レスター・ヤング (テナー・サックス、クラリネット) 

Lester Young (Tenor sax,Clalinet)

レスター・ヤング

フルネーム:レスター・ウィリス・ヤング (Lester Willis Young)
1909年8月27日ミシシッピー州ウッドヴィル生まれ。
1959年3月15日ニューヨークにて死去。

僕の最も信頼するジャズ評論家粟村政昭氏は、以前にも紹介したがその名著『モダン・ジャズの歴史』をこう書き始めている。
「モダン・ジャズの歴史は、レスター・ヤングとともに始まった」
大雑把にジャズの歴史、スイング〜ビ・バップ〜モダンという流れを語る場合、重要人物としてビ・バップの創始者としてチャーリー・パーカーにスポットライトが当たる。しかしそのパーカーがカンサス・シティ時代尊敬してやまず、そのコピーを繰り返したのが、レスター・ヤングであった。
そのレスター・ヤングを自分にできる限り詳しく見て行こうというのが、拙HPの、レスター・ヤング入門の目的である。詳しいレスターの業績などについてはこれから少しずつ書き加えて行こうと思うが、その歴史的位置づけについて粟村氏は『ジャズ・レコード・ブック』において次のように語っている。他のミュージシャンに比して極めて異例な長文であり後々全文をご紹介することになるとは思うが、ともかくその書き出しは、
「スイング時代におけるレスターの出現は、おそらく後年のオーネット・コールマンの登場にも比すべき画期的なものであったに違いない。」と述べている。

ジャズ界の正に革命児であるが、その割にその研究書のようなものは圧倒的に少ない。僕の今回のもう一つの参考書ディヴ・ゲリー著『レスター・ヤング』には「私の知る限り、この小著はレスター・ヤングについて最初に出版される伝記である。」因みにこの『小著』は1984年に出版された。それまで全く伝記というものがなかったというのは驚きではある。
レスターは、1909年8月27日ミシシッピー州ウッドヴィルというところで生まれている。ウッドヴィルはルイジアナとの州境から北へ15マイル、ハイウェイ61のナチズとバトン・ルージュのちょうど真ん中あたりに位置する小さな町であるが、レスターが生まれて間もなく、一家はニュー・オリンズに引っ越すので、レスターとウッドヴィルの関係はこれで終了する。
1930年代まで、アメリカの田舎は、ミンストレル・ショウや行商の薬売りの大道芸、或いはテント小屋のショウといった具合に、あらゆる類の旅芸人の興行でわき立っていたが、レスターの父ウィリアム・H・ビリー・ヤングもそうした商売に就いていた。彼はカーニヴァル・バンドのリーダーであり、家族総出でバンドをやっていたのである。子供にも当然適齢期になると楽器を習わせた。そしてビリー自身はほとんどの楽器をこなすことができたが、とりわけトランペットが得意だったという。

デイヴ・ゲリー著「レスター・ヤング」

ビリーにはレスターの他弟のリー、妹のアーマを入れて6人の子供がいた。1919年両親が離婚し、レスターとリー、アーマは、父とともにミネアポリスに移ることになった。レスターはそこでドラムを演奏したり、チラシ配りなどという仕事をしながら、音楽修行の第一歩を踏み出すのである。そしてカーニヴァルの頃になると、ミンストレル・ショウと一緒にカンサス、ネブラスカ、サウスダコタといったところを旅してまわった。レスターは13歳までドラムを叩きビラ配りを続けていたが、13歳の時にドラムを辞めてしまう。理由は、タイコを運んでそれをまた荷造りするというのが、つくづくいやになったからだという。そこでそれほど荷厄介ではないサキソフォンをやることにしたという。父親のビリーはレスターにアルト・サックスを与え、基本的な指使いを教えいくつかの音階を書いて渡した。レスターはとてもすばやく音を聴き分けることができたので、楽譜を読まなくても耳さえあればパートを吹くことができたという。
しかし父親は楽譜が読めるようになるまでレスターをバンドから外したという。そこで毎日勉強して6か月後にバンドに復帰した。後には他人に楽譜の読み方を教えるまでになった。
その時、ビリー・ヤングが教えた一人にベン・ウエブスターがいるという。ベンはレスターが10代の頃、ビリー・ヤングのバンドにいたのである…。
レスターと父ビリーのヤング・ファミリー・バンドとの決別は、1927年秋レスターが18歳の時に訪れた。カンサスのサリナにいた時、ビリーはテキサスを通って、冬の間は南部へ行くつもりだとみんなに告げた。レスターは南部での不快と屈辱を嫌って、カンサス、ネブラスカ、アイオワに留まるように頼んだ。仕事もたくさんあったし、何よりも嫌な揉め事に巻き込まれなくて済むからだが、父のビリーには中西部の冬の厳しい寒さが堪えられなかった。レスターの提案ははねつけられ、ファミリー・バンドは南部へ去り、レスターは一人残った。
レスターは家族と別れてカンサスへ向かった。そこで出会ったバンド・リーダーのアート・ブロンソンが率いるローカル・バンド「アート・ブロンソンズ・ボストニアンズ」に加入する。
レスターは初めこのバンドでバリトン・サックスを吹いていたが、このアート・ブロンソンが初めてレスターにテナー・サックスを買い与えてその才能に魂を吹き込んだという。レスターは、ブロンソンのバンドで当時レギュラーのテナー奏者をクビにすれば自分が吹くと宣言し、結果としてテナーを吹き始めた。レスターは、28年1月から1年間彼のバンドで演奏している。
この頃のレスターの足取りをたどることはとてもできることではないという。南部と中西部では、ジャズ界はごった煮状態で、嫌がらせやショウ・ビジネスを位握っていたギャングたちと渡り合いながら、プレイヤーはバンドからバンドへと移り、バンド作ってはつぶしていた。しかしレスターは将来有望な若手プレイヤーとしてミュージシャン仲間の間でうわさが広がり始めた。
一つ確かなことは、ブロンソンのバンドを離れてから、レスターはニュー・オリンズのジャズのパイオニア第2代ジャズ・キングのジョー・キング・オリヴァーのバンドに参加したことである。レスター自身が、「オリヴァーはもう老人だった(実際は46歳)。一晩中プレイすることは、もう出来なかった。しかしその音と言ったら、プレイを始めるとホールいっぱいに広がっていき、それは素晴らしいものだった」と語っている。

僕は、この後1928年ごろからの事情について現状の資料としてはカウント・ベイシーのボックス・セット『黄金時代のカウント・ベイシー』(VIM 5501〜4 4枚組)に附属の大和明氏による詳細な解説文とデイヴ・ゲリー著『レスター・ヤング』(音楽之友社)しか持っていない。ところがこの2つにはかなり記載などに相違があるのである。しかし彼ら以上の知識など持ち合わせているはずもない僕にはどちらが正しいとも決められないのである。そこでカウント・ベイシーのプロフィールの本篇には大和明氏の記述を記し、レスター・ヤングのプロフィールにはデイヴ・ゲリー氏の記述を記しそれぞれの後にどこがどう違うかをまとめてみたい。

キング・オリヴァーのバンドの後、レスターは転々とした。自信が故郷と思っていたミネアポリスにもちょくちょく戻っていた。そしてそこでベーシストのウォルター・ペイジが率いるブルー・デヴィルズという旅回りのバンドに加わった。1932年初めのことである。ウォルター・ペイジは素晴らしいプレイヤーで後にカウント・ベイシー楽団の比類ないリズム・セクションの中心となった人物である。しかしバンド・リーダーとしては恵まれていなかった。レスターが振り返る。「ブルー・デヴィルズは傷だらけだった。本当に文字通り、傷だらけだった。ある時なんかは楽器がウエスト・ヴァージニアで没収されて、駅まで引っぱって行かれたと思ったら、町から出て行けと言われた」。するとそこいらにいた浮浪者が、動いている列車に飛び乗る方法を教えてくれた。彼らはシンシナティまで行き、そしてそれぞれが自分でやっていこうという結論を出した。デイヴ・ケリー著『レスター・ヤング』によれば、1933年春ブルー・デヴィルズはバンドそのものが解散したのである。
そしてレスターはミネアポリスに戻った。そしてコットン・クラブで仕事を見つける。1日の仕事を終えるとラジオを聞いた。とりわけ、カンサス・シティのリノ・クラブから送られてくるカウント・ベイシー楽団のライヴ放送には熱心に耳を傾けた。レスターはその音もポリシーもリズム・セクションも大いに気に入ったが、テナー奏者だけは感心しなかった。居ても立ってもいられず彼は、ベイシーに電報を送った。
電報文がどんなものであったかはわからないが、ベイシーの記憶によると、「なんか奇妙で、自信たっぷりだった」。ベイシーはミュージシャンの口コミでレスターのことを知っていた。そしてベイシーはレスターを呼び寄せるのである。 デイヴ・ケリーは、レスター・ヤングの人となりついて、痛々しいほどの感受性に溢れた恥ずかしがり屋と書いているが、僕の認識も全く同様である。彼自身或いは吹込みに参加したレコードなどの解説や『ビリー・ホリディ物語』などの本からの印象である。しかしデイヴ・ケリーによると、人生は人生の上で、それほど多くはないが、大胆で決定的な決断を下し、敢然と実行しているという。父にしたがって南部へ行くことを拒否して家族と分かれ、テナー奏者としての位置を確保するためブロンソンのテナー奏者をクビにしたこと、そしてベイシー楽団に自分を売り込んだことなどである。
そしてこの売込みは大正解だった。この楽団こそが、おそらくレスターの異才をはぐくみ開花させてくれる唯一のバンドであった。
レスターがベイシーに呼んでもらったバンドはカンサス・シティを根城にしていた。KCと呼ばれたカンサス・シティは、20世紀初頭のニュー・オリンズと同様に、1930年代のジャズの歴史に夢のような時を刻んだと言われる。十数年に渡って政治家ギャングのボストム・ペンダーガストに支配され、他のどの町より多くの売春宿、飲み屋、ダンス・ホール、キャバレー、賭博場があった。活躍中の多くのミュージシャンたちが集まってきた。ミュージシャンたちにとってKCは、きらめくようなナイト・ライフと絶え間なく続くジャム・セッションに溢れた素晴らしい町であった。
一番人気のベイシー楽団の平均演奏時間は、何と週60時間に及んだという。ギャラはお粗末なものだったが、演奏は飛び切り上等で、さらに仕事が済んでからのジャム・セッションでプレイヤーたちは、想像力の限りを尽くして競い合った。
1934年頃には、レスターの属するベイシー楽団やジャム・セッションとの素晴らしさは、アメリカ中を旅するミュージシャンたちの間ではかなり広まっていた。まだレコードを吹き込んではいなかったので、実際に演奏を耳にしたミュージシャンは少なかったが、さびしがり屋でちょっと風変わりなその男にバトルを仕掛けるのは賢明でないという噂は広がっていたという。
実際に彼を聴いた一人に、バンド・リーダーのフレッチャー・ヘンダーソンがいた。彼はレスターのプレイを聴くやすっかり虜になってしまい、コールマン・ホーキンスがヨーロッパで仕事をしたいのでバンドを離れたいと申し出た時、フレッチャーは早速レスターを迎えようとしたという。フレッチャーのバンドは当時最高の花形バンドだった。この誘いは魅力的なものだったが、レスター自身はKCでの生活を心から楽しんでいたので、受けるかどうかかなり迷ったという。そんな彼の背中を押したのはベイシーだったという。ベイシーは言った「行って来い。行ってチャンスをものにして来いよ」と。この一言でレスターはニュー・ヨーク行を決意する。
当時花形であったフレッチャーのバンドは、メンバー交替も黒人向けの新聞の娯楽欄に細大漏らさず書かれたという。 1934年4月14日の「シカゴ・ディフェンダー」には、「二人の新人がフレッチャー・ヘンダーソン・バンドに加入。一人はエルマー・ジェイムスでベース・プレイヤー、もう一人はカンサス・シティのレスター・ヤング。彼は現在の音楽界で最も称賛されているテナー・サックス・プレイヤーの一人」と出ているという。しかしこの種の注目は、彼をナーヴァスにさせてしまった。
レスターはフレッチャーのバンドでうまくいかなかったのである。その理由が「コールマン・ホーキンスに似ていない」というバンドメンの意見によるものであったことは有名である。何しろ音色が小さく、しかもソフトで、そのうえヴィブラートが少ないため非常になめらかなで、スロー・バラードにおいてはあくまでもやさしくリリカルであり、温かみを感じさせながらそっと囁くがごとく訴える。アップ・テンポにおいてもリズムに乗って流れるようにスムーズに、親しみに満ちたレガート・フレイズで歌っていく。そのリズミックなどライヴ感は抜群であり、フレイズのつなぎ方や音の出し方が従来の在り方からすれば予測できない方法を取って行う、いわば従来のジャズ・プレイの概念を全く無視した斬新なスタイルであり、“迫力”の代わりに“くつろぎ”を生み出すものであった。
ケリー氏によれば、サックス・セクションは、これまでのテナー奏者コールマン・ホーキンスの広がりのある太い音に慣れ過ぎていたために、レスターの繊細な音を消してしまうように吹いてしまう。
そのことで最も積極的な行動に出たのは、フレッチャーの妻のレオラだったという。彼女はレスターをホーキンス風に変えるための特訓を始めたというのだ。朝、レスターをたたき起こしてはホーキンスのレコードを聴かせ、楽器店でホーキンス風に吹くためのリードやマウス・ピースを探すように急き立て、ホーキンス風に仕立て直すためにガミガミと言い続けた。もう状況は絶望的だった。ついにフレッチャーが決断した。彼は楽団員たちにこう言ったという。「俺はあいつを追い出すことに決めた。それはあいつが揉め事のもとになっているからだ。だが、これだけ入っておく、あいつはな、お前らの誰よりもすごいプレイができる男なんだぞ。」
クビを宣告されたレスターは、一つだけ最後の希望を述べた。それは彼がクビになったのではないという、フレッチャー・ヘンダーソンの手紙をもらうことだった。プライドの問題である。だから少なくとも紙の上では、追い出されたことにはなっていない。こうしてレスターは34年7月にフレッチャー・ヘンダーソンのバンドを辞めることになる。在団期間は約3か月であった。
悲嘆にくれたレスターは、しばらくの間アンディ・カークのクラウズ・オブ・ジョイに参加していた。またその頃アール・ハインズの楽団のオーディションを受けたが、合格しなかったというエピソードがあるが、結局はリノ・クラブのベイシーの下に戻ったのである。

以上はデイヴ・ゲリー氏著の『レスター・ヤング』による解説であるが、『黄金時代のカウント・ベイシー』(LP4枚組)に付いている大和明氏によると事情はいささか異なる。ゲリー氏によれば、詳しくはレスター・ヤングのプロフィールに譲るが、レスターは当時転々としていたキング・オリヴァーのバンドに加わった後1932年初めミネアポリスでウォルター・ペイジ率いるブルー・デヴィルズに加わったとある。大和明氏によればこの32年にはウォルター・ペイジはもうモーテン楽団に移った後のはずである。
さらにブルー・デヴィルズは1933年春シンシナティで解散したとある。
つまりブルー・デヴィルズが解散したので、レスターはミネアポリスに戻り、コットン・クラブで仕事を見つける。1日の仕事を終えるとラジオを聞いた。とりわけ、カンサス・シティのリノ・クラブから送られてくるカウント・ベイシー楽団のライヴ放送には熱心に耳を傾けた。レスターはその音もポリシーもリズム・セクションも大いに気に入ったが、テナー奏者だけは感心しなかった。居ても立ってもいられず彼は、ベイシーに電報を送った、とゲリー氏は書くが大和氏によればこの1933年には未だカウント・ベイシー楽団というのは存在しない。
1933年にはまだモーテンが存命中で、ベイシーは1934年の初めに、ベイシーはモーテンの援助を得て、一時アーカンソー州リトル・ロックで自身のバンドを結成したという。
しかし、結局このバンドは成功せず、間もなくモーテン楽団に再参加することになったが、このコンボにレスターは参加していたと大和氏は書く。ゲリー氏の書くようにラジオ放送を聴いて手紙書くといった劇的な展開ではなさそうである。

さて、1936年5月のある晩、ベイシー楽団が根城にしていたリノ・クラブでの演奏を遠くシカゴで聴いた男がいた。夜中の一時、シカゴの駐車場でカー・ラジオのスイッチを入れた男がいた。批評家で事業家でかつまた大変なジャズ・ファンであるジョン・ハモンド氏である。このことがレスターの人生を大きく進めることになるが詳しくはベイシーのプロフィールをご参照ください。

「レスター・ヤング/「Hall of fame」CDボックス

ベイシーのバンドと共にニューヨークに上ることになったレスター・ヤングだが、「グランド・テラス」出演のためシカゴに赴いた機を捉えハモンド氏は、Deccaに先駆けて4面分の録音を行う。バンド名“Jones-Smith incorporated”によるもので、これが現在分かっているレスターの初レコーディングである。この録音については拙HP第104回「レスター・ヤング入門 第2回」で取り上げた。『レスター・ヤング』の著者デイヴ・ゲリー氏によればこの録音こそレスター生涯最高の吹奏であるという。

さて、レスターとよく比較されるホーキンスの初吹き込みが20年代前半であり、初めはほかのテナー・サックス奏者と同様にチューバ的な演奏であり、その後独自に修練を積み先駆的なスタイルを確立したのは、デビュー以後10年ほどたった20年代末から30年代初めであったのに対し、レスターの場合、初吹き込みからすでに独自のスタイルを持っていたといわれる。彼が本格的にプロ・ミュージシャンとして活躍するようになったのは30年代前半であるが、その時からすでにユニークなレスター・スタイルを身に着けていた。
ところでここでよく行われるお決まりの文句を述べよう。レスター・ヤングは誰から影響を受けたのかということである。これはフランキー・トランバウアーとジミー・ドーシーに魅せられたとレスター自身も述べているようである。 レスター自身も「あの二人だけが、こっちが聴きたいと思っている物語を語ってくれるプレイヤーだった。『シンギング・ザ・ブルース』を彼が吹いたのを聴いたことがあるかい?そいつには本当に打ちのめされて、俺も同じように吹いたものさ」と述べている。
それはデイヴ・ケリーによれば、レスターはレコードから影響を受けた最初の世代だからということになる。彼より10年前、例えばルイ・アームストロングの世代ならばこうしたことは不可能だった。1920年以前にはジャズのレコードはなかったからである。
トランバウアーは今ではもう使われなくなってしまった、Cメロディ・サックスを吹いていた。Cメロディ・サックスは、テナーよりピッチが高く、アルトより低い中間に位置する楽器である彼の音はヴィブラートをほとんどつけず、繊細でむせび泣くようだったという。そして音のメリハリのつけ方も的確だったとは、ケリー氏。『シンギング・ザ・ブルース』、『リンギング・アンド・ツイスティング』そしてビックス・ベイダーベックと録音した『フォー・ノー・リーズン・アット・オール・イン・C』を聴けば、彼の魅力的で小粋でちょっと風変わりでもあるソロに惹き付けられるであろうと述べている。
レスターが聴いた最初のトラウンバウアーのレコードは、1924年に出たスー・シティ・シックスのもので、『シンギング・ザ・ブルース』などのレコードは1928年レスターが18か19歳の頃に発売されたものであろうと、ケリー氏は続ける。

さらにさらに続く。

レコード・CD

"Lester Young/Hall of fame"(TIM 220149)
「黄金時代のカウント・ベイシー」(MCA VIM-5501〜4)
「カウント・ベイシー・アット・サヴォイ・ボールルーム」(ELEC KV-109)
「クラシック・テナーズ」Contact CM-3
「ビリー・ホリディ物語」(CBS SOPH 63〜70)
「ザ・テディ・ウィルソン」(CBS SONP 50332)
「ベニー・グッドマン/カーネギー・ホール・ジャズ・コンサート」(CBS SOPB 55007〜08)
「ベニー・グッドマン・ライヴ・アット・カーネギー・ホール-1938(完全版)」(SME RECORDS SRCS 9610〜1)
「コンプリート・ベニー・グッドマン」(BMGヴィクター BVCJ-7030〜41)
「レスター・ヤング/カンサス・シティ・シックス(完全版)」(Commodore KIJJ 2064〜5)
「ジ・アルタネイティヴ・レスター」Tax m-8000
「カウント・ベイシー/レスター・リープス・イン」“Count Basie/Lester leaps in”(Epic EICP 601)
「レスター・ヤング/ホール・オブ・フレイム」“Hall of fame”
「カウント・ベイシー/ブルース・バイ・ベイシー」“Count Basie/Blues by Basie”(CBS Sony 20AP-1426)
「カウント・ベイシー/1939−1951」(CBS 77-78)
「レスター・ヤング・メモリアル・アルバム」(Epic ECPW-1〜2)
"Lester Young/The complete Aladin recordings"(Blue note CDP 7243 8 32787 2 5)
"Lester Young/Pres on Keynote"(Mercury MGE-26010)
"Lester Young/The complete Keynote"(EJD-3023)CD
「フロム・スピリチュアルス・トゥ・スイング」(LAX-3076-7)
"From Spirituals to Swing complete legendary 1938-1939 Carnegie hall concert"(Definitive records DRCD 11182)
"Lester Young and Charlie Christian 1939-1940"(Jazz archives JA-22)