ベッシ―・スミス (ヴォーカル)

Bessie Smith (Vocal)

ベッシ―・スミス

1895年4月15日テネシー州チャタヌガ生れ。
油井正一氏によれば生年月日については1894年、1898年など色々異説があるらしいが、ジョン・テルトン著『ジャズ人名事典』によったという。
1937年9月26日ミシシッピー州クラークスデールで自動車事故のため死去。

幼時のことはよく分かっていないが、下層階級の出で芸人の素質があり、背が高く痩せて美人であったという。1910年頃からミンストレル・ショウの一座に加わりプロ入りしたと言われる。
「マザー・オブ・ブルース」(ブルースの母)と呼ばれるマ・レイニーに認められ、その一座に加わり、南部を巡業しながら指導を受けたという。
1914年自身のついた彼女は、レイニーの下を離れ独立、T.O.B.A.(Theatre owner's booking agency)に入った。このミンストレルで彼女の伴奏をしたのが、のち長く彼女のマネジメントをすることなるクラレンス・ウィリアムスである。
20年代に入った頃、クラシック・ブルースが黒人に受けることを知ったレコード会社は、次々と黒人歌手を発掘して売り出すようになった。
1923年、コロンビアのポピュラーA&Rマンにフランク・ウォーカー、レイス部門(黒人向けレコード)の主任にクラレンス・ウィリアムスが就任し、ベッシーは週給75ドルのスターとしてコロンビアに迎えられることとなった。
10年間に延べ160曲を録音し(実際は180曲だが、うち20曲は未発売のまま原盤行方不明となっている)、約1000万ドルの売り上げを記録したと言われる。
しかし26年を頂点として、洗練されていく黒人たちの好みの変化から、人気が急速に落ちて行った。特に1929年の大恐慌でアメリカが大不況に陥ったが、それを境にレイス・レコードは全く売れなくなった。ベッシーはコロンビアから契約を解かれ、居酒屋でエロ歌を歌う身分に落ちぶれたという。
しかし1935年ベニー・グッドマンが巻き起こしたスイング・ブームによって、ジャズも再び注目を集めるようになり、36年にはブルースとジャズのコンサートに彼女の姿も見られるようになった。失意の深酒から、太りきった身体となり、声は荒れていたが、驚くべきヴォリュームの性質と表現の豊かさは失われていなかったという。
やがて37年ジョン・ハモンド氏の主催するカーネギー・ホール・ジャズコンサート「スピリチュアルからスイングへ」に出演依頼があり、カムバックの希望が見えた矢先、自動車事故で数奇な生涯を閉じた。

ベッシー・スミスのお墓

彼女は1937年9月26日(日)早朝、たった一人でメンフィスに向かって車を走らせていたが、道路わきに駐車していた大型トラックに非常なスピードで追突、ベッシーの乗っていた車は仰向けに回転して大破したという。ベッシーはクラークスデールのG.T.トーマス病院の黒人病棟に収容されたが、出血多量のため(内出血のためという記載もある)、その日の12時15分に絶命した。
遺体は兄が引き取り、フィラデルフィアのマウント・ローン墓地に葬られたが長らく墓石もなかった。墓石はそれから33年後の1970年ジャニス・ジョプリン、ジョン・ハモンドの寄付金によって建立された。
彼女の歌唱は「ブルースの皇后」と言われるように威厳と説得力があり、何よりも黒人の真実を歌いつくした。豊かな声量、そして歌詞の背後に潜む意味までも深くえぐり出して歌い上げるところは第一級のリート歌手の名唱と同様に感動的である。

レコード・CD

“Bessie Smith The collection”(Columbia CK44441)
「ベッシー・スミス物語 第2集/エニィ・ウォマンズ・ブルース」(SOPB 55026)
「ベッシー・スミス物語第3集/エンプティ・ベッド・ブルース」(CBS SOPB 55032)
"Bessie Smith/Nobody's blues but me"(CG 31093)