チャーリー・パーカー (アルト・サックス)

Charlie Parker (alto sax)

Charlie Parker 1920年8月29日カンサス州カンサス・シティ生まれ。
1955年3月12日ニューヨークにて死亡。34歳だった。
フル・ネイムは「チャールズ・パーカー・ジュニア」とする書物などもあるが、ロス・ラッセル著『バードは生きている』によると母であるアディ・パーカーは「ミドルネームはない」と繰り返し主張しているにもかかわらず、三人目の妻ドリスと正妻ではないが一時期生活を共にしたチャン・リチャードソンとの遺産争いが起こった時にドリスが提出した申立書に「チャールズ・パーカー・ジュニア」とあるため、これがフルネームと思われたと推測される。

マイルス・デイヴィスはこのように述べている「ジャズの歴史?それは簡単だ。4つの言葉で全て言える。[Louis] [ Armstrong]そして[Charlie][Parker]だ」。ジャズに革命を起こした人物である。「Yardbird」、略して「Bird」というあだ名も非常に有名である。ジャズ界で「Bird」といえば、鳥ではなくチャーリー・パーカーのことである。

「チャーリー・パーカーの伝説」(晶文社) ジャズの革命児の割に日本では彼に関する本は少ない。僕自身彼に関するまとまった本としてはロバート・ジョージ・ライズナー編集の「チャーリー・パーカーの伝説」しか保有していない。最近ロス・ラッセル著「バードは生きている」を入手したので少しづつ追記していきたい。「チャーリー・パーカーの伝説」にはその本編もさることながら、巻末の大和明氏による「チャーリー・パーカーの生涯とその遺産」が短いながら彼の生涯をまとめていて貴重である。それ以外の彼の人となりや演奏の解説などは、レコードやCDのライナー・ノーツなどによるものである。

チャールズ・パーカー・ジュニアの生れたカンザス・シティはカンサス川がミズーリ川に合流する地点にあり、ミズーリ州側とカンザス州側の2つに分かれている。合流点以東はすべてミズーリ州となっており、以西ではミズーリ川以北がミズーリ州、以南がカンザス州となっている。市名からカンザス州側がメインとなる都市であると思われがちだが、実際には人口が多いのも、超高層ビルが立ち並ぶダウンタウンが発展しているのもミズーリ州側である。そのため単に「カンザス・シティ」と言った場合、ほとんどはミズーリ州側を指す。チャーリー・パーカーが生まれたのはカンサス側であるが、育ったのはミズーリ側である。

まず、このカンザス・シティで生まれ育ったということはパーカーにとって非常に重要なことであると思われる。1930年代初頭カンザス・シティはジャズ界においては全く無名の場所だったという。ニュー・ヨーク、シカゴ、ニュー・オリンズとは比べものにならず目立たない地方都市だったという。しかし、その素晴らしさを知っている者もいたという。特にサックス奏者は強者揃いだった。1934年当時ジャズ界きってのサックス奏者コールマン・ホーキンスに当時は無名だったレスター・ヤング、ハーシャル・エヴァンス、ベン・ウエブスターが挑戦し、ジャム・セッションは翌日遅くまで続きついにホーキンスが音を上げたというのだ。当時ホーキンスが他に一歩譲だということは考えられないことだったという。これを伝え聞いたニュー・ヨークやシカゴのタレント・スカウトがカンザス・シティにやってきた。そしてそこで目にしたのは、禁酒法などどこ吹く風とナイト・クラブ、キャバレー、ショー・バーには人があふれ、大恐慌も関係ないとばかりの繁栄ぶりであったという。
そしてこうした店のどれもが生演奏を聴かていたという。演奏は夕方早い時間から夜通し続き、夜明けに仕事を済ませたミュージシャンたちはあたりをうろつき、やがてどこかに集まってジャム・セッションで午前中を過ごしたという。 ニュー・オリンズのストーリーヴィルが第一次世界大戦とともに店じまいして以来、カンザス・シティは全米一のジャズの盛んな町であったと言えるという。それらのナイト・クラブなどは地元を牛耳っていた民主党の政治家のボストム・ペンダーガストの掌の上でおおっぴらにわが世の春を満喫している犯罪シンジケートが経営するものであったからであった。おかげでミュージシャンは仕事に事欠かなかった。しかしこの地は麻薬の中心地でもあり、コカイン、モルヒネ、ヘロインはここから南西部に広がっていったという。
この街にはテキサス、オクラホマ、アーカンソーなどの周辺部からも優れた演奏家たちが集まって来ていた。それはここでは仕事にあぶれることはなく、出演料は安くても生活費は安く、音楽が気持ちよく踊れるものであれば、ギャングたちは文句を言わなかったという。ここから全国区になったバンド代表はカウント・ベイシー・オーケストラで週18ドルで毎日休みなしによる8時から翌聴6時まで演奏していたという。チャーリー・パーカーは正にこんな街に生まれ育ったのである。カウント・ベイシーやその他の演奏家たちが北部のタレント・スカウトに引き抜かれこの地を去ろうとしている頃には、チャーリーは彼らの演奏を知り尽くし、彼らの演奏を徹底的に研究し尽くしていた。この繁華街でチャーリーは1928年から39年までの成長期を過ごしたのである。
1928年死生幹部を取り込んで権力の座に就いたトム・ペンダーガストは権力を謳歌し続け1939年所得税法違反で告発され刑務所に入る時期と重なっている。ペンダーガストの失墜と共に浄化運動が展開されナイト・クラブは閉鎖され、演奏家の仕事の口は無くなった。偶然ではあるが、ペンダーガストに有罪が宣告された数週間後にチャーリー・パーカーはカンザス・シティーの街を出るのである。
「バードは生きている」(草思社) チャーリー・パーカーと普通言っているが、僕が言うまでもなく“Charlie”は“Charles”の愛称といわれるが、日本とは違うニュアンスがあるのだろう。例えば、「八五郎」を「はっつあん」と呼んでも愛すべきニック・ネイムという感じかと思うが、“Charles”⇒“Charlie”はちょっと違うという。“Charlie”と呼ばれることはちょっとした侮蔑の意味あいがあるという。チャーリー・パーカーも実は“Charlie”と呼ばれることを嫌い、そう呼ばれると相当怒ったといわれる。「八五郎」が「はっつあん」と呼ばれるのはいいが、「ハチ公」と呼ばれるのは嫌なのかもしれない。しかし僕がジャズを聴きはじめたころから、現代まで40年間やはりチャーリー・パーカーと呼ばれ、記載されることが多いような気がする。あれほど尊敬されるミュージシャンにもかかわらずである。それは何故なんだろうか?
ともかくアルト・サックス奏者のチャーリー・パーカー、正式にはチャールズ・パーカーは、父チャールズ・パーカー・シニアとアディ・パーカーの子として1920年8月29日カンザス州カンザス・シティで生まれた。出生証明書で8月29日となっているが、パーカーの母親は、彼の誕生日を8月28日と言っている。この辺りがアメリカの決してアッパー・クラスではない黒人階級の家族とか家族に対する意識を物語っているように思える。
父親はもともとはピアニストとして、或いは歌手としてステージに上がったこともあったようだが、鉄道に勤務するようになった当時でも、相変わらずカンサス・シティ周辺のボードヴィルのステージで歌ったり、ピアノを弾いたりしていた。しかも稀代の大酒のみの上女癖も悪く、パーカーは母親一人で育てられたようなものだったという。
生後14か月のチャーリー・パーカー 1927年パーカー一家はミズーリ州側のカンサス・シティに移り、パーカー少年は当時のアメリカにおけるジャズの中心地となっていた同地に過ごすことによって、早くから音楽に対する興味を増していった。一方父親の素行は相変わらずおさまらず、1929年ついに両親は別居することになる。
11歳になったパーカーはクリスパス・パブリック・スクールを卒業するや否やただちにリンカーン・ハイ・スクールに入学した。そこで彼はスクール・バンドに参加(1933年)し、バリトン・サックスとクラリネットを担当し、アロンゾ・ルイス先生について正式に音楽理論や吹奏法などを学ぶことになった。バンド仲間ではローレンス・キース、ロバート・シンプソンなどと仲良くなったという。
11歳の時に母に中古のアルト・サックスを買ってもらったが、この頃後にパーカーのアイドルになったバスター・スミス(ベニー・モーテン楽団)を知り、次第に彼のプレイに熱中するようになったという。パーカーのバスター・スミスに対する関心はついにバスターを「プロフェッサー」と呼んで私淑するまでになった。
パーカーの音楽への熱中は、仲間のローレンス・キース(パーカーより3歳年長でピアノを担当していた)が町に住んでいるハイ・スクールの学生を集めて作ったダンス・バンドの[ディーンズ・オブ・スイング]に参加することによってますます高まっていった。このようにして彼は自分の人生の方向を定めることになった。しかしそれとともに彼は一生涯苦しまねばならなかった麻薬ともこの頃から付き合うことになったのである。友人から初めて教わって経験したのは15歳の時だった言う。
ところで、パーカーは「バード」というニック・ネイムが有名だが、この当時にはすでにこのニック・ネイムをもらっていたらしい。一説にはジャズを演奏しているクラブの裏庭に忍び込んで、そこから漏れて来る音楽に合わせて楽器を吹いた姿を例えたものとも、またレストランに入るたびに、メニューにチキンが載っていると必ずそれを注文していたことからメンバーの一人によって命名されたともいう。パーカー自身によれば、学校時代に“Charlie”が“Yarlie”に、さらに“Yarl”が“Yard”、そして“Yardbird”とかそれを省略した“Bird”という愛称で呼ばれることになったのだという。いずれにしろ30年代末から40年代初めにかけて在団したジェイ・マクシャン楽団時代にはこの仇名が彼の通り名になっていたことは確実だという。
パーカーはついにプロ・ミュージシャンとして身を立てる決意を固め、学校を中退(パーカー自身、3年通って辞めた時は1年であったと告白している)、ミュージシャン・ユニオンに年齢を偽ってプロとなるためのユニオン・カードを発行してもらった。その直後の35年11月28日にプロとして最初の仕事に就き、やがてカンサス・シティの「グリーン・リーフ・ガーデンズ」でプレイするようになった。
翌36年にパーカーは4歳年上のレベッカ・ラフィンと恋愛の末結婚した。この年にはトミーダグラス楽団で演奏活動を行うかたわら、盛んにジャム・セッションに参加し腕を磨いていった。しかし当時のパーカーの腕前はまだまだ未熟なもので、ある時などカウント・ベイシー楽団に飛び入りし、そのプレイの余りのひどさにドラマーのジョー・ジョーンズはあきれてシンバルをわざとフロアの向こう側に放り投げてしまったという逸話も残っている。また別の機会では<Body and soul>が始まった時、皆が情緒たっぷりなバラードプレイを行っているのに、こともあろうにダブル・テンポで吹きまくり他の連中の失笑を買ったこともあるという。このように数々の失敗はたびたび彼を失意のどん底に叩き落としたが、バラード演奏をダブル・テンポで演奏するなど早くも当時の常識の殻を破りつつあるパーカーの姿が浮かび上がってくる。
36年11月にパーカーは自動車事故で肋骨数本を痛める重傷を負ったが大事には至らなかった。
37年の初めにはプライス・スチュアートのバンドで2か月間を過ごした。
レベッカとの間にはレオン・フランシス・パーカーが生まれたが、しばらくたつとパーカーとレベッカの間はうまく行かなくなり始めた。
この年の夏にパーカーはカンサス・シティの人気バンド、ジョージ・E・リー楽団に加わり、オザーク(ミズーリ州)という避暑地にある得る段で3か月に渡って巡業に参加したが、この時彼はカウント・ベイシー楽団のレコードを全部(といっても8曲分4枚のレコードしかまだ出ていなかったが)を持って出かけ、その中に入っているレスター・ヤングのソロを徹底的に研究し、カンサス・シティに戻ってきた時には驚くほどに腕を上げていたという。もちろんこれ以前にもピアニストのキャリー・パウエルやギタリストのエファージ・ウェアなどからコード理論をはじめとしていろいろのテクニックを学びとっていたのではあるが、このオザークでの経験がパーカーの音楽性を飛躍的に変貌させたといわれる。パーカーに対するレスターの影響力の深さがよく分かる。
その後パーカーはジェイ・マクシャン楽団に参加するが、その時期と成果については異なった記述がある。 一つは入団したのは1937年でこの楽団の伝統であるブルースの強い影響を受けめきめきと技法と表現の力を増していったとし、退団したのは1939年に退団するまでには一流の実力の持ち主と噂されるようになっていたとする。その後ローレンス・キーズ、ハーラン・レオナード楽団といったローカル・バンドでプレイし、39年に初めてニューヨーク出て、約1年ほどモントローズ・アップタウン・ハウスで仕事していたが、高校時代から取りつかれた麻薬によってこのころから荒んだ生活は始まっていたとしている。
一方、「チャーリー・パーカーの伝説」巻末の大和明氏による「チャーリー・パーカーの生涯とその遺産」では、マクシャン楽団に参加した時期を1938年初めとし、3,4か月在団したが、毎晩のように遅刻したためクビになってしまったとしている。マクシャン自身も1938年に最初に演奏したといっているので、1938年としよう。その上タクシー代を払わなかったことから運転手とけんかをし相手を傷つけたため、22日間も豚箱に入る羽目となった。そんなこんなで嫌気がさしたパーカーはその年の春カンサス・シティを飛び出してしまったとしている。あまり音楽的なことに触れていない。
シカゴにやってきたパーカーはその地のクラブ“65”でトランぺッターのキング・コラックス・バンドに飛び入りし、その楽団のアルト奏者グーン・ガードナーの楽器を借りてプレイした。パーカーのプレイに感心したガードナーは彼を家に連れて行き衣服などを与えた。何しろパーカーの姿ときたら乞食同然だったからである。だがある日、パーカーはガードナーからもらったクラリネットと衣服ごとどこかへ消えてしまった。その後ニューヨークに一時行ったという証言もあるが、38年度中にニューヨーク入りした形跡は明らかではない。
いずれにしてもその年の夏にはパーカーは母親に探し出され、シカゴからカンサス・シティに連れ戻されていた。それは彼の父親が女に刺殺されて亡くなったためである。
夏の間、パーカーは以前から尊敬し少なからぬ影響を受けていたバスター・スミスの率いるアトランタ―図というバンドに参加し、“ルシールのバンド・ボックス”でしばらくの間働いたが、彼らの演奏はその間時々そこから放送されていた。この期間にもパーカーはスミスからいろいろ手ほどきを受け、一層そのプレイに磨きがかかっていた。しかしこのバンドは9月にバスター・スミスがニューヨークに行くためにカンサス・シティを去ったことによって解散してしまう。そのためパーカーはその年の暮れか、或いは翌39年初めに当時カンサスで一、二の実力を歌われていたハーラン・レナードのロケッツに入り数か月を過ごした。
だが、パーカーは恩師バスター・スミスのことが忘れられず、39年の春一時後を追ってニューヨークに行った可能性もある。もしこの時ニューヨークに行っていたとしたら、おそらくこの時はスミスの消息を知ることができず、間もなくカンサス・シティに戻ってきているはずだという。なぜならその年の秋、キャブ・キャロウェイ楽団の一員として巡業に出たディジー・ガレスピー(Tp)がカンサス・シティに寄った時、当地で少しは名の知れていたトランぺッターのバディ・アンダーソンと会い、彼の仲介でブッカー・T・ホテルでパーカーと会っているからである。
ところでパーカーはその直後に再びニューヨークに向かった。そしてついにバスター・スミスの居所を探し出し、彼のアパートに転がり込んだ。
ここで少しパーカーがスミスから受けた影響について考えてみよう。
バスター・スミスのレコーディングはごくわずかしかないと大和明氏は記載しているし実際自分は彼のレコードを持っていないので、彼に関する記述はすべて大和氏の記載からの引用である。
「バスター・スミスのレコーディングの当時のものとして比較的容易に聴けるものにピート・ジョンソンのブギー・ウギ―・ボーイズによる「チェリー・レッド」、「ベイビー、ルック・アット・ユー」(39年6月30日録音)、エディー・ダーハム楽団による「モーテン・スイング」(40年11月11日録音)などがあるが、現在聴くことのできる最も初期のパーカーの幾つかと比較してもその影響具合をはっきり示せるものはほとんどない。せいぜいヴィブラートの少ない透明な音色やアタックが似ているかなと思える程度である。後年パーカーが死んだ後、バスター・スミスが再発見されて吹き込まれたLP“The Legendary of Buster Smith”(59年6月7日録音)でも同じことであって、ここでのスミスのプレイは当時の彼の演奏活動を反映したリズム&ブルースの色彩が強く出たプレイになっている。いずれにしろスミスとパーカーはコンセプションの点で全く違う道を歩んでいったと言えよう。
そうであればなぜあれほどパーカーはスミスにあこがれたのだろう。僕には不思議でならない。
スミスのアパートに転がり込んだパーカーはハーレムのクラブの皿洗いをしながら夜になると毎夜の如く[クラーク・モンローのアップタウン・ハウス]のジャム・セッションに参加していた。そこでは当時成熟の極致に到達し大衆の支持を受けることによってコマーシャライズされ、音楽的にマンネリに陥っていたスイング・ジャズに飽き足らず、何か新しいものを求めて集まる新鋭のジャズメンがたくさんいたといわれる。しかしモダン・ジャズ以降にジャズを聴きはじめた僕にはこういった話をよく聞くが実感はない。何がと言えば「マンネリに陥っていたスイング・ジャズ」といったくだりである。しかしそれは僕の勉強不足なためで、多くの評論家がそういうのだからそうなのだろう。
ともかくパーカーは新しいものを求めて集う彼らと交流することによって、バスター・スミスからは得られなかった新しいジャズ・コンセプションを追求してきた自分の姿勢を正しいものと確信するようになったという。このことはパーカーが当時斬新なテナー奏法で注目を浴びていたレスター・ヤングの方に、バスター・スミス以上の関心を寄せていたことを示している。なぜならドラムのケニークラークが当時のパーカーのプレイは一部の若手ジャズ・メンに強烈な印象と感動を与えていった。このころは既にパーカーはモダン・ジャズの母体となったビ・バップでもっとも重要な音の一つとして扱われるようになった♭5度の重要性に早くも気づいており、さらに従来の決まりきったコードによるプレイから脱却した新しい試みに真剣に取り組んでいた。そして39年12月のある夜[チリ・ハウス]で“Cherokee”をジャムっていたパーカーは、コードの高い部分でメロディを作り、関係コードにバックすることによって、それまで頭では考えられたけれど楽器で表現できなかったやり方をついに見出したという。このようにして後に完成されるビ・バップ奏法のヒントをパーカーは早くもつかんでいた。
1940年の初めにパーカーはニューヨークを離れたが、これは彼を嫌ったバスター・スミス夫人にアパートを追い出されたためで、そこでパーカーはジェイ・マクシャンに対し彼のバンドに復帰できるよう頼み、ボルチモアに向かった。その地に3週間滞在し、そこでマクシャンから正式に復帰許可の返事を得るや否やただちにカンサス・シティに戻り、同楽団に再入団した。それから翌年にかけてパーカーはマクシャン楽団の一員としてカンサス・シティ、ミズーリ、テキサス、オクラホマなどを次々と巡業し、その間定期的にクラブ出演のためカンサス・シティに戻った。
たまたま40年11月にカンサス・シティに戻った時、マクシャン楽団は11月30日と12月2日の2回に渡って同地のウィチタ放送局のアセテート盤に6曲(もしくは7曲)の録音を残したが、これこそ現存するパーカー最初の録音で、現在そのうち3曲がLP化されている。そこに記録されているパーカーはレスターの影響下にはあるが、彼独特の急速なキー・ワークによるプレイも示されており、自己のスタイルを目指しつつあるパーカーの姿が捉えられている。

チャーリー・パーカーもジャズ史上指折りの重要人物なので、今後も少しずつ書き加えて行きたい。
さらにさらに続きます。

レコード・CD

「ジェイ・マクシャン・オーケストラ/アーリー・バード」(東芝EMI ITJ-70069)
"Charlie Parker/A studio chronicle"(JSP 915A)