フランク・テッシュメイカー (クラリネット&アルト・サックス)

Frank Teschemacher (Clarinet & Alto sax)

1906年3月14日(13日という記載あり)ミズーリ州カンサス・シティ生まれ。
1932年3月1日シカゴ交通事故にて死去。

シカゴのオースチン・ハイ・スクール在学中にジミー・マクパートランド、バド・フリーマン、ジム・ラニガンらと知り合い一緒にプレイした。
シカゴでプレイしていたニュー・オリンズ・ジャズマンの演奏に傾倒し、特に黒人の名手ジョニー・ドッズと白人の先駆者レオン・ラポロの影響を受けながらも、
独自の鋭いトーンと簡潔な音響フレーズの構成などによって、いわゆる「シカゴ・スタイル」を想像した天才的プレイヤー(ジャズ人名辞典)。
「フランク・テッシュメイカーが真に偉大なミュージシャンであったか否かについては今日(1965年ごろ)なお議論の分かれるところであるが、
オースチン・ハイスクール・ギャングの一人として歴史に残るシカゴ・スタイルの創造に挺身していたころの彼の情熱は、何人と言えども疑う余地のない立派なものであった。」(粟村師『ジャズ・レコード・ブック』)
さらに粟村師は「シカゴ・スタイル」なる言葉は現在では死語と化してしまった感があるが、ニュー・オリンズ・ジャズの精神を白人の知性を通じて昇華し、
出来るだけ数少ない音符によってこれを表現せんとした彼らの努力は―テッシュ自身のソロも含めて―稚拙さと模倣という点に問題があろうともジャズ史に
特筆されてよい貴重な価値があった。
こうしたアマチュア精神の権化のごとき演奏スタイルが彼ら自身のプロ化とともに次第に崩れ去って「普通のディキシーランド・ジャズ」化していく過程は
誠にはかないが、テッシュ自信はこうした変遷と不況のさなかに思わぬ事故で昇天してしまい、この事実が逆に後世テッシュの名を神の座に近づけることともなったのである。」
続けて「レコードに聞くテッシュの音は豊饒さとは程遠いぎくしゃくした感じのもので、ドッズやヌーンの明らかな模倣すら時に顔を出した。
しかしその裏を流れる彼の音楽に対する誠実さはこれらの欠点を補って余りあるだけのひたむきな説得力があった。」と述べている。
1928年ニュー・ヨークに出てベン・ポラック楽団に入り、テッド・ルイスやレッド・ニコルスらと共演した後9月にシカゴに戻った。
そしてジェス・ステイシーらと共演した後、31年末にワイルド・ビル・ディヴィソンの新楽団に参加したが、間もなく自動車事故でこの世を去った。

レコード・CD

「シカゴ・スタイル・ジャズ」(Columbia ZL-1091)
「ザ・シカゴアンズ/1928-1930」(Decca SDL-10361)