ルイ・ジョーダン (アルト・サックス) 

Louis Jordan  (Alto sax)

ルイ・ジョーダン

1908年7月8日アーカンソー州ブリンクレーの生まれ。
1975年2月4日カリフォルニアの自宅で心臓発作のため死去。

7歳の時から父親から音楽を仕込まれたという。
フィラデルフィアやニューヨークで働き、36〜38年チック・ウェブ楽団で活動し、注目を集めるようになったという。
彼の来歴を見るとほとんどがチック・ウェッブ楽団から記載されている。
もしかすると1932年ルイ・アームストロングの録音に参加していたのは違う人物であろうか?確かにルイ・ジョーダンという名前は、よくありそうな名前ではある。
チック・ウェッブ楽団には、ジャズ・ボーカリストのエラ・フィッツジェラルドも、同時期にチック・ウェブ楽団に在籍していた。
そして1938年、エラ・フィッツジェラルドを連れて独立を画策したためにチックに解雇されたという。
しかし彼に同調して楽団を飛び出した仲間と共にルイはエルクス・ランデヴー・バンド(Elks Rendezvous Band)を結成し、同年デッカ・レコードと契約する。
翌39年バンド名をティンパニー・ファイヴと改称、リズム&ブルースで人気を得た。
1942年、「ホワット・ザ・ユース・オブ・ゲッティン・ソバー」を『ビルボード』誌のR&Bチャート1位に送り込み、
1944年には、「G.I.ジャイヴ」がR&Bチャートとポップ・チャートの両方で1位を獲得。
1945年、ビング・クロスビーとのデュエット「マイ・ベイビー・セッド・イエス」がポップ・チャートで14位を記録。
1946年には、エラ・フィッツジェラルドとのデュエット「ストーン・デッド・イン・ザ・マーケット」がR&Bチャート1位となり、
更に「チュー・チュー・チ・ブギ」が同年8月24日付から18週にわたり(不連続)R&Bチャート1位を記録した。
また、やはり1946年にヒットした「エイント・ザット・ジャスト・ライク・ア・ウーマン」は、後のロックンロールに通じるイントロで始まり、
チャック・ベリーの楽曲「ジョニー・B.グッド」のヒントになったとも言われる。
デッカ・レコードからは18曲をR&Bチャート1位に送り込むが、1952年以降は大ヒットに恵まれず、1954年にデッカを離れる。
その後は、マーキュリー・レコードなど様々なレーベルに録音を残す。
1956年に発表した、自分のヒット曲の再演アルバム『サムバディ・アップ・ゼア・ディグス・ミー』は、クインシー・ジョーンズがプロデュースしたことで知られる。
(当時の印税契約の問題により)貧窮することの多かった同時代のR&Bアーティストに比べ、ルイは60年代のヨーロッパでの再評価(小規模なツアーを行っている)や
フランスのレーベルからのアルバム・リリースなど恵まれた晩年を過ごしたといえる。
1975年カルフォルニアの邸宅で心臓発作により死去。墓は妻の故郷セントルイスにある。

レコード・CD

"Louis Armstrong/The Chronogical 1932-1933"(classics 529)
"Chick Webb with Ella Fitzgerald / Princess of the Savoy"(MCA-1348)
"Chick Webb / Ella swings the band 1936-39"(MCA-1327)
"Ella Fitzgerald with Chick Webb's band"(Ace of Hearts AH-36)
"Chick Webb / Cab - Ella & Chick"(Bandstand records 7125)