ベニー・モーテン (ピアノ&バンドリーダー) 

Bennie Moten (Piano & Bandleader)

ベニー・モーテン

1894年11月13日ミズーリ州カンサス・シティ生まれ。
1935年4月2日同地(ニューヨークという記載あり)にて死去。

ベニー・モーテンは、1894年11月13日ミズーリ州カンサス・シティで生まれた。モーテンの生まれたカンサス・シティという町は、カンサス州とミズーリ州の境にあって、二つの州に属しているのであるが、カンサスという名にも拘わらず、このミズーリ州にある市の方が歴史的にも栄えていた。
モーテンは、子供のころから少年クラブに入って、始めはバリトンを吹いていたが、母親がピアニストであったので、自然に自分もピアノを習うようになったという。
シュラー氏はこのモーテンのピアノ教師が重要だとする。ピアノ教師は2人いたが、2人ともラグタイムの初期の偉人スコット・ジョプリンの弟子だったという。すなわちモーテンはラグタイムのピアニストとしてキャリアをスタートさせたのだというのである。
さて、モーテンは10代でローカル・バンドのピアニストとなって働き、1918年には、パナマ・クラブでピアノ・トリオ(他の2人は歌手とドラムスだった)を率いて、なかなかの人気を得た。1920年代に入ると、クインテットにまで拡大したが、シュラー氏は、この時期彼らのレパートリーは、ラグタイム、第一次大戦後のティン・パンアレイの甘い通俗歌謡で構成されていたことは明らかであるとする。モーテンがラグタイムを演奏していたことは、1924年の録音「12番街のラグ(Twelfth street rag)」からも明白であるという。
さらにシュラー氏は、このようなことはモーテンに限らず、ジェス・ストーン、ジョージア・リー、偉大なアルフォンス・トレントのような他の音楽たちもラグタイムや「ノヴェルティ」の伝統の下で訓練を受け、客の求めに応じて、「スイート」から「ノヴェルティ」やラグタイムに及ぶあらゆるスタイルの通俗音楽を演奏していたという。
モーテンの最初の録音は、1923年9月オーケー・レコードに8面分が行われた。(シュラー氏が)それを聴くとリズムが信じられないほど硬直していて、同時期のキング・オリヴァーやO.D.J.B.やルイジアナ・ファイヴなどのグルーヴ感を全く欠いているという。しかも上手なラグタイムともいえず、ほとんど全てがB♭で書かれた編曲(あるいは出来合いの編曲)にいくつかのソロを挿入しただけのものであり、ビートについても、このバンドのビートは常に重く、4ビートを強調したが、当時の多くの2ビートや最良のニューオリンズの楽団の軽快で流麗な4ビートとは対照的であると述べる。
そして20年代後半にバンド編成を拡大し、カウント・ベイシー、ベン・ウエブスター、ウォルター・ペイジ、ジミー・ラッシングなどが参加した。
このバンドはカンサス・シティを代表するバンドとして30年代初頭まで、しばしばニューヨークにも楽旅を行った。
モーテンの急死後、残留メンバーを中心にカウント・ベイシー楽団が結成された。

レコード・CD

「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・イーラ」第7巻“ベニー・モーテン”
“Bennie Moten K.C. Orch. 1929-31/Harry Dial quartet 1946”(IAJRC 7)