スコット・ジョプリン (作曲、ピアノ)

Scott Joplin (Piano)

スコット・ジョプリン

1868年12月24日(11月24日説あり)テキサス州テキサカ―ナ生まれ。
1917年4月11日(4月1日説あり)ニューヨークにて死去。

作品は600以上と言われる多作家でありであり、「ラグタイム王」(King of ragtime)と言われる。しかし600以上あるという作品の内、ラグタイムの曲は30数曲だという。
1875年7歳の時にテキサス州テキサカーナに移り住んだという記述もある。
生れはテキサカーナではなくテキサス州リンデンの近くで、黒人元奴隷農夫の父ジャイルと母フロレンスの次男(6人兄弟)として生れる。
幼少のころから音楽的才能が発現、バンジョーを上手くこなしたという。両親は彼の才能を伸ばすことに力を尽し、特に母は生活費を削ってピアノを買い与えたというがこれは当時としては大変なことだった。
ピアノは独学で覚えたというが、1876年8歳の時にはジュリアス・ワイス(Julius Weiss)に音楽を習っている。そして10代の時にはダンス音楽の演奏家になっていたという。
1882年頃(14歳)親元から離れ、ミシシッピー川流域のサロンの1つメープル・リーフ・サロンで演奏、白人の音楽出版者ジョン・スタークに出会う。
1890年(22歳)頃 セントルイスに移り住み、アメリカ中西部のサロンや売春宿で演奏していたという。
1890年代にミズーリ州シダリアのクイーン・シティ・ニグロバンドでコルネットを吹いたこともあるという。
1894年(26歳)ミズーリ州セダリア (Sedalia) へ移り住む。そこから、8人の仲間と共にテキサス・メドレー・カルテットを編成し、ニューヨークまで演奏旅行を行う。
1895年(27歳)クラシック音楽のピアニスト・作曲家としての人生を歩みたいと願い、黒人のためのジョージ・R・スミス大学で学ぶ。彼はヨーロッパのクラシック音楽とアフリカ系アメリカ人のハーモニーとリズムを結びつける音楽を追求していた。これは後日、音楽ジャンル「ラグ」として認知されるようになった。
1899年(31歳)この頃から以後15年間にわたって多くのラグが生れるようになった。
1900年(32歳)セントルイスに移り住み、ジョン・スタークと親交を深めた。スタークは彼の作品「メープルリーフ・ラグ(Maple Leaf Rag)」を発売し、大成功を収める。
1901年(33歳)スコット・ハイデン (Scott Hayden) と共に"Sunflower Slow Drag"が生れる。ハイデンの妹、ベルと結婚したが、彼の音楽に理解が無く1903年に離婚した。
1902年(34歳)代表作「ジ・エンターテイナー」を作曲。
1903年(35歳)オペラ "A Guest of Honor" を作曲、このオペラは失われて残っていない。
1907年(39歳)33歳の Lottie Stokesに出会いその後10年を幸せに送った。ベルと違い、音楽を愛していた。
1911年(43歳)ニューヨークへ移り住む。オペラ "Treemonisha" や"Reflection Rag"を作曲。
1915年(47歳)オーケストラの代わりに彼のピアノでの演奏でオペラが公演されたことが一度あったが不評に終わった。それが精神的に相当な衝撃であったと妻 (Belle) は言い残している。
1917年1月中旬 梅毒により精神・肉体に異常をきたし、ブルックリンの病院に入院。晩年は認知症が発現し入退院を繰り返していた。
1917年4月1日 死亡。死因は直接的には肺炎ということであったが、実際には梅毒による複合的な身体機能の劣化であると考えられるという。