レッド・ニコルス (トランペット、作曲、バンド・リーダー) 

Red Nichols Trumpet , Composer & band leader)

<h1>レッド・ニコルス

フル・ネーム:アーネスト・ローリング・“レッド”・ニコルス (Ernest Loring “Red” Nichols)
1905年5月8日ユタ州オグデン生まれ。
1965年6月28日ラス・ヴェガスにて死去。

レッド・ニコルスとファイヴ・ぺニーズの名はなぜか僕も高校生時代から知っていた。レコード裏面のライナー・ノートによると
日本でレッド・ニコルスの名が広く知られるようになったのは、1960年に封切られたダニー・ケイ主演のニコルスの伝記映画
『5つの銅貨(ファイヴ・ぺニーズ)』によってであろうという。
愛称の“Red”は、彼の髪の毛が赤毛だったことからつけられたという。
学校の音楽教師でありダンス・バンドのリーダーだった父から幼児ころからあらゆる楽器を教わったという。
何しろ4歳で早くもビューグルを手にし、5歳でコルネットを習い、6歳で人前で独奏したというからその早熟ぶりは驚異的だ。
12歳になると家族で演じていた音楽劇に出演したり、父親のブラス・バンドにフューチャーされるようになった。
ちょうどその頃シカゴで名を上げ、ニューヨークに進出(1917年1月)して熱狂的な歓迎を受けたニック・ラロッカ率いるO.D.J.B.
(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド)が吹き込んだ史上初のジャズ・レコードが発売され、それを聞いたニコルスは、
ジャズに深い関心を持つようになった。これはビックス・バイダーベックと同じである。ビックスはニコルスの憧れのミュージシャンとなるが、
実はビックはニコルスの2つほど上なだけである。
まもなくいくつかのローカル・バンドに参加したが、19年12月カルヴァー陸軍士官学校の特待生となり、同校でコルネットやヴァイオリン、ピアノなどを学んだ。
20年9月にその学校を辞めて故郷に戻り、同地のピット・オーケストラ(劇場のピットで演奏する楽団)に入り、22年レイ・スティルのバンドに参加した後、
シンコペーティング・ファイヴという7人編成のバンドに加わった。
その当時プライヴェート録音ではあるが、初めてレコーディングをしたという。
間もなく皆から厚い信頼を得ていた彼はバンド・リーダーに推され、「ロイヤル・バーム・オーケストラ」と名付けたバンドを率いることになった。
23年の年初からアトランティック・シティで公演をはじめ、レーク・ジェイムス、インディアナへ巡業を行った。
その後オハイオで短期間ジョー・トーマス・バンドに参加した後23年9月からアズベリー・パークとニューヨークで、マルコム・“ジョニー”・ジョンソンと働いた。
24年ジョンソンが業界から退いたので、ニコルスは推されてバンド・リーダーとなる。
この当時“ウォルヴェリンズ”という楽団にビックス・バイダーベックという若手の素晴らしいコルネット奏者がいることを知り、彼の演奏をレコード、また実演も聞き、
すっかり傾倒するようになったという。このようにニコルスはビックス・スタイルの演奏者となったが腕前でははるかにビックスに劣っていたとはレコード解説の大和明氏。
24年暮にニコルスはニューヨークでサム・ラーニンのバンドに参加すると共に、この頃から、同僚と共に「ザ・レッド・ヘッズ」というスタジオ・グループを組織し、
盛んにレコーディング・セッションを行うようになった。
特に25年夏に在団していたロス・ゴーマン楽団で白人トロンボーン奏者の草分け的存在として、トミー・ドーシーやグレン・ミラーそしてジャック・ティーガーデンにさえ
影響を及ぼしたミフ・モールと知り合ってからは、この二人は常に一緒に行動し協力し合うようになり、この二人を中心として数多くのスタジオ・セッションが行われるようになった。
ニコルスもモールも音楽的にしっかりした知識があり、しかも人間的にも優れた人物でもあったので、多くのミュージシャンから尊敬され、
ここにニューヨーク在住の有能な白人ジャズ・ミュージシャンは次々と彼らのもとに集まった。
このようにしてレッド・ニコルスは従来行ってきた「ザ・レッド・ヘッズ」の名称の他に、1926年12月8日から「レッド・ニコルスと彼のファイヴ・ぺニーズ」の
名によるレコーディングを始めたのである。このレコーディング・セッションは30年代初頭まで続けられたが、その他にも「ルイジアナ・リズム・キングス」とか
「チャールストン・チェイサーズ」、その他の名称による純然たるレコーディングのための臨時編成スタジオ楽団を作り、ブランズウィックやヴォカリオン、
コロンビアなどのレーベルに次々と優れたレコードを吹き込んでいった。
その間彼自身は、27年4月末から6月1日までの短期間ポール・ホワイトマン楽団に入り、それから以前加入していたことがあるドン・ヴォアヒーズ楽団に再入団した後、
28年から30年にかけては自分のバンドをいくつか率いたり、ブロードウェイのショウでも何度となく演奏を行った。

さて、この「ファイヴ・ぺニーズ」をはじめとするニコルスを中心としたスタジオ・レコーディング・セッションがいかに重要なものであったかはここに参加している
顔ぶれを眺めてみればはっきりするであろう。
ここには30年代のジャズ界を背負って立つ大スターたちが目白押しに並んでいる。もちろんこのレコーディングに参加した頃の彼らはまだ大スターではなかった。
それだけに彼らを将来あるジャズマンと認め、積極的に援助し、自己のレコーディングに招いて世に送り出す機会を与えたニコルスの功績は大きいと言わねばならない。
師粟村政昭氏も「レコーディング・コンボ「ファイヴ・ぺニーズ」は、看板に偽りありで、常に5人以上のプレイヤーを集めていたが、ジャック・ティーガーデン、
ベニー・グッドマン、ジーン・クルーパ、ジミー・ドーシーなどスイング時代に大立者となった若手の傑物たちを次々に登用して世に送った功績は絶賛に値する。」とこの点を高く評価する。
レコード解説の大和氏は、続けて「このこと(有望な若手を積極的に登用したこと)は、ニコルスのレコーディング・セッションを活き活きとしたものに仕立て上げた。
すなわち当時絶大な人気を博するようになったこのセッションへの参加は、多くの若手白人ミュージシャンたちの望むところであり、それに抜擢された者たちは自分の持てる
力を最大限に発揮すべく努力をしたに違いない。そこに後年の大スターたちの若き日の張り切ったソロ・プレイが次々と展開される理由を覗くことができるのである」と述べている。
30年代は自己のビッグ・バンドで全米中を巡演し、劇場やラジオなどで活躍した。
そして映画『ファイヴ・ぺニーズ』で美化されたようにロス・アンゼルスで引退したと『ジャズ人名事典』ではすごい表現で紹介している。
一方粟村師はその著『ジャズ・レコード・ブック』で、「その昔アレンジを用いたディキシーランド・ジャズの演奏によってニコルスのレコーディング・コンボ
(「ファイヴ・ぺニーズ」)が素晴らしい盛名を誇っていたころ、ニコルス自身のプレイは、ビックスの拙劣な模倣などと言われて評判が悪かった。
時は移りニコルス・コンボの新吹込みは一部オールド・ファンのノスタルジアを誘うだけのものとなったが、彼自身のプレイは逆に格段の進歩を遂げ、
生気溌剌たるソロがファンの耳を奪うようになった。
64年世界ジャズ祭で来日を果たした直後死去したが、彼のステージに接した人はことごとく彼のプレイを称賛していた」という。
一時引退し、59年に復活したというが、この生気溌剌たるプレイをしていたのは一時の引退後のことであろうか。
「レッド・ニコルス物語」(Dec. SDL-10299-B)の中にこうした彼らの張り切ったプレイを聴くことができるが、率直に言うならば、
部分的なソロの面白さや史的な意義を別にすると全体の効果は今日の耳には不思議なくらいコーニィー(Corny:古臭い)に聴こえる。
それより以前、ニコルスが主としてミフ・モールと組んで演奏をしていたころの、よりディキシー的な、より編成の小さいグループの演奏
(“The treasures of classic jazz”(Col. C4L-18))の中にもっと明快で単純な美しさに溢れるものがあったことを考えると、
中途半端な編成やイディオムはいかに耳新しくとも、すぐに古臭くなるというジャズ伝来の鉄則を改めて思い知らされるような気がする」と記している。

レコード・CD

The California Ramblers 1925(BYG Archive of jazz Vol.39 529089)
“Red Nchols and his five pennies”(Ace of Hearts AH-63)
「レッド・ニコルス物語」(MCA-3012)
「シカゴ・スタイル・ジャズ」(Columbia ZL-1091)
「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第11巻/ザ・サウンド・オブ・スイング」(RVC RA-68)