ハーラン・レナード (サックス&バンド・リーダー) 

Harlan Leonard (Alto , tenor sax & Band leader)

<h1>ハーラン・レナード

1905年7月2日ミズーリ州カンサス・シティ生まれ(1904年生まれという記載あり。
1983年11月10日カリフォルニア州ロスアンゼルスにて死去。

カンサス・シティ生まれの生粋のKCジャズマン。
ハイ・スクール時代にサックスを習い、同市のローカル・バンドで修業し、18歳の時ジョージ・E・リーのバンドでプロデビューしたが、
直ぐにベニー・モーテンの楽団に移り31年まで活躍した。
同年モーテンがバンドの改造を図った時に辞め、サモン・ヘイズの楽団(Thamon Hayes's Kansas City Rockets)に移った。
そして34年ヘイズがバンドを辞めた時に後を引き継ぎリーダーとなった。バンドはカンサス・シティを中心に活動し、
35年シカゴのコットン・クラブなどに出演したが、1936年カンサス・シティに戻った時に解散した。
その後37〜38年にかけてはジミー・キースのバンドを受け継いでバンドを率い、カウント・ベイシー楽団が
ニューヨークに出て不在になった後を受けてカンサス・シティのクラブに出演した。
このバンドには何度か若きチャーリー・パーカーが加わったことで有名である。その時は自身が1番アルトを吹き、
パーカーには3番アルトを任せほとんどソロは取らせなかったというが、それでパーカーは脱退したのではないかという。
また同地では同じく人気のあったジェイ・マクシャンのバンドと競い合ったという。
40年にはシカゴのアラゴン・ボールルームとサヴォイ・ボールルームに出演、またヴィクター系ブルーバード・レーベルに
「ハーラン・レナード・アンド・ヒズ・ロケッツ」の名前で吹き込みを行った。
ここで録音した”Hairy Joe jump”がヒットし、それによりニューヨークへ進出、ハーレムのゴールデン・ゲイト・ボールルームに出演した。
ニューヨークでバンドは2回目の録音を行い、この時編曲陣にタッド・ダメロンが加わった。
その後バンドはカンサス・シティに戻ったり、ニューヨークに出たりとしていたが、1942年ロスアンゼルスに家族共々移動し、
活動を続けたがバンドの維持が難しくなり、45年バンドを解散、1946年には音楽界を退き、ロスアンゼルスに移住し税務関係の仕事に就いていたという。

レコード・CD

"Harlan Leonard and his Rockets"(RCA LPV-531)
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・イーラ」第7巻“ベニー・モーテン”
“Bennie Moten K.C. Orch. 1929-31/Harry Dial quartet 1946”(IAJRC 7)