ジョン・ハモンド (プロデューサー) 

John Hammond (Producer)

ジョン・ハモンド

フルネーム:ジョン・ヘンリー・ハモンド2世 John Henry Hammond U
1910年12月15日ニューヨーク生まれ。
1987年7月10日発作を起こし死去したという。

祖父は南北戦争で活躍したジョン・ヘンリー・ハモンド将軍であり、母方の祖父は海運や鉄道で財閥を築き上げた大富豪ヴァンダービルト家の出であり、名門の大富豪の末っ子ではあるが長男として生まれた。彼には4人の姉達がおり、四女のアリスは1942年ベニー・グッドマンと結婚した、彼女は再婚であったとウィキペディアにあるが、油井氏は妹のアリスと書いている。英語で単に「Sister」と書いてあると姉か妹か分からない。
子供のころから音楽に関心を示し、4歳でピアノを習い始め、8歳でヴァイオリンに転向した。当然のように母はクラシック音楽へと向かわせようとしたが、召使の黒人たちが歌い奏でる音楽に興味を抱いたという。
1929年エール大学に入学した。その後についてアルバム「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」に附属の油井正一氏の解説によると「エール大学卒業後、ジュリアード音楽院に学んだ」とあるが、ウィキペディアには、大学時代から音楽専門誌に寄稿を行っていて、1931年大学を中退してイギリスの音楽業界誌『メロディ・メイカー』の通信員になったと書いてある。
油井氏の記述とウィキペディアではかなり内容が食い違う。
まず油井氏。
1932年ニューヨーク2番街4丁目の劇場を買い取り、フレッチャー・ヘンダーソン、ルイ・ラッセル楽団をフューチャーしたニグロ・ショウを上演。
1933〜35年、イギリス・コロンビア及びパーロフォンの委嘱により、輸出向けジャズ・レコードをコロンビアで企画監修を行う。
1935〜38年、テディ・ウィルソン、ビリー・ホリディのヴォカリオン、ブランズウィック版を監修。

一方ウィキペディア。
1931年ピアニスト、ガーランド・ウィルソンの録音に出資し、レコード・プロデューザーとして、第一歩を踏み出す。
当時はグリニッジ・ヴィレッジに住み、ボヘミアン的生活を送りながら、人種などによる差別のない音楽の世界のために働き、最も初期の定期的なジャズ・ライブの番組を立ち上げた。
当時から黒人差別に反対し、1931年にアラバマ州で起きたスコッツボロ・ボーイズ事件の裁判では、被告の黒人少年たちを支援するためのチャリティ・コンサートを組織し、ベニー・グッドマン楽団、デューク・エリントン、マーサ・レイらが参加した。
1933年『ネーション』誌にこの裁判に関する記事を寄稿している。
1932〜1933年、イギリスの音楽業界紙『メロディ・メイカー』との関係を通して、経営が揺らいでいた米国コロムビア・レーベルから、英国コロムビア・レーベルへ原盤(大部分はW-265000原盤シリーズを用いた)を供給する企画をまとめる。ハモンドは、フレッチャー・ヘンダーソン、ベニー・カーター、ジョー・ヴェヌーティなどの演奏を録音したが、当時は経済情勢が悪い時期で、この企画がなければスタジオに入って本物のジャズを演奏する機会をもてなかったと思われる者も多かった。
彼は、ベニー・グッドマンのバンドの運営にも関わり、グッドマンを説得してチャーリー・クリスチャン、テディ・ウィルソン、ライオネル・ハンプトンといった黒人ミュージシャンたちをバンドに雇わせた。
1933年には、当時17歳だったビリー・ホリデイをハーレムで聴き、ベニー・グッドマンとの共演でレコーディング・デビューさせた。
1935年、ハモンドは全米黒人地位向上協会(NAACP)の役員に名を連ね、その後30年以上にわたって活動に関わった。後年「NAACPは、ジャズの次に重要な、社会変革の手段であった」と述べた
1937年、カウント・ベイシー楽団をカンザスシティからのラジオ放送で聴き、彼らをニューヨークに招いて、全国的な注目を集めることに成功した。
1938年12月23日、第1回の『フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング』コンサートをカーネギー・ホールで開催し、ブルース、ジャズ、ゴスペルのなど黒人芸術を幅広く知ってもらうプログラムを組んだ。

油井氏、ウィキペディアとも
1939年、プロデューサーとしてコロムビア・レコードに入社。
このときコロムビア・レーベルに所属していた黒人ミュージシャンは、デューク・エリントンだけであった。
油井氏は、
〜46年にかけてはコロンビアだけではなく、キーノート、マジェスティック両社のプロデューサーを務め、
47〜52年、キーノートがマーキュリーに合併されたのちは、マーキュリーの副社長を兼務した、と兵役のことは書いていない。
一方ウィキペディアは、
第二次世界大戦中は陸軍の軍務に就いていた。仕事はおもにショーの企画運営であったという。1946年に除隊となった。入隊がいつかは記載がない。
しかし、ハモンドは、戦後1940年代半ばのビバップ時代のジャズ・シーンには心を動かされなかったという。替わってバップ以降のジャズを庇護するのは、ニカ男爵夫人ということになるがそれはまた別の話。
1950年代後半にコロムビア・レコードに復帰し、ピート・シーガーとババトゥンデ・オラトゥンジをコロムビア・レーベルに契約させ、当時18歳のゴスペル・シンガーだったアレサ・フランクリンを発掘した。
さらに1961年、フォーク・シンガーのボブ・ディランを発掘、ディランをコロムビアと契約させた。コロムビアの役員たちがディランのことを「ハモンドの愚行」と呼んで非難したにも関わらず、ハモンドはディランをレーベルから手放さなかった。ハモンドは、「風に吹かれて」や「はげしい雨が降る」など、ディランの初期作品をプロデュースした。ディランはフォーク、ロックのカリスマ的存在としてコロンビアに多大な利益をもたらしたことは周知のとおり。
彼はまた、非常に影響力が大きい存在であったロバート・ジョンソンの録音の再発を企画(プロデューサーはフランク・ドリッグス)、コロムビア・レコードを説得してアルバム『King of the Delta Blues Singers』を1961年に発売させた。
ハモンドが、コロムビア・レーベルに契約させたアーティストには、他にレナード・コーエンやブルース・スプリングスティーンなどがいる。
ハモンドは1975年にコロムビアを退職した後も、才能の発掘は続けていた。1983年には、ギタリスト、スティーヴィー・レイ・ヴォーンをコロムビアにもたらし、ヴォーンのデビュー・アルバムにはエグゼキュティヴ・プロデューサーとしてクレジットされている。
ハモンドは、1971年にベッシー・スミスの再発盤を共同プロデュースし、音楽業界に貢献した者に与えられるグラミー財団賞を受賞。1986年には、ロックの殿堂入りも果たしている。
ハモンドは、1987年に、一連の発作の末に死亡したが、臨終の床ではビリー・ホリデイを聴いていたという。
ブルース歌手のジョン・P・ハモンドは実の息子。

レコード・CD

「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」(LAX-3076-7)
「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」(King Record KICJ 2051/2)
"From Spirituals to Swing - the legendary 1938&1939 Carnegie hall concerts produced by John Hammond"(Vanguard -169/71-2)
"From Spirituals to Swing complete legendary 1938-1939 Carnegie hall concert"(Definitive records DRCD 11182)