ウィリアム・マッキニー(ドラムス、バンドリーダー)

William McKinney (Drums & Bandleader)

ウィリアム・マッキニー"

1895年9月17日ケンタッキー州シンシアナ生まれ。
(1894年ケンタッキー州パドゥカ生まれという記述あり。)
1969年10月14日生地シンシアナにて死去。

第1次世界大戦に従軍した後サーカス団のドラマーとなる。
オハイオ州スプリングフィールドに移り、シンコ・セプテットと名乗るバンドを結成した。そして23年バンドを拡充し、ドラムをキューバ・オースティンに委ね、自らはバンドのマネージメントに専心した。という記述と
1924年ごろオハイオ州スプリングフィールドで「シンコ・セプテット」バンドを旗揚げし、やがてシンコ・ジャズ・バンド(Synco jazz band)と改名したという記述がある。
アメリカ中西部を巡業した後、1926年ミシガン州デトロイトのアルカディア・ボールルームを根城とするようになった。
ここで自らもバンドを率いていたプロモーターのジーン・ゴールドケットの知己を得、同じデトロイトの「グレイストーン・ボールルーム」にも出入りするようなる。
そしてバンドは「マッキニーズ・コットン・ピッカーズ(McKinney’s Cotton Pickers)」と改名する。
27〜31年にかけてはドン・レッドマンが編曲及び音楽監督となり、同時代の傑出した黒人バンドとしての名声を確立した。
しかしその後レッドマンがバンドの主要メンバーと独立し新たなバンドを作ったため、コットン・ピッカーズは1934年解散を余儀なくされる。
その後マッキニーは、30年代後半にかけて「コットン・ピッカーズ」という名称のバンドを何度か再編したが成功しなかった。
その後40年代はデトロイトのフォードの自動車工場で働いていたという記述と、一時ボストンのダンス・バンドで働いた後デトロイトに戻、り
カフェのダンス・フロアのマネージメントや出演者のブッキング等々の仕事に就いていたという記述がある。
1950年代に引退し、長年病に苦しんだが1969年10月生地で息を引き取った。

レコード・CD

「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ 第9巻 ザ・ビッグ・バンド・エラ 第1集」(RCA RA-47)