レッド・ノーヴォ (ヴァイブラフォン)

Red Norvo (Vibraphone)

レッド・ノーヴォ
本名:ケネス・ノーヴィル Kenneth Norville
1908年3月31日 イリノイ州ビアスタウンに生まれる。
1999年4月6日 カリフォルニア州サンタモニカの病院で死去、91歳だった。

ハイスクール時代からザイロイフォンを手掛け、1925年17歳の時ザ・カレッジアンというマリンバ・バンドとともにシカゴに出た。いくつかのバンドで働いた後、20年代後半には自分のバンドを組織したり、ヴィクター・ヤングのラジオ・オーケストラなどに参加した。
間もなくポール・ホワイトマン楽団に入り、同楽団の歌手ミルドレッド・ベイリーと33年暮れに最初の結婚。33年初めてソロイストとして録音を行ったが、そのうちの1曲で彼のオリジナル”Dance to the octopus “(33年11月21日録音 未聴です)は彼の感覚が当時としては並外れた新鮮なものだったという。この録音は和声的にも旋律的にも非常に進歩的なものとして30年代初めのジャズ界を驚嘆させたドン・レッドマン楽団の”Chant of the weed “(31年9月24日録音 未聴です)と並ぶ当時の「前衛ジャズ」と呼んでしかるべき作品といわれる。
ノーヴォのマリンバとベニー・グッドマンのバス・クラリネット、アーティ・バーンスタインのベース、ディック・マクドノウのギターという楽器編成の珍しさもさることながら、マリンバとバス・クラのもたらす奇怪な音の響きや当時としては革新的な不気味で込み入ったビートなど、確かに非凡で創造性豊かな進取の気風に満ちたノーヴォの才覚を思わせる作品を生み出した。
35年にピアノレス8重奏団を率いたが、36年には12人編成に拡大、エディー・ソーターの編曲によって洗練された新鮮な作風の演奏を行い、注目を集めた。それは当時躍動感に富んだ演奏が多かったスイング時代にあって、むしろクールな洗練された都会風のソフト・スイング・スタイルと呼べるものであった。まさに他のスイング・バンドには見られない独自のスタイルであった。
43年〜44年すなわちモダン・エイジが到来するとテディ・ウィルソンを擁しオール・スター・コンボを作ったが、このころにザイロフォンに別れを告げヴァイブに持ち替えた。デリケイトなフレージングで演ずる軽快でサトルな味を生かしたノーヴォのヴァイブ奏法はライオネル・ハンプトンとは全く違ったスインギーでスピード感にあふれた個性的なプレイを確立していった。
44年秋にはベニー・グッドマンのコンボに参加したが、その間の45年6月にはディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカーらバップの中心ミュージシャンを加えてレコーディングを行うなど意欲的な活動を行い、45年12月から1年間はウッディ・ハーマン・ファースト・ハードのスター・プレイヤーとして活躍した。ここでのノーヴォは強烈なハーマンのファースト・ハードのブラス陣に対して一歩も引けを取らぬスピード感とヴァイタリティ―にあふれたスインギーなプレイで絶賛を博した。この頃の名演として“Herman at Carnegie hall “の”The man I love “が挙げられる。粟村氏によると、後に加入したテリー・ギブスあたりよりもはるかにフレッシュなソロを取っていたという。
その後一時カリフォルニアへ移り、フリー・ランサーとして、またあるときは自分のグループを率いたりしたが、49年9月から再びニューヨークで自己の6重奏団を結成した。
50年にはチャーリー・ミンガス、タル・ファーローという有能な新人を起用して当時稀に見るフレッシュでユニークな内容を持った異色のトリオを結成することに成功した。後にミンガスもファーロウもかなりのビッグになるのだが、当時は未知の新人であった。その後52年にミンガスが、53年にタルが抜けた後には、ベースにレッド・ミッチェル、ギターにジミー・レイニーというすぐれた新人を発掘する辺り、能坊の能は人を見る目も卓越していた言えるだろう。
その後は、渡欧したり、米国内の東西に渡って活躍、61年の春にベニー・グッドマンの6重奏団に参加、69年秋ニューポート・オール・スターズのメンバーとして来日している。
彼は、まさにジャズ草創期に活動を始めた人にもかかわらず、進取の気風に満ちた、まさに進歩的とはこの人のためにある言葉という気がするほどである。

レコード・CD

"Red Norvo/Move" SOPU-7SY
“Mildred Bailey/Her greatest performances 1929−46”Columbia JC3L-22