ジミー・ラッシング (ヴォーカル) 

JimmyRushing (Vocal)

ジミー・ラッシング

1903年8月26日(1901年8月26日という記述あり)オクラホマ州オクラホマ・シティ生まれ。
1972年6月8日死去。

粟村政昭氏の『ジャズ・レコード・ブック』には、約180人のジャズ・ミュージシャンが取り上げられているが、
純粋な男性のヴォーカリスト(グループ、ピアニスト兼は除く)というのはわずか3人しか取り上げられていない。
彼とフランキー・レイン、メル・トーメである。そして黒人のブルース・シンガーは彼だけである。
粟村氏はその『ジャズ・レコード・ブック』の彼の項をこう始めている。
かつてモンクとともに来日した時、日ごろ付き合い難いブルース・シンガーとして敬遠されていた彼の歌が、
モンクを聴きに集まった若い聴衆に対してあれほどの感銘を与えようとは、誰が想像したであろうか。げに恐ろしきは芸の力〜」。
ラッシングは1963、64年と来日しており、セロニアス・モンクは63年、66年、70年と来日しているので、63年のことであろう。
この時はどういう形式で歌を披露したのかわからないが、モンクが歌伴をやったとは思えないので、別のグループを連れてきていたのだろう。
父親はトランぺッターで、母親と兄は歌手だったという。高校でピアノとヴァイオリンを学び、25年にナイト・クラブのアフター・アワーズで歌うようになった。
27年には、ウォルター・ペイジのブルー・デヴィルズ、29年にベニー・モーテン楽団に入り、35年カウント・ベイシー楽団の専属歌手として歌うようになった。
50年ベイシー楽団から独立、自身の七重奏団を組織して、サヴォイ・ボールルームを中心にソロ・シンガーとして活躍した。
59年にはニュー・ポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演して説得力あるブルース唱法で満場の聴衆を魅了した。
長年大バンドで歌ってきただけに、豊富な声量とダイナミックな節回しで、スケールの大きなシティ・ブルースの真髄を聴かせる。

レコード・CD

「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1集」 レコード 9枚目ベニー・モーテン
"Count Basie in Kansas City"(LpV-514)
「コンプリート・ベニー・グッドマン/Benny Goodman The RCA years」(BVCJ-7030)
「カウント・ベイシー・アット・サヴォイ・ボールルーム 1937」(ELEC Record KV-109)
"Hall of fame/Lester Young"(Past perfect220149)
「カウント・ベイシー・アット・サヴォイ・ボールルーム」(ELEC KV-109)
"Billie Holiday/Live and private recordings in Chronological order"
"The alternative Lester"(Tax m-8000)
「カウント・ベイシー/1939−1951」(CBS 77-78)
「ブルース・バイ・ベイシー」CBS 20AP-1426
「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」(LAX-3076-7)
「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」(King Record KICJ 2051/2)
From Spirituals to Swing - the legendary 1938&1939 Carnegie hall concerts produced by John Hammond"(Vanguard -169/71-2)
"From Spirituals to Swing complete legendary 1938-1939 Carnegie hall concert"(Definitive records DRCD 11182)