ビリー・ホリデイ(ヴォーカル) 

Billie Holiday(Vocal)

ビリー・ホリデイ

本名:エリノア・フェイガン(Eleanora Fagan)
1915年4月7日メリーランド州ボルチモアにて生まれる。
1959年7月17日ニューヨークにて死去。44歳という若さだった。

『ビリー・ホリデイ自伝』日本語版

愛称はレディ・デイ(Lady Day)ジャズ史上最も重要な歌手の一人とされる。
彼女の人生などについては自伝『奇妙な果実』(原題“Lady sings the blues”晶文社)があり、基本的にはそれによるところが大きい。
しかしこう言っては何だが、彼女が筆を舐め舐め自伝をものしたとはどうしても思えないのだが、よく見ると著者は“Billie Holiday and William Dufty”となっている。
William Dufty(ウィリアム・ダフティ 1916〜2002)は、アメリカの作家であり、労働組合運動の活動家、ミュージシャンとある。
実際にはビリーが語ったところをダフティが文字にして本にまとめ上げたというところであろう。
またこの『自伝』はビリーの記憶をもとに語ったところをそのまま文字化しただけのようで、ビリーの記憶違いやビリーの意向も働いており客観的なドキュメンタリーではない。
しかし何といっても本人が実際に語っていることの意味は大きく、彼女の人生を知る上でのまず第一の資料であることは間違いない。
私事だが、小生はこの本を学生時代に読んで正直頭が痛くなったことを覚えている。10代で妊娠・出産するのは当たり前、売春はするは、クスリ(麻薬)は打つは、でどん底生活そのままである。そしてそういった状況を作り出している当時世界第一の先進国と思っていたアメリカの人種差別。こんな中で生活して行かなくてはならないとしたら、まともに生きるなどということは不可能だろう。そこから抜け出す道はないのか、抜け出そうとしても「差別」からは逃れられないのである。その中で黒人たちはどん底生活の、親から子への連鎖を続けなければならないのだ。

生い立ち
2歳ころと思われるビリー・ホリデイ 自伝『奇妙な果実』は「私が三つになった時、初めて父と母は正式に結婚した。その時でさえ、父は18、母は16という子供のような夫婦であった」という有名な書き出しで始まる。が、これさえ既に真実ではないという。真実だとしても、生んだ時は父親15歳、母親13歳なので凄い話ではあるのだが。因みに左の写真は2歳ころのエリノア。
その後の研究者たちの調査によれば、父親のクラレンス・ホリディはビリーが生まれた1915年時点で17歳、母親サディ・フェイガンは19歳だったといい、さらに実際は父クラレンスと母サディは結婚しなかったばかりか、クラレンスは生まれたエリノアを認知しようとさえしなかったとされる。
『自伝』における話の辻褄の合わなさは、『ビリー・ホリデイ』(音楽之友社)の著者バーネット・ジェイムズも指摘していて、「ビリーの人生は詩的な事実で包まれていたのだろう」と優しく表現している。
自伝では父親は15歳なので、半ズボンをはき新聞配達などをしながら学校に通っていて、ミュージシャンになることを夢見ていたことになっている。また母親は結婚前にフィラデルフィアとニューヨークで女中をしていたというのだが、子供を産む前と考えるといくらなんでも13歳以前にフィラデルフィアとニューヨークで女中をしていたというのは考えにくい。
さらに自伝では、父クラレンスは従軍してパリに行ったというので、第一次世界大戦(1814〜1918 アメリカの参戦は1917年)の時であろう。帰米するとギターの練習を一身に行い、マッキニーズ・コットン・ピッカーズ(M.K.C.P.)に入団し、ツアーに出るようになったという。M.K.C.P.は1926年ミシガン州デトロイトで結成された有力バンドだが、クラレンス・ホリデイの加わったレコードは見当たらない。
いつのことか記載がないが、父親はエリノアを「お転婆」だと言って、「ビル」と男の子のように呼んでいた。エリノアは自分の名前が大嫌いだったので、この「ビル」を使うことにし、より可愛い「ビリー」と名乗ることを決めてしまったという。これが「Billie]と名乗るようになる自伝での経緯であるが、彼女が女優のビリー・ダヴのファンだったので、これに因んだという説もある。因みに「Billy」は男性名で「Billie」女性名。
17歳のビリー・ホリデイ ともかく父親がいないので、エリノアは幼少期を母子家庭で育てられることになる。しかし稼がねばならない母親サディにとっても娘の面倒を見る時間は無く、結果ホリデイの世話は母の親族に委ねられるようになる。母親はニューヨークに女中奉公をしに出掛けたと自伝にはあるが、後の研究者ははっきりと「売春」に行ったのだと書いている。
エリノアが預けられた親族の家も極貧状態であり、さらに母の従姉アイダの暴力に耐えなければならなかった。またある日、自分を腕に抱いて昼寝させていた曾祖母がそのまま死亡してしまい、死後硬直した曾祖母の腕で首を絞められて目覚め、パニックを起こしたことで心的外傷後ストレス障害を発症し、何週間もの間無言症を患うことになった。
これは自伝には書いていないことであるが、やがて学校へ全く通わなくなったエリノアは、1925年1月25日に少年裁判所へ引き出され、裁判官より「然るべき保護者のいない未成年」であると断定された。その結果、ボルティモアの黒人専用のカトリックの女子専用寄宿学校「良き羊飼いの家」(House of Good Shepherd for Colored Girls)へ預けられた。同年3月19日、エリノアはエドワード・V・キャサリー神父より洗礼を受けた。
1925年10月25日、サディは仮釈放の身となったエリノアを手元に引き取った。しかし、サディは相変わらず外泊が多く、そんなある夜エリノアは近所の男性に強姦されてしまう。自伝では10歳の時1925年だが、イギリスの音楽ジャーナリストが著した『ビリー・ホリディ』によると、それは1926年のクリスマス・イブのことだったという。エリノアはすぐに医師の診察を受け、男性は有罪となったものの、親の保護と養育が充分ではないと判断されたエリノアは、1925年に補導されたときと同様、「良き羊飼いの家」に再送致された。同施設では1927年2月まで生活した。
1928年にはサディは再びエリノアを取り戻し、共にニューヨークへと移り住む。サディは娘を売春宿に預けて、再び売春を始める(自伝では女中として働き始める)。エリノアは1回20ドル花代を取り、5ドルを売春宿のマダムに渡したと自伝にはあるが、調査によると1929年に母と共にエリノアが売春の容疑で逮捕、留置されたという記録が存在するという。右はエリノア17歳(1932年)の時の写真。
歌手デビュー
バーネット・ジェイムズ著『ビリー・ホリデイ』 やっとエリノアは母親とハーレムで暮らし始めたころ、デフレがやってきたと自伝には書いてある。この頃父のクラレンスはフレッチャー・ヘンダーソン楽団(1928年11月〜1932年11月までの録音にその名前が見える)で演奏しており、彼女は父親との再会を果たしていた。そこから自伝でもクライマックスの一つであるエピソードが語られる。彼女たちは139丁目のアパートに移っていた。そして母親は重い病気を患い働きにも出られない状況だった。アパートの家賃も払えず、立ち退き命令を受けていた。エリノアは15歳になっていたというから1930年の不況が深刻化していた。いよいよ明日アパートを追い出されるという日は身を切られるほど寒い日だった。エリノアはコートも着ず仕事を捜し歩いた。ハーレムの有名なジャズ・クラブ「ポッズ&ジェリーズ」に着いた時には絶望的な気持ちになっていた。
「わたしは扉を押して中に入りボスに会いたいといった。わたしはダンサーだと偽り、ここで働きたいといった。ジェリーは、私をピアニストの所に連れて行き、踊れと言った。わたしは惨めに踊った。わたしは彼に「無駄な時間を使わせるな」と怒鳴りつけられた。私はつまみ出されそうになりながら、泣いて仕事を頼み続けた。最後に同情してくれたのはピアニストである。彼は言った。「ねえちゃん、お前歌えるかい?」「もちろん歌えるわ、だけどそれでどうなるの?」私は、それまで暇さえあれば歌っていたが、それでお金がもらえるなど夢にも思っていなかった。(中略)私はピアニストに『一人旅(Travelin' all alone)』を頼んだ。どの歌よりも、私の気持ちには、この歌がうってつけだった。私が歌い終えた時、客は皆ビールを前に泣いていた。私はフロアーから38ドルのチップを拾い上げた。その晩、そこを出るとき、ピアニストと山分けしたが、それでもまだ57ドルあった。」
これはエリノアがこの時初めて人前で歌ったことを示唆している。しかし実際は、このドラマチックなエピソードの前から、禁酒法時代のハーレムの非合法のナイトクラブに出入りし、働くうちに歌うようになったらしい。たまにはお金をもらって歌ってもいたということを何もの人が目撃証言をしている。
こうして「ポッズ&ジェリーズ」で歌うようになったのだが、そこで初めて「レディ」というあだ名がつく。またこの頃には「ビリー・ホリデイ」と名乗っていた。ここからは「ビリー」と書いていこう。当時の慣習は歌い手が、客のテーブルからチップをもらった。それをビリーは破ったのだった。彼女はテーブルにおいてあるお金をもらうのではなく、直接客から受け取るようになる。その振る舞いがお高く留まっているように見え、「ダッチェズ(侯爵夫人)」とか「レディ(淑女)」気取りと揶揄されたのであるが、それを彼女は気にも留めなかった。
自伝にはこうある。「私のすべての人生は「ログ・キャビン」で始まった」と。ビリーがデビューしたハーレムの有名なジャズ・クラブ「ポッズ&ジェリーズ」は、1933年禁酒法が終了すると、「ログ・キャビン」と名称を変えていた。ここには多くのお偉方がやってきた。ある夜はボスがバーで立っているポール・ムニに紹介した。ポール・ムニは1932年公開され大ヒットした映画『暗黒街の顔役』の主演男優。音楽界で大物になりかけていたジョン・ハモンドもやって来た。ハモンドは、ミルドレッド・ベイリーやレッド・ノーヴォ夫妻(1933年に結婚したての新婚さん)、若くてハンサムなベニー・グッドマンという青年もつれてきた。
さらにハモンドはジョー・グレイザーもつれてきた。グレイザーは大代理人であり、マネージャーであり、ルイ・アームストロングやミルドレッド・ベイリーを握っていた。彼は即座にビリーとも契約した。そして長年にわたってグレイザーは彼女のマネージメントを行うことになった。
初レコーディング
[Your mother's son-in-low]ラベル 記念すべき初レコーディングについては彼女自身の言葉(『自伝』)から引用しよう。
「私の最初のレコードはベニー・グッドマンと吹き込むことになった。私は、あの日を永久に忘れることができない。ベニーは私を呼びに来て、下町のスタジオに連れて行った。そこで私は、旧式の大きなマイクロフォンを見た。半分死ぬほどの恐怖だった。こんなものに、どうして面と向かえよう。誰も私に、気持ちの静め方を教えてくれなかったが、そのセッションに来ていた有名な二人組、「バックとバブルス」のバック・ワシントンは、私を震え上がらせている原因を鎮めるためにこういった。
『あの白人たちに、君が怖がっている素振りを見せるなよ、奴らは君を笑うぜ』
次に彼は私をマイクの側に立たせ、
『何もこれを見たり、この中に歌わなくたっていいんだぜ。ただ側に、立ってさえいればいいのさ』と言った。
それは効果があった。私はマイクを無視して<男というものは(Your mother's son-in-low)>と<リフィン・ザ・スコッチ(Riffin’the scotch)>を吹き込んだ。私はこの吹込みで、35ドルもらったが、このレコードの反響はなかった。」
以上は自伝『奇妙な果実』(原題“Lady sings the blues”晶文社)からの引用であるが、この翻訳は油井正一氏と大橋巨泉氏の共訳である。この吹込みはCBSソニーから出た2枚組レコード『ビリー・ホリデイ物語 第1集』に収録されている。そこでの邦題は<リフィン・ザ・スコッチ(Riffin’the scotch)>はそのままであるが、”Your mother's son-in-low”は「ママの息子になって」である。全く異なるが、『ビリー・ホリデイ物語 第1集』のレコード解説は油井正一氏であり、邦題を担当しているのは大橋巨泉氏である。同じ英題を訳してどうしてこうも違うのか質問したいところだが、お二人とも鬼籍に入ってしまわれた。
もう一つ僕には気になることがある。これは『自伝』に書いてあることである。以下かいつまんで紹介する。
「毎朝仕事が終わってから、きっとどこかで、大きなジャム・セッションがあった。ベニー・グッドマンやハリー・ジェイムズのようなミュージシャンもラジオの仕事が終わってからよく表れた。誰もが私の友達だったが、、ベニー・グッドマンとの交際は特別の関係である。私とベニーは1週間に1度は、こういうジャム・セッションで落ち合い、数時間を一緒に過ごした。ビリーのママは白人の青年の一緒に歩き回ってはいけないとくどいほど注意をし、ベニーの姉のエセルは当時ベニーのマネージャーをやっていたが、将来弟が大物になるだろうと目星をつけていたので、黒い女と問題を起こすことを望まなかった。そして言う。
「ベニーは立派な男だった。絶対に退屈な男ではなかった。二人は一緒に過ごすために、ママや姉の裏をかいた。ベニーとの交際は、私が別の恋愛に悩むまで、相当長い間続いた。」
続く

レコード・CD

『ビリー・ホリディ物語 第1集』(CBS SOPH 61・62)