グレン・ミラー (バンド・リーダー&トロンボーン)

Glenn Miller(Band master & Trombone)

グレン・ミラー

フルネイム:オルトン・グレン・ミラー (Alton Glenn Miller)※1、2
※1グレンには、””の付いた表記”Glenn"としているものと、普通にAlton Glenn Millerとしているものがある。多分現在最も正式なグレン・ミラーに関する団体「グレン・ミラー生誕地協会」での表記が”Alton Glenn Miller”としているので”Alton Glenn Miller”を採用する。
1904年3月1日アイオワ州クラリンダ生まれ。
1944年12月15日軍務中に死去。

「グレン・ミラー」というと「ああ、あれね」的な扱いを受けることが多いような気がするが、実は謎が多い人物のような気がする。名前だけでも一筋縄ではいかない。
「オリジナル・ベスト・コレクション」の野口久光氏の解説によると、ブライアン・ラスト(Brian Rust)氏の作成した体冊のディスコグラフィー”Jazz records"のグレン・ミラーの項には、1935年〜1939年までの24曲が記載されているだけで、決定的な人気を得た1939年以降の作品は1曲も載っていないそうだ。これはどういうことだろうか?グレン・ミラー楽団はダンス・オーケストラとして物凄い人気を誇っていたが、ポピュラー・ソングを扱ったスィートなナンバーが多く、ジャズの名にふさわしいソロも少なく、ミラー自身のトロンボーン・ソロも少ないことがその原因とされているという。つまりムーンライト・セレナーデ以降のグレン・ミラーの音楽はジャズではないという見方だ。現在の多くの若い方にも同様の見方が広がっているようだ。しかし、少なくとも日本の僕より年上の方たち取っては、グレン・ミラーこそがジャズの代名詞としてとらえられている時代があったように思われる。このことは、ジャズとは何か、何をジャズと思うかということに関わってくる大きな問題であるが、このことについては別機会に考えてみたい。

1904年アイオワ州の小さな町クラリンダでルイス・エルマー・ミラー(Lewis Elmer Miller)とマッティ・ルウ(Mattie Lou)の次男として生まれた彼は、5歳の時ネブラスカ州ノース・プラッツに移り住む。そしてそこではコルネットとマンドリンを習い始める。12歳の時にはミズーリ州グランド・シティで市の作ったブラス・バンドでトロンボーンを吹いていたという。その後コロラドのモーガン・ハイスクールに入学したが、1921年中退してボイド・センターのバンドに加わった。しかし翌年同楽団を退きコロラド大学に入学したが、趣味の音楽で身を立てる決心をし、デンヴァーのマックス・フィッシャー楽団に加わり、ロスに巡業した時にベン・ポラックに見いだされてトロンボーン奏者兼アレンジャーとして迎えられた。1926年のことである。
この楽団にはジミー・マクパーランド(コルネット)やまだ二十歳前のベニー・グッドマンなど有能なミュージシャンがいて、ダンス・バンドとしてはかなりジャズっぽい編曲や演奏の自由もあったが、翌年ポラック楽団がニューヨークに滞在している時に辞め、フリー・ランサーのアレンジャー兼プレイヤーとして同地にとどまった。クラリネット奏者としてミュージシャン仲間やレコード会社から高く評価されていたグッドマンもポラックの許を離れ、フリーとして売れっ子になった。グレンらはその後もポラックの楽団に一時的に加わることもあった。
1929年秋ウォール街を突然襲った経済恐慌のあおりでアメリカ全体が不況のどん底に陥り、ポラック楽団も解散、フリー・ランサーとしての仕事も急に減っていった。ミラーもグッドマンも否応なしに失業ミュージシャンの仲間入りをしなければならなかった。2人は西45丁目にあるウィットビー・アパートメントで同居生活をしたが、ある時は空の牛乳瓶を集めわずかな現金に替え、昼飯のホット・ドッグにありついたこともあったという。このことは1969年にグレン・ミラー逝去25周年を記念して発売されたミラーのアルバムにグッドマンが書いた親友ミラーの思い出として出てくる。
29〜30年にかけてはレッド・ニコルスのファイヴ・ぺニーズでトロンボーンの名手として数々のレコーディングに参加した。34年ドーシー・ブラザーズ、35年イギリスからアメリカに招かれてきたレイ・ノーブル楽団などで演奏、37年に自己のバンド結成したが、なかなか成功には至らなかった。38年にバンド再編すると急激に人気を獲得するようになった。
その後42年入隊するまで、全米最高の人気楽団となり、その甘く豪華絢爛な編曲は、キラー・ディラー・スタイルと呼ばれた。 この突然の大成功について、グッドマンは第一に一般大衆を引き付ける鋭い感覚を持っていながら大衆に迎合するのではなく彼自身のカラーを持っていたこと、つまり一聴して「グレン・ミラー楽団」とわかる音作りをしたこと、また、若手ミュージシャンの可能性を見抜く力を持ちそれを発揮させたこと、誠実な人柄で楽団を円満に統率する能力、人格を兼ね備えた人物であったことを挙げている。映画「グレン・ミラー物語」では独自のサウンドづくりに悩むミラーが、リハーサル中たまたまトランペット奏者がアクシデントで演奏できなくなり、クラリネット奏者を入れたところ独特のソフトなサウンドが奏でられ「これだ!」と気づいたことになっている。曲で言うと代表曲「ムーンライト・セレナーデ」である。39〜42年にかけては相次いでヒット曲を連発、スイング王グッドマンの人気を完全に凌いでいたという。
この人気絶頂の1942年にバンドを解散して入隊する辺りは不思議である。ミュージシャンというのは、そもそも軍隊生活などは苦手だと思われる。マイルス・デイヴィスの伝記などを読むと、徴兵制が行われていた当時、徴兵を免れる方法を先輩ディジー・ガレスピーに聞き、まんまと兵役に付かずに済ませている。それはレスター・ヤングの例に見るように過酷な軍隊生活により、感受性のみならず人間性もズタズタにされる例を見ているからなのだろう。しかし、41年末の真珠湾攻撃をきっかけに対日戦争がはじまり、日本同盟を結んでいたドイツ、イタリアもアメリカに宣戦布告を行うと、翌1942年の夏38歳の彼は人気絶頂のバンドを突然解散し、10月自ら進んで陸軍に志願入隊するのである。1942年9月27日ミラーの一般市民として最期のコンサートをニュー・ジャージー州パサイクで行いバンドは解散する。
僕は、レコードの解説、また映画「グレン・ミラー物語」を見て、この入隊志願は軍とミラーの間に密約があるのではないかと思っていた。というのもこの辺りことは映画でも実に淡々と描かれていて、あまり触れたくない感じがしたのだ。というのは普通のミュージシャン気質を考えると人気絶頂の時に、徴収書も来ないのに自ら進んで軍に入隊するミュージシャンというのがどうにも理解できなかった。要は、ドイツ系のミラーが太平洋側、大西洋側と2方面で戦わなくてはいけなくなったアメリカ。ヤワなミュージシャンといえどこの国難を放っておけず志願している。況や若者は徴兵を拒否するどころか積極的に志願すべきだという強力なメッセージを発信できる。もちろんミラーは軍には入るが、危険な戦場などには行かない。徴兵期間が終われば、救国に赴いた愛国のミュージシャンとして熱烈な歓迎されカムバックは華々しいものになるだろう。軍、ミラー両方にとって良いことずくめだ。下世話だが、ミラーには軍人恩給も入るだろう。いきなり陸軍大尉として入隊するというのも怪しい感じがした。
しかし彼のこの入隊の意志は、軽々しいものではなく、裏があるようなものでもなかったようだ。彼は陸軍に入隊するのだが、最初は海軍に志願しているのである。しかし、38歳という年齢は第一次徴兵対象ではないことなどから、海軍には入隊を断られる。実務経験もなく、ミュージシャンというヤワな環境にいたミラーの志願を断るのは当然であろう。すると彼は陸軍省のチャールズ・ヤング元帥に手紙を書くのである。彼は、陸軍軍楽隊を現代的にする(原:modernize)するといって説得し、入隊を受け入れさせるのである。 さて、意向通り入隊を果たしたミラーは、10月陸軍大尉として軍籍にあるミュージシャンを集めてアーミー・バンドを結成、全米各地を巡った後、44年少佐に昇進、新たに陸軍航空隊バンドの指揮者としてイギリスに渡り、ヨーロッパ駐屯のアメリカ軍、連合軍将兵の慰問に尽くした。 そして44年12月15日、すでに解放されたパリのクリスマス・コンサートに出演するために、楽団とは別に単身陸軍のノースマン大型機でイギリスのベッドフォード基地からパリに向けて飛び立ったまま永久に消息を絶ってしまった。英仏海峡上空でドイツ空軍に襲われたか、飛行機事故なのかついにわからず、1年後にアメリカ軍当局は公式にグレン・ミラー少佐の氏を発表した。
ミラーは、軍人陸軍少佐として亡くなったのか、退役して民間人ミュージシャンとして軍慰問の楽旅途中に亡くなったのか資料によって記載が異なる。映画では大佐になることが予定されている少佐として亡くなったという。「オリジナル・ベスト・コレクション」の野口久光氏の解説によると、やはりグレン・ミラーは少佐として亡くなったとしている。しかし、最近のウィキペディアなどでは「除隊後の慰問中に亡くなった」としている。

レコード・CD

「ベニー・グッドマン秘蔵名演集」(BMG RDTD-1046)
"Benny Goodman/Giants of jazz"(Time Life STL-105)
"The young Benny Goodman"(Timeless CBC 1-088)
"Red Nchols and his five pennies"(Ace of Hearts AH-63)
「レッド・ニコルス物語」(MCA-3012)
「バニー・ベリガン・アンド・ヒズ・ボーイズ/テイク・イット・バニー!」(Epic SICP 4012)
「MCAジャズの歴史/Decca-MCA History of jazz」(MCA VIM-17〜19)
"The Dorsey brothers/1935"(Circle records CLP-20)
「オリジナル・グレン・ミラー・ベスト・セレクション」(RCA-9001-02)
"Benny Goodman & Glenn Miller Live at the Carnegie hall" (JazzBand EBCD2103-2)