アール・ファーザー・ハインズ(ピアノ)

Earl "Fartha" Hines (Piano)

アール・ハインズ

1903年(1905年という記載あり)12月28日ペンシルヴァニア州ドゥケイン生まれ。
1983年4月22日カリフォルニア州オークランドにて死去。

写真は「ハナ肇」ではありません。「ジャズ・ピアノの父“Fartha”」と呼ばれる巨匠です。
彼は、ルイアームストロングと出会うことによって、その力強いトランペットの創り出すフレーズを右手のシングル・トーンでピアノの鍵盤上に表現するという工夫を行い、
また高音のオクターヴ奏法によって他の楽器と十分対抗できる印象的なアドリブ奏法を確立したイノヴェイター(彼自身はルイの影響を否定後に詳述)。
このように明快で力強いシングル・トーンによる躍動感溢れるプレイは「トランペット・スタイル」と称され、スイング時代のあらゆるピアニストに影響を与えた。
彼は右手の動きだけではなく、左手によるベース・パートもラグタイム・ピアノのような画一的で単純な動きから脱し、自由でスリリングなビートを生み出し、
その力強くダイナミックなタッチでユニークなタイム感覚を編み出した。このようにしてハインズは20年代後半にその名声を決定的なものした。
そのため「ジャズ・ピアノの父」という意味で”ファーザー"という敬称が与えられるようになった。
彼に、最初にジャズ・ピアノを教えたのは、ピッツバーグの名手ジム・フェルマンとジョニー・ウォッターズという人物だったという。
生まれ故郷近郊のピッツバーグにおいてトリオで演奏していたが、歌手のロイス・デュッペの伴奏者となった。
その後キャロル・ディッカーソン、サミー・スチュアートの両バンドを経て、ジミー・ヌーンの「エイペックス・クラブ・オーケストラ」に加わる傍ら、
ルイ・アームストロングのレコーディング・バンドホット・ファイヴ及びホット・セヴンに加わり、史上に残る名盤の録音に名を連ねた。
その頃にはすでにジャズ・ピアノの新しい奏法である「トランペット・スタイル」(この呼び方には議論があるが、要するに吹奏楽器的単音奏法)を確立していたと言われる。
多くの評論家は、このハインズの奏法はルイ・アームストロングのトランペット奏法にインスパイアされて創造したものとするが、ハインズ自身は否定している。
もし違うとすれば当時シカゴで、ピアノのニュー・センセーションと言われていたテディ・ウェザーフォードに傾倒して、その技法を徹底的にマスターしたのだろうか。
ウェザーフォードのレコードは、アースキン・テイトの楽団(ルイ・アームストロングも加入していた)の2曲しか現存していないのでよく分からないが、
ウェザーフォード自身ルイのトランペット双方にインスパイアされているので、いずれにしろ源流はルイということになる。
その後キャロル・ディッカーソン、アースキン・テイトの楽団などで働き、27年ルイ・アームストロングのストンパーズに参加した。
この時の録音に”Chicago breakdown”(1927年5月9日録音)がある。
27年暮れから翌年秋まではジミー・ヌーンと組みシカゴのエイベックス・クラブに出演した。その間ルイのホット・ファイヴに参加し不朽の名作の録音に名を連ねた。
特に1928年6月の録音は重要。ガンサー・シュラー氏のよれば、ハインズは根本的に新しいピアノ観と明快で軽快で直線的なスタイルによって、アンサンブル全体に
全く新鮮なテクスチュアとより大きなスイング感をもたらした。
彼の演奏は驚くほどまとまりがあり、疑いなくルイ・アームストロングは自分を理解し、ほとんど同等な才能を持つ仲間に初めてであった。
さらにシュラー氏は次のように述べる。「この時期の他の大半のピアニストたちとの対照は明白で、ハインズ幼児期におけるクラシック・ピアノの訓練が技巧的能力と
独自な発想に持続的な影響をもたらしたことは間違いない。
ハインズは達者な2本の手を持つピアニスト以上の存在であった。左手と右手に異なる役割を付与するスタイルを工夫した最初のピアニストの一人だった。
これを行うに当たっては、彼の途方もない鍵盤の駆使能力と多彩なタッチが役に立った。
彼のピアノ・スタイルは、本質的にはラグタイムのピアニスト並びにその後継者たち(ジェイムス・P・ジョンソン、ラッキー・ロバーツたち)の左手のストライドと
右手による新しい旋律的な線の流れとを結合した奏法だった。
ルイ・アームストロングの率いた様々なグループの共演者たちの中で最も発展したものであり、ルイのスタイルと類似するところもある。
ほとんどトランペットを思わせるアタックや華麗さ、ダブル・タイムの頻繁な挿入、旋律線の形の酷似などから、ハインズのピアノ演奏は「トランペット・ピアノ・スタイル」と言われた。
彼のこうした特徴は、ルイとのホット・ファイヴにおける最初のソロ「ウエスト・エンド・ブルース」(1928年6月)で既に聴くことができる。
ルイの名演として名高いこの曲だが、ハインズのソロも右手部において「トランペット・スタイル」か、それともピアニスティック名特有のアルペジオの音型かの
選択に躊躇いが窺えるとは言え、全体として驚異的なまでに滑らかな流れがあり彼の優れたタッチとタイミングのおかげで単なる常套句には堕していない。」
1928年ニューヨークに出て初のソロ・レコードを録音、すぐにシカゴに戻りグランド・テラスに自楽団を率いて出演するなど、精力的な演奏活動を行った。
ビッグ・バンドだと、彼のシングル・トーンはバンドにかき消されてしまうので、オクターヴ奏法を用い、力強いスタイルを案出した。
ハインズ以前のピアノの巨匠―例えばピート・ジョンソン、ウィリー・ザ・ライオン・スミスなどと一線を画す、力強いシングル・トーン奏法、特に力強いベース・パートと、
ハインズの特徴であるクラッシュ・リズム(必ずしもステディな左手の動きを保つことなく自由にリズムを崩していく)は、初期のピアノ・ソロ演奏を聴けば明らかである。
リズムばかりではなく、ハーモニー感覚も抜群で、ハインズがのちのピアニストに与えた影響は計り知れないものがある。
30年代を通じて維持されたこのグランド・テラス・バンドは、40年代初めに一時解散したが間もなく再編、43年にはディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカーらを擁する
「バップの温床」ともいえる歴史的なバンドとなった。
48年から51年秋までルイのオール・スターズで活動した。
その後は主としてスモール・グループを率い西海岸を中心に活躍し、度々渡欧をした。
60年半ばには突如としてハインズ再認識の動きが湧き上り、以前にも増す多くのファンを得て健在ぶりを示した。
65年ダウンビート誌の「名声の殿堂」に選出された。

レコード・CD

「ルイ・アームストロング傑作集」(Odeon OR-8002)
「黄金時代のルイ・アームストロング」(東芝EMI TOCJ-5221〜28)
"Jimmie Noone / Apex club blues"(AFS 1023)
"The recordings of Jimmie Noone"(JSP 926A)
"Jimmie Noone Volume 1"(Classic jazz masters CJM 29)
「アール・ハインズ/サウスサイド・スゥイング」SDL-10351
"Earl Hines/Swinging in Chicago"(Coral CP63)
「アール・ハインズ/グランド・テラス・バンド」(RCA VRA-5007)
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ第10巻/ザ・ビッグ・バンド・イーラ Vol.2」(RCA RA-55)
「ブルーノートSP時代 1939−1952」(TOCJ-5231〜38)