コールマン・ホーキンス (テナー・サックス)

Coleman Hawkins (Tenor sax)

コールマン・ホーキンス

1904年11月21日ミズーリ州セント・ジョゼフの生まれ。
1969年5月19日ニューヨークで肺炎のため死去。

ジャズ黎明期テナー・サックスはどちらと言えば異端の楽器だった。そのことをレックス・スチュアート(エリントン楽団などのTp奏者)が証言している。
「私がコールマン・ホーキンスを初めて見たのは、1919年のことだった。その時のことをはっきり覚えている。それはワシントンのハワード劇場で、ショウの花形は、メイミー・スミスとジャズ・ハウンズだった。その晩、メイミーにも負けないほどの人気を博したのが、マホガニー色の肌の男で、見たこともない楽器を演奏してホールを沸かせた。後になって知ったことだが、その楽器がテナー・サックスというもので、舌を叩きつけるような歯切れのいいタンギング奏法で吹いていたのがコールマン・ホーキンスだった。その時ホークはたった15歳だったのである。」
このように1920年代前には、テナー・サックス自体知られた楽器ではなかった。それを当時の花形ジャズ楽器だったトランペットやクラリネットに並ぶ個性的なソロ楽器に仕立て上げ“テナー・サックスの父”と呼ばれたのが、コールマン・ホーキンスである。
ホーキンス(愛称はホーク(Hawk)はたくましいホット・ヴィブラートを伴ったヴォリューム豊かな堂々たる音色を駆使しながら複雑なフレーズを自信を持って積み重ねつつ、構成美に富んだヴァリエイションの妙をスロー・バラードもので聴かせたが、アップ・テンポにおいても迫力に満ちた力強いアタックとうねるように押し寄せる豪快なフレーズを淀みなく続けることによって聞き手を圧倒した。「うねるような、たゆたうような」というお決まりの形容詞が敬意とともに常に献られるようになった。

フレッチャー・ヘンダーソン・オーケストラ時代1924年のホーキンス前

5歳でピアノを始め、後にチェロに転向、さらに9歳からテナー・サックスを吹いた。トペカのウォッシュ・ボード・カレッジを卒業、メイミー・スミスと22から23年にかけて働き、彼女とともにニューヨークに出た。
23年にフレッチャー・ヘンダーソンのバンドに入り、テナー奏者として決定的な脚光を浴びた。入ったばかりのホークは、他のサックス奏者と同様にチューバ的な感覚で吹いていたが、ニュー・オリンズ派のトランペット奏者に影響されたといわれるスタイルで、粗い湿り気のない音でスタッカートの多いフレーズを力強く吹くようになった。彼のこのような変化に最も影響を与えたのは、同僚のルイ・アームストロングで、彼の感化を受けてよりスムースなトーン、リリカルでありながら活力に満ちた堂々たるホーキンス・スタイルを確立していくのである。
彼はイギリスをはじめとするヨーロッパのファンの間で自分のレコードが評判になっていることを、「メロディー・メーカー」(イギリスの音楽紙)で知り、34年3月ヘンダーソン楽団を退き、不況下のアメリカからヨーロッパに向かった。
ホーキンス不在の間、アメリカではチュー・ベリー、ベン・ウエブスター、ハーシャル・エヴァンス、ドン・バイヤス、バディ・テイトなどホーキンスのスタイルを踏襲したテナー奏者がテナー会を制覇し、ホーキンスの存在を忘れさせるような活躍ぶりを示していた。
39年7月ホーキンスは世界大戦の暗雲が漂い始めたヨーロッパを後にし、5年半ぶりに帰国を果たした。

コールマン・ホーキンス/ボディ・アンド・ソウル

その直後の10月11日ブルー・バード・レーベルに「ボディ・アンド・ソウル(Body and soul)を録音、この曲が発売になるや瞬く間に絶賛に次ぐ絶賛の大反響を呼び起こした。改めてファンやミュージシャンは、「テナー・サックスの父」と呼ばれるべき最も偉大なテナー奏者はコールマンであるとの認識を新たにしたのであった。
このヒットを契機として再び破竹の勢いによる進撃が始まった。帰米後から44年にかけて吹き込んだすべてが傑作と呼ばれるほどの快進撃だった。40年には16人編成の自分のバンドを結成、そのあとAMFのレコーデイング・スト明けの43年暮れから44年にかけての吹込みこそ、まさに絶頂期言われる時期であった。44から45年には7重奏団を結成、ハワード・マギー、デンジル・ベストなどを擁してビ・バップも演奏し、大いにモダン派を支持した。この間44年2月には、ガレスピーなどとアポロに最初のビ・バップ作品を吹き込んでいる。
ホーキンスの絶頂期は40年代前期というのが定説になっているが、当時ジャズ界に出現したデクスター・ゴードン、ワーデル・グレイ、ジーン・アモンズ、ソニー・スティット、アレン・イーガー、スタン・ゲッツ、ズート・シムスら多くのモダン・テナー奏者はホーク派とは異なるスタイルを持って30年代にジャズ界に登場したレスター・ヤングのアイディアをバップ・イディオムでプレイするようになった。それでも彼らの大部分はフレイジングの面では、レスターに魅かれていても、音色的にはホーキンスのヴォリューム豊かなソノリティを採用し、男性的で豪快無比なビッグ・トーンがあくまでもジャズ界の主流として伝えられたようにホークの影響はいたるところに残されている。
当時若きモダン・テナー・マン達のアイドルとして“Pres”(President「大統領」の略)の愛称を奉られていたレスター・ヤングは死の直前にパリでフランソワ・ポステフ(Francois Postif)が「ジャズ・レヴュー」氏のために行ったインタヴューでホークについて問われ、「ホークこそ間違いなくテナー・サックス奏者としての初代“大統領”であり、自分は2代目の“大統領”に過ぎないと答えている。
40年代後半に入るとホーキンスはほかのヴェテランたちに先駆けて新興のビ・バップに取り組むようになる。有能な新人たちを次々と起用しては活発な録音を行い始める。これに対して、師粟村氏は、「結果的に見てモダン・ジャズへの挑戦は失敗に終わり、その後数年間にわたるスランプという副産物まで生んだ」と切り捨てているが、僕はメリー・ウィリアムスの語る逸話などを読むと、気持ちが若く、とことん音楽が好きで、挑戦しようという若者に快く胸を貸してやるような親分肌のいい親父だったのではないかと思う。そしてその音楽に対するあくなき姿勢というものは、深く若きミュージシャンに影響を与え続けただろうと思うのである。
その後はJ.A.T.P.などにも加わって活躍、50年代から60年代には、種々の中間派ジャズメンとの交流のほか、ソニーロリンズ、マックス・ローチ、セロニアス・モンク、ホレス・シルバー、ブッカー・リトルなど多くのモダニストと共演し、多大な示唆を彼らに与えた。
ジャズ・テナーのもっとも偉大な先駆者・主導者で、「クラシック・テナーズ」、「ハリウッド・スタンピード」といった往年の傑作や、近年のヒット作[アライヴ]など数多くの作品で、彼のラプソディックで豪放なプレイに接することができる。

レコード・CD

"A study in frustration"(Essential・JAZZ・Classics EJC55511)
"Classic jazz archive / Fletcher Henderson 1897-1952"(Membran 221998-306)
"Bessie Smith/The collection"(Columbia CK 44441)
"Bessie Smith/Nobody's blues but me"(CG 31093)
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第9巻/ザ・ビッグ・バンド・イーラ」(RCA RA-47)
「ベニー・カーター1933/39」(Philips 15PJ-4(M)
"Mildred Bailey / Her greatest performances"(Columbia JC3L-22)
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第16巻 ライオネル・ハンプトン/オール・スター・セッション」(RCA RA-90〜95)
「イン・メモリアル/ジャンゴ・ラインハルト」(RJL-2530M)
「ヴィンテージ・シリーズ/コールマン・ホーキンス」(RCA VRA-5012)
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ/スイングからバップへ」RA-96
「コールマン・ホウキンス/ボディ・アンド・ソウル」(BVCJ-37155)
「Billie Holiday/Live and private recordings in Chronological order」
「コールマン・ホウキンスとチュー・ベリー」(Commodore K23P-6614)