ファッツ・ウォーラー (作曲、ピアノ、ヴォーカル & バンドリーダー)

Fats Waller (Composer , Piano , Vocal & Bandleader)

ファッツ・ウォーラー

本名:トーマス・ライト・ウォーラー Thomas Wright Waller
1904年5月21日ニューヨーク州ニューヨーク生まれ。
1943年12月15日巡演中肺炎を患いカンサスシティを走行中に死去。

“Fats”は「太っちょ」とか「でぶっちょ」という仇名。
1904年5月21日ニュー・ヨークの134番街で生まれた。
この年はスイング時代の大物が続々と誕生した年である。グレン・ミラー、ジミー・ドーシー、カウント・ベイシー、エディ・コンドン、
コールマン・ホーキンス、ジェス・ステイシーなどが生まれている。
ウォーラーの家系の中にはもともと音楽家の血統があった。母方の祖父は南北戦争後の南部諸州において、人に知られたバイオリン弾きであった。
母親アでラン・ロケット・ウォーラーはピアノとオルガンを演奏し、歌も上手かった。
彼女と父親エドワード・マーチン・ウォーラーはヴァージニアで結婚し、ニュー・ヨークへと出てきた。
父親は最初は貨物用馬車の馭者として働いていたが、信仰心が篤く、後にはアビニシアン・バプティスト教会の執事となり、さらには牧師となった。
ウォーラー家は生活が苦しく、子供が12人生まれたが、そのうち6人はまだ幼いうちに亡くなった。家庭は両親の敬虔な信仰心に支えられ、
家庭内では讃美歌が何度も歌われ、聖書講読が日課となっていたという。
当時のウォーラー家にはピアノはなかった。ファッツは椅子を2つ並べて、ピアノの鍵盤になぞらえて、指を動かしピアノを弾く練習をしていた。
これを見た階上にいる女性が、ピアノを弾かせてくれた。ファッツが5歳のころの出来事である。
それから数年経って、兄のロバートがピアノを買った。ファッツと姉ナオミと妹イーディスの3人がピアノを習うことになる。
この頃には、すでに無声映画の伴奏としてのラグタイム・ピアノ、或いはハーレムのクラブから聴こえるウキウキするようなピアノを聴いていた。
ファッツにとって、ありきたりのピアノ学習は退屈だった。ラグタイムは前世紀の1890年代に流行りはじめた音楽である。
その後数年を経て楽譜が読めるようになるが、それまでは耳で覚え勉強していたという。
ファッツがラグタイムに夢中になっていたことが牧師である父親にばれてしまった。父親から見れば、ラグタイムは人を堕落させる「悪魔の工房で作られる音楽」であった。
「このような世のため、人のために役に立たない音楽を好きになるとは」と、ファッツは父親からこってりと油を搾られた。しかし母親はこうしたファッツを黙認し、
彼の音楽を習うのを励まし続けたという。これは、ファッツには兄弟、姉妹がたくさんいたが、ファッツが13歳までは、実質的には末っ子であり、
母親にとっては他の子以上に可愛い存在だったのではないかと想像される。
ファッツから見た、幼くして亡くなった兄弟を除いた兄弟関係は、
長兄エドワード・ローレンス…12歳年長
次兄ウィリアム・ロバート…11歳年長
長姉メイ・ナオミ…1歳年長
妹:イーディス・サロメ…6歳年下
ファッツことトーマスとイーディスの間に子供が3人誕生したが、それぞれ幼時に亡くなった。その上母親がイーディスを生んだ後進退を壊し、
イーディスはヴァージニアの叔母の所に預かってもらうことになり、7歳になって再び一緒になった。
学校時代には後にテナー奏者で「サヴォイでストンプ」の作者であるエドガー・サンプソンが同級生としており、ウォーラーは学生オーケストラのメンバーで、
コンサートなどでは、ピアノ或いはオルガンを演奏していた。サンプソンによれば、ウォーラーは演奏中強弱のアクセントをあちこちに入れて、
とにかくリズミカルに演奏しようとしていたらしい。この当時からウィンクしたり、眉毛をピクピクさせたりして級友を笑わせていたということである。
トーマスが11歳の時(1915年)父親は息子が将来教会の仕事につき、音楽の面においても人に誇れるクラシック音楽の教養を付けさせようと、カーネギー・ホールでのパデレフスキーの演奏会へ連れて行った(? 残念ながら当時カーネギー・ホールに黒人が観客として入れたかどうか疑問である)。こうした経験からトーマスは職業として音楽の道を選ぶことになったという。学業と音楽の練習とが重なった時トーマスは音楽を第一とし、こう言ったという。「代数にはリズムがないから僕向きでないよ!」
トーマスはハイスクール卒業後、宝石工場で働いたり、食品マーケットで働いたりした。家の近所には、映画館リンカーン劇場があり、そこのピアニストと仲良くなり、休憩中にはトーマスが代わって弾かせてもらうようになった。またこの劇場には備え付けの劇場用パイプ・オルガンがあった。それはウーリッツァーのグランドと称し、当時10,000ドルもする超デラックスなオルガンだった。トーマスは劇場に遊びに行っている内にこのオルガン弾きとも仲良くなり、オルガンを弾かせてもらうようにもなった。そしてオルガン弾きが病気になった時に後任者としてトーマスを推薦してくれた。それによりトーマスは、リンカーン劇場の専属オルガニストとして週給23ドルで働くことになり、以後数年間はこの仕事を続けることになる。
この当時のことを同じピアニストのメリー・ルウ・ウィリアムズは、「リンカーン・センターでオルガンをバンバン弾きまくっているアメイジング・ファッツ・ウォーラーのことを尊敬していました。彼がニュー・ヨークを去った時、彼のファンはオルガンで彼の跡継ぎをすることを誰にも許しませんでした。もし彼を真似ても、熱狂的な若者たちは、そんなものは全然受け付けない状態でした」と語っている。
ウォーラーはおそらく15歳から21歳までこの仕事をやっていたと思われる。ウォーラーがたぶん15歳の時ハーレムのルーズヴェルト劇場で「アマチュアのピアノ・コンテスト」が開かれた。ウォーラーは、ジェイムズ・P・ジョンソンの「キャロライナ・シャウト」を弾いて優勝した。そしてジェイムズ・P・ジョンソンを師としてピアノの勉強をすることになる。
ジョンソンの妻メイは次のように証言する。「夫ジェイムズは、ウォーラーがパイプ・オルガンを弾いているのを聴いたら、すぐに家に帰って来て、”あの少年はものになるよ”と私に言いました。私にとってはとんだ頭痛の種となりました。ファッツが17歳の時で、私たちは140丁目に住んでいましたが、ファッツは一晩中、時には夜半の2時、3時から明け方の4時まで、うちのピアノをバンバン弾いたものです。”さあ、おうちに帰んなさい、あんたにはおうちがないの?”と私はよく言ったものでした。けれども彼は毎日やって来て主人に教わっていました。当然ですが、オルガンは左手の訓練にはなりません。だから主人はそこを彼に教えなければならなかったのです。」ウォーラーは良い師を、ジェイムズ・Pは良い弟子を持ったことになる。

今後も続く。

レコード・CD

"Fletcher Henderson /A Study in frustration"(Essential・JAZZ・Classics EJC55511)
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1集」
"The indispensable Fats Waller"(PM43686)
「RCAクラシック・ジャズ・ピアノの精髄」(RCA RA-29)
"Eddie Condon/That's a serious thing"(History 20.3008-HI)
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ/スイングからバップへ」(RCA RA-98)