ビング・クロスビー(ヴォーカル)

Bing Crosby (Vocal)

ビング・クロスビー

本名:ハリー・リリス・クロスビー Harry Lillis Crosby
1903年5月3日(5月2日という記載あり)ウィスコンシン州タコマ生まれ。
1977年10月14日スペインマドリード郊外のゴルフ場でコースを回った後心臓麻痺で死去。

今の日本ではクリスマスの時期に「ホワイト・クリスマス」を歌った人としてCDなどがショップに並ぶだけだが、アメリカが生んだ最も偉大なポピュラー・シンガーである。
イングランド系の父親とアイルランド系アメリカ人の母親のもとに生まれた。
高校時代から演劇や音楽に関心を持ち、同州第2の都市のスポーケンでトップ私立大学のゴンザガ大学法学部に進学するが、友人のアル・リンカーらとジャズ・バンドを結成し、
ドラムを叩いたり歌ったりしていたという。
そしてほどなく大学中退し、プロ・ミュージシャンとなった。後年にゴンザガ大学に私財を投じてビング・クロスビー・センターを建設し、現在も残っている。
1926年に当時の人気オーケストラであるポール・ホワイトマン楽団に歌手として入団、翌1927年にはホワイトマン楽団内で結成された男性3人組コーラスグループ「リズム・ボーイズ
」のメンバーとなる。そして「リズム・ボーイズ」は人気グループとなっていく。
その後、ソロで歌唱した1931年の「アイ・サレンダー・ディア(I Surrender, Dear)」 などがヒットしたことから、ソロ歌手として独立する。
この年、ラジオ普及が進んだ時代を背景に、CBSラジオで自らのラジオショー「ビング・クロスビー・ショー」を持つに至って、全米的な人気を獲得した。
ラジオを媒体として人気を得た歌手の初期の代表例である。
クロスビーは1930年代当時、ラジオと共に普及し始めたマイクロフォンの増幅機能を活かして、声を張り上げず滑らかに発声する歌唱法「クルーナー・スタイル」を最初に
確立した歌手といわれる。
クルーナー・スタイルとは、マイクロフォンとスピーカーを介することで発声の制約が生じることを逆手にとって編み出された歌唱法であったが、オペラなどと同様に肉声で大声を
力強く出さなければならない在来の歌唱法を大きく革新したもので、歌唱にスマートに洗練されたイメージをも与え、広く大衆の支持を得ただけでなく、その後のポピュラー・ソング
の曲作りにも大きな影響を与えた。
1930年代に歌手としてトップスターの地位を確立したクロスビーは、その後映画にも進出し、第二次世界大戦前後のミュージカル映画の全盛期を通じて生涯で57本の映画に出演した。
ボブ・ホープと組んで20年以上にわたるロングランシリーズとなった「珍道中シリーズ」をはじめ、映画興行でも最も観客動員力のある主演スターとして長年ハリウッドのトップに君臨した。
また、『我が道を往く』では、アカデミー主演男優賞を受賞し、『喝采』では、同賞にノミネートされているなど、その演技力も高い評価を得た。
なお、歌手として1940年以降、13曲の全米No.1ヒット(『ビルボード』誌)を持つ。「ホワイト・クリスマス」や「星にスイング」、「サイレント・ナイト」などの数々のヒット曲を
世に出したこともあり、生涯のレコード売上は4億枚を超えるという。
中でも第二次世界大戦中の1942年に発売され、リメイク版を含めて全世界で4千500万枚を超える大ヒットとなった「ホワイト・クリスマス」(White Christmas)が有名 。
なお、この曲は発売以降ビルボードで14週間1位を記録した。クロスビーは他にも多くのクリスマスソングを歌っており、「クリスマスソングの王様」とも呼ばれている。
第二次世界大戦後にはミュージカル映画にも多数出演を続けたほか、人気ラジオ番組となった「ビング・クロスビー・ショー」も継続した。さらに1950年代に入ると、テレビジョンの
普及に併せてテレビショーやトークショーなど、映画以外のジャンルでも活躍した。

レコード・CD

“An introduction to Bix Beiderbecke 1924-1930”(Best of jazz 4012)
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第11巻/ザ・サウンド・オブ・スイング」(RVC RA-68)
"The Duke"(History 204140 302〜204159 302)