フレッチャー・ヘンダーソン (ピアノ、編曲、バンド・リーダー)

Fletcher Henderson (Piano , arr & band leader)

フレッチャー・ヘンダーソン
フルネーム:ジェイムス・フレッチャー・ヘンダーソン James Fletcher Henderson
1897年12月18日ジョージア州カスバートの生まれ。
1952年12月28日ニューヨークにて死去。

全4枚に及ぶ彼の録音の集大成的レコード「ステディ・イン・フラストレイション(挫折の研究) 英題“A study in frustration”」全64曲から選りすぐった16曲を集めた日本編集盤「フレッチャー・ヘンダーソンの肖像」(CBS 20AP-1428)の解説を担当している故油井正一氏によると1920年アトランタ大学を出たフレッチャーは引き続き薬学を学ぶためにニューヨークのコロンビア大学へ進んだ。アルバイトとして楽譜出版社に勤め新曲宣伝部を務めるうち出版社の経営者の一人が「ブラック・スワン・レコード」を設立。フレッチャーはその会社の音楽監督に就任した。もう薬学に進もうという気は無くなっていた。と書いている。
しかしガンサー・シュラー「初期のジャズ」などによれば、1920年アトランタ大学を卒業し、ニューヨークに上りコロンビア大学で化学を専攻したというところまでは<薬学>と<化学>の違いはあるが合っている。しかし、シュラー氏他は、アフリカ系アメリカ人に対する差別のため、化学関係の職に就くことができず、楽譜出版社に勤め新曲宣伝係を担当したとしている。そしてその後、ブラック・スワン・レコードに就職。同社のハウス・ピアニスト兼音楽監督に就任し、同社の吹込みのほとんどすべてのピアノ伴奏、バンドの指揮を執ったとしている。
<薬学>と<化学>の違いも大きいが、人種差別のため化学関係の会社に就職できなかったというのとアルバイトをしているうちに、音楽関係に興味を持ち化学会社などどうでもよくなったというのでは大きく違う。どちらが正しいのだろうか?彼自身のコメントを待ちたいところであるが今ではそれは叶わぬことであるが。
フレッチャーは「クラシック」の音楽の訓練を受けたピアニストの母からピアノを学んだ。ヘンダーソン家はジャズやブルースのような「クラシック」以外の<下品な>な音楽を認めなかった中産階級の黒人家族の一つだった。ブラック・スワン・レコードに就職したばかりのフレッチャーと彼の録音仲間は、ブルース歌手―20年代前半でおよそ30人の異なる歌手たちの伴奏で暮らしを立てていたが、フレッチャーにはブルースのフィーリングがよく分かっていなかったという。
21年秋から翌年夏まではエセル・ウォーターズの巡業バンドを率いて楽旅したが、彼女はフレッチャーがうまくブルースを演奏できないことに腹を立てシカゴでジェイムス・P・ジョンソンのピアノ・ロールを聴かせたという逸話が残っている。
また逆にフレッチャーの両親は、息子が<低俗な>ブルース歌手と付き合うことを歓迎せず、息子がそうした仕事をしていることを世間には隠していたという。
しかし、フレッチャーがこうしたブルース歌手たちとの仕事を続けることで、音楽感が変わり、ジャズにも習熟していった。そうして後年彼が、優れた音楽家たちをまとめることができるような下地が出来て行ったとシュラー氏は述べている。
1922年(別資料では1923年)自分の楽団を結成し、クラブ・アラバムにデビューした。これが歴史的なヘンダーソン楽団の第1歩であった。フレッチャー・ヘンダーソンという人物はシュラー氏によると、ジャズに大きく貢献した人物だが、自分から積極的に行おうとした人物ではなかったという。このクラブ・アラバムに長期の出演契約を獲得したのもどちらかというと成り行き任せで、クラブが出演バンドのオーディションを行っていたが、フレッチャー自身はさして興味を持たなかったという。たまたま一緒にいた音楽家に説得されオーディションに参加し、合格してしまったのだという。つまりエリントンやベニー・モートン、アームストロングがリーダーであったという意味では、彼はリーダーではなかった。しかし彼には、才能があり、ジャズの楽想がある格別な音楽家を雇用する格別のセンスを持ち合わせていた。
フレッチャー・ヘンダーソン・オーケストラ-1924年ルイ・アームストロング加入前 同1923年にはコールマン・ホーキンス(テナー・サックス)が、1924年にはルイ・アームストロング(トランペット)が加入し、そのコンセプションの設定に決定的な役割を果たした。
彼のバンドは種々の点でジャズ・ビッグ・バンドのパイオニアと言えるもので、30年代に活躍したジャズ・メンの多くはヘンダーソン楽団の出身者であった。
また人気の面でも、アフリカ系アメリカ人の楽団としては異例の人気を博し、ビッグ・バンド・ジャズのブームを巻き起こした歴史的なバンドである。
20年代後半にこのバンドは最盛期を迎えたが、ほどなく人気は下降気味となり、34年にはバンド解散に追い込まれた。 なお、アームストロングは数年で独立するが、ホーキンスは1930年代初頭に至るまで、ヘンダーソン楽団の看板奏者として活躍。また、1920年代には、ヘンダーソンはベッシー・スミスの伴奏ピアニストとしても活動している。
その後ベニー・グッドマンと出会い、グッドマンの楽団に編曲を譲渡するとともにその編曲を手掛け、同楽団の売り出しに大きな役割を果たした。これは白人バンドが黒人を雇った初の事例となった。
35年〜39年春までは再び豪華なメンバーを揃えた自己の楽団を組織するが、39年には自分の楽団を解散し、グッドマンとの活動が中心となった。
41年〜45年三度自己の楽団を率いたが、再びグッドマン楽団のアレンジャーに復帰した。48年〜49年は再びエセル・ウォーターズの伴奏者として巡業し、50年には半年間だけビッグ・バンドを率いた。同年暮れに6重奏団を率いたが、それが彼の最後のバンドとなった。
1950年、脳卒中の後遺症による麻痺のため、ピアノを断念。1952年没。

初期のジャズにおける最重要人物の一人。わが師粟村氏はその人物評価も含め以下のように記述している。
「ビッグ・バンドはフレッチャー・ヘンダーソンとともに始まった。但し、ヘンダーソン自身がアレンジのペンをとるようになったのは30年代初めになってからのこととされており、ヘンダーソン楽団のトレード・マークのようになったセクション別のいわゆる「呼びかけと応答」式の編曲手法はバンドの初期のアレンジャーであったドン・レッドマンの手によって設定された。この事実が今日ともすれば忘れられがちであるのは、31年に自楽団を組織したころのレッドマンのアレンジが「色彩の魔術」風のものに変貌していたからであろう。
但し、レッドマン自身が認めているように初期のヘンダーソン・バンドの平凡な演奏にジャズ本来のスピリットを注入したのは24年に新加入したルイ・アームストロングであったから、ある意味ではビッグ・バンド・ジャズもまたルイ・アームストロングの手によって新しい生命を植え付けられたことになる。
ヘンダーソンは本質的には経営の才には欠けたリーダーであった。また彼はその金運ある後継者となったベニー・グッドマン同様、最初に成功した形式をあくまでも維持していこうとするタイプのリーダーでもあった。しかしリーダー自身の表に出ない才能からか、当時の黒人楽士に対する需要の問題からか、このバンドに出入りしたミュージシャンのほとんどは当時一流のジャズメンであり、そこに労せずしてバンドとしての色合いの変化が生まれ、BG楽団の業績を上回って後世のジャズ・ファンの興味をつなぐだけの強力な魅力が生じたのであった。
ヘンダーソン楽団は紆余曲折を経ながらかなり長期にわたって存続したバンドであっただけに、当時の国内の好不況をそのまま演奏の内容にも反映させており、そこがまたファンによっては一つの聴きどころともなっているわけだ。
ヘンダーソン楽団の残した膨大な数に上る録音は今日そのほとんどが蒐集の価値あるものだが、再発された各社のレコードの内質量ともに最大のアルバムは「A Study in frustration」(Columbia C4L-19)であり、これに「ファースト・インプレッション」(Decca SDL-10378)、「スイング・ザ・シング」(Decca SDL-10390)の2枚を加えれば特別のファン以外には必要にして十分なコレクションと言えると思う。

レコード

"Fletcher Henderson /A Study in frustration" CD-1,2,3
「Classic jazz archive / Fletcher Henderson 1897-1952」Membran 221998-306 (CD2枚組)