ジョー・キング・オリヴァー (コルネット) 

Joe“King”Oliver (Cornet)

Joe “King” Oliver

フルネーム:ジョセフ・ネイザン・オリヴァー Joseph Nathan Oliver
1885年12月19日ルイジアナ州アベン近くのソールズバーグ・プランテイションの生まれ。
※1885年5月11日生まれという記載もある(Epicキングイ・オリヴァー・ライナーノート) 1938年4月8日(4月10日という記載もある)ジョージア州サヴァンナにて死去。

ルイ・アームストロングの先生であったということで有名かつ重要。
20歳のころからオンワード・ブラス・バンドで代理として吹いていたが、1907年にメルローズ・ブラス・バンドのメンバーとなり、
以後ヘンリー・アレン・ブラス・バンド、オリジナル・スーペリア楽団、イーグル・バンド、マグノリア・バンドなどで演奏し、
マニュアル・ペレツ、バンク・ジョンソンの代わりを務めた。
12年(13年?)フレディ―・ケパードがロサンゼルスに行った後、ケパードの後任としてオリンパス・ブラス・バンドに迎えられた。
因みに当時はジャズ・バンドという言葉はなくブラス・バンドと呼ばれていた。
15年にストーリーヴィルの“25”キャバレーでシドニー・ベシエ、ピーター・ボカージュなどを迎えて自己のバンドを結成した。
17から18年にかけてはキッド・オリーのバンドで演奏、この頃にニュー・オリンズで彼の名声は高まりバディ・ボールデンと同じ『キング』という称号で
呼ばれるようになった。
17年ストーリーヴィル閉鎖で仕事を失い、18年シカゴに移った。20年にクレオール・ジャズ・バンドを編成一時カリフォルニアへ巡業したが、
22年シカゴへ戻りニュー・オリンズよりルイ・アームストロングを呼び寄せ、ロイヤル・ガーデンズ(後にリンカーン・ガーデンズと改名)に出演し、
一大センセーションを巻き起こした。
しかし24年にルイがバンドを去り、彼の妻ピアニストのリルもルイについて抜けた後(ルイがフレッチャー・ヘンダーソンに誘われニュー・ヨーク行きを迷っていた時背中を押したのは妻のリルだったという)、ニューオリンズからトランぺッターのトミー・ラドニアを呼び寄せる。しかし彼はすぐに退団しサム・ウッディングのバンドに加わりヨーロッパ楽旅に旅立ってしまう。またクラリネットのジョニー・ドッズも退団し一時バスター・ベイリーを雇うが、彼も直ぐ抜けたのでニューオリンズからアルバート・ニコラスを呼ぶ。しかしそんな折1924年根城にしていたジャズ・クラブのリンカーン・ガーデンが焼失してしまうのである。そのことがドラマティックに“Creole jazz band”に終止符を打ったという。
その後オリヴァーはすぐに、セントルイスのトランぺッターであるボブ・ショフナーを招き、さらにニューオリンズからバーニー・ビガード、ポール・バーバリンを呼び、シカゴのドク・クックのバンドで活動していたルイ・ラッセルを招き入れ、バンドの再建に取り組み”The plantation cafe band“、そして”Dixie syncopators “を立ち上げる。
そしてこのバンドでシカゴのジャズ・クラブなどで腕を磨き、初のレコーディングを26年3月11日に迎えることになり、ついにニュー・ヨーク進出を果たす。しかし28年にニューヨークに出てからは人気は下がる一方で、特にコルネット奏者にとって致命的ともいえる前歯を失うという打撃を受けた。
さらに大恐慌という不況時代と新しいスイング・ジャズの流行で30年代には全く業界から姿を消したような状態にさえ陥ってしまう。
31年に何とか劣勢を挽回すべく南部諸州に演奏旅行に出かけたが、肉体的にも経済的にも却って疲労し、故郷ニュー・オリンズを思いながら53歳で旅先の
ジョージア州サヴァンナで客死した。
オリヴァーの演奏はシンプルで独創性に満ちニュー・オリンズ独特の味わいがあり、ルイ・アームストロングに多大な影響を及ぼした。

レコード・CD

「キング・オリヴァー」(Epic NL-1012)
”King Oliver's creole jazz band/The complete set”(RTR 79007)
”King Oliver/Sugar foot stomp”( Decca GRD-616)
”King Oliver's Dixie Syncopators 1926-1928”(MCA-1309)
「ブルー・ギターズ」(P-vine BGO CD327)