シーガー・エリス (ヴォーカル、ピアノ&作曲)

Seger Ellis (Vocal , Piano & composer)

シーガー・エリス

1904年7月4日テキサス州ヒューストン生まれ。
1995年9月29日生地テキサス州ヒューストンにて死去。

20年代末に大変な人気を博した白人歌手だという。ミルス・ブラザーズを見出したことでも知られているという。
自身は、ヴォードヴィルやクラブでセンチメンタル・ソングを歌うクルーナーであり、ピアノも弾く。
しかし、彼にイカスところは、人気をバックにレコーディングなどで勝手が利くことから、好みの或いはこれと見込んだミュージシャンを起用することができた。
そんな折にドーシー兄弟やルイ・アームストロングなど一流のジャズ・マンを起用したことである。おかげでバックとは言えその時代に吹込みを知ることができる。
もちろん当時ジャズ・マンには収入も得られたことになる。
元々は1920年代地元ヒューストンのラジオ局で生演奏ピアニストを務めたことから、音楽の仕事を始めることになった。
1925年、ロイド・フィンレイ (Lloyd Finlay) の楽団に加わり、さらに自身のピアノ・ソロを2曲録音することを許された。この録音は、リリースには至らなかったが、このソロ演奏が契機となりニュージャージー州カムデンにあったビクターの常設録音スタジオに招かれ、自作曲を中心に多数のピアノ・ソロを録音した。
しかしこの一連の録音はまだまだ電気式吹き込みの問題があり、リリースまでこぎ着けたのは4曲だけであった。そのうち、「Prairie Blues」と「Sentimental Blues」をカップリングした盤は、ささやかながらヒット作となったという。
これらのレコーディングを経験した後、エリスはヒューストンへ帰ってラジオ局の仕事に戻り、またヴォードヴィル劇場でも演奏をした。
この頃からエリスは、主に雇い主であったラジオ局の上司たちからのリクエストに応じて、ピアノに合わせて自ら歌うようになった。
エリスの陽気な歌声は聴衆の評判もよく、1927年にはニューヨークに招かれて、ボーカルのテスト録音を行なうことになった。
エリスが歌った最初のレコードは、コロムビア・レコードから出された「Sunday」であった。これに続いてオーケー・レコード (Okeh Records) から一連のレコードが出たが、そのほとんどにおいてバックの演奏を務めたのは、エリス自身に人選が任されていた少人数編成のスタジオだけのグループであった。
エリスは、自分に与えられた機会を生かして、トミーとジミーのドーシー兄弟、ジョー・ベヌーティ (Joe Venuti)、エディ・ラング (Eddie Lang)、
アンディ・サネラ (Andy Sannella) ら、当時の最高のジャズ・ミュージシャンたちの多くを選び、ルイ・アームストロングも2度にわたり録音に招いた。
エリスによる録音活動は1931年にいったん途切れたが、1930年代後半になると、自身のビッグバンドを率い、指揮とともに、時おり歌も披露して、復活を遂げた。
このバンドには、妻であるアイリーン・テイラー (Irene Taylor) も歌手としてフィーチャーされていた。その後エリスは、曲作りに注力するようになったが、録音やピアノ演奏の活動も散発的に続けた。
1939年、エリスはバンドを編成し直し、活動を開始したが1941年に解散となり、エリスは1942年に陸軍航空軍に徴兵された。

レコード・CD

「黄金時代のルイ・アームストロング」(EMI TOCJ-5221-28)