エメット・ハーディ(トランペット)

Emmett Hardy (Trumpet)

エメット・ハーディ

1903年6月12日ルイジアナ州ニュー・オリンズ郊外グレトナ生まれ。
1925年6月16日ルイジアナ州ニュー・オリンズにて死去。

ビックス・バイダーベックに多大な影響を及ぼした伝説のコルネット奏者。1940年にアメリカの音楽評論家デイヴ・デクスター(1915〜1990年)が「ビックスを教えた無名のトランぺッター、エメット・ハーディー」という研究を発表して初めて広く知られるようになった。日本では油井正一氏によって紹介されている。
油井氏著『生きているジャズ史』によれば、ニュー・オリンズ郊外グレトナで生まれたエメットは、15歳でプロ入りし、リヴァーボートの専属バンドなど色々なバンドを渡り歩く。
19歳でニュー・オリンズ・リズム・キングス(N.O.R.K.)を経て、ダヴェンポートのカーライル・エヴァンス楽団に加入した。そこでまだコルネットに習熟していなかったビックス・バイダーベックに出会う。エメットは「彼こそ自分の後継者だ」と信じ、彼の手を取って吹き方を教えたという。
ハーディは19歳の時ビックスに出会ったと油井氏は書くが、ハーディが19歳ということは1922年ということになる。1921年にビックスはシカゴ近くのレイクフォレスト陸軍士官学校に入学するものの翌年には退学になり、ダヴェンポートに戻ってきている時のことであろう。
ビックスには、特にコルネットの第3ヴァルヴの使い方を教えたと言われるが、これは大変重要なことだという。
というのは、ビックスの愛好家は、
@ビックスのコルネットは、まったく独習であること。
Aそのためにヴァルヴの用法が独自のものであり、特に一般にはそれほど使用されない第3ヴァルヴを頻繁に用いること。
を一様に指摘しているからであるという。
ビックスがエメットに学んだことは多くの証言者がいるという。例えばベン・ポラック(ベニー・グッドマンが初加入したバンドのリーダー。N.O.R.K.出身)は、
「ビックスはハーディーの模倣者に過ぎない。ハーディーのそばにくっついて教えを乞うているビックスの姿を見たのは私だけではない。その後ビックスは素晴らしいミュージシャンになったが、エメットとは比較できない。なぜならエメットは、ビックスに、そもそも吹き方を教えたんだから。」
さらにポール・メアース(N.O.R.K.のTp奏者)は、
「1919年に、エメット・ハーディーは、それから10年後にビックスが吹いたのと同じスタイルで吹いていた。そのハーディーが今日誰からも顧みられず、ジャズの本の著者たちに一顧も与えられていないのは、吹込みレコードがなかったせいだ」と。
そしてエメット・ハーディーがどのくらいの腕前だったかというと、何とルイ・アームストロングと吹き比べをして吹き勝ったほどだという。その逸話とは、
ニュー・オリンズのベテラン・ドラマーであるモンク・ヘイゼルによれば、「1921年のある暑い日曜日のことだ。リヴァーボート<シドニー>の上で、白人エメット・ハーディーとルイ・アームストロングは約1時間にわたって、“ハイ・ソサイエティ”を前半と後半に受け継ぎ合ってTpバトルを行った。それは並み居る者の手に汗を握らせる見事な掛け合いであった。そして、ラスト・コーラス最後に一音をハーディーが吹き終えた時、ルイはおもむろに彼のTpを傍らに置き、深く頭を垂れて宣言した。“Man , You’re the king”と」
この事件はその時聴衆の中にいたレイ・ボデューク(Ray Bauduc:Dr)とナッピー・ラマール(Nappy Lamare:Bj)によっても証言されているが、ルイ自身は先ほど述べたように否定している。
ルイ曰く、「ハーディーという人物は全然知りません。私がその頃競演した唯一の白人は、ビックスです。シカゴで、1924年でした。公の席ではなく、自分たちだけの楽しみで演奏したのです。きっとそれは、私ではないルイだったのでしょう。」
さて、ドーシー兄弟の兄ジミー・ドーシーは次のように語っています。
「僕はニューヨークでビックスと同室だった。彼はよく口癖のようにハーディーのことを語ってくれた。彼はジャズ奏法をハーディーに習ったと言っていた。ハーディーを心から尊敬し、ハーディーこそビックスのアイドルであったことは確実です。」
1924年の初め既に病床に横たわっていたハーディーに友人たちが、うぉるべりんずが初めてジネットに吹き込んだ「ジャズ・ミー・ブルース」と「フィジティー・フィート」を持ち込んできた。「きっと君に喜んでもらえるよ」とモンク・ヘイゼルはレコードをかけた。最初の8小節を聴いたハーディーの顔は冴え、「ああ、ビックスだ。ダヴェンポート生まれのバイダーベックだ。僕が太鼓判を押して君たちに話したビックスだ。どうだい、僕の目に狂いはなかったろう」と喜びました。並み居る友人は、ビックスが、エメット・ハーディーそっくりなのに驚き入ったという。
そしてハーディーはその翌年1925年6月16日に亡くなった。学校時代から友人のレイ・ボデュークを始めたくさんの友人が参列して盛大な葬式を営み、彼の生地ニュー・オリンズの郊外グレトナの墓地に葬りました。彼の生涯の痛恨事は吹込みレコードが1枚もなかったということである。
1929年ポール・ホワイトマン楽団がニュー・オリンズに巡業で回ってきた。この楽団のCor奏者の名声は、すでにこの地の学士仲間にも知れ渡っていた。公演初日は学士連中がほとんど座席を埋め尽くしていた。しかしビックスのソロが始まった時、学士連中はみんながっかりしてこうささやき合ったという。「なぁーんだ、エメットのスタイルの真似じゃないか。これが独創的スタイルだなんて馬鹿にしてやがらぁ!」