ジャズ・ディスク・ノート

第101回2015年5月24日

ジョン・コルトレーン 入門その4
ディジー・ガレスピー 「スクール・デイズ」
ディジー・ガレスピー 「ザ・チャンプ」

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

昨日、今日と天気は上々、久しぶりで2日間テニスをしてしまいました。よくよく考えれば前回が100回、そして今回が101回何か記念をしなければならなかったかな?
正直そんな余裕は全くなくいつもの調子でいきます



テニスコート近くに咲いていました

明日(5/24)からフランス・ローラン・ギャロスで全仏オープンテニスが始まります。とてもとても楽しみです。錦織選手はどこまで行けるでしょうか?全仏はサーフェイスがクレイ(土)、アンツーカーで行われます。アンツーカーは、レンガなどに用いられる土を焼いた赤土で球速が遅く、長いラリーの末ポイントが決まるという意味で非常にタフな大会です。同じサーフェイスはイタリアン・オープン、マドリードそしてバルセロナも同じコートです。錦織選手はその内バルセロナで優勝しています。この時には持続力が勝負と思われたサーフェイスで攻撃的なプレーを展開し優勝を果たしました。
しかし同じサーフェイスのイタリア、マドリードでは相手選手により攻撃的に展開され敗れています。そして本番全仏ではこの2つの大会の反省を踏まえ対策を取って臨むはずです。一体どうなるでしょう。楽しみで仕方ありません。






ベン・E・キング

訃報 ベン・E・キング

少し前4月30日にソウル歌手のベン・E・キング氏が亡くなりました。ジャズ・ファンの方には余りなじみがないかもしれませんが、あの名曲「スタンド・バイ・ミー」の大ヒットを放った歌手です。彼はジョン・コルトレーンと同じノース・カロライナの生まれです。元はR&Bのコーラス・グループザ・ドリフターズのリード・シンガーでした。その時のヒット曲には「ダンス・ウィズ・ミー」、「ラスト・ダンスは私に」などがありました。1960年に脱退しソロ・シンガーとして1961年リリースして大ヒット曲になったのが「スタンド・バイ・ミー」です。
僕はR&Bのバンドに加入していたことがあり(担当はベース)、「スタンド・バイ・ミー」を取り上げたことがあります。コードも単純でそれほど難しい箇所はないのですが、どうしてもサマにならないのです。そういう曲こそが本当に難しい。
この曲はジョン・レノンなども取り上げていますが、最高のヴァージョンはやはり彼の歌うオリジナル・ヴァージョンだと思います。これからも彼のあの歌声は世界中で流れることでしょう。    合掌。


B・B・キング

訃報 B・B・キング

そして先々週5月14日にはブルースの巨人、B・B・キングが亡くなりました。89歳でした。僕が中学の頃彼と、フレディ・キング、アルバート・キングは「ブルース界の三大キング」などと呼ばれたものです。
正直僕はブルースには余り興味を持っていませんでした。ジャズ・ファンというのは、ジャズの源ともいえるブルースを意外に聴かない人が多いとは、今は亡き日本のブルース研究の第一人者中村とうよう氏の言葉だったと思います。氏は僕が高校の頃「スイング・ジャーナル」にブルース入門のような連載記事を書いていました。僕はそれを読んで少しずつブルースに興味を持つようになりました。氏が当時(今から45年くらい前)現在進行形で最もブルース歌手らしいブルース歌手は「ライトニン・ホプキンス」と書いていたと思います。僕の記憶が正しければとうよう氏はその連載でB・B・キングを取り上げませんでした。
何故だろうと当時非常に疑問を持った記憶があります。そしてブルースの三大キングと呼ばれる彼の音楽ブルースであることは間違いないのですが、何故か僕も余りブルースを感じなかったことも事実です。現在僕はB・B・キングをこのように解釈しています。「ブルース・エンターティナー」。しかし彼は最も成功したブルース・ミュージシャンであり、世界中に大きな影響を及ぼしたことに違いはありません。    合掌。


さて今回は再びジョン・コルトレーン入門です。

第101回Dizzy Gillespie “The champ” SAVOY MG 12047
Dizzy Gillespie “School days” REGENT MG 6043

  「ディジー・ガレスピー/「ザ・チャンプ」レコード・ジャケット

<Contents>“The champ” SAVOY MG 12047

A面
B面
1.ザ・チャンプ (The champ) 1.ティン・ティン・デオ (Tin tin deo)
2.バークス・ワークス (Birk’s works) 2.スターダスト (Stardust)
3.キャラヴァン (Caravan) 3.ゼイ・キャント・テイク・ザット・アウェイ・フロム・ミー (They can’t take away from me)
4.タイム・オン・マイ・ハンズ (Time on my hands) 4.ザ・ブルーエスト・ブルース (The bluest blues)
5.明るい表通りで (On the sunny side of the street) 5.スイング・ロウ、スィート・キャデラック (Swing low , sweet Cadillac)
6.ウ―・シュ・ビ・ドゥ・ビー (Ooh-shoo-be-doo-bee)


「ディジー・ガレスピー/「スクール・デイズ」レコード・ジャケット

<Contents>“School days” REGENT MG 6043

A面
B面
1.レディ・ビー・グッド (Lady be good) 1.スクール・デイズ(School days)
2.ポップス・コンフェッシン (Pop’s confessin) 2.アイム・イン・ア・メス (I’m in a mess)
3.ノーバディ・ノウズ (Nobody knows) 3.アンブレラ・マン (Umbrella man)
4.バップシーズ・ブルース (Bopsie’s blues) 4.ラヴ・ミー、プリティ・ベイビー (Love me , pretty baby)
5.アイ・クドント・ビート・ザ・ラップ (I could’t beat the rap) 5.ウィー・ラヴ・トゥ・ブギ (We love to boogie)

ジョン・コルトレーン入門第4回は2枚のLPレコードである。名義はどちらもディジー・ガレスピーである。もしこの2枚のレコードをコルトレーンを聴きたくて購入した人は相当なコルトレーン・マニアだろう。では、僕はどうか?僕は「ザ・チャンプ」は高校時代、「スクール・デイズ」は6、7年前に中古で購入した。僕はマイルス・ディヴィスを聴いてジャズに入ったが、高校時代はどちらというとディズの方が好きだった。「ザ・チャンプ」はディズのプレイが聴きたくて高校時代にヤマハで輸入盤を買った。また僕はピアノのウィントン・ケリーが好きで、6、7年前に少し集めてみようと思ったことがある。「スクール・デイズ」はその流れで買ったものだ。つまり目的はジョン・コルトレーンではなかった。しかしその後原田和典氏の『コルトレーンを聴け!』を読んでいたら、この2枚にコルトレーンが参加していることを知り、そして年月日としては前回“First ride 1951”に次ぐものだったので取り上げることにした。
LP2枚、4面21曲中コルトレーンの参加は3曲である。もともとジョン・コルトレーンを聴くアルバムではない。このアルバムは正式には後にディズの作品として取り上げようと思う。
因みにその3曲とは
“The champ” SAVOY MG 12047
A面2曲目バークス・ワークス (Birk’s works)
B面1曲目ティン・ティン・デオ (Tin tin deo)
“School days” REGENT MG 6043
B面5曲目ウィー・ラヴ・トゥ・ブギ (We love to boogie)

「ディジー・ガレスピー/「ザ・チャンプ」レコード・ラベル

録音は1951年3月1日にデトロイトで行われたとある。とすると前回”First ride 1951”が1951年1月6日から3月17日の間にバードランドで行われた実況録音なので、この3曲はその間に行われたスタジオ録音盤ということになる。
コルトレーンは1949年9月友人のテナー奏者ジミー・ヒースの推薦もあり、当時の大スター、ディジー・ガレスピーのビッグ・バンドに加入する。そしてディズは大手レコード会社キャピトルへの吹込みにもコルトレーンを参加させている。因みに僕はこのキャピトル盤は持っていないし聴いていない。人気者のディズでもビッグ・バンドの維持は難しかったのか、1950年9月ディズはバンドを縮小しスモール・コンボに再編する。この再編でジミー・ヒースはクビになりコルトレーンは残ることになるのだが、藤岡靖洋氏によれば当時2人の実力は伯仲していたが、ディズがコルトレーンを残したのは地縁の関係(2人は州境を挟んで隣町同士の出身)だろうとしている。
そのスモール・コンボでの初演奏記録が前回”First ride 1951”に収録された一連のバードランド実況録音であるが、これらは1970年に日の目を見た海賊盤でありディズ達は何の恩恵にも浴していない。そして最初のちゃんとしたレコーディングとなったのが今回取り上げる3曲である。
このレコーディングは元々ディジー・ガレスピー自身のレーベル「ディー・ジー(Dee Gee)」に行われたものだ。51年〜52年にかけて「ディー・ジー(Dee Gee)」に行われたディズ・スモール・コンボのヴォーカルをフューチャーしたアルバムが「スクール・デイズ」である。ヴォーカル・フューチャーではないナンバーがサヴォイ盤「ザ・チャンプ」、ということのようだがこちらにもヴォーカル・ナンバーは入っている。
そのような経緯があって、「ウィー・ラヴ・トゥ・ブギ (We love to boogie)」は「スクール・デイズ」というLPに収録されRegentレーベルから、「バークス・ワークス (Birk’s works)」、「ティン・ティン・デオ (Tin tin deo)」の2曲はSavoyレーベルから「ザ・チャンプ」というLPに収録されて発売になっている。

「ディジー・ガレスピー/「スクール・デイズ」レコード・ラベル 因みに僕の持っているレコードは「ザ・チャンプ」は輸入盤でmade in U.S.A.、「スクール・デイズ」キング・レコードから1990年に発売された日本盤である。
またパーソネルは3曲とも同じで次のようになっている。この録音以前2月3日のバードランドとも後の3月17日のバードランドとも異なるメンバーである。

<Personnel> … Dizzy Gillespie Sextet

1951年3月1日 デトロイト
ディジー・ガレスピーDizzy GillespieTrumpet
ジョン・コルトレーンJohn ColtraneTenor sax
ミルト・ジャクソンMilt JacksonVibraphone&Piano
ケニー・バレルKenny BurrellGuitar
パーシー・ヒースPercy HeathBass
カンサス・フィールズCarl“ Kansas“ FieldsDrums
フレディ―・ストロングFreddy StrongVocals

では曲を聴いていこう。といっても「ザ・チャンプ」の2曲においてコルトレーンはアンサンブルに参加しているだけで、ソロは担当していない。今回はコルトレーンに焦点を当てるのが目的なので割愛しよう。改めてディズのアルバムとして取り上げようと思う。
B面5曲目ウィー・ラヴ・トゥ・ブギ (We love to boogie)
原田氏の『コルトレーンを聴け!』では、この曲はフレディ・ストロングのヴォーカルが主役であるからコルトレーンのソロはほんの数秒、ソロというより間奏、合いの手といった方がふさわしい。ジャズの求道者的な後年の姿からは想像もできないリズム&ブルース風のプレイとしている。レコード解説の大村幸則氏は「流麗とは言えないがユニークなソロで、強く引き付ける何ものかを持っていると書いている。
まず僕はミルト・ジャクソンがピアノを弾いているのにびっくりする。僕が現在まで把握している手持ち演奏はこれだけだ。うまくはないが強力なコンピングだ。コルトレーンのソロは正にリズム&ブルース風と僕も感じる。ヴォーカルの後最初にソロを取るが、出だしがドレミファソラシド風に始まるところなど確かにユニークだと思う。

3曲、ソロを取るのは1曲だけだが、実に自信に満ちて吹いている気がする。

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第102回2015年6月7日

ジョン・コルトレーン 入門その5
アール・ボスティック 「フォー・ユー」/「ダンス・タイム」

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。


このところ1週間に一度のアップを続けてこれたのですが、先週はアップができませんでした。誰も待っていないとは知りつつもとても残念です。



紫陽花 1

先々週からずっと残業続きです。僕の就いている仕事は今が一番忙しさのピークです。先週などは11時前に帰宅することができませんでした。12時を過ぎたこともあります。12時過ぎに帰宅し食事を摂り、入浴し一服すれば就寝は3時近くなります。とてもHPどころではありません。
そうなると季節を感じることも少なくなります。関東地方は梅雨入りしたのでしょうか?そんなことも分からなくなっています。6月6日土曜日見かけた季節の花種類が違うアジサイ2題です。



紫陽花 1

全仏オープンテニス、錦織選手は残念ながら準々決勝で地元のツォンガ選手に敗れ4強入りは出来ませんでした。残念!クレー・コートの王者ラファエル・ナダル選手は準々決勝でノバク・ジョコヴィッチ選手に敗れ6連覇、10度目の優勝を逃しました。現在ジョコヴィッチ選手の安定度は抜群です。今晩の決勝はどうなるでしょうか?とても興味が惹かれますが、テレビ放映は夜1時過ぎ、きっと起きていられないでしょう。




さて今回は再びジョン・コルトレーン入門です。

第102回Earl Bostic “For you”
Earl Bostic “Dance time”

「アール・ボスティック/「フォー・ユー」レコード・ジャケット

<Contents>Earl Bostic “For you” SING503

A面
B面
1.スリープ (Sleep) 1.チェロキー(Cherokee)
2.ムーングロウ(Moonglow) 2.煙が目にしみる (Smoke gets in your eyes)
3.ヴェルヴェット・サンセット(Velvet sunset) 3.メモリーズ (Memories)
4.フォー・ユー(For you) 4.エムブレイサブル・ユー(Embraceable you)
5.ザ・ヴェリー・ソート・オブ・ユー (The very thought of you) 5.ラップ・ユア・トラブルズ・イン・ドリームス (Wrap your troubles in dreams)
6.リンガー・アホワイル (Linger awhile) 6.昼も夜も (Night and day)

ジョン・コルトレーンは1946年8月11日海軍を正式に除隊となり、フィラデルフィアに帰る。帰郷すると音楽をさらに勉強するため、グラノフ音楽院に入学し、デニス・サンドール師の下でサックス奏法について研鑽を積み、地元フィラデルフィアのミュージシャンたちと日夜ジャム・セッションに興じる日々を送っていた。この頃コルトレーンのアイドルはデューク・エリントン楽団などで活躍していたジョニー・ホッジスであったという。この頃彼と付き合った音楽のベニー・ゴルソンは、コルトレーンがまるでジョニー・ホッジスみたいに吹くこと、ものすごくうまかったこと、みんなにとても丁寧に接していたという。他の本などでもこの頃のコルトレーンのアイドルはジョニー・ホッジスであったことが記されている。
そしてジョンはゴルソンと共にゴードン・アシュフォード(ベース)のバンドに入り、地元のクラブやバーなどで演奏しプロとして活動していく。続いて1946年の秋から翌年1月にかけては、ジョー・ウェッブのビッグ・バンドに入れてもらいツアーにも参加した。1947年春にはトランペットのキング・コラックス(King Kolax)のビッグ・バンドでも全米をツアーし、5月頃からジャム仲間のジミー・ヒースに誘われて彼のバンドに入り、数々のチャンスをモノにしていく。
コルトレーンがアルトからテナーに持ち替えるきっかけは1948年に訪れた。一つはジミー・ヒースと一緒に聴きに行ったデクスター・ゴードンの悠然としたプレイに大いに感銘を受けたこととエディ・(クリーンヘッド)・ヴィンソンのバンドに入ったことだった。ヴィンソンがアルト・サックスなのでコルトレーンはテナーを担当することになったという。 このゴードン・アシュフォード、ジョー・ウェッブのバンドはどういうバンドかわからないが、キング・コラックス、エディ・(クリーンヘッド)・ヴィンソンはR&B的なにおいがする。
1948年ヴィンソンは、メンバーの若返りを図り、ヴィンソン以外全員を24歳以下にするという思い切った挙に出る。すなわち「ビバップ」という新しい音楽を演奏できる若いミュージシャンたちであった。
そして1948年11月20日から1949年6月10日までの半年以上、断続的にではあるがコルトレーンはヴィンソンの全米ツアーに参加した。ヴィンソン・バンドが好評な土地には、後から新しいビバップ・バンドがどんどんやって来た。つまり彼らは、ビバップの「先駆者」として各地を演奏して回ったことになる。大人気のバンドだったので、この間にレコーディングも予定されていたが、実現しなかったのは大変悔やまれる。原因はヴィンソンがレコーディング・セッション当日に遅刻したからだという。遅刻原因は定かではないが大酒飲みのヴィンソンの二日酔いだったろうと藤岡氏は書いている。
ヴィンソンの悪癖はその頃コルトレーンにも伝染し、後年麻薬癖も加わって、ジョニー・ホッジスやマイルスのバンドで失態を繰り返すことになる。

「アール・ボスティック/「ダンス・タイム」レコード・ジャケット

<Contents>Earl Bostic “Dance time” KING 525

A面
B面
1.ハーレム・ノクターン (Harlem nocturne) 1.ザ・ムーン・イズ・ロウ(The moon is low)
2.ホエア・オア・ホエン(Where or when) 2.浮気はやめた (Ain’t misbehavin’)
3.スイート・ロレイン(Sweet Lorraine) 3.ザ・シーク・オブ・アラビー (The shiek of Araby)
4.ポエム(Poem) 4.アイ・ヒア・ア・ラプソディ(I hear a rhapsody)
5.ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド(You go to my head) 5.ローゼズ・オブ・ピカーディ (Roses of picardy)
6.オフ・ショア (Off shore) 6.メランコリー・セレナーデ(Melancholy serenade)

さて、このような経験を積み重ねながら49年ジミー・ヒースとともにディジー・ガレスピーのビッグ・バンドに加わるわけだが、この辺の理由を記載したものを読んだことが無い。なぜヴィンソンのバンドを辞めたのか或いはクビになったのか?そしてなぜガレスピー楽団に入団したのか?ジャズ・ファンはヴィンソンのバンドよりガレスピーの方がジャズ的に上だから当然と受け止め、疑問に思わないようであるが果たしてそうなのか?コルトレーンはジャズが演りたいが、入れてくれるバンドもなく仕方なくヴィンソンのバンドにいたのだろうか?
ともかくこのガレスピーのバンドで初のレコーディングを経験した(キャピトル盤−未聴)。このバンドは50年に解散したが、すぐに結成されたスモール・コンボに残って演奏を続けた。51年ガレスピーのバンドを辞めるかクビになるかして一端フィラデルフィアへ戻った。この辺の詳しい事情も分からない。
次に加わるのが、アール・ボスティックのR&Bバンドである。
藤岡氏によると、1952年フリーランスとしての仕事が軌道に乗り始め、コルトレーンはGIビル(退役軍人基金)を使ってフィラデルフィア33丁目に家を購入した。同じフィラデルフィアに住んでいた従妹のメアリーを迎え、後に自分の母アリスも呼び寄せ生活の基盤を整えた、とある。GIビルがどのような制度でどの位補助があるものか分からないが、この生活インフラにはお金が必要だったと思われる。1952〜53年はアール・ボスティックやゲイ・クロッシーのR&Bバンドに加入し、レコーディングや全米ツアーにも参加しているが、藤岡氏によれば、ボスティックのバンドのメンバーとほとんどが週175ドルほどの稼ぎを得ており(ニューヨークのかなり豪華なアパートが、月100ドルで借りられて時代にである)、ジャズ・バンドよりR&Bバンドで演奏する方がはるかに高収入であったという。生活インフラ整備にお金がかかるからR&Bのバンドに入ったのか、R&Bバンドで高収入を得られたので結果的に生活インフラ整備が出来たのかははっきりしない。
また、藤岡氏は、注目すべき点としてこれらR&Bバンドへの参加が、コルトレーンの中に生来備わっていた南部のブルースやゴスペルのスピリッツを呼び起こしたことだとするが、具体的にどういうことかは書いていない。どういうことなんだろうか?
一方『コルトレーンを聴け』の原田氏は、先ず拙HP第100回で取り上げた“Trane’s first ride”の項において「コルトレーンはガレスピー・バンドのステージにおいて盛り上げ要員でもあったのだろう。アドリブができ、ホンカーのように客を沸かせることもできる彼は、ガレスピーの期待にしっかり答えていたはずだ」とし、1951年時点ですでにホンカー的プレイをしていたとしている。その割に“Trane’s first ride”で聴かれるソロはホンカーっぽくないが…。 さらに原田氏は第101回“The champ & School days”の項では、「若いころ(52年頃かどうかは分からないが)のコルトレーンはR&Bをやっていた。フィラデルフィアのバーで、カウンターに乗って、そっくり返りながらサックスを吹いていた。私と目があったら、本当にバツの悪そうに、恥ずかしそうにしていたよ」。だがゴルソンも同じころタイニー・グライムス(ギター)率いるロッキング・ハイランダーズに入り、やはりバー・カウンターの上でブリッジをして吹いていた。」というベニー・ゴルソンの回想を紹介している。そして原田氏は「何かに取りつかれたように新しいジャズを開拓し続けた彼だが、根っこにはいつもブルース−ホンカー的なものがあったと僕は思っている。」と書いている。
確かに前回第101回で聴いたように唯一のソロ“We love to boogie”でのプレイにはR&Bの香りがしていた。
要するに藤岡氏は、52〜3年のR&Bバンドへの参加がブルースやゴスペルのスピリッツを呼び起こしたとしているのに対し、原田氏はそれ以前から、根っここの部分にはブルースやゴスペルのスピリッツがあったとしている。もちろん僕にはその判断などできるわけもないが、後に成し遂げる大きな仕事を考えると両者どちらが正しいかなどは極めて些細なことなのかもしれない。

ホンカー・プレイ

さて、前置きががだいぶ長くなったが、今回はそのアール・ボスティックのバンド在籍時の録音である。レコードのコンテンツを記入したが、コルトレーンが参加しているのは1952年4月17日の4曲と1952年8月15日の3曲である。ホンカー・バンド時代のコルトレーンである、と言ってもソロはない。
そもそもこのレコードはコルトレーン・ファンにとってどれほど必要かとなると必須のアイテムとは言えないであろう。なにせソロはなく、アンサンブルに参加しているだけである。ではなぜ僕はこの2枚を買ったかというと、コルトレーンが参加しているというのももちろんだが、ホンカーとはどんなものか聴いてみたいと思ったからだった。まぁ有体に言えば、どうせ何かホンカーのレコードを買ってみるならコルトレーンが入っているものが良かんべさ程度のことであった。割と安かった(どちらも1,000円以下)し。
本アルバムの主役アール・ボスティックという人は完璧なテクニックを持つホンカーの代表と言われているようだ。ではまずこのホンカー(Honker)とはどういうものであろうか?
原田氏は、「主に40〜50年代のR&B〜ジャンプ・ミュージックで活躍したサックス奏者のことで、ビッグ・ジェイ・マクニーリー、キング・カーティスなどが有名としている。たまに40〜50年代のアメリカが舞台の映画などで、ブリッジなど激しい動きをしながら、音をギンギンに歪ませて、聴く者の興奮を煽るようなバンドが登場するのを見たことが無いだろうか。僕も何という映画だ?と訊かれたら答えることはできないが、そんな光景を見たことがあるような気がする。その歪んだ音を雁や鴨の鳴く声(honk)にたとえて、そういったサックス・プレイヤーをホンカーと呼んだ。そうはいっても僕もこのコルトレーンのレコードを知る前まで、具体的なプレイヤーの名前やアール・ボスティックという名前は聞いたことが無かった。日本人にはなじみが薄い存在であることは確かであろう。

「アール・ボスティック/「フォー・ユー」レコード・ラベル

<Personnel>1950年3月23日 B面5 ”Wrap your troubles in dreams”…“For you”

Earl BosticAlto sax
Gene ReddVibraphone &Trumpet
Lowell “count” HastingsTenor sax
Clifton SmallsPiano
Al CaseyGuitar
Keeter BattsBass
Joe MarshallDrums

<Personnel>1951年1月23日 A面1”Sleep”…“For you”

トランペットとヴァイブラフォンにジーン・レッドが加わり、ギターがアル・ケイシーからルネ・ホールに、ドラムがジミー・コブに替わる。
Earl BosticAlto sax
Gene ReddVibraphone &Trumpet
Lowell “count” HastingsTenor sax
Clifton SmallsPiano
Rene HallGuitar
Keeter BattsBass
Jimmy CobbDrums

<Personnel>1952年4月17日
A面3”Velvet sunset”…“For you”
A面2”Moonglow”…“For you”
A面6”Linger awhile”…“For you”
B面2”Ain’t misbehavin’”…“Dance time”

バリトン・サックスがピンキー・ウィリアムスが加わり、トランペットジーン・レッドがジョー・ミッチェルに、テナーのロウエル・ヘイスティングがジョン・コルトレーンに、ピアノのクリフトン・スモールズがジョー・ナイトに、ギターのルネ・ホールがジミー・シャーリーに、ベースのキーター・ベッツがアイク・アイザックスに、ドラムのジミー・コブがスペックス・ライトにと大幅な変更がある。
Joe MitchellTrumpet
Earl BosticAlto sax
John ColtraneTenor sax
Pinky WilliamsBaritone sax
Gene ReddVibraphone
Joe KnightPiano
Jimmy ShirleyGuitar
Ike IsaacsBass
Charles “specs” WrightDrums

「アール・ボスティック/「フォー・ユー」レコード・ラベル

<Personnel>1952年8月15日
B面2”Smoke gets in your eyes”…“For you”
A面4”For you”…“For you”
B面5”You go to my head ”…“Dance time”

これもコルトレーンが加わっている。バリトン・サックスがピンキー・ウィリアムスがアルトに廻り、ギターのジミー・シャーリーがハロルド・グラントに替わる。
Joe MitchellTrumpet
Earl BosticAlto sax
Pinky WilliamsAlto sax
John ColtraneTenor sax
Gene ReddVibraphone
Joe KnightPiano
Harold GrantGuitar
Ike IsaacsBass
Charles “specs” WrightDrums

<Personnel>1952年12月17日
B面1”Cherokee”…“For you”

トランペットのジョー・ミッチェルがブルー・ミッチェルに、アルトのピンキーが抜け、テナーのコルトレーンがレイ・フェルダーに、ギターのハロルド・グラントがミッキー・ベイカーに、ドラムのスペックス・ライトがジョージ・ブラウンに替わる。
Richard “blue” MitchellTrumpet
Earl BosticAlto sax
Ray FelderTenor sax
Gene ReddVibraphone
Joe KnightPiano
Mickey BakerGuitar
Ike IsaacsBass
George BrownDrums

<Personnel>1953年6月4日
A面5”The very thought of you”…“For you”
B面3”Memories”…“For you”

トランペットにトミー・タレンタインが加わり、ピアノのジョー・ナイトがルイス・リヴェラに、ギターのミッキー・ベイカーがハーマン・ミッチェルに、ベースのアイク・アイザックスがマリオ・デラガルデに、ドラムのジョージ・ブラウンがアルバート・バーティーに替わる
Richard “blue” MitchellTrumpet
Tommy TurrentineTrumpet
Earl BosticAlto sax
Stanley TurrentineTenor sax
Gene ReddVibraphone
Luis RiveraPiano
Herman MitchelGuitar
Mario DelagardeBass
Albert BarteeDrums

<Personnel>1954年10月8日…B面6”Night and day”…“For you”
10月9日…B面4”Embraceable you”…“For you”

トランペットのトミー・タレンタインがエルドリッジ・モーリスに、テナーのレイ・フェルダーがベニー・ゴルソンに、ピアノのルイス・リヴェラがスタッシュ・オローリンに、ギターのハーマン・ミッチェルが再びジミー・シャーリーに、ベースのマリオ・デラガルデがジョージ・タッカーに、ドラムのアルバート・バーティーがグランヴィル・ホーガンに代わり、ヴァイブラフォンのジーン・レッドがテディ・チャールスに替わっている。
Richard “blue” MitchellTrumpet
Eldridge MorrisTrumpet
Earl BosticAlto sax
Benny GolsonTenor sax
Teddy CharlesVibraphone
Stash O’LaughlinPiano
Jimmy ShirleyGuitar
George TuckerBass
Granville T. HoganDrums

”For you”には録音日とパーソネルが記載されているが、”Dance time”には記載がない。”Dance time”に関する上記データはコルトレーンのディスコグラフィーから拾ったものである。つまりコルトレーンの参加曲以外のデータは不明である。このLPレコード2枚に収録された曲順等は全く一貫性を欠いているが元々は、SPか45回転のドーナツ盤として発売されたものを採収したもののようだ。多分ジュークボックスなどでかけられ周りではみんな踊っていたのだろう。
コルトレーンが参加した曲が7曲あるが、いずれもソロは取っておらずアンサンブルに参加しているだけなので特にコメントすることはない。何といってもアール・ボスティックのプレイを楽しむか踊るかするべく作られたアルバムなのだ。”For you”A面2曲目”Moonglow”は当時大ヒットした曲だという。
原田氏は、55年にマイルスに抜擢されなかったら、コルトレーンもホンカー路線を邁進していたかもしれないと書いており、ホンカーのバンドに入ったということはホンカーになりたかった、少なくともそういう時期はあったという見方を示しているが、藤岡氏は稼ぐための選択だったという捉え方のようだ。
僕が判明する限りのパーソネルを書き出したのには、少々訳がある。このレコードを持っていない人に、極めて多くのジャズ・マンがレコーディングに参加しているのを見てもらうためだ。コールマン・ホーキンスとの共演歴もあるギターのアル・ケイシー(第31回”Classic tenors”)、マイル・ディヴィスのコンボなどでおなじみのジミー・コブ、ジャズ・メッセジャーズのメンバーとして取り上げたベニー・ゴルソン(第42〜44回)、その他にもアイク・アイザックスやスペックス・ライト、トミーとスタンレーのタレンタイン兄弟、テディ・チャールズなどである。彼らホンカーを目指したのだろうかそれとも稼ぎのためだったのだろうか。

当時もジャズ・ミュージシャンは儲からなかったみたいだなぁ。

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第103回2015年6月14日

ミルドレッド・ベイリー 入門その4
1937年

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。


先週僕の住む辺りも梅雨入りしたようです。梅雨時はあまり散歩にも出らません。早く梅雨明けとならないかな。今年は3年ぶりに梅酒を仕込みました。今はその3年前の梅酒を飲んでいます。梅酒作りは結構お金がかかり出来上がりを買った方が安いと思いますが、何と言っても”自分で作る”という楽しみがあります。


くちなしの白い花〜

拙宅には小さな小さな庭がありますが、今はくちなしが満開で、独特の甘い香りを漂わせています。








訃報 オーネット・コールマン

オーネット

6月12日朝、新聞を見て驚いた。あのオーネット・コールマンが6月11日にニューヨークで亡くなったという。死因は心不全で享年85歳、結構長生きされました。
因みに死亡記事は各紙が掲載しているが、僕が注目したのは読売新聞のものだ。その業績として、従来のジャズの構成を外れ、即興中心に組み立てる斬新な形式「フリー・ジャズ」の先駆者と呼ばれ、1959年に発表したアルバム「ジャズ来るべきもの」は、史上最大の問題作と言われた」と業績を掲げている。さらに2001年「高松宮殿下記念世界文化賞」を受賞したと顕彰を記した後に、ジャズ評論家瀬川昌久氏のコメントを載せている。瀬川昌久氏のコメントはWeb版には載っていない。
この瀬川氏こそチャーリー・パーカーを生で聴いたということで知られる1924年生まれのジャズ評論界の生けるレジェンドですが、こうコメントしている。「フリー・ジャズの先駆けであり、斬新な演奏は当時、賛否両論を巻き起こした。伝統的な音楽を踏まえた上で、従来の約束事に縛られない自由なスタイルを展開し、ジャズ界に大きな刺激を与えた。日本の音楽界も刺激を受けている。まさに巨人だった」と。
多分オーネット・コールマンはこれからもジャズ史上に名が残る偉人であり、その訃報に接したばかりでいうのもなんだが、こういう記事はその人の業績なりを端的にまとめてくれるのでありがたい。つまりはこうことだろう、「オーネット・コールマンは従来のジャズの形式である原曲のコード進行に基づくアドリブ展開を捨て、あくまで伝統的な音楽を踏まえた上で即興的にアドリブを組み立てる斬新な形式「フリー・ジャズ」の先駆者であり、この革新的な音楽は当時のジャズ界ばかりではなく、音楽界全般にも広くそして大きな影響を与えた。」
ジャズ評論界の大御所中の大御所瀬川氏に文句を言うわけではないけれど、この「伝統的な音楽を踏まえた上で〜」という部分に非常に疑問を感じる。疑問というかこの場合瀬川氏の言う伝統は何なのか?ブルースとかブルー・ノートとかいうものか?ブルースとかブルー・ノートは伝統なのか?民族的資質なのではないか?そもそも伝統とは何なのか?などと考えてしまう。
こうグダグダ書くのははっきり言うと僕はオーネット・コールマンの音楽が理解できずそしてどちらが先かわからないが好きでもない。僕がジャズを聴きはじめたのは1968、69年のことで、オーネット・コールマンがデビューしてジャズ界を驚かせたのは1958〜59年のことだから、その衝撃度を同時代としては知らない。僕が聴きはじめた頃には、その名は大物として通っていたという印象がある。しかし彼の音楽はジャズ喫茶などでかかることは少なかったと思う。
ともかく僕は好きではないのだが、僕が読んだそれほど多くもないジャズ解説の本などで、彼をクサした評論というのを読んだことが無い。尊敬する粟村氏でさえ、好意的である。
僕は彼の良さというのが分からないが、分かろうとはしてきた。この拙HPの一つの大きなテーマとしてオーネットへの再挑戦というのは初めから決めていた。
拙HPを書き続くことにおいて改めてオーネットを一から聴き直してみようと思っていた。そんな折の突然の訃報だった。シツコイようだが僕はオーネット・コールマンは好きではない。好きでもないのに現在17タイトルほど彼のLP或いはCDを持っている。もちろん多くはないが、好きでもないミュージシャンの吹込みをこれほど買ったのは少しでも多く聴けば分かるかもしれない、好きになるかもしれないと思ったためである。
ともかく、ご冥福を祈ります。合掌。




さて今回はミルドレッド・ベイリーの入門第4回です。

第103回Mildred Bailey 1937

  「ミルドレッド・ベイリー/ハー・グレーテスト・パフォーマンシズ」3枚組レコード・ジャケット

今回はミルドレッドの1937年の録音を聴いてみよう。僕が持っているのは37年の録音は5曲である。正直に告白すると当初は37年と38年の2年間を取り上げようと考えていた。しかし今週も毎日残業続きでさらに6/12(金)に大人物オーネット・コールマンの訃報に接し、いろいろ彼のことなどを考えてしまい時間が無くなってしまった。

1937年

<Contents>

Record2 A面2曲目“Smoke dreams”1937年1月8日録音Brunswick 7015mx C 1734-2
Record2 A面3曲目“I’ve got my love to keep me warm”1937年1月8日録音Brunswick 7813mx C 1736-1

<Personnel>…Red Norvo and his orchestra

Vocalミルドレッド・ベイリーMildred Bailey
Band leader & Xylophoneレッド・ノーヴォRed Norvo
Trumpetビル・ハイランドBill Hylandスチュー・プレッチャーStew Pletcherエディー・ソーターEddie Sauter
Tromboneアル・マストレンAl Mastren
Alto sax & Clarinetハンク・ダミコHank d’Amicoフランク・シメオンFrank Simeon
Tenor saxハービー・ハイマーHerbie Haymer
Guitarデイヴ・バーバーDave BarbourPiano…ジョー・リスJoe Liss
Bassピート・ピーターソンPete PetersonDrums…モーリス・パーチルMaurice Purtill
Arrangementエディー・ソーターEddie Sauter

<Contents>

Record2 A面1曲目“Rockin' chair”1937年3月23日録音Columbia 80-Gmx C 1859-1A

<Personnel>…Mildred Bailey and her orchestra

テナー・サックスにチャーリー・ランフィア(Charlie Lanphere)が追加で加わっただけで、1月8日と同じ。

1937年(僕が持っている)最初のレコーディングは1月8日にブランズウィックに吹き込まれた2曲である。そして約2か月半後に彼女のニックネームともなった代表曲の一つ“Rockin’ chair”が吹き込まれている。バックを務めるバンドは1月がレッド・ノーヴォのオーケストラ、3月がミルドレッド・ベイリーのオーケストラとなっているが、3月の録音にテナーのチャーリー・ランフィア(Charlie Lanphere)が加わっているだけで、他は同一である。
ここで注目されるのはと言っても僕が勝手に注目するのは、トランペットと編曲担当のエディ・ソーターである。と言っても僕はソーターに詳しいわけではない。僕がソーターのことを知ったのは、村上春樹氏著『ポートレイト・イン・ジャズ』がベニー・グッドマンの“Benny Goodman presents Eddie Sauter”を取り上げるているのを読んだからである。氏曰く「若き才人エディ・ソーターがグッドマンのために書いたアレンジメントを演奏したものにはほかにはない一種独特の斬新さがある。(中略)グッドマンのスィートでスインギーな資質と、ソーターのいくぶん硬質で知的な持ち味がうまく溶け合い、質が高く、しかも娯楽性に富んだ音楽がそこに作り出されている」。そして最後にソーターについて「後年スタン・ゲッツと組んで『フォーカス』という、造形美の極致ともいうべき優れた作品を世に問うことになる。」現在の僕はまだまだ、これはエディ・ソーター、これはドン・レッドマンなどとアレンジを聴いて聞き分けるような境地に達していない。本当に勉強することが多い。因みにこの“Benny Goodman presents Eddie Sauter”は1940年の録音であり、このミルドレッドの録音はそれに先立つこと約3年、22歳の時の録音である。「デキル若い奴」がいるから使ってみないかということだったのだろう。しかしソーターが元々はトランペット奏者だったとは意外だ。そうでもないか、Tp奏者⇒アレンジャーという後輩にクインシー・ジョーンズがいるか。
ソーターのデビューははっきりとは分からないが、ノーヴォが1935年にピアノレス8重奏団を率い、36年に12人編成とした。その36年の12人編成バンドでアレンジを担当し洗練された斬新な作風が注目を集めたというが、その辺りがエディが世に出た最初であろう。しかしつくづく思う。能坊のタレント・スカウトの目の確かさ…。

1月8日吹込みの2曲は、ヴォーカルが短くノーヴォの木琴をフューチャーしたオーケストラの演奏が長い。ソーターのアレンジだと思って聴くと何となく斬新なアレンジのように聴こえる。

Record2A面の1曲目に収録された”Rockin’ chair”は、彼女のたった一つのヒット曲であり(出谷啓氏)、このヒットに因んで『ロッキン・チェア・レディ』と呼ばれることになる代表曲。彼女は生涯4度同曲をレコーディングしているという。最初が1932年ポール・ホワイトマン楽団で、3度目が1941年で、2度目のVocalion盤が伴奏メンバーの立派さで光ると出谷氏は書くが具体的に2度目の録音がいつかは記載していない。しかし論理的に考えるとこの録音が2度目に当たりそうだが、Vocalion盤ではない。Vocalionはコロンビアの系列なのかもしれないが、このコロンビア3枚組はVocalion録音はVocalionと表示しているし、Vocalionのレコーディング・リストに6月、9月の録音は記してあるが、この曲の記載はない。出谷氏の思い違いか?
この曲もホーギー・カーマイケル作。大ヒットとなった1932年ポール・ホワイトマン楽団での録音は未聴だが、この録音も素晴らしい。バックもぐっと押えた演奏で彼女のリリカルな歌を引き立たせている。

<Contents>

Record2 A面4曲目“Heaven help this heart of mine”1937年6月29日録音Vocalion 3615mx21334-1

<Personnel>…Mildred Bailey and her orchestra

Vocalミルドレッド・ベイリーMildred Bailey
Trumpetバック・クレイトンBuck Clayton
Clarinetエドモンド・ホールEdmond Hall
Tenor saxハーシャル・エヴァンズHerschel Evans
Pianoジミー・シャーマンJimmy Sherman
Guitarフレディ・グリーンFreddie Greene
Bassウォルター・ペイジWalter Page
Drumsジョー・ジョーンズJo Jones

さらに3か月後の録音であるがメンバーは一転してカウント・ベイシー所縁のメンバーとなる。クラリネットのエドモンド・ホール、ピアノのジミー・シャーマン以外はベイシーの出であるが、ベイシー一党の相当早い時期の録音であることが注目される。ベイシー楽団は詳しくは別項に譲るが、カンサス・シティ―で活躍しているところをジョン・ハモンドに見いだされる。ハモンドはレコード会社を説き伏せて契約に向かうが、デッカ・レコードのディヴ・カップに出し抜かれて契約を奪われてしまう。そしてデッカの最初の録音が行われたのは1937年1月21日のことであった。その時のメンバーは
Trumpet … Buck Clayton、Joe Keyes、George Hunt
Trombone … Dan Minor
Alto sax … Caughey Roberts
Tenor sax … Herschel Evans、Lester Young
Baritone & alto sax … Jack Washington
Piano … Count Basie
Guitar … Claude Williams
Bass … Walter Page
Drums … Jo Jones
そして次のレコーディングは37年3月26日であり、そこでギターがフレディ―・グリーンに変わっている。その次のレコーディングは37年7月7日なのでその間に行われたことになる。
歌のバッのアンサンブルはちょっと不思議な響きをしている感じがする。途中のテナー・ソロは、ベイシー楽団でレスター・ヤングと人気を分け合い39年30歳の若さで亡くなったハーシャル・エヴァンス。一説によるとミルドレッドはレスターよりもハーシャルのテナーの方を込んだという。

<Contents>

Record2 A面5曲目“Bob white”1937年9月27日録音Vocalion 3712mx LA1444-A

<Personnel>…Mildred Bailey and her orchestra

Vocalミルドレッド・ベイリーMildred Bailey
Xylophoneレッド・ノーヴォRed Norvo
Trumpetジミー・ブレイクJimmy Blakeゼケ・ザーキー(?)、Zeke Zarcheyバーニー・ゼデコフ(?)Barney Zudecoff
Tromboneアル・マストレンAl Mastren
Saxesハンク・ダミコHank d’Amicoレオナード・ゴールドスタインLeonard Goldsteinジェリー・ジェロームJerry Jeromeチャーリー・ランフィアCharlie Lanphere
Guitarアレン・ハンロンAllen Hanron
Pianoビル・ミラーBill Miller
Bassピート・ピーターソンPete Peterson
Drums…ジョージ・ウェットリングGeorge Wettling

この録音では一転して35、36年辺りのミルドレッド或いはノーヴォのオーケストラバックを務める。ミルドレッドのヴォーカルの後ソロを取るのは口笛とノーヴォのシロフォン。僕はこんなに口笛がソロを聞いたのは初めてだ。。

この時代の歌物というのは意外と内容が濃い。バックを務めるメンバー達がすごいことが多いのだ。

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第104回2015年6月21日

レスター・ヤング 入門その2
「レスター・ヤング・ファースト・レコーディング」

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

今日は朝から降ったり止んだり、正に梅雨らしい一日でした。
昨日の土曜日は曇りでしたが時折日も差しもう一つの趣味テニスを楽しむことが出来ました。一緒にプレイをしている先輩に、定年退職後テニス・クラブでパート・タイムで働いている方がいらっしゃるのですが、その方によると昨年までジュニアのテニス・スクールにはなかなか生徒が集まらなかったそうですが、今年は一挙に約10倍、300人もの児童が集まっているそうです。これも錦織選手の活躍の影響でしょう。



テニスの帰りに道端で見つけた花 名前不明

昨晩はゲリー・ウエバー・オープンの準決勝、錦織選手の試合を楽しみにテレビの前に陣取りました。しかし試合開始後約15分で錦織選手が棄権。驚きました。
今大会は好調で、再来週に迫るグランド・スラム「ウィンブルドン」に向けて期待の高まる一戦だっただけにとても残念です。何とかセッピ選手を下し、決勝で「芝の王者」ロジャー・フェデラーに挑戦してもらいたかったなぁ。
でも一番悔しい思いをしているのは、錦織選手本人です。気を落とさずじっくり体調を整えて次に臨んで欲しいと思います。








紫と白のアジサイ

何かでアジサイの花の色の違いは、その土壌の成分によって決まると聞いたことがありますが、これはどう見ても同じ土壌に植えられているようです。やはり色の違いは種類の違いなのでしょうか?

さて、梅雨のさなかの今日6月21日は「父の日」です。一昨日ラジオで聞いたのですが、お父さん10,000人にアンケート調査をしたところ、一番もらって嬉しかった子供からのプレゼントは「手紙あるいはメール」だったそうです。何か具体的なものではなかったということは、世のお父さんはいい人が多いなと思いました。いい話です。
因みに僕は子供から父の日プレゼントとして「お酒」をもらいました。やはり呑兵衛と思われているのでしょうねぇ、その通りですが…。


さて今回はモダン・ジャズの歴史はこの人から始まったと言われるレスター・ヤング入門です。

第104回Lester Young Vol.2
“Hall of fame”

  CD…TIM 220149 「レスター・ヤング/「Hall of fame」CDボックス

<Contents>

CD1
1.シュー・シャイン・スイング (Shoe shine swing)
2.イヴニン (Evenin’)
3.ブギ・ウギ― (Boogie Woogie)
4.レディ・ビー・グッド(Lady be good)

<Personnel> … Jones-Smith incorporated

CD…1936年11月9日、ディヴ・ゲリー著『レスター・ヤング』によれば36年10月9日 シカゴにて録音
カール・スミスCarl SmithTrumpet
レスター・ヤングLester YoungTenor sax
カウント・ベイシーCount BasiePiano
ウォルター・ペイジWalter PageBass
ジョー・ジョーンズJo JonesDrums
ジミー・ラッシングJimmy RushingVocal

ジャズに造詣の深い小説家筒井康隆氏に『ジャズ小説』というショート・ショート集がある。その冒頭の話はタイム・マシンに乗って1910年代のニュー・オリンズに行き伝説のバディ・ボールデンなどを聴いたりする物語だ。もしタイム・マシンが実際にあり、一生に一度だけ好きな時代の好きなアーティストの演奏するところを見、聴くことができるとしたら、僕は迷わず30年代中期のカンサス・シティに行き、レスター・ヤングのステージそしてジャムセッションを聴きたい。そんな風に思う僕は特にレスターに詳しいわけではない。というか誰も詳しいわけではないが、レスターには特別魅かれるものがあるのである。
2015年6月21日現在、僕がレスターに抱くイメージというのは、「生まれついてのボヘミアン。住居や将来の生活設計などは考えたこともない。人が良く誰かれとなく信じやすく、裏切られたこと数知れず。そのためか近寄ってくる人間にはちょっと人見知りするが、いったん打ち解ければ何でも許してしまう。しかし一端テナー・サックスを手にし演奏を始めると鬼神の如く一切の妥協を許さない。ソロに入れば浮かんでくるフレーズはいずみの如し。お人よしで生活破綻者的な音楽しか頭にない芸術家」というものである。これが当たっているか異なっているか?じっくり彼の生涯、残した録音を追体験していきたい。
粟村政昭著「モダンジャズの歴史」 さて、僕の最も信頼するジャズ評論家粟村政昭氏は、以前にも紹介したがその名著『モダン・ジャズの歴史』をこう書きだしている。
「モダン・ジャズの歴史は、レスター・ヤングとともに始まった」
大雑把にジャズの歴史、スイング〜ビ・バップ〜モダンという流れを語る場合、重要人物としてビ・バップの創始者としてチャーリー・パーカーにスポットライトが当たる。しかしそのパーカーがカンサス・シティ時代尊敬してやまず、そのコピーを繰り返したのが、レスター・ヤングであった。
そのレスター・ヤングを自分にできる限り詳しく見て行こうというのが、拙HPの、レスター・ヤング入門の目的である。 レスターついては一度第31回[Coleman Hawkins & Lester Young“Classic tenors”]で取り上げたことがあるが、実質的には第1回である。
詳しいレスターの位置づけについてはこれから少しずつ書き加えて行こうと思うが、その歴史的位置づけについて粟村氏は『ジャズ・レコード・ブック』において次のように語っている。他のミュージシャンに比して極めて異例な長文である。
「スイング時代におけるレスターの出現は、おそらく後年のオーネット・コールマンの登場にも比すべき画期的なものであったに違いない。それまでコールマン・ホーキンスに代表されていたテナー奏法−太くたくましいヴィブラート、迫力に満ちたアタックといった特徴に慣れきっていた当時のファンにとってレスターのテナーは正に異質のものであったろう。フランキー・トラムバウアーのC・メロディー・サックスとジミー・ドーシーのアルトに魅かれたというレスターの音は、小さく滑らかであり、しかもほとんどヴィブラートにかけていた。或いは正確には「あとヴィブラート」というべきかもしれないが、こうした音色上での特徴に加えて、リズムへの「乗り」がまたレスター独特のもので、ためにフレーズが予期せぬところでつながったり切れたりし、これが従来のジャズには聞かれなかった新しい「寛ぎ」を生み出した。レスターはまた一聴退屈とも思えるフレーズを吹くことを決して恐れなかった。長く伸ばした同一音の繰り返しの後には必ず躍動するようなフレーズが現われて単調さを救い、凡手が一瞬のうちに絶妙の布石に変わるというスリルを生んだ。こうしたレスター独自の発想法は、後年ソニー・ロリンズに引き継がれてモダン・ジャズの中に再び開花している。
しかしレスターのテナーは同時代のミュージシャンにとっては余りにも新奇に過ぎたと見えて、彼の出現後もホーキンスに連なるテナー・マンたちのプレイには同様の影はなく、その影響力は遠くモダン・ジャズの隆盛期を迎えるまで持ち越された。」
さらに続くが粟村氏の『ジャズ・レコード・ブック』はB6サイズのハンド・ブックである。この小冊子にしては異例のスペースをレスターのために割いている。また、粟村氏のもう一つの著作『モダン・ジャズの歴史』では、レスターの優れた処ばかりではなく、その限界についても触れている。レスター入門の第1の参考書である。それらについてはこの先ぼちぼちと書いていこうと思うが今回は、レスターのファースト・レコーディングである。

「レスター・ヤング/「Hall of fame」CDボックス5枚組裏面

僕は、一時期レスターが好きで可能な限りレコード、CDを買おうと思っていた時期があり、ある時この5枚組のCDボックスを見つけ購入した。今は無きディスク・ユニオン淵野辺店だった気がするが定かではない。その後デイヴ・ゲリー著『レスター・ヤング』という評伝を手に入れ、デイヴ氏の絶賛するファースト・レコーディングを聴いてみたいと思っていたら、なんとこのCDに収録されていた。
しかしこの「ホール・オブ・フェイム」(名声の殿堂という意味か)シリーズというのはどういうシリーズであろうか?リリースしている会社などよく分からないのである。会社はドイツのハンブルグにあるようである。最近レコード8枚を1ボックス4枚のCDにまとめて1000円弱で販売されているものなどを目にするが、この”Hall of fame”シリーズはブックレットもしっかりしており、独自の編集もしている風なのである。それも貴重な録音が含まれていることも多い。完全な輸入盤と思うのだが、ボックスの裏面には左の写真のように日本語も印字されている。まぁ、何か分かったら追記していこう。

デイヴ・ゲリー著「レスター・ヤング」

レスターのファースト・レコーディングは在籍していたカウント・ベイシーのグループで行われた。その事情はディヴ・ゲリー著『レスター・ヤング』に詳しく載っている。因みにレスターはジャズ界の正に革命児と言っていい存在であるが、その割にその研究書のようなものは圧倒的に少ない。ディヴ・ゲリー氏自身その著『レスター・ヤング』で「私の知る限り、この小著はレスター・ヤングについて最初に出版される伝記である」と述べているほどである。因みにこの『小著』は1984年に出版された。それまで全く伝記というものがなかったというのは驚きではある。
詳しくはカウント・ベイシーの項で書くことにするが、1936年5月カンサス・シティで活躍するレスターが在籍するカウント・ベイシーのバンド“Count Basie and his men”は、ジャズ界の大立者ジョン・ハモンド氏に発見される。ハモンド氏はレコード会社Brunswickを説得して契約を結びにカンサス・シティに向かうが鼻先でデイヴ・カップのDeccaレコードに専属契約をかすめ取られてしまう。そのためベイシーは1937年1月から1939年2月にVocalionレコードに移籍するまでの2年間デッカに録音を行うことになる。もちろんレスターもDeccaでのレコーディングが多い。
しかし、ジョン・ハモンドはそのままでは引き下がらず、デッカに一矢を報いる。ベイシーがデッカのあるニューヨークに行ってしまう前に、ピックアップ・メンバーによる録音をシカゴで行ったのである。ハモンドが仕組んだセッションは、バック・クレイトンのトランペット、レスター・ヤングのテナー・サックス、それにベイシー、ウォルター・ペイジのベース、ジョー・ジョーンズのドラムというメンバーだったが、土壇場になってバック・クレイトンはトランぺッターの職業的致命傷と言っていい唇を切る目に遭い仲間のカール・スミスが替わることになった。1936年10月9日(CDによれば11月9日)朝10時、ミュージシャンたちがベッドに転がり込む頃録音は行われた。ディヴ・ゲリー著『レスター・ヤング』に記載のディスコグラフィーでは、バンド名は”Jones-Smith incorporated”となっている。カウント・ベイシーの名前を使うことには、さすがに遠慮があったのだろうか?

「レスター・ヤング/「Hall of fame」CDボックス5枚組

この録音についてハモンドは、45年後レコード・プロデューサーという職を辞した後にこう言ったという。「それは私にとって唯一の完全な、全く完全なレコーディング・セッションだった」。それがこのレコーディングである。
それにしても『レスター・ヤング』の著者ディヴ・ゲリーという人物は大胆な発言をする人物である。この録音等に関し彼ほど詳細に述べている人物は見当たらないので彼の主張を先ず取り上げよう。その前にデイヴ・ゲリー(Dave Gelly)氏とは、1938年1月生まれのイギリスのジャズ評論家で、自らサックスも吹き放送にも関与している人物のようだ。 SPレコードに溝に刻まれて世界へと送り出されたこのセッションで録音された4曲のうち、「レディー・ビー・グッド」、「シュー・シャイン・スイング」(CDにこのタイトルの曲はない。「シュー・シャイン・ボーイ」という曲をタイトルを変えて録音したという)での演奏を超えるようなレコードを、レスターは残していないと。衝撃的な記載をしている。
次に「大恐慌時代にさえ、どうでもいい音楽が録音されていたのににもかかわらず、1936年のこの時点までレスター・ヤングが録音されなかったことは怒りに値する。1934年あるいは35年に一つでも録音されていれば…」。レスターに関する敬愛の念があふれている。
一体何が違うのだろう。とりわけテクニックのことを度外視すれば、先ずそこにはホット・ファイヴ時代のアームストロングに感じられるのと同じ、生命の迸りと吹き上げてくるエネルギーがある(偶然にも、アームストロングが最初にレコードを出した年齢は同じである)。それは自分の力を知っていて、それを十分にコントロールできる若者の自信と落ち着きがなせる業である。レスターの音、その音のメリハリ、リズムのコントロール、メロディの語り口、それらのいずれをとってもカンサス・シティの頃、既に完全に出来上がっていたものであった。このレコードで、我々は彼の早熟な才能を聴きとることができる。

「レスター・ヤング/「Hall of fame」CD1 1936年の4曲を収録

次にこの1936年の録音についての詳細な記述に入る。
CD-1「シュー・シャイン・スイング」(シュー・シャイン・ボーイ) まず始めに録音したのは「シュー・シャイン・スイング」であった。2テイクあるらしい。曲は「シュー・シャイン・ボーイ」でタイトルだけ変えられたという。ゲリー氏は、レスターの録音の中で、これほど端的に彼の人並み外れた誠実さを著わした演奏はないという。極めて長いがゲリー氏の分析は以下の通りである。
彼のソロはAABA各8小節のコーラスを2回繰り返す64小節であるが、その最初の8小節は、CとFで始まり、オクターヴ下のCとFで終わる。2小節目のD♭とF♯という2つの音を除けば、Fメジャーで素直に吹かれ、譜面に書き取れば、4分音符と8分音符が行儀よく並んだ8小節となる。3連符などは入る余地もない。ハミングすることもいともたやすい。この64小節のソロの間で、これは誓ってもいいが(誓うのはゲリー氏)、レスターが一瞬プレイに間を入れてウィンクしているところがある。D♭からCへにっこりと下げて間を取る3カ所だ。
このからかうようでもあり惑わすようでもある単純なやり方で、他のミュージシャンを狂喜させもしたし、カッとさせもした。カッとなった連中は、大概はサキソフォン・プレイヤーだった。彼らは、それを侮辱と受け取った。装飾的な多様さで勝負していた彼らサキソフォン・プレイヤーたちは、どう楽器を操っていくかもわからずに、ソロになれば主題に少し色を付けてやればいいと思っていたのである。
このレスターの音がサキソフォン界にもたらした興奮を理解するには、かなりの歴史的想像力が必要だ。ヘンダーソン楽団のメンバーだけがパニックに陥ったわけではなかったのだ。最初のレコードが出た時でもあった。レスターの出す音が余りにも人々が予期していたものとはあらゆる点で異なっていたので、お気に召さなかった連中は、その音を冷たいとか逆にウィットに富んでいるとか言って理解した気になっていた。彼の音は冷ややかで、のろのろしていて、時としてガス・パイプから出るような音だった。こうした評価が意味しているのは、レスターの音がコールマン・ホーキンスの音とは違っているということに他ならなかった。
ホークは、独自の個性を持ったジャズ・インストゥルメントとして、サキソフォンを発見した。それまでの7年の間、たくましくて迫力のある、まるで噛みつくような彼のフレーズは、全てのプレイヤーにとっての判断基準になっていた。グレイト・マスターという評判は、ヨーロッパへの道を彼の前に開いた。ヨーロッパのテナー奏者たちは、クラシックのチェロ奏者がパブロ・カザルスに対するのと同じ畏敬の念を持って、彼を遇した。ホークのプレイには心と耳によって伝えられた、権威というものがあった。その権威はあまねくみんなに浸透していたので、誰であれ、それに挑戦しようとする者は笑止千万と思われていた。
ホークのメソッドは、激しく前進的で、テーマの内からハーモニーという果汁の一滴一滴を絞り出してくるものであった。その代わりに代理コードや付加音や経過和音の山を作り上げた。ホークのソロが終わる時、彼がまるでこう言っているように私(ゲリー氏)には聞こえる。「こっちの方がちょっといいだろう。他に何か考えついたかい?」。彼の表現方法の凄味は、単にその幅の広い音によってだけではなく、切り裂くような音の感じによってもあらわされた。それでサキソフォン奏者たちは、ホークの音を刃(エッジ)と呼んだのだ。
対照的に、レスターの音には全くこの刃(エッジ)というものはなかった。それは切るのではなく、漂っていくのだ。あるコメンテイターは、ヴォーカル技法を引合いにだしこう言った。ホークは横隔膜で吹く、それに対してレスターは肺で吹いているように思えると。実際はそうではない。テナー・サックスを吹くにはただ胸の筋肉を使うだけでは音を作り出すことはできない。レスターの音だった、ホークと同じ空気で作られているのだ。「シュー・シャイン・スイング(シュー・シャイン・ボーイ)」を聴けば、その音楽が足元からわき立ってくるかのような印象を受ける。
ホークもレスターも、その出す音は彼らの思想と無縁ではない。後に彼のメロディーについての観念が変わった時、彼の音も変わったのだ。
次に「シュー・シャイン・スイング」にみられる、異なるサウンドを作り出す彼の楽器機能の開発について触れておこう。
フリーク・トーンなどを別にすれば、サックスは2オクターヴ半の音域をもつ。その半分ほどのところでプレイヤーは、オクターヴ・キー(レジスター・キー)を押し、いわばギアを入れ替えるのである。例えば、一番下のDはオクターヴ・キーを抑えないで出し、その上のDは、オクターヴ・キーと共に左のサイド・キーを使って出すのだが(これをオクターヴ・トーンとしよう)、その際オクターヴ・キーを押さないで、同じ指使いで吹くと少し違ったDの音が出る(これをクローズド・トーンとしよう)。この2つを巧みに使うことでレスターは、「ウン・パ」と一つの音を2つの発声で繰り返すことができた。そして、これを「後乗り的リズム感覚」に乗せることによって、マジカルな効果を生んだ。 テナー・サックスという楽器を専門的に学んだプレイヤーは、この違いを排除して均一な音を出そうと努力したが、レスターは専門的に学ばなかったおかげでこれを逆手に使うことができた。彼は低い・クローズド・トーンがホンキング・サウンドになることに注目し、それを効果的な表現手段にしたのだった。「シュー・シャイン・スイング」のソロの1コーラス目の25〜28小節はその一例で、クローズドD(ピアノでは中音階C)と穏やかなB(ピアノではA)を交互に吹くが、ストレスはいつもDにあって、それがソロ全体の緊張度を高めているのである。何度聴いても僕にはよく分からないが…。
ホークとの比較も行いながら極めて詳細に分析している。僕にはここまで聴きこむ能力はない。
と、レスター中心に聴けばそういうことになるだろうが、少しカウント・ベイシーを中心にして聴いてみよう。確かにこのグループ名は”Jones-Smith incorporated”ではあるが、その中心人物はベイシーであったことは疑えない。このレコーディングまでの経緯などを考えるとこれがベイシーにとっても初レコーディングかとも思われるが、判然としたことは言えないが、どうもそうではないらしい。
ベイシーと言えば、音数を極限まで圧縮して「間」を活かすプレイが有名だが、ここではイントロをほぼピアノ・ソロで始めるが、これは「ストライド奏法」というものではないだろうかと思う。曖昧な言い方だが僕自身ストライド奏法の定義などがまだよく分かっていない。あぁ、勉強することがたくさんだ。
CD-2イヴニン
ジミー・ラッシングのヴォーカル・フューチャー・ナンバー。ストライド風でありながら、後のベイシーを思わせるような音数を絞ったようなピアノのイントロ、ヴォーカルの少し前に出てくるテナー・ソロなどはいかにもレスターらしいゆとりを感じさせる吹奏だと思う。同じ音を連打するペイジのベース・プレイも面白いと思う。

CD-3ブギー・ウギ―
ベイシーの作。典型的なブギー・ナンバー。これもジミー・ラッシングのヴォーカル・フューチャー・ナンバー。ベイシーはこの後デッカでも吹き込んでいる。
レスターのソロなどは、ブルースでは「こんな風に吹けばいいんだよ、カッコいいだろ?」といった風の余裕綽々のプレイではないか。

CD-4レディ・ビー・グッド
ガーシュイン兄弟の作。これもベイシーはデッカにも吹き込んでいる。アップ・テンポのスインギーなナンバー。ここでもレスターの64小節に渡るスインギーなソロを堪能できる。ソロはレスター、カール・スミスのミュート・トランペット、ベイシーと続く。ベイシーのソロは余りストライド奏法らしくない。独自の境地を開きつつあったのだろうか?

これから資料を整理しながら聴くべきレコードは山ほどある。とても楽しみである。

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第105回2015年7月1日

カウント・ベイシー 入門その1
「黄金時代のカウント・ベイシー」レコード1 A面

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

また更新が遅れてしまいました。どうせ誰も見ていないとは知りつつも特別な理由がなければ更新UPと決めているので、残念というか、情けないというか…。



テニス・の帰りに道端で見つけた花 名前不明

世に「好事魔多し」と申します。良いことは特別になかったのですが、先週ちょっとした出来事が2つありました。1つは苦手なPC関係、もう1つは6月28日のテニス中に腰痛に襲われたことです。
先週のある夜自宅PCで、このサイトの元原を入力している時、誤って電源が抜けてしまいました。もちろんPCは落ちたので、変わらず立ち上がることを祈りながら電源を入れ、スイッチを押したのですが通常の起動画面が表示されず、見たこともない英語のだけの画面が出てきました。全くどうしていいかわからなかったのですが、娘の活躍もありどうにかほぼ元の通りに復帰させることが出来ました。
しかしインターネットに不具合が生じたのです。Yahooなどから検索した他サイトに全くアクセスできなくなったのです。原因はよく分からないのですが、ふと気づいたことは、ダウン以前使っていたインターネットはInternet Explore10だったと思うのですが、復帰後はInternet Explore11となっていることことです。




珍しい赤のアジサイ 珍しくない?

このIE10⇒IE11に勝手にヴァージョン・アップされたことが原因かどうかは、PCに詳しくない僕には分からないのですが、ともかくヴァージョン・ダウンしてみようと思い連日取り組んではいるのですが、できません。
昼休みなどに会社のPCから検索すると一様に「コントロール・パネル」から「IE11」を選びアンインストールするとありますが、「コントロール・パネル」に「IE11」が表示されないのです。「IE11」が隠されている感じなのです。どこに隠されているかどうにもわかりません。
で、今はどうなってるかというとまだ「IE11」のままで、何も検索できません。誰か助けてぇ!


さて今回は前回レスター・ヤングからの流れでカウント・ベイシー入門 第1回です。
史上最も重要な録音の一つだと思われる。後々人気バンドとして長らくジャズ界に君臨するカウント・ベイシー・アンド・ヒズ・オーケストラの初録音ということだけではない。毎晩のようにリノ・クラブに忍び込んでレスター・ヤングのプレイを聴き込んでいたチャーリー・パーカーがこのレコードが発売(当時はもちろんSP盤)されることで、繰り返し聴いて練習することができるようになったのである。
編曲を提供してもらったフレッチャー・ヘンダーソンのこの編曲を使って少し後にはチャーリー・クリスチャンを擁したベニー・グッドマンも「ハニーサックル・ローズ」を録音している。カンサス・シティの黒人バンドのスイングとニューヨークの白人の率いるバンドとの聴き比べを行うことでその違いも実感できるのだ。

第105回Count Basie 1937 Vol.1
“The complete collection of Count Basie orchestra on Decca”

  MCA VIM-5501〜4(M) 「黄金時代のカウント・ベイシー/「The complete collection of Count Basie」レコード4枚組

<Contents>

1.ハニーサックル・ローズ (Honeysuckle rose)
2.ぺニーズ・フロム・ヘヴン (Pennies from heaven)
3.スウィンギン・アット・ザ・ディジー・チェイン (Swingin’ at the daisy chain)
4.ローズランド・シャッフル (Roseland shuffle)
1937年1月21日 In New York

<Personnel> … Count Basie and his orchestra

Band leader & Pianoカウント・ベイシーCount BasiePiano
Trumpetバック・クレイトンBuck Claytonジョー・キーズJoe Keyesカール・スミスCarl Smith
Tromboneジョージ・ハントGeorge Huntダン・マイナーDan Minor
Alto saxコーイー・ロバーツCaughey RobertsAlto&Baritone saxジャック・ワシントンJack Washington
Tenor saxレスター・ヤングLester Youngハーシャル・エヴァンスHerschel Evans
Guitarクロード・ウィリアムスClaude Williams
Bassウォルター・ペイジWalter Page
Drumsジョー・ジョーンズJo Jones
Vocalジミー・ラッシングJimmy Rushing
「黄金時代のカウント・ベイシー/「The complete collection of Count Basie」レコード4枚組

<Contents>

5.イグザクトリー・ライク・ユー (Exactly like you)
6.ブー・フー (Boo-hoo)
7.グローリー・オブ・ラヴ (The glory of love)
8.ブギー・ウギ― (Boogie woogie)
1937年3月26日 In New York

<Personnel> … Count Basie and his orchestra

Band leader & Pianoカウント・ベイシーCount BasiePiano
Trumpetバック・クレイトンBuck Claytonエド・ルイスEd Lewisボビー・ムーアBobby Moore
Tromboneジョージ・ハントGeorge Huntダン・マイナーDan Minor
Alto saxコーギー・ロバーツCaughey RobertsAlto&Baritone saxジャック・ワシントンJack Washington
Tenor saxレスター・ヤングLester Youngハーシャル・エヴァンスHerschel Evans
Guitarフレディ・グリーンFreddie Greene
Bassウォルター・ペイジWalter Page
Drumsジョー・ジョーンズJo Jones
Vocalジミー・ラッシングJimmy Rushing

前にも書いたが昔、と言っても僕がジャズを聴きはじめた頃は、大御所のジャズ・マンにはある程度入門盤というものが決まっていたような印象がある。エリントンなら『黄金時代のデューク・エリントン』でベイシーならデッカ盤の『ベスト・オブ・ベイシー』(Decca DX-170)である。僕は第一次入門期の高校生時代、『黄金時代のデューク・エリントン』全3枚の内1枚は買っていたが、デッカ盤の『ベスト・オブ・ベイシー』2枚組は買えずにいた。単純にお金がなかったからだ。これはDecca時代の吹込みをLP2枚組にまとめたもので非常に魅力があった。僕は高校時代何度もレコード店で見かけよだれを流していたものだ。
粟村政昭氏は、「ベイシー楽団のコレクションは、先ず『ベスト・オブ・ベイシー』(Decca DX-170)に始まるべきだと僕は考える。当時としては珍しいくらいよくバランスの取れたこれらの録音に耳を傾けるならば、真のキング・オブ・スイングがベニー・グッドマンあらずしてベイシー楽団であったことを誰しも疑わぬであろう」と書いている。 しかし、その後第二次入門期に入った約10年くらい前に今回ご紹介する『黄金時代のカウント・ベイシー』4枚組を中古レコード店で見つけたのである。現在こういうボックス物は人気がないというがそれを反映して極めて安価だった。しかしこれは極めもので素晴らしい内容であった。というのはこの4枚組はDecca時代のベイシー楽団の録音を網羅したものであり、以前の『ベスト・オブ・ベイシー』は内容的にはこの4枚組からチョイスされたものだからである。結果的にカシコイ買い物をしたわけだが、そのことは4枚組を買った後解説を読んで知った次第である(ちゃんと勉強せんかい!)。

大和明氏監修著「黄金時代のカウントベイシー」解説

LPボックスの大きさ約30兒擁×16ページに渡る丁寧な解説がありがたい。解説表紙には、「この4枚組アルバムは、カウント・ベイシー楽団がニュー・ヨークに進出して、その初吹き込みを行った1937年1月から、ヴォカリオン・レーベルに移籍する直前の1939年2月までにデッカに録音した全セッション58曲を吹き込み順にまとめたものである。 (中略) 何しろデッカ時代のLPによるカウント・ベイシーの完璧なコレクションは、1973年に我が国で編集されたこのアルバムの第1回発売によって初めて可能になった。それ以前は米国盤(Decca)だけでなく、英国盤(Ace of hearts , Coral)から果てはオーストラリア盤(Swaggie)まで入手しなければ揃わなかった。」
という。それをこのセット一つで全てが揃うというのは確かに世界に誇りうる画期的なアルバムであることは間違いない。かつての日本はこのような企画を実現していたというのは誇らしい感じがするが最近このような企画が全く見られないというのはとても寂しい。
さて、ベイシーは1936年5月カンサス・シティのリノ・クラブでの実況を放送がきっかけでジャズ界の大立者ジョン・ハモンド氏に発見されるが、タッチの差でレコーディング契約をデッカ・レーベルに奪われたことは前回触れた。そのデッカとの契約は、『レスター・ヤング』の著者デイヴ・ゲリー氏の言葉を借りれば「奴隷契約」と呼ばれる過酷なものであったという。その契約内容とは「3年間で毎年24面の吹込みのノルマ、そして印税なしで750ドル」というものであったという。合わない、大和氏…契約期間2年間(1937年1月〜1939年2月)、録音数58曲、ゲリー氏…契約期間3年間(1937年1月〜1940年1月のはず)、録音数(24曲×3年)72曲のはず。まぁぼちぼち見て行こう。

デイヴ・ゲリー著「レスター・ヤング」

A面1.ハニーサックル・ローズ (Honeysuckle rose)
ファッツ・ウォーラーの代表作の一つ。以前紹介した(第10回)「ジス・イズ・アニタ」ではアニタ・オディの素晴らしい歌唱聴ける傑作である。
ウォーラーは「ハーレム・スタイルの開祖」と言われたジェームス・P・ジョンソンの弟子で、ベイシーはそのウォーラーの弟子にあたる。「ハーレム・スタイル」とはいかなるものか?ということもこれからの勉強の課題である。
大和氏の解説によれば、この演奏はフレッチャー・ヘンダーソンの編曲を基にベイシーが簡明化したものだという。このように初期のベイシーのレパートリーには全体あるいは一部を他のバンドから借用していることが多いという。
冒頭から弾力性に富んだベイシーのアドリブが圧巻で、そのタッチには作曲者でありベイシーが師と仰いだファッツの面影がちらつくと大和氏は解説しているが、ブンチャ、ブンチャという左手に対して右手などはかなりモダンな感じがする。
転調して出るレスターのソロも張り切ったプレイで、例によってラッパ音をぶっ放していると大和氏。「例のラッパ音」がよく分からない。遊び心満載のプレイとは思うが…。アンサンブルの間にペイジの短いベース・ソロもあり、聴き応えのあるナンバーだ。

A面2.ぺニーズ・フロム・ヘヴン (Pennies from heaven)
この録音と同じ36年に製作された同名タイトルの主題歌。当時大ヒットしたという。
ベイシーのピアノ・ソロに始まる。かなり荒っぽいアンサンブルだが全体にリラックスした雰囲気で、冒頭のベイシーのソロはハーレム・スタイルの流れを活かしながらも可愛らしい装飾音を加えるなど微笑ましい。特にラッシングのヴォーカル・バックに付けるピアノのバッキングが良いが、ラッシングものびのびと歌っていると大和氏。

A面3.スウィンギン・アット・ザ・ディジー・チェイン (Swingin’ at the daisy chain)
ベイシー作の、ブルージーなミディアム・バウンスの曲。バック・クレイトンがソロイストとして初めてフューチャーされた演奏で、彼の創意に満ちたサトルなミュート・プレイが素晴らしい。最初のピアノのバックに聴けるフレディ―・グリーンが参加する以前のリズムがカチッと決まっていないところに興味を引かれると大和氏。テナー・ソロはハーシャル・エヴァンス。

A面4.ローズランド・シャッフル (Roseland shuffle)
ベイシー自作のジャンピング・ナンバーで「ローズランド」とはもちろんベイシー楽団が出演したボールルームの名前である。
ここではベイシー自身のピアノとレスターのテナーが大きくフューチャーされ、2人によるエキサイティングなチェイスがスリルを感じさせる。ベイシー楽団による初レコーディングにこれだけレスターにスポットを当てたのは、ベイシーがそれだけ他に先駆けてレスターの革新的なスタイルを認めていたからであろう。もちろんレスターも期待に応え彼独特のスムースなフレージィングを生かした好演を繰り広げている。またこの演奏ではアンサンブル・パートもよくまとまっている。
A面5.イグザクトリー・ライク・ユー (Exactly like you))
この日のセッションからギターにフレディ―・グリーンが加わり、”アール・アメリカン・リズム・セクション”が形成されたことになる。大和氏は、この曲で素晴らしいのはまず、躍動感あふれるジョーのドラミング、そしてブルース歌手として知られるジミー・ラッシングではあるが、こうしたティン・パン・アレイの流行歌をスインギーに歌うのもうまいものだ。この曲でのレスターもまた素晴らしい。何気ない実にリラックスして歌い出すアドリブの妙技、こういうところが後にアレン・イーガーやワーデル・グレイに取り入れられることになる。

A面6.ブー・フー (Boo-hoo)
変わったタイトルだが当時流行ったポップ・チューンだそうだ。
ラッシングにオブリガードをつけるクレイトンがなかなか良い。全体的には受けを狙って取り上げたナンバーだけに、ベイシー楽団の魅力が十分に発揮されたナンバーとは言えないであろうと大和氏。ベイシーのピアノがとてもモダンに聞こえるのは僕だけだろうか?
A面7.グローリー・オブ・ラヴ (The glory of love)
この曲では最後にソロを取るハーシャル・エヴァンスのたくましいダーク・トーンを効かせたソロが全てをさらっていると大和氏は解説しているが、ベイシーのソロ、エド・ルイスのトランペット・ソロも聴き応えがある。

A面8.ブギー・ウギ― (Boogie woogie)
ベイシー自作曲で、前回取り上げたこの録音に先立つシカゴにおける”Jones-Smith incorporated”でも取り上げられていた。その時同様ラッシングのヴォーカルをフューチャーしている。さすがにこういう歌はお手のもので、張りのあるみごとなシャウト唱法を聴かせる。歌の後に出るベイシーの2コーラス目のソロの右手の動きにファッツ・ウォーラーの痕跡が見受けられるという。

これから資料を整理しながら聴くべきレコードは山ほどある。とても楽しみである。

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第106回2015年7月5日

カウント・ベイシー 入門その2
「ベニー・モーテン カンサス・シティ・オーケストラ 1929-31」レコードA面

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

7月4日・5日の土日は梅雨らしく雨が降ったり止んだりの鬱陶しい天気でした。鬱陶しい森の写真もどうかと思い先週と同じ6月28日に森に行った時の写真です。



テニスの帰りに道端で見つけた花 名前不明

先週ちょっとした出来事が2件重なり、更新が遅れました。その2件<PC不調>、<腰痛>とも解決していません。
先週<PC不調>のことを書いたので、今週は<腰痛>を。と言っても余り書くことはありません。
代々椎間板ヘルニアで苦しむ家系であります。先週一生懸命整形外科に通い大分良くなりました。


さて今回は前回カウント・ベイシーからの流れで「ベニー・モーテン」です。
カウント・ベイシーは1922年ニューヨークに出て、ファッツ・ウォーラーなどに手ほどきを受け、あるバンドに加入し巡業中にバンドは解散、この地カンサス・シティでブルー・デヴィルズに加入、29年にモーテンの楽団に入団した。そして初吹き込みを経験するのが、このモーテン楽団においてである。







第106回Bennie Moten K.C. Orch. 1929-31
“Bennie Moten K.C. Orch. 1929-31/Harry Dial quartet 1946” IAJRC 7

  「ベニー・モーテン/“Bennie Moten K.C. Orch. 1929-31/Harry Dial quartet 1946”」レコード

<Contents> A面…Bennie Moten’s Kansas City Orchestra

1.エヴリディ・ブルース (Everyday Blues)1929年10月23日録音録音地…シカゴmx.57305-2Vi.38144
2.ブート・イット (Boot it)1929年10月24日録音録音地…シカゴmx.57312-3Vi.38144
3.メリー・リー (Mary Lee)1929年10月24日録音録音地…シカゴmx.57313-3Vi.38114
4.スィートハート・オブ・イエスタディ(Sweetheart of yesterday)1929年10月24日録音録音地…シカゴmx.57316-2Vi.38114
5.ヒア・カムズ・マージョリー (Here comes Marjorie)1930年10月28日録音録音地…KCmx.62915-1Vi.23391
6.プロフェッサー・ホット・スタッフ (Professor hot stuff)1930年10月30日録音録音地…KCmx.62923-1Vi.23429
7.ヤー・ガット・ラヴ (Ya got love)1931年4月15日録音録音地…ニューヨークmx.53012-2Vi.22680
8.アイ・ワナ・ビー・アラウンド・マイ・ベイビー・オール・ザ・タイム (I wanna be around my baby all the time)1931年4月15日録音録音地…ニューヨークmx.68900-2Vi.22680

<Personnel probably> … Bennie Moten's Kansas City Orchestra

Band leader & arrangerベニー・モーテンBennie Moten
Trumpetエド・ルイスEd Lewisブッカー・ワシントンBooker Washington
Tromboneタモン・ヘイズThamon Hayes
V-Tb、Gt & arrangeエディー・ダーハムEddie Durham
Saxes & Clarinetハーラン・レナードHarlan Leonard ウッディ・ウォルダーWoodie Walder、ジャック・ワシントンJack Washington
Pianoカウント・ベイシーCount BasieAccordionバスター・モーテンBuster Moten
Banjoルロイ・ベリーLeroy BerryTubaヴァ―ノン・ペイジVernon Page
Drumsウィリー・マックワシントンWillie McWashington

A5〜A8は上記に追加

Trumpet”ホット・リップス”・ペイジ”Hot lips”Page
Vocalジミー・ラッシングJimmy Rushing
「ベニー・モーテン/“Bennie Moten K.C. Orch. 1929-31/Harry Dial quartet 1946”」レコード・ラベル

師粟村政昭氏は著書『ジャズ・レコード・ブック』という少ないスペースにおいて、このベニー・モーテンを取り上げ次のように書いている。
「モーテンの早すぎる死によって来たるべきスイング全盛時代の脚光を浴びることなく終わったが、モーテン楽団の残した足跡を丹念に辿っていくことは、カンサス・シティ・ジャズの研究者にとって先ず第一になさねばならぬ重要な仕事である。(中略)カウント・ベイシー往時のヒット作を聴いたぐらいでは、モダン・ジャズ最大の温床となったカンサス・シティ・ジャズのルートを探ることなど不可能に近いことをファンは銘記すべきである。」
さすがに師は厳しい。ベイシーの諸作を聴いたぐらいで、KCジャズが分かったなどとは片腹痛いということであろう。
さらに粟村氏は、
「ニューオリンズに生まれたジャズは1917年のストリーヴィルの閉鎖により、ミシシッピーをさかのぼってシカゴやカンサスへと伝播されていった。22年にカンサスで生まれたモーテンの小バンドがバンジョーを加えたディキシー風の三管編成であったこともこの間の事情を物語っている。こうしてニューヨークとほぼ時を同じくして生まれたビッグ・バンド・ジャズの萌芽が、禁酒法下の治外法権的なカンサスの歓楽街をバックに、次第に形を取って陽気で活力に満ちた独自のリフ・スタイルを取っていく辺りの面白さは次の3枚のLPの中に克明に記録されている。
1.「K.C. Orchestra」(History 9)
2.「カンサス・シティ・ジャズ」(Victor RA-5341)
3.「カンサス・シティのカウント・ベイシー」(Victor VRA-5008)
なお、独RCAから出ている「B.Moten & his Orch. Vol.1」(LPM-10023)も前記ヴィンテージ・シリーズのヴィクター盤とダブりが2曲しかない同時期の名演集である。」
しかしここで挙げられた4枚は現在では廃盤で、僕はこれまで見たことが無い(見落としているのかもしれないが)。そしてこれらのレコードも見つけ難いというのが現状ではないだろうか?
そんな中、僕は中古レコード屋さんに行く度に探してはいたのだが、これまで見つけて購入できたモーテンのレコードは1枚しかない。それが今回ご紹介するLPである。
リリース元の“IAJRC”は会社かどうか分からないが“International Association of Jazz Record Collectors”の頭文字をとったもの。カナダで活動している模様である。
因みにモーテンの楽団の演奏はA面のみで、B面にはハリー・ダイアル(Harry Dial)という人のカルテットの演奏が収められている。僕はこの名前を初めて聞いた。

ところで各曲に付されている「mx.」とは、「マトリックス(Matrix)」のことであろう。本当に知識がなくて申し訳ないが、これは各レコード会社共通に付されるものなのだろうか。1曲目「Everyday blues」(1929年10月23日録音)はmx.57305-2で、以前取り上げたミルドレッド・ベイリーの1929年10月5日録音の「What kind O' man is you ?」にはmx.W 403031-Aというマトリックスが付されていた。どうも番号のつけ方がよく分からない。
また、このマトリックスに関して、レコード・ジャケット裏の解説(Bill Love氏による)では、7曲目「ヤー・ガット・ラヴ (Ya got love)」、1931年4月15日録音のナンバーがmx.53012-2となっているが、これはおかしい、この番号なら1928年後半辺りの番号だと述べている。これは1928年後半に同名曲を一度録音しており、この1931年4月15日録音のものは再録であるが、録り直しなので以前の番号を振ったのではないか、偶にあることであると述べている。

正直この8曲を聴いて粟村氏の言う、ニューオリンズ・スタイルからカンサス・シティ・スタイルのビッグ・バンド・ジャズへの移り変わりが感じられるかと言えば、感じられない。もっと音源を揃えて聴き込まなければ分かるものではないという感じがする。
フレッチャー・ヘンダーソンの同時期の録音と比べてみたが、全体的なバンドの雰囲気は同じように感じられる。モーテンのバンドでは、アコーディオンが入っていたり、ギターのソロが多かったりと明らかにフレッチャーとは違うサウンドを作り出しているのだが、バンジョーがリズムを刻み、チューバがベースを支え、アレンジが複雑で8小節程度の色々な楽器の短いソロが入れ代わり立ち代わり現われてくるというのは基本的に同じである。

有体に告白すると、僕はこの20年代後半のビッグ・バンド・ジャズというのがどうも苦手である。何を聴いたら良いかわからないのである。ニューオリンズ・スタイルは分かる。そしてスイングが明確な形を取り出した30年代後半のジャズも聴き所が分かるのだが、どうもこの過渡期の20年代初期から30年代前半辺りのビッグ・バンド・ジャズは、ソロは短いし、アレンジは複雑だしよく分からないのである。
しかし聴き込んでいけばよく分かるように、馴染むようになるのだろうか?頑張ろうっと!

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第107回2015年7月18日

「ビリー・ホリディ」第1集&第2集
ビリー・ホリディ 入門その3
レスター・ヤング 入門その3

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

またまた更新が遅れてしまいました。ここのところ更新が遅れがちで、誰も待っていないことを知っていても、自分が情けないです。
台風11号が去って今日土曜日(7月18日)は晴れるかと思いきや、1日中強くはないけど雨が降り続くという最低の天気で、結局テニスはお預けとなりました。
7月19日の夜はテニスのウィンブルドンの男子準決勝。昨年と同じフェデラー、ジョコヴィッチというNo.1対No.2という決勝組み合わせでした。テレビで観戦しましたが、最初は接戦の様相を呈していましたが、第3セットからは完全にジョコヴィッチのペースでした。接戦をしながら相手の攻め手を読み切り、完璧に対応していくジョコヴィッチはチャンピオンの貫録十分です。錦織選手が全米オープンへの抱負を語った時、「今はビッグ4ではなく1強時代、ジョコヴィッチの強さは図抜けていると言っていましたが、まさにその通りだと思いました。






故 菊地雅章氏

訃報 菊地雅章氏

ジャズ・ピアニスト、キーボード奏者の菊地雅章(まさぶみ)氏が7月7日ニューヨークで亡くなられたことを新聞で知りました。
氏は1939年10月19日東京都生まれで、1958年にプロ・デビュー、66年に渡辺貞夫カルテット、67年に日野皓正氏と「日野・菊地クインテット」を結成し活躍しました。僕は高校生の頃仙台に来たこのクインテットを聴きにいった記憶があります。当時天才の誉れ高く、その割に「プーさん」という可愛らしいニック・ネームで呼ばれていました。「雅章」と書いて「まさぶみ」と読むのも意外でした。その時のクインテットの演奏についての記憶は全く残っていませんが、僕に聴き取る力がなかったためでしょう。

「菊地雅章withギル・エヴァンス」レコード・ジャケット

70年代からは活動の拠点を米国に移し、マイルス・ディヴィスなどと共演したことが話題になりました。
残念ながら、僕は菊地氏のレコードはほとんど持っていません。探してみたらギル・エヴァンスと共演した1972年のアルバムが出てきました。これからはもう少し日本のジャズも聴かねばならないなぁと思っていた矢先の訃報でした。勝手にまだ若いだろうと思っていたら75歳になられていたのにも驚きでした。仙台でコンサートを見てから大分経つのだなぁ。
合掌



訃報 相倉久人氏

新聞でジャズ評論家の相倉久人氏が7月8日に亡くなられたことを知りました。83歳だったそうです。「至高の日本ジャズ全史」出版に当たっての新聞記事

菊地氏の訃報を知りがっくりきた翌日今度は評論家の相倉久人氏の訃報を読み、さらにがっくりです。
右の写真は2年前「至高の日本ジャズ全史」出版に当たって2013年2月3日に朝日新聞に掲載された記事です。81歳になられて久しぶりに前面に出てこられたなぁ、これからまたあの独特のジャズ理論を展開されるのかなぁと期待していました。胃がんだったそうです。

相倉久人著「モダン・ジャズ鑑賞」荒地出版社 と言いながら僕は、相倉氏の評論をそう読んではいません。というか1冊のみです。写真右の荒地出版社から出た多分最初の評論集『モダン・ジャズ鑑賞』のみです。しかし何と言っても有名な『ジャズは死んだか』などは読まないとなぁと思っていました。
お二人のご冥福をお祈りいたします。








フランク・シナトラ&ビリー・ホリディ生誕百年

「シナトラ、ホリディ生誕百年」新聞記事 日経新聞

本年2015年はビリー・ホリディとフランク・シナトラの生誕100年だという記事が6月13日付けの日本経済新聞夕刊に載っていた。
二人にまつわるアルバム・イベントが相次いでいるそうだが、今では雑誌も定期購読しておらずそんなことは全く知らなかった。スイング・ジャーナル無き今ジャズ雑誌と言えば『ジャズ・ジャパン』誌と『ジャズ批評』誌、プレイヤー向けの『ジャズ・ライフ』誌くらいだが、今年5月に『ジャズ批評』誌では2人の生誕100年という特集を組んだようだ。残念ながら読んでいない。しかし特集記事はこれからも組まれるだろうか?
二人にまつわるアルバム・イベントが相次いでいて盛り上がっているそうですが、実際のところはどうなのでしょう?これに関する特集を組んだのは『ジャズ批評』くらいしかしりません。
ビリーに絞って見ても、日本のジャズ歌手が今年出して新譜にビリーの愛唱歌2曲を入れた、米国の歌手サンドラ・ウィルソン、ホセ・ジェイムスがビリーの愛唱歌を2曲を別アレンジで吹込んだトリビュート盤を出したということぐらいが紹介されているくらいです。今どきビリー・ホリディを聴こうという人はあまりいないのでしょうか。





第107回Billie Holiday  “Billie Holiday vol.1 & Vol.2

 

実は今年度に入り、暫くはモダン・ジャズ、その黎明期ビ・バップの創生についてある程度集中して取り組もうと思っていた。そこで先ずチャーリー・クリスチャンを取り上げたが、やはりレスター・ヤングから見て行く必要を感じた。
そこでレスター・ヤングだが、彼のファースト・レコーディングは第104回で取り上げた1936年10月(11月という記述あり)に行われた“Jones-Smith incorporated”名義による4曲であった。
さて、以前僕はビリー・ホリディについても編年的にじっくり取り上げ聴き込んでいきたいと書いた。もちろんその気持ちは全く変わっていない。しかしそうするとここで一端レスター・ヤングを中断し、ということはモダン・ジャズの歴史を中断しビリーのレコーディングに取り組まねばならない。
締め切りはない自由なHPなのでそれでもいいのだが、やはり早くビ・バップ花盛りの時代に行きたい気持ちも捨てがたい。ということで今回は2つの気持ちの折衷案ということで、1935年7月2日のビリー・ホリディの第2回レコーディングと1937年1月25日とビリー=レスター初レコーディングを取り上げることとした。この間の10セッションについても今後少しずつナルハヤで書き加えて行きたい。
ということで1935年7月からビリー・ホリディ=テディ・ウィルソンのレコーディングが始まる。そしてこれらのブランズウィック・セッションはジャズ史上大変に有名なものだが、これらはどういう経緯でスタートしたのであろうか?素晴らしいセッションがスタートしたのだから、経緯などはどうでもいいではないかとも思えるが、こういうことが気になってしまうのだ。

ビリー・ホリディ自伝「奇妙な果実」 このレコーディングについてビリー自身は『奇妙な果実』でそっけない記述をしている。先の33年の初吹き込みの反響はなかったとした後、「のちに、ジョン・ハモンドがテディ・ウィルソンのバンドに私を組ませて吹込みを行った。「月光のいたずら」、「ミス・ブラウン」を含めて6曲を吹き込み、30ドルをもらった」と。つまりこのレコーディングのことだが、6曲ではなく4曲の誤りだろう。或いは失われた2曲があるのだろうか?
『ビリー・ホリディ』の詳細な解説で大和明氏は、テディ・ウィルソンをリーダーとしたオール・スター・コンボによるブランズウィック・セッションの第1作で、同時にビリーにとっては連続的なレコーディングに取り組んだ始まりと言える」とこれも意外にあっさりしている。
しかしこれは当時としては珍しいアイディアだったのではないか?1935年と言えば未だ「スイング」全盛とは言えないまでも、ビッグ・バンドが主体で歌手というのはそのバンドに雇われているのが多かったと思う。そういった時期にオール・スターとはいえ7人程度のコンボをバックにして連作というのは一体誰のアイディアだったのだろう。まぁジョン・ハモンドではないかとは思うのだが…。
当時彼が関わっていたビリー以前の女性シンガーと言えば拙HPで取り上げているミルドレッド・ベイリーがいる。ハモンドは、ビッグ・バンドがバックを務めるものは商業的成功につながりやすいが、スモール・コンボがバックを務めた作品が好きだと自ら述べている(第99回)。
ビリーの録音はミルドレッドの録音との関係で見て行くのが実は有効かもしれない。どちらもジョン・ハモンドが手掛けた歌手である。
1933年ビリーの目の前でミルドレッド、夫君ノーヴォを平手打ち。
1933年4、6、9、10月ミルドレッド録音…ドーシー・ブラザースがバックの中心を務める(第96回)。
同年11、12月ビリー初録音。バックはベニー・グッドマン中心(第86回)。
1934年ミルドレッド 2月にベニー・グッドマンの楽団をバックに録音。しかしこの時点でもBGは自身のレギュラー・バンドは持っておらず、レコーディングに際して集められてメンバーであろう。コールマン・ホーキンスの参加が光る。
1935年7月2日ビリー本セッション。バックは7人(Tp、Ts、Cl、Gt、P、B、Dr)。
1935年9月20日ミルドレッド自己名義のバンドをバックに録音(第99回)。
メンバーは7人(Tp、Ts、Gt、Xyl、P、B、Dr)、ノーヴォ、チュー・ベリー、テディ・ウィルソンが目立つ。
どちらも7ピーシズで違いはBGのClかノーヴォのXylophoneかという違い。
この後ビリーはほぼ7±1人というコンボ・スタイルで名演を残していく。
一方ミルドレッドは12月にカルテット編成というさらにシェイプアップされた斬新なメンバー録音を行った後、36年には7ピーシズ・バックで録音を行っている。この辺りはハモンド氏の仕掛けであろう(第99回)。
先ず『奇妙な果実』によると> 初吹き込みから2年後ジョン・ハモンドはテディ・ウィルソンのバンドにビリーを組ませて6曲を吹き込みビリーは30ドルの吹込み料を手にする。ビリーは当時印税なるものの存在を知らず30ドルをもらって喜んでいた。彼女の伝票にはただ、テディ・ウィルソン・バンドの歌手と記されていた。1年ほどたってレコードが売れ始めた時、レコード会社は、ビリーの名をテディと同等に並べて売っていることが分かったので割増を要求したが無駄だったという。
バーネット・ジェイムス著「ビリー・ホリディ」 この辺りの事情は大変に興味深い。このレコーディングの経緯についての3つの記述を見て行こう。油井正一氏の「ビリー・ホリディ」10枚組Vol.2の解説とバーネット・ジェイムス著『ビリー・ホリディ』、ディヴ・ゲリー氏著『レスター・ヤング』である。
先ず油井氏。
そして1935年から始まるテディ・ウィルソン・コンボとの録音は重要であるとした上で、ハモンド氏の回想を引用する。
「1935年は不況時代の終わりであった。大不況で大きな痛手を受けたコロンビアは、何とかして安くていいレコードを作る方法はないものかとジョン・ハモンド氏に相談を持ちかけたのである。
ハモンド氏はこう提案した。
「テディ・ウィルソンをリーダーとし、フレッチャー・ヘンダーソンやベニー・グッドマンなどの有名楽団からスター・プレイヤーをピック・アップして、編曲のない(編曲家を使わない、編曲代のかからない)ジャム・セッション的なレコードを創ったらいいと思う。ユニオン・スケールに基づいて買取のギャラを払うだけで済むし…。」
こうしてウィルソンのレコーディング・コンボのシリーズが始まったのだという。取り上げる曲はいずれも出来上がったばかりの流行歌や映画、ミュージカルの主題歌。これをヘッド・アレンジ(打ち合わせだけの編曲)だけでワン・テイクしてしまうのである。
しかし後にハモンド氏はこう語っている。
「あとで考えると、ジャズ・レコードがいかに安く作れるかという秘伝をレコード会社に教えてしまった。大いに後悔している」と。

一方バーネット・ジェイムス著『ビリー・ホリディ』によれば、ビリーは、1933年の初レコーディングから2年後、再びスタジオ入りすることになった。この時もジョン・ハモンドの手配だった。そして今度は名目上テディ・ウィルソンをリーダーとする特別編成のグループであった。テディ・ウィルソンは、優雅で、繊細で、まじめな仕事をするピアニストだった。特に自己主張するタイプではなかったので、グループの方向を考えているうちに、ドラマーのジョー・ジョーンズが加入してきたので、結局ベイシー風のグループとビリーを組み合わせることになった。ウィルソンはその意味を直ぐ理解し、レコード売り上げ増加に役立つだけの十分な役割を果たした。実際の売り上げはそこそこで、違いの分かる聴衆の前にビリー・ホリディをしっかり立たせることができたが、それ以上には売れなかった。
ウィルソンとホリディのレコーディングはその後2〜3年続いたが、初めのうちはウィルソンの名で出ていたのが、後にはビリーの名で出されるようになり、伴奏にはその時手の空いているミュージシャンを使うようになった。時にはベイシ−楽団のメンバーだったり、エリントン楽団のメンバーだったりしたが、その他に、いつでもお呼びがかかるのを待っているフリーのミュージシャンたちがいた。レコードのパーソネルが録音日によって違っていることが多いのは、こうした事情からである。その日たまたま町にいるかどうかで決まったのだ。

デイヴ・ゲリー著「レスター・ヤング」 そして最後に『レスター・ヤング』の著者デイヴ・ゲリー氏は油井氏と同じハモンド氏の談を交えながらビリーとテディ・ウィルソンの一連のブランズウィック・セッションが行われた事情を記載しているが、それは先述の油井氏の記載とは異なるものである。
まず、ゲリー氏はビリーとレスターのコラボレイションは、今日に至るまで高い評価を得てきているとした上で、彼らの演奏を今日でも聴くことができるのは、レコードを取り巻く2つの要素があったからだとする。そしてもどちらも立派なものとは言えないが、一つはジューク・ボックスの時代が急速に広がったことであり、もう一つは「歌を繰り返して流す」システムが出来上がったことによるという。
そしてジョン・ハモンド氏の次の言葉を紹介している。
「1934年に、ホーマー、ケープハートが最初のジューク・ボックスを世の中に送り出した。そして1年後にはなんと20万台のジューク・ボックスが巷に出回った。猛スピードだったね。どこの黒人バーにもジューク・ボックスは置かれるようになった。それなのにかけるレコードが全然足りないことに気づいたんだ。そこで私はブランズウィックのハリー・グレイを口説いて、ブラックの聴衆に受け入れられやすいポップス音楽を作るように勧めた。アレンジも要らない、ただ才能あるソロ奏者と魅力的なシンガーがいればいい。私は誘い水のようにこうも付け加えた。レコード4面作るのに、250ドルか300ドルあればいいんだよ。6、7人のミュージシャンを雇えば済むことじゃないか。出版社だって取り締まろうとはしないさ。だって君はもうエディ・ダンキンやケイ・カイザーとか言った奴らの曲を持っているんだから。もしこっちが曲に手を加えたとしても文句は言わないよ。当時の出版社は楽譜がどう演奏されるか、隅から隅までチェックしていたんだ。もしちょっとでも外れると、そりゃ大変なトラブルの種になった」と。さらに続ける。
「成功とはとても言えないが、これはジャズ・レコードを作るには願ってもない方法だった。ジューク・ボックス・ミュージックはたちまちのうちにヒットし、気楽な気持ちで集まったバンドが、ルーズなスタイルで演奏をするようになった。こうしたもののうちにピアノのテディ・ウィルソンが率いるセッションもあった。要はミュージシャンがニューヨークに来るたびに20ドルを稼ごうとレコーディングにやって来たのであると書いている。油井氏が不明としていたミュージシャンの吹込み料は20ドルだったらしい。最もリーダーのテディ・ウィルソンは少し高かったのかもしれないが。
先ず詳しく語らないビリーについては、そういった裏事情を知らなかった可能性が高い。大和氏はどんな事情があるにせよこの一連のセッションは素晴らしいんだからいいんじゃないのということか。『ビリー・ホリディ』著者バーネット・ジェイムス氏は、ちゃんと取材をしているかどうか疑問がある。彼の主張によれば、一連のセッションは自分を起用してくれたレコード会社の思惑を考慮したテディ・ウィルソンが自分の判断で諸々を仕切っていったということになる。それに「実際の売れ行きはそこそこ」とするが、「月光のいたずら」はヒット・チャート12位にまで上るヒットとなっており、結構売れたのではないかと思われる。
大きく違うのは油井氏とゲリー氏で、面白いことに論拠の元はどちらもジョン・ハモンド氏の談だということである。油井氏によれば不況明けで体力が低下していたレコード会社のため、ゲリー氏によれば急速に普及したジューク・ボックス対応のためということになる。多分どちらもその通りなのだろう。
気になるのは、ジューク・ボックスは黒人バーにお置かれていたというくだりで、そのため黒人のビリーのレコーディングはこの形で多く行われ、ミルドレッドが黒人受けするとも思えないのでこちらはレコード会社向け対策だったのであろうか?ただ僕はビリーについてはほぼ全集のような形の録音集を持っているが、ミルドレッドについてはそれほど保有していない。こういう辺り研究を評論家の先生には期待したいのである。
ということで僕もこれ以上言及するバックボーンがないので、とりあえずビリーのセカンド・レコーディングから見て行こう。

「ビリー・ホリディ」レコード第1集

<Contents> A面3〜6 … 1935年7月2日ニューヨークにて録音

3.月に願いを (I wished on the moon)
4.月光のいたずら (What alittle moonlight can do)
5.ミス・ブラウンを貴方に (Miss Brown to you)
6.青のボンネット (A sunbonnet blue)

<Personnel> …Teddy Wilson and his orchestra

Band leader & pianoテディ・ウィルソンTeddy Wilson
Trumpetロイ・エルドリッジRoy Eldridge
Clarinetベニー・グッドマンBenny Goodman
Tenor saxベン・ウエブスターBen Webster
Guitarジョン・トゥルーハートJohn Trueheart
Bassジョン・カービーJohn Kirby
Drumsコージー・コール

CBS SONY SOPH 61-62 日本盤 モノラル

さて、この7月2日の録音に移ろう。
解説の大和氏によると、集められたミュージシャンは当時一流のバンドに在籍するスター・プレイヤーで、黒人・白人を問わない混成のオール・スター・バンドにしたものという、確かにギターのジョン・トゥルーハート以外僕でも名前を知っているビッグ・ネームばかりである。ビリーはテディとベニー以外とは共演したこともなく、準備やリハーサルもほとんど行わず、その場の簡単なヘッド・アレンジのみで演奏を始めたという。
しかしこれらのメンバーの手になると、全く新しい彼らなりの音楽に生まれ変わり、ビリーのヴォーカルによって不滅の輝きを与えられたと大和明氏は絶賛している。
さらに大和氏は、この7月2日の録音全体を通して、先ずリズム人の躍動感は実に見事で、全てが生き生きとした雰囲気に満ちている。そしてロイ・エルドリッジの鋭さ、ベン・ウエブスターの豪快さ、ベニー・グッドマンの軽妙な味と三者三様の素晴らしい出来を示していると高く評価している。
大和氏は、特にこの録音に参加した唯一の白人グッドマンも、共演の黒人ミュージシャンに触発されてか自楽団におけるよりも数段上のパフォーマンスを記録しているという。しかしなぜか、グッドマンは一人だけ先にスタジオから出て行ってしまい、A-6青のボンネット (A sunbonnet blue)には参加していない。
これらのブランズウィック・セッションは歴史の残るセッションと非常に評判の高い録音で、僕もそれなりに何度も聴いてきた。そしてこのセッション全体を通して聴いた感想というか、最初聴いて驚いたというか、今でも疑問というか、こういうものなの?と思わないでいられないことは、ヴォーカルの器楽的な扱いということである。
ヴォーカル・ナンバーというのは、当然ヴォーカルが主体であり、バックのインスツルメンツはその盛り上げ役というかどうやってヴォーカルを引き立たせるかということが肝だと思っていたのだが、ここではそういう感じではない。例えばイントロはピアノ4小節、クラリネット32小節、ヴォーカル32小節、トランペット16小節というような機械的に決められたような雰囲気を感じた。
そしてセッション全体通してもう一つ感じることは、ビリーの歌声である。とても20歳のうら若き女性の声とは思えない。酢いも甘いも噛みしめた成熟した、辛酸をなめつくした苦労人の絞り出す声に聞こえる。これは僕だけだろうか?
また、このセッション全体の解説は大和氏、各曲の解説はジャズ評論家で大のビリー・ファンを自称する大橋巨泉氏が担当しているが、二人とも取り上げた曲のダメダメさを強調する。しかしそこまで聴き取れる素人ジャズ・ファンはどれくらいいるのか?そもそもどの曲も原曲を知らないのである。「んー、この曲はつまらないメロディーだが、この演奏によって素晴らしいものになった」と思って聴くことができるのはさすがに玄人だと思う。
次に選ばれた曲である。選ばれたのは当時出来たばかりの映画主題歌やティン・パン・アレイのポップ・ソングであり、メンバーは見たことも聴いたこともないそれら手書きの楽譜を渡されたのであったが、そこにはメロディと簡単なハーモニー、歌詞が載っているだけだったという。これらの多くはスタンダード・ナンバーとして永遠に愛唱されるような代物ではなかったという。しかしこれらのメンバーの手になると、全く新しい彼らなりの音楽に生まれ変わり、ビリーのヴォーカルによって不滅の輝きを与えられたと大和明氏は絶賛している。

「ビリー・ホリディ Vol.1」レコード1A面ラベル

A- 3. 月に願いを (I wished on the moon)
初吹き込みから2年。ヴィブラートが荒いがグッと落ち着きを見せている。表現力が増しているのが分かる。グッドマンも若く未完成だがトーンに色気があり、ビリーのバックもいい。ラスト16小節をリードするエルドリッジのTpは抜群であると巨泉氏。第1コーラスをClとPが8小節ずつ2度に渡ってソロを分割するなど当時としては新鮮そのものと大和氏。A-4. 月光のいたずら (What a little moonlight can do)
7月2日のセッションで最も多く言及されている曲である。
最初に西ドイツのジャズ評論家ヨアヒム・ベーレント氏。
ビリーの数え切れぬ名唱の一つ。原曲は安っぽく、取るに足らない流行歌だったが、テディ・ウィルソン・コンボで歌ったこのレコードは素晴らしい芸術となっている。
ジョン・ハモンド氏の見解か油井正一氏の見解か判然としない書き方で、「『月光のいたずら』は、出来たばかりの流行歌で、作者も出版社もDog tune(駄作)であることを認めていたという大変な代物だ。事実テディ・ウィルソンのコンボを除いてこの曲を吹き込んだ楽団が当時あったとは記憶していない。しかしこれが偉大な傑作となったのは、参加ミュージシャンの名プレイと共に、ビリー・ホリディの素晴らしいワン・コーラスのためである。」
大和明氏。
この曲におけるベニー・グッドマンのプレイは彼の最良のプレイの一つであろう。 またここでのビリーの歌唱はこれ以外にありえないと考えられるほど、駄曲を自家薬籠中の物とし、スインギーで新しい魅力を齎している。
大橋巨泉氏
テディの軽快なイントロに乗って吹きだすBGのClが素晴らしい。前半をサブ・トーンで、後半を高音でアタックしグイグイとスイングしていく、大和氏と同感でBG最良のソロの一つ。
ここでのビリーはいわゆるビリー的乗り方の典型で、未だに誰も超えられない素晴らしいジャズ・ヴォーカルの世界を創出している。これに引っ張られたかウエブスターがまたいい。この原曲の譜(全くお粗末な流行歌)を見て聴くと以下に歴史に残る名演であるかが分かる。
僕も「原曲の譜」を見てみたいとは思う。日独の名立たる評論家の先生が言うのだから間違いないのだろう。しかしのこの曲の作詞作曲者はハリー・ウッズ(Harry Woods)で、「サイド・バイ・サイド(Side by side)」、「トライ・ア・リトル・テンダーネス(Try a little tenderness)」というスタンダード・ナンバーを世に送り出している作家である。もちろん実績ある作家でも駄作はあるだろうが、この曲をそれほど目を覆いたくなるような駄作なのだろうか?僕にはそれほどには聴こえないが、そもそも「駄作」とはどのようなものを言うのであろう?因みにこの曲は1935年4週間に渡ってビルボード誌のヒットチャートで12位を獲得するヒットとなった。
いままでそういう目で見たことが無かったが、ビリーの歌は結構ビルボード誌のヒットチャートに載っているのである。 ちょっと調べても2年前の全く注目を浴びなかったとされる”Riffin' the scotch”も1934年5週間トップ6に位置していた。全く注目されなかったわけではないと思うのだが。

5. ミス・ブラウンを貴方に (Miss Brown to you)
大和氏は意表をついた鮮やかで印象的なイントロは斬新とし、巨泉氏はイントロは高音で、メロディーはサブ・トーンでというBGのソロは、前曲に引き続き好調と書く。ビリーのリズム感とフレーズは、他の誰とも違うと言われた独特のもの。しかしバックのウエブスターは、後のレスターの様には溶け合っていないと書いているが、音も小さいし特に気にならない。続くテディ、エルドリッジともにいいが、コージーのドラミングも素晴らしと巨泉氏。

7. 青のボンネット (A sunbonnet blue)
ウエブスターがよく歌うソロを聴かせる。これはいわゆる30年代に濫造された流行歌の一つで、ビリーは歯切れよく歌っているが、平凡な出来、しかしエルドリッジの迫力あるピック・アップは貫禄充分と巨泉氏。

さて、1937年1月25日の録音に移ろう。
レスターはベイシー楽団の一員としてニューヨークに登り、主にベイシー楽団でプレイする。そのベイシー楽団での最初の録音が第105回で取り上げた1937年1月21日ニューヨークで行われたセッションであった。そして次の録音というのが4日後の1月25日に行われた今回取り上げるテディ・ウィルソンを中心とした一連のビリー・ホリディのブランズウィック・セッションである。『スイング時代の華』、『ジャズ史上最高のデュオ』と呼ばれるビリー=レスターのコラボレイションはここに始まった。
レスターにとっては第3回目のレコーディングであるが、ビリーにとってはどうであったのだろう。ビリーは第86回で取り上げたように1933年11月27日と12月18日にベニー・グッドマンを中心としたコンボと初レコーディングをコロンビアに行ったが、その反響は芳しくなかったというが、”Riffin' the scotch”は1934年5週間トップ6に入っていたことは既に述べた。
そして次のレコーディング・セッションは、ビリーのディスコグラフィーでは1935年3月12日、もう一方の主役デューク・エリントンのディスコグラフィーでは1934年10月初旬となっているパラマウント映画への吹込みがあるが、残念ながら保有していない。
保有しているもので次のレコーディングは、2年後テディ・ウィルソン(P)を中心にしたコンボをバックの1935年7月2日でこれは上部に取り上げた。そしてその後は順調でレスターと共演する1936年10月まで全10回38曲19面分の録音を行っている。

「ビリー・ホリディ」レコード第2集

<Contents> Vol2.1枚目B面 … 1937年1月25日 

1.リズムのない男 (He ain’t got rhythm)
2.今年のキッス (This year’s kisses)
3.何故生まれてきたの (Why was I born ?)
4.あの人でなけりゃ (I must have that man ?)

<Personnel> …Teddy Wilson and his orchestra

Band leader & pianoテディ・ウィルソンTeddy Wilson
Trumpetバック・クレイトンBuck Clayton
Clarinetベニー・グッドマンBenny Goodman
Tenor saxレスター・ヤングLester Young
Guitarフレディ―・グリーンFreddie Greene
Bassウォルター・ペイジWalter Page
Drumsジョー・ジョーンズJo Jones

CBS SONY SOPH 63-64 日本盤 モノラル

1937年1月25日のビリー=レスターの初レコーディングを収録した『ビリー・ホリディ』10枚組Vol.2大和明氏の解説によると、「この日のセッションはビリー・ホリディの音楽的成長にとって一つの飛躍となる記念すべき重要なレコーディングとなったという。というのは音楽的に彼女に大きな影響を与えたレスター・ヤングとの初共演であり、これを機にビリーの唱法はレスターのプレイと共通するリリシズムと寛いだスムースな味が強調されるようになり、またメロディーに囚われない彼女の器楽的唱法は歌詞との不即不離の関連の上に完成の域に近づいていくとしている。
そして大和氏は、ベイシー楽団の一員としてニューヨーク入りしたレスターとは、その直後にアフター・アワー・セッションで知り合ったとしているが、デイヴ・ゲリー氏はその著『レスター・ヤング』においてこのレコーディングで二人は初めて会ったとしている。二人の最初の出会いはいつか?ビリーの自伝『奇妙な果実』では月日を明らかにしていない。その後二人は同棲生活に入るが、それはまた後の話である。
またこの日のセッションはビリーにとってもう一人の親近感を抱ける人物との初共演ともなった。ベイシー楽団のトランペット奏者バック・クレイトンである。彼はビリーにとって、ルイ・アームストロングの間隔をさらに都会風に洗練され、一層彼女の好みに近づいた音楽スタイルを持ったプレイヤーとして彼女の心をとらえたという。
一方この1937年1月25日が初対面とするゲリー氏は、先ずブランズウィック・セッションが始まったいきさつを語り、 ベイシー楽団のメンバー、レスター、バック・クレイトン、ジョー・ジョーンズ、フレディ―・グリーン、ウォルター・ペイジの5人は最初のスタジオ録音の4日後の1937年1月25日ABCスタジオにやって来た。ハモンド氏が声をかけたのかどうかははっきり記載していないが、4面分録音して20ドル稼ごうと思ってきたのだろう。ヘッド・アレンジによる演奏、ソロならお手のものなのだ。そうしたらそこにはベニー・グッドマンとテディ・ウィルソン、そして21歳の歌手ビリー・ホリディがいたというわけである」と。因みにベニー・グッドマンは、ここではジョン・ジャクソン(John Jackson)というどこにでもあるような変名を使っている。

「ビリー・ホリディ Vol.2」レコード1B面ラベル では曲に行こう。

1. リズムのない男 (He ain’t got rhythm)
ビリーのヴォーカルの終わるか終らないうちに間髪を入れずに出てくるレスターのスタートの良さ、そして当時としては非常にモダンな彼のソロが見事だとは大和氏。巨泉氏は、この曲はあまり意味のないナンセンス・ソングであるし、クラリネットとピアノによる第一コーラスは、さらっとしたテーマ演奏で、ビリーもそのまま素直に歌っている。そして出てくるレスターのソロは、ビリーがしびれたのも分かる素敵なソロであるとしている。

2. 今年のキッス (This year’s kisses)
大和氏は、レスターのリリシズムの独壇場であるとし、ビリーもそのムードを引き継いで、しっとりとした味を出している。そして最後の絡みも素晴らしい仕上がりだとしている。
巨泉氏はテディのイントロを受けてテーマを吹くレスターは、これまで誰も聴いたことのない素晴らしいフェイク(メロディーを崩しながら吹くこと)の世界を見せる。ただ僕は原メロディーが分からないので(多くの人は知らないだろうが)崩しが分からない。巨泉氏は1935年1月のセッションでもそうだが、原譜を取り寄せて聴いているのだろう。
ビリーはこのレスターをしっかりと受け、努めて抑えた表現をとる。そしてだんだん燃えてくるような歌い方が印象的。続くテディのソロは良いが、クレイトンはちょっと持ったいぶってしまったようだと書いている。

3. 何故生まれてきたの (Why was I born ?)
大和氏は、ビリーの思い切ったフレイジングの創り換えによるこの曲のムード作り、そしてクレイトン、ウィルソン、グッドマンの暖かいソロと言い全く素晴らしい雰囲気を齎している。
巨泉氏は、テーマを吹くクレイトンは全曲とは違い非常にレガートに表現していてちょっと甘いが佳い。そしてビリーの表現力の豊かさ、大変リリカルに歌い上げている。ウィルソン、グッドマンのソロもスィートで好ましいとしている。
思い切った<崩し>が素晴らしいと言われても原曲を知らないのでどこをどう崩しているのかわからない。これって情けないのだろうか?

4. あの人でなけりゃ (I must have that man ?)
大和氏はビリーがじっくり取り組んだ詠唱を聴かせる。そしてヴォーカルの後に出るレスターがしみじみとした温かさを伝え、ベニーの短いソロもムードを盛り上げる、またラストのまとめも良い。
巨泉氏、ピアノのイントロからビリーが歌い出す。前曲とは打って変わり、男を離すまいとする執念を込めて、グッとダート・トーンで迫る彼女の歌は、他の追随を許さない説得力を持つ。全く逆の意味で非常にしなやかで、リラックスしたレスターのソロも名演。この後のグッドマンもよく歌っているがこの二人の後では損をしている。

何十年か前、テディ・ウィルソンが初めて日本に来た時、CBSソニーの傑作「ザ・テディ・ウィルソン」(2枚組)が出来上がり、ウィルソンに手渡したが、ウィルソンは全く嬉しそうな顔をしていなかったという。それはいくら再発売されようが、それによってウィルソンの懐が潤うようなことはなかったからである。つまりミュージシャンにとってはこのレコードが売れようが売れまいが関係なかった、しかしミュージシャンは素晴らしい演奏をした。何故だろう?多分それがミュージシャン魂ということなのであろう。

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第108回2015年7月20日

「ビリー・ホリディ」入門その4
「ライヴ・アンド・プライヴェイト・レコーディングス・イン・クロノロジカル・オーダー」

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

僕の住んでいる辺りは幸い台風11号の影響も少なく、18日は一日中雨がパラつきましたが、19、20日は晴れ間が多い日となりました。
今さら言い訳でもないですが、先週更新が遅れたのは、仕事上残業が多く、帰りが遅かったことが大きな原因です。僕は首都圏の衛星都市と言われるところに住んでいますが、通勤時間がかなりかかります。片道2時間です。地方に住んでいる知り合いに話すとビックリされます。出身地仙台の友人に訊くと1時間でも長いと言います。
片道2時間なので、僕の勤めている会社9時出社なので朝7時前には家を出ます。そのためには朝6時前に起き朝食、洗面その他準備が必要です。
そして例えば1時間残業して19時に退社すると帰宅は21時です。2時間残業では22時です。当然帰宅後夕食をとれば、優に23時を超えます。
もし通勤時間が1時間であれば、20時まで残業しても帰宅は21時です。1時間飲みながら食事してもレコード1枚は聴けます。しかし通勤2時間だとそうはいきません。疲れますし…。






今年も一輪咲きました 月下美人

では、首都圏の都市より地方が良いか?これは難しい問題です。
地方の都市はレコードを聴くことができる時間は多いかもしれませんが、僕の知っている限り余りレコード屋さんは多くありません。ネットで買えるではないかと言われるかもしれませんが、やはり会社帰りにぶらっと帰宅途中のレコード屋によりちょっと、エサ箱をつついてみる。すると思わぬ興味深いレコードが売れずに残っている。しめしめと思いながら買って帰るという楽しみは首都圏の都市に特有の楽しみだと思います。どうしてもこの楽しみばかりは譲れません。



「また、ビリー・ホリディかい!?どんだけ好きなんだ!?」と言われそうだが、実は余り好きではないというか正確に言えば「良さが分からない」のだということを以前書きました(第85回)。そしてその状態は今でも変わっていません。その割に取り上げることが多いのは、少しでも聴き込んでいけば好きになるかもしれない、こんな僕でも少しは良さが分かるかもしれないという気持ちからです。ことにレスターとのコラボには興味が募ります。

「ビリー・ホリディ/ライヴ・アンド・プライヴェイト・レコーディングス・イン・クロノロジカル・オーダー」

繰り返しで申し訳ないが前回(107回)で、「ビリーは第86回で取り上げたように1933年11月27日と12月18日にベニー・グッドマンを中心としたコンボと初レコーディングをコロンビアに行ったが、その反響は芳しくなかったというが、”Riffin' the scotch”は1934年5週間トップ6に入っていたこと。そして次のレコーディング・セッションは、ビリーのディスコグラフィーでは1935年3月12日、もう一方の主役デューク・エリントンのディスコグラフィーでは1934年10月初旬となっているパラマウント映画への吹込みがあるが、残念ながら保有していない」と書きました。
しかしふと気づいて自分の所有するレコードをもう一度眺めていたら、実は保有していたのです。そこで順序は少しばかり前後しますが、今回そのレコーディングを取り上げておこうと思います。

第108回Billie Holiday  “Live and private recordings in Chronological order”

この辺りことで僕の知っていることを出来る限り詳しく書くと次のようになる。
CBS「ビリー・ホリディ」10枚組の解説で油井氏などは1933年の次のレコーディングの次は1935年のテディ・ウィルソンを中心としたコンボとのブランウィック・セッションまで、レコーディングは約2年間のブランクがあると書いてある。しかしふと『奇妙な果実』を眺めていたら、第5章に「やがて、私はラジオと映画に出るようになった。(中略)私はポール・ロブソン映画のその他大勢に出してもらい、続いてデューク・エリントンをフューチャーした短編に役を得た。私は感動的なブルースを歌う機会を得た。」とある。何年のことかは書かれていない。
「へぇー、ビリーとエリントンの録音というのがあったんだ!」と思い、できる範囲で調べてみようと思い立った。

「シンフォニー・イン・ブラック」映画タイトル

そしてデューク・エリントンのディスコグラフィーを見てみると1934年10月初旬に「シンフォニー・イン・ブラック」“Symphony in black”映画音楽として「パラマウント映画レコーディング・セッション」があり、そこにしっかりBillie Holidayの名が出ている。録音は4曲で、
The labors
A triangle
A hymn of sorrow
Harlem rhythmとなっている。
この4曲の中にビリーの言う「感動的なブルース」があるということになる。

そこで順序は逆かもしれないがビリーのディスコグラフィーを見ると、確かにデュークと共演しているが、レコーデイングの期日は1935年3月12日で、録音は以下の3曲となっている。
Original audio movie
Saddest tale
Original audio movie

両者の記載が異なる。しかしどちらもパラマウント映画「シンフォニー・イン・ブラック」“Symphony in black”の映画音楽ということになっている。
しかもデュークのディスコグラフィーには、1935年3月12日のレコーディングの記載はなく、ビリーのディスコグラフィーには、1934年10月初旬のレコーディングの記載はない。
またデューク側の資料『デューク・エリントン』(柴田浩一著 愛育社)には、1935年「この年パラマウントの短編“Symphony in black”にバンドで出演。」とのみ記載があり、ビリーのビの字も出てこない。
これはどう云うことなのだろうか?僕が想定しうるどちらも<正>というストーリーは、1934年10月初旬にデューク側のレコーディングを行い、そのテープに1935年3月12日ビリーが歌をオーヴァー・ダビングしたということだが、その当時はそのような録音手法は取られていたのだろうか?

ということで今回ご紹介するレコードだが、リリース元の会社名がどうにもわからないのだが、Made in Italyとありところどころイタリア語で書いてあるので、イタリアのレコード会社であろう。本篇22枚+レア・スタジオ・カット1枚合計23枚で、レコード番号はVol.1が“LDB01”、Vol.22が“LDB22”となっており、レア・スタジオ・カットが“LDB23”という番号が振られている。通常この“LDB”が会社名のイニシャルから取ったものであるがどこにも会社名を想定できる記載がない。ボックスの裏には500セット中【210】番というシリアル・ナンバーが付いている。
ポール・ホワイトマン楽団をバックに歌い大ヒットとなった「トラヴィリン・ライト」なども収録されている優れものだが、どういう経緯で流れてきたものかはわからないが、ディスク・ユニオンで安価で売られていたのを購入した。本当に現在は分厚いセット物は敬遠されているようだ。

「ライヴ・アンド・プライヴェイト・レコーディングス・イン・クロノロジカル・オーダー」ボックス

<Contents> Vol.1A面1 … 1935年3月12日 ニューヨーク パラマウント映画スタジオにて録音

1.ビッグ・シティ・ブルース(Big city blues)(サディスト・テイル“Saddest tale”)

<Personnel> … Duke Ellington and his orchestra

Band leader & pianoDuke Ellington
TrumpetArthur WhetsolFreddy JenkinsCootie Williams
TromboneJoe “Tricky” NantonLawrence BrownJuan Tizol
Saxes & ClarinetMarshall RoyalBarney Bigard> Johnny HodgesHarry Carney
BanjoFred Guy
BassWellman Braud
DrumsSonny Greer

以上がレコード解説に記載されたパーソネルであるが、デューク・エリントンのディスコグラフィーによれば、Marshall Royalは参加しておらず、クラリネット、アルト&バリトン・サックスとしてOtto Hardwickeが記載されている。
デュークのディスコグラフィーでは、Marshall Royalは1934年3月26日までの吹込みにはその名が見えるが、1934年4月17日の吹込み以降はその名が見えず、Otto Hardwickeに替わっている。Otto Hardwickeはデュークの楽団の創立期からのメンバーであり、1934年2月26日まではOtto Hardwickeが録音に参加しているため、1934年3月15日〜3月26日まで、Ottoが何らかの事情で録音にできずMarshall Royalが代打的に起用されたのであろう。

歩道に倒れ込むビリー 映画で平手打ちを食うビリー

なお僕の参照しているビリーのディスコグラフィーにデュークのバンドのパーソネルは記載されていない。

因みに、『奇妙な果実』でビリーはこの映画について次のように回想している。
「(ポール・ロブソンのその他大勢の後)デューク・エリントンをフューチャーした短編に役を得た。ミュージカルに一寸物語が付いたもので、私は感動的なブルースを歌う機会を得た。しかし役柄は、商売女という一寸苦しいものだった。相手は、あるコメディアンで、彼には悪いが、名を覚えていない。
彼は私のヒモになり、私を殴り倒すことになっていた。
最初の撮影日に、20回も殴り倒された。私はその度、舗道のように塗ってある堅い床の上にひっくり返った。骨の上の肉以外に身を守るものはなかった。
2日目の朝、私がスタジオに現れた時には、もうたおれる気が起こらないほど気が苛立っていた。およそ50回もぶっ倒れたろうか?監督はその度に「カット!」と叫んだ。
私はこの映画をスタジオで1回だけ見た。1回だけで沢山だった。もちろんママは私が大スターになった気で、映画に期待しろと吹聴して歩いた。
一体どこで上映されたか知らないが、つまらない作品で、ミッキー・マウスのフィルムが間に合わない時の埋め合わせにしか過ぎなかった。どこで上映されているか知るためには、私立探偵を雇う必要のある作品だった」と。

ビリーのディスコグラフィー記載の3曲について、僕の推測は,鉢はヴォーカル無しの映画のBGMのようなものではないかと思う。しかし、デュークのディスコグラフィーの記載の4曲はどうもわからない。このうち何曲かはヴォーカル無しの映画のBGMのようなものと思われるのだが、ビリーのディスコグラフィーとどう符合するのだろう。
ところで今回のレコードには”Big city blues ”(Saddest tale)1曲のみの収録だが、ビリーのヴォーカルが入っているものだけを選んだのだろう。
”Big city blues ”(Saddest tale)は、クラリネットの独奏で始まり、短いアンサンブルの後ビリーの歌に入るがちょっと拍数が取りにくい。多分4か5小節、その後ナントンのワウワウ・トロンボーン、そしてビリーのヴォーカルが1コーラス12小節、短いアンサンブルがあり、多分ホッジスと思われるアルトのリードで曲が終わる。
ビリーのヴォーカルは相当崩しているので拍が把握しづらいがそこがうまさなのだろう、実に自然に聞こえる。実に抑えた表現で素晴らしい。確かに「感動的なブルース」と思う。短いが僕が今のところ最も気に入ったビリーのヴォーカルである。

これは記憶だけで違っていたら申し訳ないが、メロディーを崩して歌うあるいは吹奏することは、ビリーがレスター・ヤングから学んだ風に言われることが多いが、実はレスターがビリーから学んだという面が強いということ確か油井正一氏が書かれていたように思う。そしてこういう崩して自分のリズムが乱れないのはルイ・アームストロングとビリーだけだともいう。
もっと、もっと聴き込んで勉強しなければ。

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第109回2015年7月26日

ベニー・グッドマン Benny Goodman 入門その3 1926-29年
CDベニー・グッドマン秘蔵名演集

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。


ここのところ記録的な猛暑が続いています。暑くてたまりません。今日(7/26)、僕の住む辺りでは、光化学スモッグ注意報が出され、屋外で激しい運動は控えるよう、防災行政無線で呼びかけていました。
そんな中の午後4時間ほどテニスをしてきました。水分を多く摂り、プレイしていない時は木陰で休み、時折水を頭からかぶって冷やすという熱中症対策を取りながらです。
僕より年配の方もプレイしているのですが、皆さんお元気です。僕は週1回しかできませんが、他の方は週2回のペースで続けています。寒い時から猛暑の時までコンスタントに続けているので、体が慣れているのだろうと思います。もちろん過信は禁物ですが、酷暑対策は個人ベースで言えばやはり「慣れ」なのではないでしょうか。






クスノキ びっしりと緑

高校野球の地区予選、各地で熱戦が繰り広げられています。選手たちは毎日この猛暑期に至るまで少しずつ体を慣らしながら練習に励んできたのでしょう。しかし応援席の一般の学生さんたちはそういう訓練を受けていないと思われます。くれぐれも熱中症などにならないよう気を付けてもらいたいです。



「ベニー・グッドマン秘蔵名演集」CDジャケット

師粟村政昭氏は、「モダン・ジャズの歴史はレスター・ヤングに始まった」、と書いている。そのレスター・ヤングはカンサス・シティ―のカウント・ベイシーの楽団で名を挙げた。
そしてビ・バップの勃興はレスター⇒チャーリー・クリスチャン⇒チャーリー・パーカーという経緯をたどる。そのクリスチャンはベニー・グッドマン楽団で名を挙げたのである。
何となく新興勢力「ビ・バップ」×体制派「スイング」という図式を考えがちで、「スイング」派の巨頭こそベニー・グッドマン(以下BG)と思いがちである(僕だけ?)
しかし、BGは最近取り上げているビリー・ホリディのレコード等で分かるように、最初から年寄り臭かったわけではなく、夜な夜なクラブに通いジャム・セッションに参加して武者修行する若者だったのである。
そんなBGについてもしっかりと聴き込んでいきたいと思う。と言っても編年的に取り上げて行ったらいつチャーリー・クリスチャンが加入する時代に行きつけるかわからない。
まぁいずれにしろ<のたり、のたり>としか進めないが、ともかくBGの初レコーディングから取り上げよう。

BGは貧しいロシア系ユダヤ移民の縫製職人の家に、12人兄弟の9番目の子どもとしてシカゴに生まれている。家庭が貧しいため、教育は「ハル・ハウス」という福祉施設で受けた。無料で音楽が学べる地元の音楽教室で、10歳の頃からシカゴ音楽大学の元教師・フランツ・シェップの下でクラリネットを習得し、11歳(一説では12歳)のときにテッド・ルイスのイミティション・バンドでプロ・デビューする。16歳の時当時一流のダンス・バンドだったベン・ポラックにその才能を見出され26〜28年の間彼のバンドで仕事をした。その間初レコーディングと最初のニューヨーク行を経験している。
ポラックは同じシカゴ生まれという同郷の好か或いは純粋に才能に惚れたのかは分からないが、BGのクラリネット・ソロをかなり多くフューチャーしているという。



第109回“Benny Goodman The RCA years”付録
“Special performances”

ベン・ポラック・バンド 1928年 右から4番目で横になっているのがBG

ということで取り上げるのは、BMGビクターから発売された「コンプリート・ベニー・グッドマン」CD10枚組に特典としてついている「ベニー・グッドマン秘蔵名演集」CD1枚である。本編扱いの10枚組はBGが自己のバンドを持った1935年〜39年までのビクターへの録音をほぼ網羅したもので、付属のCDは1926年のベン・ポラック楽団における初吹き込みから30年までの録音を収録しているが、最大のライバル社コロンビア系への録音はさすがに収録されていない。しかし『スターダスト』、『ジョージア・オン・マイ・マインド』などの作者として名高いホーギー・カーマイケルが、伝説のコルネット奏者ビックス・バイダーベックなどの若き逸材を集めて録音した貴重な音源も収録されており誠に貴重な「付録」となっている。解説は故野口久光氏。ということで今回はかの“スイング王”ベニー・グッドマンの初レコーディングと初レコーディングを行ったベン・ポラックでのレコーディングを取り上げよう。
さて、内容に移ろう。

<Contents>…ベニー・グッドマン秘蔵名演集CD

1.ヒーズ・ザ・ラスト・ワード(He’s the last word)1926年12月17日シカゴにて録音>
2.ウェイティン・フォー・ケイティー(Waitin’ for Katie)1927年12月7日シカゴにて録音
3.メンフィス・ブルース(Memphis blues)1927年12月7日
4.シンガポール・ソロゥズ (Singapore sorrows)1928年4月6日ニューヨークにて録音
5.バイ・バイ・フォー・ベイビー(Buy buy for baby)1928年10月15日ニューヨークにて録音
6.ワン・ワン・ブルース (Wang-wang blues)1929年1月22日ニューヨークにて録音
7.イエロゥ・ドッグ・ブルース (Yellow dog blues)1929年1月22日ニューヨークにて録音
8.シャツ・テイル・ストンプ (Shirt tail stomp)1929年1月22日ニューヨークにて録音
9.バッシュフル・ベイビー(Bashful baby)1929年7月25日ニューヨークにて録音

CD-1.ヒーズ・ザ・ラスト・ワード (He’s the last word)

<Personnel> … Ben Pollack and his Californians

Drums & Band leaderベン・ポラックBen Pollack
Cornetハリー・グリーンバーグHarry Greenbergアル・ハリスAl Harris
Tromboneグレン・ミラーGlenn Miller
Clarinetベニー・グッドマンBenny Goodman
Alto saxギル・ロディンGil Rodin
Tenor saxフッド・リビングストンFud Livingston
Pianoウェイン・アレンWayne Allen
Banjoジョン・クルゼンナーベ(?)John Kurzenknabe
Bassハリー・グッドマンHarry Goodman
Vocalsホーメイ・ベイリーHomay Baileyウィリアムス・シスターズ(ドロシー&ハンナ)The Williams Sisters

BGの記念すべき初レコーディングである。「私の青空」など多くのヒット・ソングを生んだウォルター・ドナルドソンの作という。
前半古風なアンサンブル・アレンジとウィリアム・シスターズのヴォーカルが時代を感じさせるが、後半一転してBGのクラリネット、ハリー・グリーンバーグと思われるTpがジャズを感じさせる。短いがアルトとトロンボーンのソロもある。特に後半のミラーは一瞬ながらBGとの絡みもあって興味深い。CDには、ハリー・グッドマンがベースとなっているが、僕にはチューバのように聞こえる。
BGは自伝の中でこのデビュー吹込みの前夜は興奮のあまり眠れなかったと記しているという。

CD-2. ウェイティン・フォー・ケイティー(Waitin’ for Katie)
CD-3. メンフィス・ブルース(Memphis blues)

”Benny Goodman The RCA years”CDボックス

<Personnel>…Ben Pollack and his Orchestra

Drums & Band leaderベン・ポラックBen Pollack
Cornetジミー・マクパートランドJimmy McPartlandフランク・クォーテルFrank Quartellアル・ハリスAl Harris
Tromboneグレン・ミラーGlenn Miller
Clarinet , alto sax & Trumpetベニー・グッドマンBenny Goodman
Alto saxギル・ロディンGil Rodin
Tenor sax & fluteラリー・ビニョンLarry Binyon
Pianoヴィック・ブライディスVic Breidis
Banjoディック・モーガンDick Morgan
Bassハリー・グッドマンHarry Goodman

2,3曲目は約1年後の吹込み。2の『ウェイティン・フォー・ケイティー』はタイムライフ社から出ている“Giants of jazz”シリーズのBGの巻にも収録されているが、パーソネル記載が若干異なる。
相違点は、
.織ぅ爛薀ぅ嬌任任魯灰襯優奪箸魯献漾次Ε泪パートランドのみ、フランク・クォーテルはトランペットのみでアル・ハリスは参加していない。
▲織ぅ爛薀ぅ嬌任任魯▲襯函Ε汽奪スにジョージ・ケーニヒも参加し2名である。
CDにはこれもベースと記載されているがタイムライフ版ではチューバとなっている。聴いた限りではチューバだと思う。
ず戮いことだが、ピアノ奏者をタイムライフ版は“Vic Briedis”ヴィック・ブリーディスとしているが、こちらのCDでは“Vic Breidis”  ヴィック・ブライディスと記載している。要は苗字の”r“の後の”e“と”i“の順序が逆なのだ。どちらかの単純なミスだとは思うが。
ところがちょっと不思議なことがる。それぞれの名前をググってみると、どちらも掲載されている。
Vic Briedis は、ベン・ポラックの様々なレコーディングでピアノを弾いている。
Vic Breidisも、ベン・ポラックの様々なレコーディングでピアノを弾いている。
どうも同じ人物のようだがどちらかが誤りという表記は一切ない。???
さて内容に行こう。

CD-2. ウェイティン・フォー・ケイティー(Waitin’ for Katie)
オープニング・コーラスをBGがリード・ソロを長く取り、古風なヴォーカル・コーラスを経てティーガーデンとマクパーランド(?)、ギル・ロディンが短いソロを取ると野口氏。Tbグレン・ミラーをティーガーデンと間違えている。上記はCDの間違いかな?
一方タイム―ライフ盤ではジョージ・サイモン氏が詳細な解説を行っている。元は英語なので訳に間違いがあるかもしれないが、まずこのナンバーはBGがポラックのバンドに加わってから12番目の吹込みであるが発売されたものとしては5番目であること、他の6面分は破棄されたという。
BGはディック・モーガンの驚異的にスムーズな4ビートに乗って最初のコーラスを軽快にスイングさせて始まる。(サイモン氏が書いたのはこの録音から半世紀ほど後のことだが、)今聴いてもこの頃のBGにはヴァイタリティ―があふれている。そしてアンサンブルの後BGはコルネットに持ち替え、第2コーラスはマクパートランド、クォーテルのコルネット・ラインに加わっている。そしてこの3人でグレンとの4小節交換を行っている。
さらにコルネット・ソロの最初の部分(one-bar pickup)を朗々と吹いている。マクパーランドはそしてこんな逸話を明かしている。ベニーが僕を振り返り「へい、俺に初めのところを吹かせてくれ(Hey , let me play the pickup)。それで彼に任せることにしたのさ。とてもいいだろ?彼奴はいろんなホーンをクラリネットと同じようにプレイすることができたんだ。」

CD-3. メンフィス・ブルース(Memphis blues)
野口氏は開口一番、「これはジャズだ」と始めている。ということはこのベン・ポラックのオーケストラは直球ジャズというわけではなかったのだろう。では何かと言えば、「ダンス・バンド」なのであろう。
マクパートランド、BG、ミラーがそれぞれ1コーラスのソロを取る。でもなんか変なイントロではある。多分ブルースはタイトルだけで、ブルースではないと思う。

タイムライフ社Giants of jazzシリーズ「ベニー・グッドマン」3枚組ケース表面 

CD-4.シンガポール・ソロゥズ (Singapore sorrows)

<Personnel>…Ben Pollack and his Orchestra

基本CD-2,3と同じ。ただしコルネットのフランク・クォーテルが抜け、テナー・サックスのラリー・ビニョンがバド・フリーマン(Bud Freeman)に替わる。
ヴァイオリンのアル・ベラー(Al Beller)とエド・バーグマン(Ed Bergman)が加わる。
野口氏は解説で「ウッド・ブロックでオリエンタル・ムードなアレンジを出したイントロ、ポラックのヴォーカルの後BG、ミラー、マクパーランドのソロが聴きもの」と述べている。

CD-5.バイ・バイ・フォー・ベイビー Buy buy for baby

1928年10月15日 ニューヨークにて録音

<Personnel>…Ben Pollack and his Park Central Orchestra

Drums & Band leaderベン・ポラックBen Pollack
Cornetジミー・マクパートランドJimmy McParlandアル・ハリスAl Harris
Tromboneジャック・ティーガーデンJack Teagarden
Clarinet & alto saxベニー・グッドマンBenny Goodman
Alto saxギル・ロディンGil Rodin
Tenor sax & fluteラリー・ビニョンLarry Binyon
Violinアル・ベラーAl Bellerエド・バーグマンEd Bergman
Vcビル・シューマンBill Schumann
Pianoヴィック・ブライディスVic Breidis
Banjoディック・モーガンDick Morgan
Bassハリー・グッドマンHarry Goodman
Vocalベル・マンBelle Mann

メイヤー、シーザーのコンビが書いたポップ・ソングという。BGがらみのファースト・コーラスに続く女性歌手ベル・マンのヴォーカル、そしてティーガーデン、マクパーランド、BGのハーフ・コーラスのソロが聴きもの、と野口氏。
ところで、パーソネルにビル・シューマンで楽器担当が”vc ”とあるのが分からない。ヴォーカルは”vo ”なので違うし…。

”Benny Goodman The RCA years”CDボックス解説冊子

CD-6.ワン・ワン・ブルース (Wang-wang blues)
CD-7.イエロゥ・ドッグ・ブルース (Yellow dog blues)
CD-8.シャツ・テイル・ストンプ (Shirt tail stomp)

<Personnel>…Ben’s bad boys

Vocal & Band leaderベン・ポラックBen Pollack
Cornetジミー・マクパートランドJimmy McParland
TromboneGlenn MillerGlenn Miller
Clarinetベニー・グッドマンBenny Goodman
Pianoヴィック・ブライディスVic Breidis
Banjoディック・モーガンDick Morgan
Bassハリー・グッドマンHarry Goodman
Drumsレイ・ボデュークRay Bauduc

ここからピックアップ・メンバーによるコンボ演奏となる。ここにポラックのジャズへの意欲が見えると言われる。後にBGもビッグ・バンドを率いた中にコンボ演奏を交えたりするがその原点はここからかもしれない。ということはビッグ・バンドの大きな流れの一つの原点と言えるかも。

CD-6.ワン・ワン・ブルース Wang-wang blues
ポール・ホワイトマン楽団のトロンボーン奏者で30年代の初め日本に滞在していたバスター・ジョンソンが作曲し、ポール・ホワイトマン楽団のレコードがヒットした曲という。形式はポップス型でブルースではない。BGがキッチリと1コーラス(32小節)のソロを決める。

CD-7.イエロゥ・ドッグ・ブルース Yellow dog blues
「ワン・ワン」と来たら次は「犬」ということか、ブルースの父W.C.ハンディの名作。ここではベースのハリーがベースではなくチューバを、ドラムを御大のポラックではなくレイ・ボデュークが叩いている。
“Ray Bauduc”は、「レイ・ボーダック」と読むと思っていたら、野口久光氏は「レイ・ボデューク」と書いている。大先輩に従おう。

CD-8.シャツ・テイル・ストンプ Shirt tail stomp
ディキシー風のノヴェルティな演奏と野口氏。BG自身がリーダーとして吹き込んでいるので(?)、作者のベン・グッドマンはBGのペン・ネイムかもしれないという。BGがリーダーとはどういうことだろう。ポラックのバンドだがこの曲の吹込みリーダーはBGということか?
BGはテッド・ルイス奏法(こういう奏法があるんだなぁ)の影響を見せ、ユーモラスなお遊びが楽しい、とは野口氏。

CDボックス解説冊子 1ページ解説内容が分かる かなり充実

CD-9.バッシュフル・ベイビー (Bashful baby)

<Personnel>…Ben Pollack and his Park Central Orchestra

Band leaderベン・ポラックBen Pollack
Cornetジミー・マクパートランドJimmy McParland
Trumpetルビー・ウエインシュタインRuby Weinstein
Tromboneジャック・ティーガーデンJack Teagarden
Clarinet & alto saxベニー・グッドマンBenny Goodman
Alto saxギル・ロディンGil Rodin
Tenor Sax , clarinet & fluteラリー・ビニョンLarry Binyon
Violinアル・ベラーAl Bellerエド・バーグマンEd Bergman
Vcビル・シューマンBill Schumann
Pianoヴィック・ブライディスVic Breidis
Banjoディック・モーガンDick Morgan
Bassハリー・グッドマンHarry Goodman
Drumsレイ・ボデュークRay Bauduc
Vocalバート・ローリンBurt Lorin

ルイ・シルヴァー、クリス・フレンドの合作したポップス曲。バート・ローリンのヴォーカルをフューチャーした平凡なアレンジながら後半BGがフル・コーラスのソロを取る。既にBGスタイルを作り上げていたことを示していると野口氏は書くが、BGの意図でこういう形になったかどうかは分からないと僕は思う。

ベン・ポラックの自殺の原因は僕などには分からない。ポラックは新人を見る目が確かなことで有名で見ての通り、BG初めグレン・ミラー、ジミー・マクパーランドらを登用している。発掘され「スイング王」となったBG、発掘したが晩年はうまくいかず自殺したポラック、人生の機微を感じないではいられない。

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第110回2015年8月10日

ベニー・グッドマン Benny Goodman 入門その4 1928年

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。


これぞ夏…ひまわり

またまたアップが1週間遅れてしまいました。誰も見ていない稚拙なサイトですが、自分で週1回のアップと決めているのでとても情けないです。

毎日暑い日が続いています。夜の寝苦しくよく眠れません。8月10日の朝朝5時に目が覚めたので、そのまま起き出し、テレビのBS放送でワシントンD.C.で行われたシティ・オープン決勝を見ました。
錦織選手がアメリカのイズナー選手と戦い、4-6、6-4、6-4で逆転勝利。今季3勝目を上げました。やったー!
錦織選手178僉▲ぅ坤福質手208僉30僂發虜垢あります。あの上から叩きつけるようなサーヴをよくリターンするものです。すごい!の一言に尽きます。






TimeLife盤解説…英語ばかり

ここで言い訳しても何にもなりませんが、今回の遅れは少しばかり仕事が立て込み残業で帰宅が遅くなる日が連なりHPに着手することができませんでした。実はそれに加えて今回取り上げるのが輸入盤で詳しい解説が付いているのはありがたいのですが、解説が英語で書かれているのです(当たり前!)。
英語以外、フランスやドイツ語で書かれていれば簡単にあきらめるところです。しかし英語だと辞書片手に取り組めば何とかなりそうな気もして、トライはするのですがやはりそんな甘いものではありませんでした。
これも情けない…。





第110回“Giants of Jazz − Benny Goodman”

タイムライフ社Giants of jazzシリーズ「ベニー・グッドマン」3枚組ケース表面

BGが1928年のいつベン・ポラックのバンドを辞したのかはわからない。またバンドを辞さなくてもサイドマンとして他のバンドの吹込みに参加することは珍しいことではないが、どうもベン・ポラック時代はそういう契約だったのか或いは地元出身の先輩リーダーに義理立てしたのかそれともお呼びがかからなかったのかポラック以外の録音に参加し始めるのは1928年になってからのようである。
しかしそれはポラック在団中に認められ始め、1928年にスターと呼ばれる存在になったのだろう。1909年生まれのBGまだ10代(19歳)であった。
そしてポラックの楽団を辞した後1931年までの3年間余りで200を超えるレコーディングに呼ばれるくらいの大人気スタジオ・ミュージシャンとなった。
さて前回はCD「ベニー・グッドマン秘蔵名演集」に収録されたBGの初レコーディングを含めたベン・ポラック時代の録音を取り上げた。しかし同CDには、その後は一挙に30年のビックスの共演まで収録がない。
と言ってもこの時代は先に触れたようにかなりの数のレコーディングに参加しているのである。ということで今回は1928年のベン・ポラック以外の録音を取り上げよう。音源はタイム-ライフ社から出ていた「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」シリーズの“Benny Goodman”レコード3枚組(米国盤)の1枚目A面収録の5曲とCD「タイムレス・ヒストリカル・プレゼンツ」“The young Benny Goodman 1928−1931”収録13曲、重複があるのでトータル13曲。正直僕はこれしか持っていない。
では年代順に録音を並べてみよう。以降タイム-ライフ版レコードをTime-life、「タイムレス・ヒストリカル・プレゼンツ」“The young Benny Goodman 1928−1931”版CDをCDと略します。

<Contents>…1928年

No.曲名原題録音日録音場所収録
1.ア・ジャズ・ホリディA jazz holiday1928年1月23日シカゴTime-lifeA-2、CD-1
2.ウォルヴェルライン・ブルースWolverine blues1928年1月23日シカゴTime-lifeA-3、CD-2
3.ジャングル・ブルース AJungle blues A1928年6月4日ニューヨークCD-3
4.ジャングル・ブルース BJungle blues B1928年6月4日ニューヨークCD-4
5.ルーム・1411 ARoom 1411 A1928年6月4日ニューヨークCD-5
6.ルーム・1411 BRoom 1411 B1928年6月4日ニューヨークCD-6
7.ブルーBlue1928年6月4日ニューヨークTime-lifeA-4、CD-7
8.シャツ・テイル・ストンプShirt tail stomp1928年6月4日ニューヨークCD-8
9.クラリネッティスClarinetitis1928年6月13日シカゴTime-lifeA-5、CD-9
10.ザッツ・ア・プレンティThat's a plenty1928年6月13日シカゴCD-10
11.アフター・ア・ホワイルAfter a while1928年8月13日シカゴCD-14
12.マスクラット・ランブルMuskrat Ramble1928年8月13日シカゴCD-15
13.ドゥ・ユー?ザッツ・オール・アイ・ウォント・トゥ・ノゥDo you ? that’s all I want to know1928年10月25日ニューヨークCD-11

Time-lifeレコード1曲目は「 ウェイティン・フォー・ケイティー」(Waitin’ for Katie)である。1927年の録音で前回取り上げたので割愛するが、ただタイム―ライフ版の方が、解説が詳細なので前回のものにコメントを追加したので、是非ご覧下さい。では、今回の内容に入ろう。

Time-Lifeレコードボックス

Time-life A-2、CD-1ア・ジャズ・ホリディ(A jazz holiday)
Time-life A-3、CD-2ウォルヴェルライン・ブルース(Wolverine blues)

<Personnel>…Benny Goodman’s Boys with Jim and Glenn 1928年1月23日 シカゴにて録音

Clarinet & Band leaderベニー・グッドマンBenny Goodman
Cornetジミー・マクパートランドJimmy McPartland
Tromboneグレン・ミラーGlenn Miller
Pianoヴィック・ブリーディスVic Briedis
Guitarディック・モーガンDick Morgan
Tubaハリー・グッドマンHarry Goodman
Drums & vibraphoneボブ・コンゼルマンBob Conzelman

この1928年1月23日の録音はBGにとって初めてのリーダーとしてのレコーディングである。メンバーの7人はベン・ポラックのバンドから5人とビックス・バイダーベックのバンドで活躍していたボブ・コンゼルマンを加えたものだった。それにしてもバンド名が、”Benny Goodman’s Boys with Jim and Glenn”とは。やはりマクパートランドとミラーはBGにとって別格の信頼できる仲間ということなのだろう。
2.ア・ジャズ・ホリディ (A jazz holiday)
解説のジョージ・サイモン氏は、テッド・ルイスはもちろん、これまで録音されたどのレコードとも似ていないBG独自のプレイと言っている。この辺りの評価は僕には分からないのでそのまま記しておこう。グレン・ミラーのゆったりとした編曲によって余裕を感じさせる雰囲気を作り出している。曲の出だしの部分から、コンゼルマンのヴァイブラフォンのコード叩き、滑るように上下するホーン、シングル・トーンによるギター・プレイ、初期のビックス、トラウンバウアー、エディー・ラングを想起させるような黙想的な憂いのある滑り出しで始まる。BGのソロもビックスの影響を感じさせるという意外な指摘をジョージ・サイモン氏はしている。

3.ウォルヴェルライン・ブルース (Wolverine blues)
ジェリー・ロール・モートンの作らしい。ジミー・マクパーランドのベスト・プレイの一つに数えられるという。
BGとマクパーランドの活気に満ちたディキシー風のプレイが聴きものである。
マクパーランドはしばしば単なるビックスの模倣するような演奏をすることもあるが、ここでは彼自身を活かしたプレイをしている。彼の音はビックスよりも薄く暗めだが、よく歌っている。
次の登場するBGも時代を先取りするようなアップ・テンポにおけるスタイルを見せる。ジミー・ヌーンの流麗さ、フランク・ティッシュメーカーの力強いアタック、レオン・ロポロ(Leon Roppolo)の詩的な抒情性、ドン・マレイ(Don Murray)の快活さ、ビックスの創造的構成力を混ぜ合わせたような独自のクラリネットスタイルを築き上げつつあった。 曲の構成は白人のシカゴ・ジャズ演奏家たちのよくやるスタイルで、ソフトに始まり次第にテンションを上げ、中間部のブレークなどによって盛り上げていく。

CD「The Young Benny Goodman 1928-1931」CDジャケット

CD-3.ジャングル・ブルース(Jungle blues)A
CD-4.ジャングル・ブルース(Jungle blues)B
CD-5.ルーム・1411(Room 1411)A
CD-6.ルーム・1411(Room 1411)B
Time-life A-4、CD-7. ブルー(Blue)
CD-8.シャツ・テイル・ストンプ(Shirt tail stomp)

<Personnel>…Benny Goodman’s Boys 1928年6月4日 ニューヨークにて録音

Clarinet , alto and baritone sax , cornet & Band leaderベニー・グッドマンBenny Goodman
Cornetジミー・マクパートランドJimmy McPartland
Tromboneグレン・ミラーGlenn Miller
Tenor Saxフッド・リビングストンFud Livingston
Pianoヴィック・ブリーディスVic Briedis
Guitarディック・モーガンDick Morgan
Tubaハリー・グッドマンHarry Goodman
Drumsベン・ポラックBen Pollack

まず、この6月4日の録音について、Time-Life版にはトロンボーンはグレン・ミラー1人がクレジットされているが、CDにはトミー・ドーシーの名も載っている。
ベン・ポラックのバンドはBGが自己名義のレコーディングを行っていた1か月間の間仕事がなかった。マクパーランドは回想する。そんなある日BGは自分たちを呼び明日レコーディングするぞと言ったという。それがこのレコーディングであるという。リーダーのポラックもBGのおかげで1か月ぶりの仕事にありついたわけである。
BGはクラリネットはもちろん、アルト、バリトン・サックスと大活躍する。日本ハム大谷選手真っ青の二刀流どころか三刀流、四刀流である。右はクラリネットを持ちながらアルト・サックスを吹くBG。

クラリネットを持ちながらアルト・サックスを吹くBG

CD-3、4ジャングル・ブルース(Jungle blues)A・B
ジェリー・ロール・モートンの作。CD版によればソロ・オーダーは次のようになる。
まずBGのクラリネット・ソロ、そのまま続いてコルネットでソロを取り、リヴィングストンのクラリネットに引き継ぐ、となっているが他にもピアノのソロが入り、再びコルネットのソロが入るが、それは誰が取っているのであろう。

CD-5、6ルーム・1411(Room 1411)A・B
これはグレン・ミラーとBGの共作とクレジットされている。これはアンサンブルでBGはのクラリネット、続くバリトン・サックスでソロを取り、リヴィングストンのアルト・サックスに引き継いでいるという。

Time-life A-4、CD-7. ブルー(Blue)は、Time-life、CD双方に収録されているので重要な作品なのだろう。
最初に聞こえるアンサンブルをリードするバリトンはもちろんBGによるものである。続いてマクパートランドのコルネット・ソロが入り、続くアルトのソロはまたしてもBGだという記載(Time-Life)とリヴィングストン(CD)という記載がある。

CD-8.シャツ・テイル・ストンプ(Shirt tail stomp)
Time-Life版解説のジョージ・サイモン氏は続く”Clarinetitis”がBGの作曲デビューと書いているが、CDのクレジットを見るとBGの作となっている。
CDの解説によれば、ソロはBGのクラリネット、(マクパートランドのコルネット)BGのアルト、リヴィングストンのアルト、トミー・ドーシーのトロンボーンとなっているが、短いソロが目まぐるしく展開されるのでよく分からない。
ユーモラスな曲で、お笑いで言えば「笑うところ」なのであろう。

Time-lifeA-5、CD-9クラリネッティス (Clarinetitis)
CD-10.ザッツ・ア・プレンティ(That’s a plenty)

<Personnel>…Benny Goodman 1928年6月13日 シカゴにて録音

Clarinet & Band leaderベニー・グッドマンBenny Goodman
Pianoメル・スティッツェルMel Stitzel
Drumsボブ・コンゼルマンBob Conzelman
TimeLife盤ラベル

Time-lifeA-5、CD-9クラリネッティス (Clarinetitis)
ジョージ・サイモン氏はBGの作曲のレコード・デビューとしていることは既に述べた。シカゴかニューヨークで、1927年か28年に作られたという。
クラリネットを題材に取ったこの曲はBGのロング・ソロを中心としている解説によると彼の初期のアイドルであった非常に流麗なスタイルを持ったジミー・ヌーンに対する愛情にあふれているという。
第2コーラスはブルースでドラムのコンゼルマンとのデュエットで演奏される。BGは後にジーン・クルーパとデュオを奏しているが、ベン・ポラック時代にも同じ試みを試している。マクパートランドはお互いに刺激し合った素晴らしい演奏であるとコメントを残しているそうだ。

CD-10.ザッツ・ア・プレンティ(That’s a plenty)
ベン・ポラックの作。少し早目のテンポでこれも全篇BGのクラリネットをフューチャーした曲。

CD-14.アフター・ア・ホワイル (After a while)
CD-15.マスクラット・ランブル (Muskrat Ramble)

<Personnel>…Benny Goodman’s boys 1928年8月11日 シカゴにて録音

Clarinet & Band leaderベニー・グッドマンBenny Goodman
Trumpet & vocalウィンギー・マノンWingy Mannone
Tenor Saxバド・フリーマンBud Freeman
Pianoジョー・サリヴァンJoe Sullivan
Banjoハーマン・フォスターHerman Foster
Bassハリー・グッドマンHarry Goodman
Drumsボブ・コンゼルマンBob Conzelman

ウィンギー・マノンは当時人気のあったエンターテイナーでルイ・アームストロング張りの歌と演奏が特徴だったという。ルイと同じでステージなどではショウマンシップを発揮し差し詰め「白いサッチモ」という感じだったらしい。
この録音は名目はBGのバンドにウィンギーがゲストとして参加した体だが、BGが呼んだのではなく、レコード会社の意図であろう。
正確なところは検証が必要だが、当時はエディー・コンドン率いるシカゴ派が人気を得つつあり、それを意識してかニューオリンズ・スタイルで演奏したのではないか?
CD-14.アフター・ア・ホワイル (After a while)
BGとバド・フリーマンの共作。覚えやすいメロディーでソロを取る全員が最初は主旋を吹き次第に崩していくのが面白い。

CD-15.マスクラット・ランブル (Muskrat Ramble)
キッド・オリー作のヒット曲。典型的なニュー・オリンズ風のナンバーだが、BGとしては珍しいのではないかと思う。

CD-11.ドゥ・ユー?ザッツ・オール・アイ・ウォント・トゥ・ノゥ(Do you ? that’s all I want to know)

<Personnel>Ipana troubadours 1928年10月25日 ニューヨークにて録音

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Directorサム・ラーニンSam Lanin
Cornetジミー・マクパートランドJimmy McPartlandアル・ハリス?Al Harris
Tromboneトミー・ドーシーTommy Dorsey
Clarinetベニー・グッドマンBenny Goodman
Reedsピート・プミグリオ(?)Pete PumiglioUnknown
PianoBanjoTubaDrumsVocal

いかにも古いアメリカン・ポップスという感じの曲。イパナ・トルバドールズ(Ipana troubadours)はニューヨークのWEAFというラジオ局から放送されていた音楽ヴァラエティ番組。20年代にはドーシー・ブラザーズやレッド・ニコルス、30年代にはジャック・ティーガーデンやジョー・ヴェヌーティなどがよく出演していたという。
音楽を担当していたのがサム・ラーニン(Sam Lanin)にソロイストとして呼ばれて客演したものであろう。

とても残念なことは、僕の持っているこれらBGの初期音源は全て輸入盤であるということだ。詳しい解説がついていても英語力がないと分からない。これらの音源の日本盤というのは出ているのであろうか?あったらぜひ欲しい。

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