マイルス・デイビス (トランペット)

Miles Davis (Trumpet)

マイルス・デイヴィス

フルネイム:Miles Dewey Davis V
1926年5月26日イリノイ州アルトン生まれ。
アルトンと書いてある本が多いようだがオールトンと読むという記述もある。いずれにせよ英文表記は“Alton”。
生年月日が5月25日になっているものもあるが、著名なジャズ評論家レナード・フェザーが、人名事典で5月25日と誤記したためで、いまだに多くの文献で誤記が見受けられる(中山泰樹訳「マイルス・デイビス自叙伝」)。
1991年9月28日午前10時46分(日本時間29日2時46分)他界。享年65歳。

ブートレッグ(Bootleg:海賊盤)を除いても100タイトルを超す、録音を発表し、史上最も研究家・研究書が多いといわれる「帝王」と呼ばれた大物中の大物。

フルネイムに3世とついていることから推測できるように、黒人としては名家の出で、いわゆる金持ちのボンボン。当時としては珍しくジュリアード音楽院(ほとんど通ってはいなかったようだが)卒業という肩書を持つ。
フルネイムに3世とついていることから推測できるように、黒人としては名家の出で、いわゆる金持ちのボンボン、当時としては珍しくジュリアード音楽院(ほとんど通ってはいなかったようだが)卒業という肩書を持つ。 不世出の天才チャーリー・パーカーの下で、つまりバップのど真ん中でデビューし、亡くなるまでジャズ界に影響を与え続けた。

イースト・セントルイスで住んでいた家 生地のオールトンはアメリカのほぼ中央、内陸部に位置している。一番近い大都市はセントルイス。地図で見てもほんのわずかの距離だ。
父親の名はMiles Dewey DavisU、祖父はMiles Dewey DavisTということになる。祖父の1世は簿記をやっていて頭が良く、白人相手に大儲けしていたという。20世紀に入る頃アーカンサスに500エーカー(約60万坪)の土地を買い、農園にしていた。1900年生まれの父の2世はその農園で育ったという。祖父と父は、デイビス家には奴隷制度がなくなる前には芸術家、実業家がいて素晴らしい一家だったらしい。演奏する音楽もクラシックだったというが、奴隷制度がなくなると白人は黒人がクラシックを演奏することを絶対に許さなくなり、黒人に許されたのはブルースと黒人霊歌だけになったという。

母親のクレオタ・ヘンリー・デイビス(旧姓ロビンソン)はアーカンサス生まれで父の1世と同い年だったという。母親はバイオリンとピアノを弾き、アーカンサスでオルガンを教えていたという。美人だったらしい。父親は、高校には行かず飛び級でいきなり大学へ進み、アーカンサス・バプチスト大学、ペンシルバニアのリンカーン大学、ノースウェスタン大学の歯学部を出て学位を3つ持つ歯科医で、1929年東セントルイスに引っ越し歯科医院を開業した。父親は医者ということから政治にもかかわるちょっとした顔役だったという。また父親はイリノイ州の選挙に立候補もしたようだが、落選してしまった。母親は父の政治活動を嫌っていたらしい。父親の兄も高校を飛び越えてハーバード大学とベルリンの大学を出たというから頭のよい一家だったことは間違いないだろう。

マイルス幼少期 3人兄弟、姉はドロシーたぶん1924年生まれ、弟のバーノンは1929年生まれだが、後にホモになっちまったとマイルスは自伝に書いている。左の写真では左からマイルス、姉のドロシー、弟ヴァ―ノン、母のクレオタ。

子供のころは、よく祖父の農園には遊びに行っていたらしい。3人とも芸術的なことを好きでよくタレントショーをやっていたという。マイルスは9歳か10歳のころ、隣に住んでいた父と同じ医師のユーバンク氏からトランペットをもらい吹き始めたという。ドロシーはピアノ、バーノンは歌とダンスをしていたという。

白人ではハリー・ジェイムスかボビー・ハケットだけ、黒人ではルイ・アームストロング、ジミー・ランスフォード、ライオネル・ハンプトン、カウント・ベイシー、ベッシー・スミス、デューク・エリントンなどに興奮した。 中学は最初、アタックス中学という学校に入ったが、後にリンカーン中学へ移った。そこにいたエルウッド・ブキャナンという先生がおり、その先生から、マイルスに多大な影響を受けたと自叙伝にある。その頃、12歳のころには将来ミュージシャンになることを決めていたという。その先生の影響で父が新しいトランペットを買ってくれたのだという。

10歳のマイルス ただし、ブキャナン先生はマーチや、品の良い伴奏曲などを演奏させ、ジャズはダメだったという。ブキャナン先生は、ある日マイルスがハリー・ジェイムスの真似をしてビブラートつけて吹いているのを見て、すぐに止めさせた。ストレートに吹いて自分だけのスタイルを作るんだと言われたことが、後に大いに役に立ったと言っている。
高校では、グスタフというドイツ人で、セントルイス交響楽団のファースト・トランペット奏者もいてその人からも手ほどき受けたという。グスタフ氏は自分でマウスピース作ったという、そして彼のデザインしたマウスピースを後生まで使っている。この時代、バンドでイリノイ州カーボンデイルに行った時、クラーク・テリーに会い、彼をアイドルとして慕うようになる。

また、影響受けた人物として、グスタフ先生の一番弟子のレビ・マディソンという人物を挙げている。このレビ・マディソンは、クラーク・テリーも認めていて、当時セントルイスで一番美しい音を持っていた、まさに“天使の歌声”だったと回想している。

他に高校時代に影響を受けた人物として、エマニュエル・“デューク”・セントクレア・ブルックスというピアニストの名も上げている。このエマニュエルは、ベースのレッド・カレンダーと一枚レコードを吹き込んでいるという。このエマニュエルの“デューク”というあだ名は、デューク・エリントンの音楽なら何でも知っていたので、ついたあだ名だという、なんとジミー・ブラントンとよく演奏していたらしい。彼はピアニストなので、彼からコードなどを教わったという。

マイルスは、このデュークとニック・ヘイウッドというドラマーとバンドを組んでいたという。マイルスによると、このデュークはテディ・ウイルソンよりヒップで、まさにナット・キング・コールのようだったと書いている。16歳のころにはセントルイスでは、結構有名なトランぺッターになっていたらしい。大した額ではないが、金を稼ぐようになっていたという。

また、高校生になって、本格的に服装に凝るようになったとも書いている。お気に入りは、フレッド・アステアとケイリー・グラントだったという。

ブルー・デヴィルズ時代のマイルス(後列右端) 17歳の時、ガール・フレンドのアイリーンの勧めに従って、エディ・ランドールのバンドに売り込みをかけた。エディ・ランドールはブルー・デビルズというリズム&ブルース系のバンドやっていて、当時は強烈な演奏していたという。マイルスはオーディションに合格した。デューク・エリントンが立ち寄ったとき、ジミー・ブラントンがブルー・デビルズに加わっており、彼を聴いたエリントンは、その場でジミーを雇ったという逸話が残っている。

そしてこのブルー・デビルズ時代から作曲や編曲にも取り組みだした。エディ・ランドールのもとにいたのは1年間くらいだったが、ランドールはまさに”ボスマン“といわれるようにボスがふさわしい人物で、マイルスはバンドの運営やまとめ方を学んだ。また、アーニー・ウィルキンスがブルー・デビルズの編曲を書いていたし、ジミー・フォレスト(Ts後に共演しておりレコードもある)も出身だ。彼は、クラーク・テリーとジャムを参加しまっくっていたという。ブルー・デビルズを聴きにベニー・カーター、ロイ・エルドリッジ、ケニー・ドーハムさらには、ファッツ・ナヴァロ、ハワード・マギーも来たといわれている。ナヴァロとは44年に共演も果たしている。ソニー・スティットからはタイニー・ブラッドショーのバンドへ誘われたが、父親から高校を卒業するまではダメと言われたという。

父親と母親の関係は最悪で1944年に離婚。父親はイリノイ州ミルスタットへ300エーカー(約37万坪)の農場を買ったという。マイルスは母親と住んだらしいが、けんかが絶えなかったと回想している。両親の離婚と同年1944年高校を卒業したが、同年アイリーンが妊娠し初めての子シェリルという女の子を生んだ。アイリーンとは正式な夫婦にはならなかったが、夫婦同然に暮らしていた。彼は、女の子にも相当モテ誘いも多かったたようだが、女には目もくれずジャズ一筋だったと書いている。高校を卒業して、自由になったマイルスはニュー・ヨークにあるジュリアード音楽院に行こうと決めたが、9月まで待つことにし、目いっぱい演奏して、たくさんツアーに出たという。1944年6月にエディ・ランドールのバンドをやめていたが、セントルイスに来ていたビリー・エクスタインのバンドで2週間演奏できたことが、ニュー・ヨーク行の決心をさらに固めさせることになった。ディズとバードから「もしビッグ・アップル(ニュー・ヨーク)に来たら顔を出せ」と言われた言葉が心の支えになっていた。そしてついに1944年9月に荷物をまとめてニュー・ヨーク行きの汽車に乗った。世間では1945年ということになっているが本人がそれは違うと否定している。1944年というと第二次世界大戦の終盤に当たり、世間は騒然としていたろう。

当初両親の知り合いのベルという人が経営していた147丁目とブロードウェイにあった下宿屋に宿を借りた。部屋はきれいで広く週1ドルだったという。父親が授業料を払い部屋代のほかに1、2か月は困らない小遣いももらっていた。まず、ディズとバードを探して「ミントンズ」、「スポットライト」、「スリー・デューセズ」、「ケリーズ・ステイプル」、「オニックス・クラブ」などを回ったがなかなか見つからなかったらしい。ジュリアードはもともとニュー・ヨークに行く口実だったことと白人偏重の授業ばかりだったので、嫌いだったらしいが授業には真面目に通っていた。有名な「ミントンズ」にもよく行ったらしい。「ミントンズ」で本気で腕試しをし、それから52丁目に行ったものだという。52丁目はただ金儲けと白人批評家とか客に顔見せに行くところで本当の試練はミントンズにあったという。そしてやっと「ヒートウエイブ」という店で逢うことができた。その当時バードはまだ24歳という若さだったが、ステージに上がると世界が変わるといわれるほどその演奏はすごかったらしい。 ミントンズはテナー・サックス奏者のヘンリー・ミントンがオーナーで、テディ・ヒルという黒人がマネージャーとして雇われていた。ビ・バップはそこで始まった。

モンクをマイルスに紹介したのはバードだったという。マイルスは「モンクの間の使い方と不思議なコード進行には心底参った」と述べており、モンクの間の取り方はマイルスのソロのスタイルに大きな影響を与えた。 月曜の夜は、ディズとバードがジャムりに来る夜だったらしい。2人が来ると、みんな静かに聞き役に回ったという。ドラムは大概ケニー・クラークかマックス・ローチ、ベースはカーリー・ラッセル、モンクもたまにはピアノを弾いた。緊張した空気に満ち溢れものすごい熱気だったという。

「ミントンズ」の流儀は、だれもが楽器を持ってき、バードかディズがステージに誘ってくれるまでひたすら待つ。そして、その幸運に巡り会えたら、ものにしなくてはならない。演奏が終わったら、客や仲間のミュージシャンが、バードやディズからの影響などを受けて聞き分けて、笑顔になったら合格という。マイルスは、その機会を逃さなかった。グレートとは言えなかったし、ディズの影響を受けてはいたが、自分のスタイルで目いっぱい吹いた。吹き終わった時、みんな笑っていてそれで合格、晴れてニューヨークのジャズ・シーンへの仲間入りを認められたということで、そうなるとどんなステージでも入れてもらえるようになったという。

バッド・パウエルは素晴らしいピアノが弾け、楽譜も読めるし作曲もできる。しかし年を取った多くのミュージシャンは、学校へ行くと白人みたいな演奏になるとか理論を知ったりするとフィーリングがなくなってしまうと信じ込んでいた。バードやレスター・ヤング、コールマン・ホーキンスといった連中も博物館や図書館へ行って楽譜を借りようとさえしない、信じられないと言っている。

1945年たくさんのミュージシャンと付き合ううちに、酒とたばこを覚えた。フレディー・ウエブスター、ファッツ・ナヴァロ、J.J.ジョンソン、マックス・ローチらとつるんで、マンハッタンやブルックリンやそこらで演奏していたという。ディズは良い人で、いくらでも話したり、一緒に食事をしたりしたが、バードは大違いだったという。バードはこう演奏しろなどとは全く言わなかったらしい。彼のやることを見て、覚えて、自分で学んでいくしかなかった。バードについてマイルスは、「今まで存在した最高のサックス・プレイヤーであり、世界一の狡くて強欲な食わせ者」と評している。

1945年4月24日、ハービー・フィールズのバンドで初レコーディングを経験している。本当にひどいものだったと述べている(“First Miles “Savoy SJL1196)。
バードはクスリやアルコールでステージに穴をあけるのはしょっちゅうだった。ディズはちゃんとした男だったので、こういうことを続けるならやめると迫り、バードはそんなことを気に掛ける男ではないので本当にディズが辞めてしまった。これはほかのミュージシャン連中にとっても大事件だった。ディズの後釜に座ったマイルスでさえ、ディズとバードがもう一度一緒にやってくれることを本気で望んでいたという。
1945年10月スリー・デューセズの主人は、本当はTpはディズを望んでいたが、ディズが戻らないので、バード、マイルス、ピアノはアル・ヘイグ、カーリー・ラッセルのベース、ドラムはマックス・ローチかスタン・リービーで雇ってくれた。ディズがマイルスに替わっただけだった。マイルスにとって、バードとジャムったことはあるが金をもらって演奏するのは初めてだった。この2週間はつらかったが、かなり勉強にもなったと述べている。
マイルスにはフランク・シナトラの影響が大きい。 「スポットライト」、「スリー・デューセズ」、「ケリーズ・ステイプル」、「オニックス・クラブ」は音楽だけではなく、たくさんの売春婦やクスリの売人を引き連れた無鉄砲なひもやハスラーの溜り場にもなった。 マイルス曰く「音楽ってやつは、スタイルがすべてだ。例えば、俺がフランク・シナトラと共演するとしたら、彼が歌っているみたい吹くか、彼の歌い方に味付けするように吹くかなんだ」
マイルス曰く「バードはディズがバンドを辞めた後、何か変わったことを求めていた。トランペットの別のアプローチや、新しいコンセプトを欲しがっていた。ディズとは逆に、バードを補って目立たせるようなサウンドを求めていた。だからマイルスを選んだ。バードとディズは、ものすごいスピードでスケールを上がったり下がったりして、似通ったことをやっていた。ディズは、バードに全くスペースを与えなかった。だが、バードがマイルスとやると、ディズの時にはなかった自由なスペースが生まれたんだ。それこそがバードが求めていたことだったんだ。」
1945年の秋ごろ、サヴォイ・レコードのテディ・ライグがレコーディングの話をバードに持ってくる。この録音は「チャーリー・パーカー・リバッパーズ」というグループ名での録音だったという。ピアノはディズやサディク・ハキムが変わって弾いた。カーリー・ラッセルがベース、ドラムはマックス・ローチ。バードは、マイルスがうまく吹けないことを知っていたくせに<チェロキー>のコード進行をもとに作った<コ・コ>をやらせたがったという。しかしマイルスができるもんかと開き直ったので、ディズが<コ・コ>と<ウォーミング・アップ・ア・リフ>、<ミアンダリング>でトランペットで吹いたという。
また、バード、ホーク(コールマン・ホーキンス)、マイルスは音楽的にうまく折り合ったが、それは3人とも中西部の出身だからだろうといっている。
バードとやり始めてマックス・ローチと意気投合したという。マックス、ミルト・ジャクソン、バド・パウェル、J.J.ジョンソン、ファッツ・ナヴァロ、タッド・ダメロンなどとは同じような考え方をしていたという。
マイルスは、ディズそしてルイ・アームストロングは大好きだが、彼らが客に向ける微笑みだけは大嫌いだと言っている。金を稼ぐため、トランぺッターでありながらエンターティナーであり、養う家族もいたし、性分からして道化が嫌いではなかったんだろう。社会的にも階級的にも、マイルスは2人とは生まれが違う。マイルスは中西部出身、2人は南部の出身で白人に対する見方がかなり違っていたという。彼らのおかげで、俺みたいな人間が受け入れられる状況が整っていたから、俺は本当にやりたい音楽だけをやればいいという態度が取れたんだろうと。
1945年12月、52丁目が閉鎖されていた時、バードとディズはニュー・ヨークを離れてロサンゼルスへ行くことになった。ディズのマネージャービリー・ショウが「ビ・バップは西でも大受けする」と言って、「ビリー・バーグ」というクラブのオーナーを説得した。ディズはカリフォルニアにもビ・バップを広めようと大乗り気だったが、またバードの面倒を見なければならないので尻込みしていた。しかしバードが一緒じゃないとこの話はないことが分かり覚悟を決めて出かけた。メンバーはディズ・バード、ミルト・ジャクソン、ピアノのアル・ヘイグ、ベースのレイ・ブラウン、ドラムはスタン・リーピー。
マイルスはこの間東セントルイスに帰った。翌1946年1月たまたまベニー・カーターのビッグ・バンドがセントルイスに来たので、聴きに行き楽屋に顔を出した。カーターは喜びバンドに入らないかという、カーターのバンドの本拠地はロサンゼルスだったので、そこにはディズやバードがいると思い入ることにしロスに向かった。
マイルスはバードを聞きたかったのであって一緒に演奏するつもりはなかったといっている。しかしバードはダイヤル・レコードへ録音する話をロス・ラッセルと進めていた。バードはディズとは違う、中音域で吹く、もっとリラックスしたスタイルの誰かが欲しかったんだろう。
カーターは、ロスでの仕事が一段落すると次の仕事までバンドをいったん解散した。ベニーは何人かでバンド作って演奏していたが、マイルスは古臭い曲とアレンジばかりで嫌気がさしていたようだ。またこのころカーターは自分に自信が持てなかったようだ。どうもこのアレンジャーというのはニール・ヘフティだったとマイルスは言っているがマイルス間違いらしい。
また、マイルスはバードとは「フィナーレ」というクラブで、アフター・アワーに演奏していた。メンバーは、パーカー、マイルス、ジョー・オーバニーがピアノ、アディソン・ファーマー(アート・ファーマーの双子の兄)がベース、チャック・トンプソンがドラムだったという。そこにはたくさんのミュージシャンが聴きにやってきた。ハワード・マギー、ソニー・クリス、アート・ファーマー、レッド・カレンダー、レッドの愛弟子のチャールス・ミンガス。中でもミンガスのバードへの入れ込みようは比類ないほどだったという。
マイルスはカーターのバンドを辞めて金が無くなり、ラッキー・トンプソンついでハワード・マギーのところへ厄介になっていた。ディズとバードは「ビリー・バーグ」での仕事が終わると、バードもハワードのところに転がり込んでいた。ディズはニュー・ヨークに帰りたがりメンバー全員の切符を買って渡したが、バードはヘロインに替えてしまった。1946年春、ロス・ラッセルがバードのためにダイヤル・レコードへのレコーディングの話を持ってきた。ロスはバードに素面でやるよう言い渡し、マイルス、ラッキー・トンプソン、アービン・ギャリソンというギタリスト、ベースのビッグ・マクミラン、ドラムのロイ・ポーター、ピアノのドド・マーマローサを雇った。西の連中はニュー・ヨークみたいにビ・バップを気に入ってはいなかった。バードのすごさを知っている連中は、バードがめちゃめちゃでひどい奴だということも知っていたので、彼を王様扱いにはしなかった。ニュー・ヨークでは王様でもロスではただのぼろぼろの酔っ払いだった。
さらにさらに続く。