブラス、テナーという珍しい編成のバンド作ったが長続きせず、さらにストリング・カルテットを加えたビッグ・バンドを結成、
ショウのビッグ・バンド時代のスタートを切った。
このバンドでは、時に自分のクラリネットとリズム・セクション、それにストリング・カルテットを組み合わせた録音を試みるなど野心的な企画を次々と打ち出していった。
しかしこのバンドは、音楽的にも商業的にも失敗に終わった。

そこで37年4月から伝統的なバンドに編成替えを行い、洗練されたスイング感漂う演奏で人気を得た。
この37年春に始まったバンドは、「アーティー・ショウ・アンド・ヒズ・ニュー・ミュージック」と名付けられ、再出発を目指した。
しかしスタートがやや遅くベニー・グッドマン、トミー・ドーシーなどのビッグ・バンドの後塵を拝する形となってしまう。
しかしショウは着々とバンドの強化に力を注いでいた。
1938年初頭にメンバーの3分の1を入れ替え、専属歌手に白人バンドとしては最初に黒人女性歌手、カウント・ベイシー楽団を辞めたばかりの
ビリー・ホリディを雇い入れ(2月から10月まで在団)センセイショナルな話題を提供した。
そしてボストンの「ローズランド・ステート・ボールルーム」に長期出演契約を結ぶなど上昇気運に乗るようになった。
特に後にグレン・ミラー楽団で名を上げたジェリー・グレイを迎えハリー・ロジャース、アル・アヴォラと共にアレンジを担当させ、
またショウ自身がオリジナルを積極的に提供するようになってからバンドスタイルは一新し、素晴らしいビッグ・バンドに急成長するに至った。
「ローズランド・ステート・ボールルーム」からの放送はニュー・イングランド地方やニューヨークの多くの若者たちにこのバンドの音楽を印象付けた。
こういったショウ楽団の評判に目を付けたRCAヴィクターで、既にベニー・グッドマン、トミー・ドーシーを専属としていたが、
1938年7月早速ショウ楽団とも専属契約を結ぶ。その第1回の録音の内の1曲「ビギン・ザ・ビギン」が空前の大ヒットとなり、
一躍ベニー・グッドマン、トミー・ドーシーと並ぶスイング・バンドの地位を獲得した。

続く

レコード・CD

"Mildred Bailey/Her greatest performances"(Columbia JC3L-22)
「ビリー・ホリディ物語 第1集」(CBS SONY SOPH 61)
"Jack Teagarden/King of the blues trombone"(Epic JSN 6044)
「バニー・ベリガン・アンド・ヒズ・ボーイズ/テイク・イット・バニー!」(Epic SICP 4012)
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ11/ザ・サウンド・オブ・スイング」(RCA RA-63)
"The complete Artie Shaw Vol.7 1939-45"(Bluebird AXM2−5580)
"The complete Artie Shaw Vol.4 1940/41"(RCA AXM2−5572)