ジェリー・ロール・モートン (作曲、ピアノ、バンドリーダー)

Jelly Roll Morton (Composer , Piano & Bandleader)

ジェリー・ロール・モートン

本名:フェルディナンド・ジョゼフ・ラ・モット Ferdinand Joseph La mothe
1885年9月20日ルイジアナ州ガルフポート生まれ。
(1890年10月20日フォーバーグ・マリニー地区生まれという記載もある)
1941年7月10日ロスアンゼルスにて死去。

ガンサー・シュラーはその著『初期のジャズ』で1つの章をモートンに割いている。
そして割いている章のタイトルは「最初の偉大な作曲家」というものである。その章の終わりは次のように結ばれる。
「ジェリー・ロール・モートンのジャズの中での位置は依然として論争の種である(この著が出版されたのは1968年)。その論争は、人間として「変人」のモートンと音楽家としてのモートンとを対比する論争が主である。人間モートンにまつわる伝説を忘れ、モートンの音楽に集中するならば、ジャズの発展におけるモートンの役割が顕著なことは明白である。(中略)モートンの不幸はその成功が遅すぎたところにあった」と。「変人」だったんだ。

粟村政昭氏はその著『ジャズ・レコード・ブック』において、「人柄に対する評価から彼の功績を積極的に認めたがらない向きもあるが…」と書くように、その人品骨柄は決して高潔なものとは言えなかったようだ。しかし、それで彼の音楽まで正しく評価されないというのはいかがなものであろうか。ヤク中毒で決して高潔の士とは思えないチャーリー・パーカーが高く評価されているのとは大きな差がある。

生い立ち

幼年期

生地ガルフポートはニュー・オリンズ東方約70キロの地で、フランス人の血を引く裕福なクレオールの家に生まれたが、間もなく家族はニュー・オリンズに住むようになった。このことは重要で彼は自分がクレオールであることを生涯誇りにしていたという。
彼の伝記の著者アラン・ロマックスに語った彼自身の言によれば、「芸人としてやっていくためには、フランス系と思われるよりもイギリス系の方が都合が良かった。フランス系と思われたくなかったので姓を変えたが、勝手に変えたわけではなく再婚した母親の嫁ぎ先の姓を名乗ったのだ」という。フランス系だということに誇りを持っていたが、それでは芸人として不利なのでイギリス系のように装ったということらしい。この時代のことがよく分からないが、フランス系よりイギリス系の方が物事有利だったのであろうか?
クレオールの過程は一般の黒人よりもはるかに良い生活をしている場合が多いが、彼の場合も例外ではなかった。また9歳になる時まで家族の会話はフランス語だけだったという。
父親が楽器をよく手にしていたので、彼の家にはギター、ドラム、ピアノ、トロンボーンなどいろいろな楽器があり、幼時からモートンは慣れ親しんでいたという。特に5歳の時にハーモニカを吹き始め、次いでジューズ・ハープ(?)に興味を持ったが、6歳になってギターを習い始めたという。そして近所の子供達と3人でバンドを作り待ちで演奏したりしていたという。
その間にピアノに関心を持ち始めていたが、彼の名付け親であるユーラリー・エコー夫人によくオペラに連れて行ってもらい、そんなことからも10歳のころからピアノに専念するようになった。
このエコー夫人は彼の義母に当たり、中々の派手好きで、その影響でモートンも早くから宝石類を身に付けることを覚えたという。

少年期

やがて彼の祖父の商売が失敗し、そのためモートンは心ならずも、これまでの彼からすれば卑しい身分のアップタウンの黒人たちとともに町工場で働かねばならなくなった。さらに14歳の時に母親が亡くなり、友人の勧めもあり10代のころからニュー・オリンズの紅燈街でピアノを弾いた。これはかなり金になったが、祖母の怒りを買い勘当されてしまう。そこで彼は家を飛び出し、ピロキシーという町にいる名付け親のところに行き、その地でピアノをプレイして稼ぐことにしたという。
2年後の1902年、17歳の時にニュー・オリンズに戻った彼は、スポーティング・ハウス(娼婦館)のお抱えピアニストとなり、ラグタイム風のピアノを弾いて客や娼婦たちを楽しませていた。当時のストーリーヴィルにはトニー・ジャクソンを初めとするピアニスト達が働いていたが、モートンはジャクソンと親しくなり、彼と並び称されるほどの人気を得て、あちこちのパーティーからも雇われるようになったという。
モートンのピアノ・スタイルはラグタイムに基づいてはいたが、シダリア地方で発生したラグタイムとは違ってかなり即興性を取り入れた独自のスタイルだった。すなわちラグタイムを基としながらも、フランス音楽やスペイン音楽のメロディやリズムの特徴、それにブルースや黒人教会音楽を初めとする黒人音楽の泥臭さが加わっており、さらにニュー・オリンズの街頭ブラス・バンドの演奏からの影響も多分に感じられるものだった。
この頃(いつごろか?)彼は「キング・ポーター・ストンプ」、「ニューオリンズ・ブルース」などの代表的作品を書いており、娼婦館やキャバレー、ダンスホール、パーティーなどで演奏することによってますます声価を高めていった。と同時に彼を取り巻くそのような環境は彼の生活を派手なものにして行き、娼婦たちからもて囃された。またこの地に群がるギャンブラーたちとも交際を持ち、音楽家であると同時にいっぱしの博打打ちともなっていった。

青年時代 放浪

一時はアメリカ一の博打打ちになることさえ夢見るようになっていたのである。そんなわけで1904年ニュー・オリンズを離れ、アラバマ州のモビールに向かった時から、1923年にシカゴに落ち着くまでの約20年間は博徒兼ピアニスト、さらには娼婦のヒモとして生きていたという。
1904年一時モビールに行ったモートンは翌1905年末にニュー・オリンズに戻ったが、1907年には再び放浪の旅に出た。それからカリフォルニア、テネシー州メンフィス、セントルイス、カンサスシティなどを転々とした。には娼婦のヒモとして生きていたという。
その間メンフィスにおいて一時W.C.ハンディと一緒にバンドを作ったことがあるというエピソードが興味深い。
また、メンフィスでは1909年から10年にかけて喜劇役者になろうとヴォードヴィルの一座に加わり、中部各地を巡業もしたという。この頃作ったのが「ジェリー・ロール・ブルース」で、当時モートンが座員たちと卑猥な上段のやり取りをしている中で、“ジェリーの付いたロール・パン”を意味する実に卑猥な「ジェリーロール“Jelly Roll”」というニックネームが彼に付けられたのであった。
1911年モートンは初めてニューヨークに行ったが、この時ハーレムで活躍していたという「ストライド・ピアノの父」ジェームス・P・ジョンソンはモートンのピアノを聴いて、クラシックの技法を取り入れた素晴らしいピアニストであると称賛した。当時のモートンはいかにも遊び人風で前歯にダイヤモンドをはめ込み、しゃれた服装をした商売女を2人引き連れていたという。
その後再び彼は中西部に旅に出て、やがて一時的にシカゴに落ち着くことになった。シカゴでは自分のバンドを率いて「デラックス」や「エリートNo.2」などのクラブに出演したが、それよりも賭博で生活していると言った方が良い状態だった。この間1915年に「ジェリー・ロール・ブルース」をシカゴのウィル・ロジター出版社から正式に楽譜にして出版した。これは楽譜になった最初のジャズ・ナンバーであると思われるという。 1915年サンフランシスコで行われた万国博覧会に出演した後再びシカゴに戻り、さらにデトロイトでソロ・ピアニストとしてホテルなどに出ていたが、1917年に友人の紹介でロサンゼルス及びその周辺のクラブに出演して人気を得た。その後スモール・バンドを率い、ヴァンクーヴァ―のホテルに出演した。この間ニュー・オリンズ出身のアニタ・ゴンザレスという女性と結婚している。
その後アラスカに遊びに行って後、各地で仕事をし、ロスに戻ってバンドを結成したり、ソロ・ピアニストとしても活躍するなど、1922年まではロスアンゼルスを中心に太平洋沿岸諸都市を巡演した。さらにこの間1919年メキシコの国境にあるティファーナの「カンサス・シティ・バー」に出演している期間に「カンサス・シティ・ストンプス」を作曲、またそこで働いていた美しいウェイトレスに捧げた「ザ・パールズ」もこの頃に作った。
このロス・アンゼルス時代彼は昔からのバンド仲間であったレッブとジョニーのスパイクス兄弟とともに楽譜出版を始めた。そして最初に出したのがモートンが作った「サムディ・スィートハート」で1919年のことであった。ただこの曲はモートンが権利をスパイクス兄弟に譲ったため、モートン作とはなっていない。これは当時非常にヒットしたという。 処がモートンが以前作曲した「ウォルヴェリン・ブルース」をスパイクス兄弟が無断でシカゴのメルローズ楽譜出版社から出したことを知って激怒し、3人の共同事業は終わりを告げる。
かくしてモートンは妻の制止を聞かずシカゴに向かい、アニタとの結婚生活は5年で終止符を打った。
この間一時はセント・ルイスに留まり、フェイト・マラブルの楽団に加入したが結局ここを辞し、1923年シカゴにやってくる。そして彼の学歴で最も素晴らしい成果を上げたシカゴの5年間がスタートするのである。
モートンは演奏活動を行うとともにメルローズ出版者のスタッフ・アレンジャーとなった。ここに彼の旧作、新作が続々と出版されることになり、またメルローズ兄弟の斡旋でいくつかのレコード会社に録音を開始した。その初めとして1923年6月にトミー・ラドニア(多分)、ロイ・パーマーらを含む6人編成のバンドでパラマウント・レコードに2曲の吹込みを行った。これが第140回で取り上げた録音である。この編者はコルネットを多分トミー・ラドニアとしているがその根拠はどこにあるのであろうか?さてこれが彼の正式な初レコーディングとされている。しかし彼自身の語るところによれば、1918年マット・キャリーやキッド・オリーらとともにカリフォルニアのレコード会社へ[ウォルヴェリン・ブルース」と「キング・ポーター・スイング」の録音をしたと言っているが、現在までこの録音は確認されていない。またモートンはピアノ・ロールも制作しているというが、それらの録音年月日や場所で明確になっているものはない。
この初吹き込みの翌月1923年7月17日、18日の両日には、インディアナ州リッチモンドに赴き、N.O.R.K.の中に唯一の黒人として参加し、5曲をジェネット・レコードのために録音を行った。これはジャズ史上最初の黒白混成による公式レコーディングである。
このシカゴ時代のモートンはシカゴでプレイしていたが、しばしば巡業のためにリッチモンドを訪れている。そしてその間1926年にヴィクターと4年間に渡る契約を結び、この年の9月26日からレコーディング・メンバーによるレッド・ホット・ペッパーズによる不朽の名作を次々と録音し、モートンの黄金時代が訪れるのである。
今後も続く。

レコード・CD

“Jelly Roll Morton 1923/24”(Milestone M-47018)
「白人草創期ジャズ音楽」(AudioPark APCD-6001)
”King Oliver's creole jazz band/The complete set”(RTR 79007)
「ジャズ・クラシックス/ジェリー・ロール・モートン」(RCA RA-9〜12)
“I thought I heard Buddy Bolden say”(RCA LPV-559)