ハービー・フィールズ (テナー・サックス)

Herbie Fields (Tenor sax)

1919年5月24日ニュー・ジャージー州アズベリー・パークの生まれ。
1958年9月17日フロリダ州マイアミにて死去。
白人である。

マイルス・デイヴィス(Miles Davis)と同じニューヨークのジュリアード音楽院の出身。1941〜43年に軍役に就く。
1944年からボブ・シール(Bob Thiele)のシグネイチャー・レコードでレコーディング活動を始める。
翌年からはサヴォイにもレコーディングを開始する。
ラバーレッグ・ウィリアムス(Rubberleg Williams)とのレコーディングでまだ10代だったマイルス・デイヴィスを起用したことで有名。
フィールズはアール・ボスティク(Earl Bostic)に替わりライオネル・ハンプトン(Lionel Hampton)楽団のアルト・サックス奏者となるが、
アルトだけではなく他のリード楽器クラリネットからバリトン・サックスまで流暢にこなした。
1945年エス久ワイヤー誌のアルト・サックスのニュー・スター部門賞を獲得している。
翌46年には、メジャーのRCAヴィクターが、終戦後で維持が難しくなりつつあった彼のビッグバンドとレコーディング契約を結んでいる。
後にカウント・ベイシー(Count Basie)楽団で活躍するニール・ヘフティー(Neal Hefti : Batmanの作曲者としても有名)、ビル・エヴァンス(Bill Evans)、
エディー・バート(Eddie Bert)、マニー・アルバム(Manny Albam)、サージ・チャロフ(Serge Chaloff)などが彼のバンドの出身者である。
「ダーダネラ(Dardanella)」が彼の最大のヒット曲である。
1949〜50年は、フランク・ロソリーノ(Frank Rosolino)をフューチャーし、ジミー・ノッテインガム(Jimmy Nottingham)をトランペットに、
ビル・エヴァンスのピアノ、ジム・エイトン(Jim Aton)、タイニー・カーン(Tiny Kahn)という逸材をそろえた7重奏団を結成し、シカゴを基点に数多くのステージをこなしたという。
1950年フィールズのバンドはビリー・ホリディ(Billie Holiday)と共に、ニューヨークのアポロ・シアター、ワシントンのハワード・シアターなど東海岸で3か月間のツアーを行い成功裏に終わったという。
その後50年代にはR&Bに魅かれて行ったようだが、思うような成功には至らず不満を募らせていたという。
テリー・ギブス(Terry Gibbs)の証言によると、「ハービーとは一緒に9重奏団を組みバードランドで一緒にプレイした。
彼はいいテナー奏者だが、ビバップ・スタイルではなかった。彼はどちらかというとホンカー(Honker)であり、リズム・アンド・ブルースと言われるようなプレイ・スタイルだった。
彼はいいプレイをするが、バードランド向きの奏者ではなかったということさ」。
ビル・エヴァンスの証言だと、「彼は色々なの意味でロックンロールの先駆者だよ。彼はウィグリング(wiggling)、ジャーキング(jerking)をやるんだよ!
ロックンロールは後にドル箱になっていったが、彼には何ももたらさなかったんだ」。
彼は50年代には、いくつかのビッグ・バンド、ホンクするジューク・ボックス向けのナンバー、バップ・スタイルのスモール・コンボ、ストリングとのセッションなど
精力的にレコーディングを行ったが、不満は募るばかりだったようだ。彼はマイアミに住み、レストランを経営していた。
彼は睡眠薬の飲みすぎで39歳という若さで命を落とすのである。
1945年当時はカンザス・シティを中心としたアーバン・ジャズ・ブルースがR&Bとして定着しかかっていた頃だった。
また一方、スイング・ジャズがチャーリー・クリスチャン(Charlie Christian)、チャーリー・パーカー(Charlie Parker)、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie)などの
登場により新しいバップの時代を迎えようとしていたころでもあった。
油井正一氏によると、ライオネル・ハンプトン楽団でのプレイ(アポロ・コンサート…未聴です)などにおけるフィールズのプレイは、
バップが分からずバップらしきでたらめを吹いている感じで、とてもジャズの未来を担う新人とは思えないと厳しい批判をしている。
またハンプトン時代には白人に見られないよう黒く化粧をしていたという。
さらに「エスクワイヤー誌ではニュー・スターのウィナーになっているが、バップは分からない。
過大された評価と自分の実力に悲観して自殺して果てたのだった。」と身もふたもなく切り捨てている。
通常新人賞というのは、将来性を評価するもの、つまり彼は将来を嘱望されたことになる。
その本人があるときはホンカーに、ある時はジャズのバップに取り組む、そしてどちらもうまくいかず評価もされない。
どちらに絞ることはできなかったのだろうかと部外者の僕などは単純に思ってしまうのだが。
なお、ホンカー(Honker)とは、主に40年代後半から50年代にR&B、ジャンプ・ミュージックで活躍したサックス奏者のこと。
先ほどのアール・ボスティクはその巨匠である。他にはキング・カーティス、ビッグ・ジェイ・マクニーリーなどが有名。
ディヴィッド・サンボーン(David Sanborn)などのフレジオなどとは比較にならないくらい音をゆがませ、聴く者を興奮のるつぼに引き込むようなプレイ。
百読は一聴にしかず、まあ一度聞いてみればすぐわかる。アール・ボスティクのレコード・CDは入手しやすいのではないか。
ジョン・コルトレーン(John Coltrane)もアール・ボスティクのバンドにいたことがあった。

レコード・CD

"Hot Lips Page/After hours in Harlem"(Onyx records 207)
“Harlem Odyssey”(Xanadu 112)