ルイ・アームストロング (トランペット&ボーカル) 

Louis Armstrong (Trumpet&Vocal)

Louis Armstrong

フルネーム:ルイ・ダニエル・アームストロング Louis Daniel Armstrong
ニックネーム:サッチモ(Satchmo)
1900年7月4日ルイジアナ州ニュー・オリンズ生まれ。
1971年7月6日ニューヨークにて死去。

現代の日本ではコマーシャル・ソング「この素晴らしき世界」(What a wonderful world)の歌手として知られているかもしれない。素晴らしい楽曲でダミ声が効いているだが関心を持つ人は少ないかもしれない。僕はジャズを聴きはじめたのは高校時代だが、小学5年くらいから洋楽ポップスが好きだったせいで64年の大ヒット曲「ハロー・ドーリー」(“Hello Dolly!”)を同時代に聴いていた。しかしその頃から、どうしてか「サッチモ」ことルイ・アームストロングは実はジャズ界では物凄い人なのだということは知っていたような記憶がある。
マイルス・デイヴィスは「ジャズの歴史?それは簡単だ。4つの言葉で全て言える。[Louis] [Armstrong]そして[Charlie][Parker]だ」と述べている。
僕は、何故かルイ・アームストロングはすごい人という認識は持っていた。そしてかのマイルス・ディヴィスでさえすごい人だと言っている。だから本当に<すごい>人だと思うのだが、何がどう<すごい>のかはよく分かっていない。そこで彼のその凄さを少しでも知り、感じたいと思うのだ。

生まれ

アームストロングは、ニュー・オリンズのアフリカ系アメリカ人が多く住む比較的貧しい居住区ジェームズ横丁で1900年7月4日に生まれたと長年言われてきた。ところが1980年代になって、ジェームズ・L・コリア―やゲイリー・ギデンスという研究者たちの手によって、ルイの生年月日に関する疑問が提起された。
特にギデンスは、Sacred heart Jesus churchの洗礼名簿(両親の名とルイの誕生日が記されている)、および1910年のパーディド・ストリート1300ブロックに関する国勢調査の記録(下宿屋3世帯を示したリストの中に、ルイの継父トーマス・リーや母親の記録があり、ルイは8歳の息子として記録されている)などから、1901年8月4日が正しい誕生日であると主張している。

幼年時代

少年時代、10歳を出た頃には、ヴォーカル・カルテットを作ってよく歌っていたという。
1912年の大晦日に、家から持ち出した38口径のピストルを面白半分に、路上で空に向かってぶっ放し、ピストルを発砲して少年院(浮浪児ホーム)に収容された。半年後院内のバンドに入り、ドラム・アルト・サックス、トロンボーンなどを習ったのち、ピーター・ディヴィス先生からコルネットを教えてもらったのだった。そしてその少年院のブラス・バンドでもコルネットを演奏することになり、町のパレードなどで演奏するようになり人気者となる。
14年6月少年院を出て雑役で生計を立てていたが、やがてバンドの仕事も舞い込むようになった。この頃からジョー・”キング”・オリヴァーのコルネットに心酔するとともに、オリヴァーからもかわいがられ、時々レッスンをしてもらうようになった。1917年に、ジョー・リンゼイと共同で6人編成のコンボを組織したのをはじめとし、いろいろなバンドで活動するようになった。

ニュー・オリンズ修業時代

17年の秋にニューオリンズの紅燈街ストーリーヴィルが閉鎖されたため、仕事場を失った有能なジャズメンたちは、仕事を求めシカゴなど北部の諸都市に移っていくものが多くなった。そしてルイが私淑していたオリヴァーも19年にシカゴに移ったため、オリヴァーに替わってキッド・オリーのバンドに加わるというチャンスをつかんだ。またその前年から働いていたリヴァ―・ボートに乗ってミシシッピ川を往来するフェイト・マラブル(Fate Marable)のバンドの仕事も続けていた。その後マラブルのバンドの正規メンバーとなったため、19年5月に初めて故郷ニューオリンズを離れセントルイスに向かった。それから約2年半、ルイはミシシッピー川を上下するリヴァ―ボート上で演奏活動を続けたが、その間バンドのメンバーから読譜を学んだという。

フェイト・マラブル・バンド

1921年11月に船を降り、ニュー・オリンズに落ち着き、ズッティ・シングルトン・トリオ、アレンズ・ブラス・バンド、オスカー・パパ・セレスティンのタキシード・バンドなどニューオリンズの代表的なブラス・バンドを渡り歩き腕を磨いた。
そして1922年夏キング・オリヴァーに呼ばれてシカゴに向かい、キング・オリヴァーのクレオール・ジャズ・バンドに加わり、”リンカーン・ガーデン”に出演、シカゴのジャズ・シーンにデビューを果たす。このバンドは20年代初期において最も重要なバンドである。そして翌23年4月このバンドで初めてのレコーディングを経験するのである。この初レコーディングの日付を、スイング・ジャーナル社「世界ジャズ人名辞典」では23年3月31日としているが、Loius Armstrong Discography及びキング・オリヴァー関係の資料でも1923年4月5日としているので、スイング・ジャーナル社「世界ジャズ人名辞典」は完全に誤りであろう。このキング・オリヴァーのバンド”King Oliver's Creole Jazz Band”の録音については、「キング・オリヴァー1923年」をご覧ください。
この時ルイの15歳年長のオリヴァーは38歳、ルイは22歳である。
38歳は老け込む歳ではないと思うが、いろいろな資料はオリヴァーは絶頂期を過ぎていたと書いている。オリヴァーと共にシカゴに向かった仲間も、レコードに聴くオリヴァーは本来のオリヴァーではないと証言している。現代でもライヴには滅法強いが、レコーディングでは何故か上がってしまっていい演奏ができないというミュージシャンの話を聞く。オリヴァーもその類なのだろうか?
ともかくオリヴァーは絶頂期を過ぎ、逆に日の出の勢いのルイが師を凌ぐ人気を得、シカゴにおける最高のプレイヤーと言われるようになる。
オリヴァーのバンドのピアニストだったリル・ハーディンは、ルイの才能とその人間性に心惹かれ、1924年2月4日にお互い2度目となる結婚をする。大和明氏によると、リルは夫ルイの才能をもっと広く世に知らしめようと、オリヴァーのセカンド・コルネット奏者という地位に甘んじていないで、その才能をもっと生かす道に飛び込むべきだとルイを励ましたという。ここにルイは、フレッチャー・ヘンダーソンの招きに応じ、1924年秋ニューヨークに進出した。
ヘンダーソン楽団への在籍期間は、わずか1年間に過ぎないが、彼が加わったことで、この楽団のバンド・スタイルは大きく成長を遂げた。ガンサー・シュラー氏は、「1924年10月と1925年10月の間に行われたヘンダーソンの録音を聴くと、アームストロングの優れた演奏とバンドの仲間たちの演奏との質的な相違に驚嘆させられる。ルイの最も控えめなソロですらスタイルと発想の点で彼らよりも優れているのである。この事実は、彼の仲間にコールマン・ホーキンス、チャーリー・グリーン、バスター・ベイリ―などの人材がいて、バンド全体が金で集められる最良の人材を揃えていたことを考慮すると、一層印象に残る。音楽的な発想の水準が、ルイのソロに入ると飛躍し、アンサンブルの演奏に戻ると降下してしまう。」という。しかしこのルイの加入によってフレッチャー・ヘンダーソン楽団は単なるダンス・バンドからジャズ史上最も重要なバンドの一つに変貌していくのであり、ルイにとってみてもオリヴァーという重しが外れ、自分の発想に従って自由にソロを取ることができるようになり、自らのソロのレベルを格段に飛躍させていく契機になるのである」と述べている。
すなわちルイのプレイによって、ジャズの演奏はどうあるべきかを知らされたコールマン・ホーキンス以下のメンバーは、ルイのトランペット・スタイルに啓発され、各自の吹奏法を完成させていったばかりか、ドン・レッドマンの編曲手法にも影響を与え、バンドの体質は一変し、ヘンダーソン楽団はここにジャズ史上初の本格的なビッグ・バンド・ジャズ・スタイルを確立させたのだと言われる。
ルイは、ヘンダーソン楽団で演奏する傍ら、クラレンス・ウィリアムスのレコーディング・セッションに参加しシドニー・ベシエと共演をしたり、ベッシー・スミスをはじめとするブルース・シンガーなどとレコーディングを重ね、ニューヨークのジャズメンにも多大な影響を与えていった。
ルイは1925年10月21日フレッチャー・ヘンダーソン楽団での最後の録音を終え、11月2日ペリー・ブラッドフォード・ジャズ・フールズに加わって2面分の録音を終えると妻リルの待つシカゴに戻るのである。

シカゴ帰還

ルイがニューヨークに赴きヘンダーソン楽団などで活躍している間別居のかたちでシカゴに残り、自分のバンドを率いていた愛妻リル・アームストロングは、夫のためにカフェ「ドリーム・ランド」から良い条件の契約を取った。こうしてルイの帰還は実現したと言われるが、実際は妻のリルもニューヨークでクラレンス・ウィリアムスの主催するザ・レッド・オニオン・ジャズ・ベイビーズにおいてルイとともにレコーディングを行ったこともあった。しかし彼女はすぐにシカゴに戻り、シカゴを拠点に活動していたのであろう。大和明氏の解説によると、ルイは、リルの率いる「ドリームランド・シンコペイターズ」のスペシャル・フューチャリング・ソロイストとして迎えられたのだという。この説によるとあくまで中心はリルでルイはゲスト風な感じがするが、どうだったのであろう。
さて、11月2日にニューヨークで最後のレコーディングに参加したルイは、11月9日にはシカゴでレコーディングに臨んでいる。1920年にメイミー・スミスがオーケー・レコードに吹き込んだ「クレイジー・ブルース」の大ヒットにより、当時は女性ブルース・シンガーが一大ブームであった。またガンサー・シュラー氏によれば、この頃にはルイは黒人大衆の間では有名な音楽家になっていたという。シカゴに戻り、オーケー・レコードと専属契約を結んだルイがまず行ったのは、セッション・マンとして主にブルース・シンガーの吹込みに伴奏者として参加することであった。当時ブルースのレコードで大いに受けていたオーケー・レコードが考えたことは、抱えるブルース・シンガーのバックにルイを据え、演奏の質を高めると共に、売れ始めたミュージシャン、ルイのネームヴァリューを利用しレコードをヒットさせようということだったのであろう。ルイのシカゴ帰還後最初のレコーディングは女性ブルース・シンガーの伴奏であった。
それでも3日後の11月12日には、彼のホット・ファイヴの初レコーディングが行われている。ジャズ史上最も著名な長期録音の一つ、ルイ・アームストロングの有名なホット・ファイヴである。これらのバンド名で行われた録音は、アームストロングを国際的な名前にしたのみならず、おそらくどの単一のグループの録音よりもジャズを有名にし、これを真剣に受け止められる音楽にする上で貢献した。
注目すべきことは、ホット・ファイヴは録音スタジオ以外でバンドとして存在したことが一度もなかったことである。しかしながら、そのメンバー達は、ドリーム・ランドや他のクラブ、舞踏場のバンドでは共演していた。ルイ以外4人のメンバーは、リルを除いて皆ニューオリンズの出身である。
キッド・オリーは「俺たち全員が、何年も一緒に仕事をやっていたからお互いの音楽はよく分かっていた」と語っているが、自身はカリフォルニアでバンドを率いて活動していたが、ルイの招きを受けて自分のバンドを譲渡してはせ参じたのだった。ルイ自身、1918年にはオリーのバンドで演奏していた。
ジョニー・ドッズもニューオリンズの少年時代からの知り合いで、オリヴァーのバンドでも2年間一緒だった。サンシールやリルもそのバンド仲間であった。そして5人のうち3人(ルイ、ドッズ、サンシール)は、前日にも顔を合わせている。
このようにホット・ファイヴの音楽的、個人的な結びつきは最初から緊密で、それはルイの指導の下一層濃密になり、バンドは有名になっていったとシュラー氏は書いている。 大事なのは、この録音がルイにとって初めての自己名義のレコーディングだったということであろう。ルイは、先ほども書いたが、この頃には少なくても黒人大衆の間では有名な音楽家になっていたという。この黒人大衆が当時では、ジャズのレコードの実質的には唯一の購買者だったから、ホット・ファイヴのレコードの成功はほとんど約束されたようなものだったとシュラー氏は書く。
さらにシュラー氏によれば、25年、26年のルイは未だ才能の頂点にまでは達していなかったとし、さらに他の4人の仲間にも欠陥もいろいろあって、ルイの水準に匹敵することはなかったがホット・ファイヴは並みのバンドのレベルをはるかに上回っていたという。このグループは音楽家や黒人大衆の話題の種となったという。「楽器の編成を見ると、リズム・セクションにはピアノとバンジョーしかいない。およそ常識を破った編成なのにリズムの弱さを指摘した人はいない。これはバンジョー奏者サンシールの寄与が大きい」としている。
シュラー氏によると、このホット・ファイヴ最初の録音は、ルイの演奏は音は敏捷でまとまりがあり、発想は的確、リズムも安定していて多彩で優れていたが、取り立てて画期的なジャズを生み出したわけではなかった。
バンドは、ニューオリンズ・スタイルを相当に修正した手法で、つまりアンサンブルのスタイルを一面では放棄しながら他方では維持する箇所もあり、これに十分に練り上げられていないソロを交えるという具合の折衷的な演奏だった。 ルイのソロ以外のソロは新しい楽想を支えるほど強力ではなかった。オリヴァーの楽想よりも「進歩的」だったが、音楽がそれほど複雑ではなく、まとまりのあるスタイルは完成されていなかったという。
次に油井正一氏のレコード解説では、「傑作集」全体として、「この時代は機械吹込みの時代で、壁から突き出たメガフォンのようなものに文字通り吹き込んだのであった」と録音方法を紹介している。しかし別の処(『生きているジャズ史』)においては、ホット・ファイヴの録音は前の晩にどんなに遅くなろうとも早起きして朝早く行われていたという逸話を紹介し、その理由としてホット・ファイヴの録音が行われた1926年はいわゆる電気吹込みの初期で、当時はカーボン・マイクロフォンという初期の電話機のように炭素粒を詰め込んだマイクを使用していた。このマイクは一晩中、暖炉のそばで乾燥した後に用いるものだったという。午前中は調子がいいが、午後になるとだんだん調子が悪くなり、手でガタガタ振って調節しないと役に立たなかったという。今LPにまとめられているルイの当時の傑作を聴いて、当時のレベルをはるかに抜いたいい音を出しているのは、この早起きのレコーディングによるものではないかと油井氏は書いている。このような努力があって我々は傑作を”いい音”で聞くことができるわけであるが、前述の機械式吹込みとカーボン・マイクロフォンを使った録音が=かどうかが分からない。
ルイは、1926年にリルのバンドのほか、ヴァンドーム劇場出演中のアースキン・テイトと彼のリトル・シンフォニー・オーケストラのフューチャーリング・ソロイストとして迎えられ、ドリームランド・カフェとヴァンドーム劇場の両方を掛け持ち出演する多忙な日々を送る。このころからルイとリルの仲は気まずくなり、やがてルイはリルのバンドを離れ、26年4月からキャロル・ディッカーソン楽団のゲスト・スターとして客演し、同じくこのバンドのゲスト・プレーヤーであったピアノのアール・ハインズとの名コンビが誕生する。この間、ルイはテイト楽団とヴァンドーム劇場、ディッカーソン楽団とサンセット・カフェの両方に出演していたが、27年ディッカーソンが対談したので、ルイはバンドを引き継ぎ、ハインズを音楽監督とし、ルイ・アームストロングと彼のストンパーズを率いた。その間4月までテイト楽団との契約も続いた。その後クラレンス・ジョーンズ楽団に2度出入りし、28年3月にはシカゴのサヴォイ・ボールルームに出演していたキャロル・ディッカーソン楽団に加わった。
一方、オーケー・レコードへの録音は、28年にメンバーを一新して再開することになった。すなわち、フレッド・ロビンソン、ジミー・ストロング、アール・ハインズ、マンシー・カラ、ズティ・シングルトンらを加えた後期ホット・ファイヴやサヴォイ・・ボールルーム・ファイヴのバンド名によって、<ウエスト・エンド・ブルース>、<タイトライク・ジス>、<マグルス>など、頂点に到達した輝かしい演奏を録音し、ジャズ史上最高の巨星として後世にまでその名を残した。

さらに続く

レコード・CD

「キング・オリヴァー」(Epic NL-1012) ”King Oliver's creole jazz band/The complete set”(RTR 79007)
「ルイ・アームストロング傑作集」(Odeon OR-8002)
「黄金時代のルイ・アームストロング」(東芝EMI TOCJ-5221〜28)
「ルイ・アームストロング/若き日のルイ」(SDL-10377)
"Louis Armstrong/The Chronogical 1932-1933"(Classics 529) 「ブルー・ギターズ」(P-vine BGO CD327)
"Louis Armstrong/The Chronogical 1934-1936"(Classics 509)
「ジャズ・ジャイヴ・アンド・ジャンプ」(MCA-3519〜20)
"Bessie Smith/Nobody's blues but me"(CG 31093)
"The chronogical/Louis Armstrong 1938-1939"(Classics 523)