カウント・ベイシー (ピアノ&バンド・リーダー) 

Count Basie (Piano & Band leader)

カウント・ベイシー

本名:ウィリアム・ジェイムス・ベイシー William James Basie
1904年8月21日ニュー・ジャージー州レッド・バンクの生まれ。
1984年4月26日すい臓がんによりフロリダ州ハリウッドにて死去。

デューク・エリントンとともにビッグ・バンド界の勢力を二分する偉大なるバンド・リーダー。

ピアニストであった母親は忍耐強くビルにピアノの基本を教え込もうとしたが、彼の関心は他のところにあった。
彼の楽器はポットであり、鍋であり、また古いブリキ製のたらいであり、それらを処構わず叩き鳴らしていたという。
その内に彼は当地のローカル劇場に始終出かけるようになり、いつも前の方の席を取って座るようになるが、それはスクリーンを見るためではなかった。
彼のもっぱらの関心はステージの前にあるピットの中でサイレント映画の伴奏を付けているオーケストラのドラマーにあった。
その内にビル少年はミュージシャンたちの傍らに座らせてもらえるよう彼らの使い走りをやったり、ピット内部の掃除をしたりして盛んに関心を得ようとしたらしい。
劇場のミュージシャンたちはこの少年の好奇心を面白がり、ある晩彼らはこの少年を驚かせた。
その日いつものように前の方の席に陣取ったビルは、演奏中にもかかわらずミュージシャンの一人に呼ばれてピットの中に降りていくと、
そこには彼のためにセットされた立派なドラムがあったという。このようにビルが最初に本気になって手がけた楽器はドラムだったのである。
ビルが13歳になった時、彼は学校の仲間4人とサックス、ピアノ、ドラムスからなるバンドを作りリーダーとなったが、
仲間の一人ソニー・グリアーの処遇をどうするかが唯一の悩みとなった。なぜならグリアーもドラムをプレイしており、ビルよりもはるかに上手だったのである。
さて、ある日バンドのピアニストの下手なプレイのために、せっかくの演奏の盛り上がりに失敗してしまう。このことが後々幸運をもたらすことになる。
この時ついにビル少年はピアノに専念する決心をし、ドラマーの位置をグリアーに譲ることにしたのである。
このグリアー少年こそ後のデューク・エリントン楽団で名声を得ることになったあのソニー・グリアーであった。
この一1事は後の重要なプレイヤー、ピアノのベイシー、ドラムのグリアーを生むきっかけとなった。
1922年ベイシーはニューヨークにやって来た。思うような仕事には中々ありつけず、よくリンカーン劇場で時間を過ごした。
そこではトーマス・”ファッツ”・ウォーラーがパイプ・オルガンを演奏していた。
ベイシーは偉大なアイドルとしてファッツのプレイをよく見ようと右後ろからそのプレイを見ることができるように席を取るのを常としていた。
このようにしてファッツと知り合ったベイシーは、彼から手を取るようにして教えられたのだという。
また、ベイシーはハーレムでファッツ以外にも、ウィリー・“ザ・ライオン”・スミスや若きデューク・エリントンのプレイを聴いて学ぶところが多々あったという。
ここにベイシーはファッツをはじめとするハーレムのストライド・ピアニストたちから学んだものを基に、自己のスタイルを次第に築き上げていくのであるが、
後にベイシーのトレード・マークとなったシンプルで、スインギーなそしてジャンプする感じの奏法は意外とドラマーとしての体験が強く影響していたのではないだろうか。
彼独特の絶妙なタイミング感覚もその一つのように思われる。
さて、ニューヨークにやって来たベイシーが最初に定期的な仕事にありつけるようになったのは1924年のことであった。
ハーレムのクラブ「ルロイズ(Leroy’s)」に出演していたジューン・クラークの六重奏団(トロンボーンにジミー・ハリソンが加わっていた)のピアニストが胃痛で倒れた時、
いつもファッツ・ウォーラーと一緒にいたベイシーに目を付けていたバンド・リーダーのクラークはベイシーをこのバンドに招いたのだった。
この時からベイシーは“Leroy’s”や”Ed Small’s“などニューヨークにおけるクラブ出演がしばらく続いたが、その後まもなく巡回劇団やヴァラエティ・ショウの
一座に加わって各地を回るようになった。いくつかのバンドのローカル・ツアーに次々と参加したが、Gonnzelle White and his big jamboree revueに加わって
カンサス・シティ(KC)にやって来た時にこの一座は資金が尽きてしまい、ついにそこで解散という憂き目にあってしまう、1927年のことであった。
当時のカンサス・シティはジャズ形成の一つの重要な要素ラグタイムの中心地であるミズーリ州の側(カンサス・シティはカンサス州とミズーリ州にまたがっている)の方が
ジャズ演奏の本場となり、ニューヨークのフレッチャー・ヘンダーソンやデューク・エリントンらによってビッグ・バンド・ジャズが始まったのに遅れること僅か数年にして、
この町にも優れた黒人ビッグ・バンド・ジャズが誕生しつつあった。KCはシカゴやニューヨークと並ぶ20年代の米国におけるジャズの一大繁栄地となって行くのである。
KCと呼ばれたカンサス・シティは、20世紀初頭のニュー・オリンズと同様に、1920年代末から1930年初頭にかけて、全米を大恐慌が襲っていた間もジャズの歴史に夢のような時を刻んだと言われる。
十数年に渡って政治家ギャングのボストム・ペンダーガストに支配され、他のどの町より多くの売春宿、飲み屋、ダンス・ホール、キャバレー、賭博場があった。
活躍中の多くのミュージシャンたちが集まってきた。ミュージシャンたちにとってKCは、きらめくようなナイト・ライフと絶え間なく続くジャム・セッションに溢れた素晴らしい町であった。
しかもこの地は東海岸と西海岸を結ぶ拠点にあったため、中西部のミュージシャンは皆この地に集まってきたと言っても過言ではなかった。
この地でベイシーは一時重い病気にかかったが、回復した後ホワイトマン・シスターズの伴奏をしたり、エブロン劇場でサイレント映画の伴奏のためオルガンを弾いたりして稼いだ。

僕は、この後1928年ごろからの事情について現状の資料としてはカウント・ベイシーのボックス・セット『黄金時代のカウント・ベイシー』(VIM 5501〜4 4枚組)に附属の大和明氏による詳細な解説文とデイヴ・ゲリー著『レスター・ヤング』(音楽之友社)しか持っていない。ところがこの2つにはかなり記載などに相違があるのである。しかし彼ら以上の知識など持ち合わせているはずもない僕にはどちらが正しいとも決められないのである。そこでカウント・ベイシーのプロフィールの本篇には大和明氏の記述を記し、レスター・ヤングのプロフィールにはデイヴ・ゲリー氏の記述を記しそれぞれの後にどこがどう違うかをまとめてみたい。

1928年夏ベイシーは、オクラホマ・シティで旗揚げをしたブルー・デヴィルズというバンドを率いてKCにやって来たウォルター・ペイジに手紙を書き、そのバンドにピアニストとして仮入団を認められた。
当時“Walter Page's blue devils”には、トランぺッターにオラン・“ホット・リップス”・ペイジ、アルト奏者にはチャーリー・パーカーのアイドルとしていられるヘンリー・“バスター”・スミス、それにのちベイシー楽団のトロンボーン奏者となったダン・マイナーなどがおり、1929年になってブルース歌手のジミー・ラッシングも参加し、もとからKCで活躍していたジョージ・E・リー楽団やベニー・モーテン楽団と並ぶ優れた演奏を行っていた。ベイシーはこのバンドについて“The happiest band I’ve ever been in”(今まで加わった中で最高にハッピーなバンド)とまで言っているそうである。

1929年頃のモーテン楽団 中央前列左からベイシー、ラッシング、モーテン

KC随一の実力を自他ともに認めていたベニー・モーテン楽団はブルー・デヴィルズの実力に恐れをなし、サイドマンの引き抜きを画策し始めた。彼はブルー・デヴィルズのメンバーに誘いをかけた。”わたしのバンドに来てほしいんだ。音楽については君に任せる。仕事は私がすべて用意するから」と。
モーテンもピアニストなので皆が尋ねた、ベイシーはどうするのか?彼は「我々2人分の部屋を用意しておくさ」と物わかりの良さを示したという。
そのような経緯があり、約1年間在団していたブルー・デヴィルズを29年夏に退団、一時エルマー・ペインのテン・ロイアル・アメリカンズに在団したのち、その年の秋にベニー・モーテン楽団に入団した。
当時のモーテン楽団はブラス・セクションにエド・ルイス(Tp)、エディ・ダーハム(Tb)、リード・セクションにハーラン・レナード(Cl、Ss、Bs)、ジャック・ワシントン(Cl、Ss、Bs)らを擁した12人編成で、ベイシーはこのバンドのセカンド・ピアニストという処遇であったが、実際の演奏はほとんどベイシーがピアノの座についていた。
その後ブルー・デヴィルズの主要なメンバーである”ホット・リップス”ペイジ、ダン・マイナー、ジミー・ラッシングもモーテン楽団に参加してしまったため、ウォルター・ペイジも1931年にリーダーの座をトランぺッターのジェームス・シンプソンに譲り、自分もモーテン楽団に入団してしまう。
このようにして1932年になると、ベニー・モーテン楽団のメンバーはこの上なく充実し、リード・セクションにはベン・ウエブスター(Ts)やエディ・ベアフィールド(Cl、As)も参加し、その実力は完全にジョージ・E・リー楽団を上回り、当時のKCにおいてはこのバンドに対抗しうるオーケストラは全く存在しなくなってしまったといってよいほど飛び抜けた実力を持つようになった。
ベイシーにとって、このモーテン楽団時代における豊かな音楽的経験が、後のベイシー楽団形成の上にどんなに役だったかは言うまでもない。リーダーとしての在り方さえもモーテンから学び取ったのであった。
1934年の初めに、ベイシーはモーテンの援助を得て、一時アーカンソー州リトル・ロックで自身のバンドを結成したが、結局このバンドは成功せず、間もなくモーテン楽団に再参加することになった。
1935年4月2日、ベニー・モーテンは扁桃腺の手術後に併発症状を引き起こし、それがもとで他界してしまう。モーテン楽団はモーテンの甥であるバスター・モーテンが引き継いだが、ベイシーはここを去り、KCで単独の仕事をやったり、トリオを率いたりしていたが、やがてブルー・デヴィルズ時代の同僚であるバスター・スミスと組んで双頭バンド“Barons of rhythm”を結成した。
間もなく(1935年暮れ頃と思われる)ベイシーは単独でリーダーとなり、結局カール・スミス、ジョー・キース、“ホット・リップス”・ペイジ(以上Tp)、ダン・マイナー(Tb)、バスター・スミス(As)、レスター・ヤング(Ts)、ジャック・ワシントン(Bs)、ベイシー(P)、ウォルター・ペイジ(B)、ジョー・ジョーンズ(Ds)という10人編成にまでバンドの人員を拡充し、KCのクラブ「リノ・クラブ」(正式名称は“Reno beer Garden’s”)に出演した。
ベイシーのバンドが最初に「リノ・クラブ」に出演した時は、ピアノ、ベース、ドラムスのリズム・セクションにトランペットとバリトン・サックスの加わった5人編成だったという。具体的な名前を大和氏は挙げていないが、ピアノはもちろんベイシー、ベースはペイジ、ドラムスはジョー・ジョーンズではないかと思う。バリトンはジャック・ワシントンと思われるがトランペットはどちらだろう。そのメンバーを増やしていき10人編成となっていった。
この10人のメンバーのうち、ジョー・キース、“ホット・リップス”・ペイジ、ダン・マイナー、バスター・スミス、ジャック・ワシントン)、ウォルター・ペイジは、ベイシーのブルー・デヴィルズ時代及びベニー・モーテン時代の仲間である。さらにそのうちジョー・キース、ダン・マイナー、ウォルター・ペイジは34年初めに一時旗揚げし、短期間で解散してしまったベイシーのコンボにも参加していた。
残る3人のうちカール・スミスはウォルター・ペイジがリーダーの座を去った後ブルー・デヴィルズに参加したトランぺッターであり、34年初めに一時結成されたベイシー・コンボにも参加したことから、再び36年になってベイシーに迎えられた。
またシカゴ出身のジョー・ジョーンズは30年代の初めにKCに出てきて、軽やかで爽快なビートを叩きだし、“The man who plays like the wind”(風のように演奏する男)と呼ばれ、忽ちのうちにKC中にその名が知れ渡った名手である。彼もレスターと同様34年ベイシーのコンボに参加し、35年暮れに再びベイシーがバンドを再編成するや、直ちに入団したのだった。
そしてこの「リノ・クラブ」で熱演を繰り広げるうち、ベイシーは“Count”(伯爵)という愛称で呼ばれるようになる。“Count Basie and his men”は正にKCの人気バンドになっていくのである。

この後、有名なジョン・ハモンド氏によるベイシー・バンド発見エピソードになるわけだが、ここで予告した2資料の記述の相違を挙げておこう。

以上は『黄金時代のカウント・ベイシー』(LP4枚組)に付いている大和明氏による解説であるが、デイヴ・ゲリー氏著の『レスター・ヤング』によると事情はいささか異なる。ゲリー氏によれば、詳しくはレスター・ヤングのプロフィールに譲るが、レスターは当時転々としていたキング・オリヴァーのバンドに加わった後1932年初めミネアポリスでウォルター・ペイジ率いるブルー・デヴィルズに加わったとある。大和明氏によればこの32年にはウォルター・ペイジはもうモーテン楽団に移った後のはずである。
さらにブルー・デヴィルズは1933年春シンシナティで解散したとある。
そしてブルー・デヴィルズが解散したので、レスターはミネアポリスに戻り、コットン・クラブで仕事を見つける。1日の仕事を終えるとラジオを聞いた。とりわけ、カンサス・シティのリノ・クラブから送られてくるカウント・ベイシー楽団のライヴ放送には熱心に耳を傾けた。レスターはその音もポリシーもリズム・セクションも大いに気に入ったが、テナー奏者だけは感心しなかった。居ても立ってもいられず彼は、ベイシーに電報を送った、とゲリー氏は書くが大和氏によればこの1933年には未だカウント・ベイシー楽団というのは存在しない。
1933年にはまだモーテンが存命中で、ベイシーは1934年の初めに、ベイシーはモーテンの援助を得て、一時アーカンソー州リトル・ロックで自身のバンドを結成したという。
しかし、結局このバンドは成功せず、間もなくモーテン楽団に再参加することになったが、このコンボにレスターは参加していたと大和氏は書く。ゲリー氏の書くようにラジオ放送を聴いて手紙書くといった劇的な展開ではなさそうである。

さて、この10人編成に拡充したベイシー・バンドが出演したリノ・クラブはカンサス・シティのラジオ局W9XBYとつながりを持っており、この曲は毎夜ダンス・ミュージックを流していた。W9XBYは小さなローカル局だったが、非常に強力な発信機があり、他の局が放送していない深夜から朝にかけては、遠いところからでも音を聴くことができた。
1936年5月のある晩夜中の一時、シカゴの駐車場でカー・ラジオのスイッチを入れた男がいた。批評家で事業家でかつまた大変なジャズ・ファンであるジョン・ハモンド氏である。彼はビリー・ホリディを、ベニー・グッドマンを、さらにはチャーリー・クリスチャンを、後にはボブ・ディランを世に送り出した男であることは、拙HPでも再三取り上げた。彼はその時ベニー・グッドマンの公演のプロモートをするためにシカゴに来ていたのだ。彼は「ダウン・ビート」誌、英国の「メロディ・メーカー」誌に情熱溢れる記事を書いていたが、その記事のネタ探しとして全米中のローカル局を機会があるごとに聴いていたのである。そしてそのカー・ラジオから流れてきた音楽―ベイシーの音楽にすっかり魅せらてしまったのである。ハモンド氏は、この衝撃的な出会いを、後年繰り返し語っていたそうである。
ハモンド氏は言う「ファッツ・ウォーラーやアール・ハインズがピアノで語りかけてくることの全てを、ベイシーはわずかな音で語りつくしていた。完璧に正確な音の区切り、コードやたった一音によってでさえ、ベイシーはホーン・プレイヤーたちを鼓舞して、彼らがかつて到達したことのない域にまで引っ張っていく」と。そしてそれこそがかつてレスターが感じた印象と同じものであった。だからこそレスターはベイシーに電報を打つという行動に出た。プレイヤーではないハモンドはもちろん別の行動に出ることになる。彼は直ちに車を駆ってKCに向かったのであった。
ハモンドは、「ダウン・ビート」誌や他のところで熱っぽくベイシーの素晴らしさについて書き始めた。人々の注目を、このカンサス・シティの目立たない小さなグループへ向かわせようと筆を振るった。彼本人も直ちにKCへ、そしてリノ・クラブへと向かった。彼はクラブの閉店まで居座り、その後もレスターを伴って歩き回り、ジャム・セッションも堪能した。
こうして興奮状態でニュー・ヨークに帰ったハモンドは、ベイシーこそブランズウィック・レーベルにふさわしい楽団だと、アメリカン・レコード・カンパニーを説得した。そして当時としては破格の契約金と印紙支払いが書き込まれた契約書を手に、良いニュースを知らせる喜び一杯に、ハモンドはKCに戻ってきた。後はベイシーに契約書を渡してサインをもらうだけだ。ベイシーは暖かく彼を迎えこう言った。
「ジョン、君の友達がここに来てたよ」
「友達だって?僕は誰もこっちに送ってないが…」
「デイヴ・カップってやつさ。君の代理だと言ってた。契約書を持ってね」
デッカ・レコードの主任であったデイヴ・カップはKCに一足早く乗り込み、既にベイシーにサインをさせていた。それもハモンドに言わせれば、「奴隷契約」をである。3年間で毎年24面の吹込みのノルマ、そして印税なしで750ドルというものであった。ハモンドは、ベイシーに夢中になる余り、きちんとしたビジネスにする前に、ベイシーについてあれこれと書き立てたことを悔やんだ。ベイシーは、プロモーターのMCAとも興業の契約を結んでしまっていた。
ハモンド氏は契約を他に奪取されたからと言って、ベイシーを見放すようなことはしなかった。ここが彼の偉いところである。単にビジネスでやっているのではない、心からジャズを愛し、ジャズ・マンを愛しその助けになろうとしている。彼が数多くのジャズ・マンから信頼を寄せられるのも当然である。ともかくハモンド氏はベイシーにニューヨーク進出に当たって、“Count Basie and his men”の編成をさらに拡大することを勧めた。
そこで36年秋かつて2年間(33〜35年)モーテン楽団に在籍したことのあるハーシャル・エヴァンスをセカンド・テナーに、また当時エヴァンスが在団していたバンドのリーダーであるバック・クレイトンを退団した“ホット・リップス”・ペイジの代わりに加えた。またバスター・スミスも退団したので同じくアルトサックス奏者を補充、さらにトロンボーンもジョージ・ハントを加え2人とし、リズム・セクション強化のためにギターを加えることにした。またさらにジミー・ラッシングをバンド付の専属シンガーとしてフューチャーすることにし、総勢14名でまず36年10月にシカゴのサウス・サイドにある「グランド・テラス」への出演を決定した。
ちょっと話が逸れるが、この辺も大和氏とゲリー氏では書きっぷりが異なる。上記は大和氏の記述でニューヨーク行きが決まってからメンバーを補充し先ずは一度どっかに出てみるかということでシカゴ「グランド・テラス」出演を決めたような書き方だが、ゲリー氏はニューヨークに行くことが決まる前からシカゴ「グランド・テラス」出演は決まっていた、その機を利用しシカゴでピックアップ・メンバーによる録音を行った、それが11月9日の“Jones-Smith incorporated”による録音のように読める。
また、ゲリー氏はニューヨーク行に当たってメンバーを補充したというのは同じだが、メンバーは13人になったと書いている。具体的なメンバーを書いていないので判然とはしないが、ジミー・ラッシングを加えていなのではないかと思われる。
このように初めてツアーへ出発したベイシー楽団だったが、ユニフォームすら満足に揃えていなかった。また楽器もオンボロで楽譜さえ満足に用意されていなかった。そのためベイシー楽団のレパートリーはほとんどヘッド・アレンジによって演奏されることになった。このことは当時のビッグ・バンドにおいては全くの常識破りといってよかったという。
ニューヨーク進出に当たって、コンボ編成であったベイシーのバンドを急遽ビッグ・バンド編成に仕立て上げたことからそのようなことになったのであろう。しかも当時のKCはジャム・セッションが盛んであり、自然発生的な演奏の変化に対応できる能力を各プレイヤーが身に付けていたため、ビッグ・バンド編成においてもある程度ヘッド・アレンジを施すことによって何とか形を整えることができたのではあるまいか。また、ジャム・セッションの仲でのソロ・プレイヤーのアドリブを盛り上げるため、他の連中が簡単なリフをしばしばソロのバックに付けたが、この奏法をベイシー楽団はアンサンブルを演奏する場合に大幅に取り入れ、後はサイドメン各自のアイディアを寄せ集め、ヘッド・アレンジを加えることによって迫力ある演奏を生み出していたとは大和氏。
このことはほぼゲリー氏も同様のことを書いている。「KCでのベイシー楽団9人編成というのはちょうど良い人数だった。目で合図を送り、きっかけを与えて小さな声でフレーズを歌うだけで全てが進行していく。もちろんそれにはメンバー同士の心が通じ合っていなければならなかったが」と。
さて、初期のベイシー楽団の重要な特色と考えられているヘッド・アレンジを中心とした演奏は最初からベイシーが意図したわけではなかったと大和氏は述べている。その後ベイシー楽団が次第に認められるにつれ、ちゃんと編曲を用いるようになったことや「グランド・テラス」に出演した際、自分のアレンジを貸してくれたフレッチャー・ヘンダーソンに非常に感謝していることからも明らかであると。ヘンダーソンはベイシーの前の週に「グランド・テラス」に出演していたのだが、ベイシーたちの演奏を聴いていち早くその実力を認め、まともなアレンジがないことを知ると楽譜を貸してくれた。ベイシー自身「彼の助けがなければ、我々は終わっていた」と述べているし、ハモンド氏も「まぁ、よく首を切られなかったもんだ」と言ったという。
それにプラスしてあちこちゴム・バンドで傷んでいる個所を補修したオンボロ楽器で満足な編曲もなく演奏するのだから、この楽旅は最初から難航のスタートだった。
ベイシー・バンドはそれからバッファローのヴァンドーム・ホテルやピッツバーグのホテル・ウィリアム・ペンなどに出演しながら、ニューヨークを目指して行った。このようにお先真っ暗な状態でニューヨークの土を踏んだのであった。
こうして1936年12月のクリスマス・ウィークに彼らは「ローズランド・ボールルーム」においてニューヨーク公演の幕を切ったのであった。
評論家やミュージシャンの多くはダイナミックなスイング感と優れたソロイスト達によるリラックスしたアドリブ共演に酔ったが、一般的な受けは同じカンサス・シティ出身のアンディ・カーク楽団の演奏の方に人気が集まったという。 当時のニューヨークのジャズは複雑なアレンジを洗練された、メカニックで整然とした演奏でスマートにこなすやり方が受けていたのであった。
ベイシーはすっかり意気消沈して、自分のバンドにはコマーシャルな点に欠けているから人気が沸かないのだと感じ、それまでのやり方を変えようとさえ思ったという。しかし周囲の励ましとサイドメンの主張によって、KC時代に9人が一致団結してリラックスした演奏を展開し人気を得ていたように、14人が力を合わせてやればいつかはKCと同じようにこのニューヨークでも自分たちのやり方を理解するに違いないと考えるようになったという。
それから彼らは6か月間に渡って頑張った。その間37年1月と3月に各4曲ずつのレコーディング(ベイシー楽団発足後の正式な初レコーディング)を行ったが、大した反響は得られなかったという。それでもベイシー楽団の単純明快な、スイングというよりジャンプするように迫ってくる演奏は、優れたアドリブ展開と共に次第に多くの人々の関心を集めるようになっていった。
特にニューヨークの「ブラック・キャット・カフェ」でプレイしていたギタリストのフレディ・グリーンがハモンド氏の推挙によって3月にベイシー楽団に参加してからは、リズム・セクションの充実ぶりが一段と輝き、ポール・ホワイトマンをして「オール・アメリカン・リズム・セクション」と絶賛された。ここにベイシー・サウンドの源泉となったこのバンドのリズム・セクションが完成していったのである。

さらに続く。

レコード・CD

「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・イーラ」第7巻“ベニー・モーテン”
"Bennie Moten K.C. Orch. 1929-31/Harry Dial quartet 1946"(IAJRC 7)
"Lester Young/Hall of fame"(TIM 220149)
「黄金時代のカウント・ベイシー」MCA VIM-5501〜4
「カウント・ベイシー・アット・サヴォイ・ボールルーム」ELEC KV-109
"Billie Holiday/Live and private recordings in Chronological order"
「ベニー・グッドマン/カーネギー・ホール・ジャズ・コンサート」(CBS SOPB 55007〜08)
「ベニー・グッドマン・ライヴ・アット・カーネギー・ホール-1938(完全版)」(SME RECORDS SRCS 9610〜1)
「カウント・ベイシー/レスター・リープス・イン」(Epic EICP 601)
"Lester Young/Hall of fame"(TIM 220149)
「カウント・ベイシー/ブルース・バイ・ベイシー」(CBS Sony 20AP-1426)
「カウント・ベイシー/1939−1951」(CBS 77-78)
「レスター・ヤング・メモリアル・アルバム」(Epic ECPW-1〜2)
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第17巻/スイングからバップへ」(RA96〜100)
「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」(LAX-3076-7)
「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」(King Record KICJ 2051/2)
"From Spirituals to Swing - the legendary 1938&1939 Carnegie hall concerts produced by John Hammond"(Vanguard -169/71-2)
"From Spirituals to Swing complete legendary 1938-1939 Carnegie hall concert"(Definitive records DRCD 11182)
「チャーリー・クリスチャン/メモリアル・アルバム」(CBS 56AP 674〜6)
"Lester Young and Charlie Christian 1939-1940"(Jazz archives JA-22)