ジャズ・ディスク・ノート

第61回2014年7月27日

チャールス・ミンガス 「ザ・ヤング・レベル」

マイルス・ディヴィス Miles Davis 入門vol.8 1946その4
チャールス・ミンガス入門その2

 


ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。
本日はちょっとした所用で車で外出、三国峠を通ったのでそこから富士山を撮ってみました。大いに霞んでいます。下界の気温が高いので、富士山も霞んでいるような感じです。これは科学的根拠のない僕の受けた印象です。


















富士山を見て振り返って見た三国峠の山です。草が背高く延びて夏本番となりました。この草はどんな種類なのでしょうか?かなり背が高いです。僕の背丈などよりよっぽど高い感じです。そして鶯の鳴き声が盛んに聞こえます。行ってみると木々ではなくこの藪のような草の繁茂している中から聞こえます。














第61回Charles Mingus “The young rebel”

PROPERBOX 77 CD

「パシフィック・コースト・ブルース」CD・ジャケット

前回は1945年4月24日の初めてのレコーディングと47年8月14日の初リーダー作を収録した“Miles first recording”を紹介した。そして初レコーディングと初リーダー作の間には約2年の間がある。まず僕のマイルス学習はこの間を少しずつ埋めて行こうと思う。
そして今回はマイルス・ディヴィス入門の4回目であるが、vol8とすることにした。Vol3〜6は主にチャーリー・パーカーとの共演が中心なので、その部分はチャーリー・パーカーの項で取り上げたいと思う。
それともう一つの理由は、一度“Mingus presents Mingus”でミンガス入門を果たした僕はミンガスのことも勉強したいと思うようになったのである。
さて、マイルスは1945年末に西海岸に楽旅に行ったバードとディズを追うように西海岸が本拠地のベニー・カーターの楽団に加入し翌46年1月に西海岸に向かう。そこでマイルスはハワード・マギー(Tp)の家に転がり込みバードなどとジャムったり、レコーディングも行ったが、当時西海岸に住んでいたチャールス・ミンガスと親しくなり、その実験的なビッグ・バンドとリハーサルを始めたという。ジョン・スウェッド著「マイルス・ディヴィスの生涯」にはそれ程度しか触れていないが、マイルスの自伝にははっきり「この頃(1946年夏)ミンガス男爵とシンフォニック・エコーズというバンドでレコーディングした」と書いている。訳と解説の中山康樹氏は「これは謎につつまれたレコーディングで、これまでマイルス不参加説もあったが、今回のマイルスの証言によって確実に参加していたことが判明した。」と述べ、さらに「1946年後半にマイルスの参加した録音は行われたが、1949年1月に再度編集の手が加えられたという説もある」と紹介し、このセッションはレコード化されていない模様と結んでいる。因みに僕の持っている自伝は1991年11月25日の新装版第1刷である。
ある日僕はマイルスの自伝を読みながらよく利用させてもらっている”Jazz Discography Project”によるディスコグラフィーを眺めていた。すると「レコード化されていない模様」の本録音が載っており、レコード化されているような記載を見つけた。
まず、”Jazz Discography Project”での記載は以下の通りである。レコーディングされた曲は4曲。
<Contents>
1.ヒーズ・ゴーン (He's Gone)
2.ストーリー・オブ・ラヴ (Story Of Love)
3.ゴッズ・ポートレイト (God's Portrait)
4.曲名不明 (unknown title)
バンド名は「バロン・ミンガス・プレセンツ・ヒズ・シンフォニック・エアーズ(Baron Mingus Presents His Symphonic Airs)で、録音月日は46年か47年の3月か8月或いは49年の1月とし、トランペット・セクションにマイルスの名がみえる。
<Personnel>
マイルス・ディヴィスMiles DavisVern CarlsonTrumpet
Henry CokerTrombone
Boots MussulliAlto sax
Lucky ThompsonBuddy ColletteTenor sax
Herb CarolBaritone sax
Buzz WheelerPiano
Charles MingusBass
Warren ThompsonDrums
Herb GayleVocal"He's gone"のみ

1と2のカップリングでFentone社から<Fentone 2002>というレコード・ナンバーでいつごろかは不明だが世に出たことがある模様である。3と4のカップリングは<Fentone 2001>と番号は付けられたがリリースはされなかったという。

そうこうしているうちにたまたまAmazonのCDの項を見ていて今回のCD を知った。
それが今回ご紹介するCharles Mingus " The young rebel" PROPER BOX 77である。
「若き反抗」と訳すのだろうと思われるこの4枚組CDを買うに至ったのは、若き日の、ニュー・ヨークに上る前のミンガスを聴いてみたいと思っていて、このCDにはその頃の録音が多く含まれているように見え購入した。確か2,000円もしなかったように思う。
ここに収められた音源を本当はレコード、それもSP盤で聴いていきたい。しかしそれを成し遂げるにはどれほどの時間と費用が掛かるのだろうか、と思うと手軽に済ませて申し訳ないと思いながらもCD購入ボタンを押してしまうのである。 因みにこの4枚組のCDセットの内で該当すると思われるのは、Vol.1”Paciffic coast blues”の23曲目“He’s gone”と24曲目“The story of love”である。こちらでは“Story Of Love”ではなく、“The story of love”と“The”が付いている。
そして 1.He's Gone … Fentone2002A 2.Story Of Love … Fentone2002B と記載されているので、ディスコグラフィーの記すレコーディングとこのCDのレコーディングは一致するとみてよいだろう。
しかしCDの解説は録音日は1949年2月とし、パーソネルはかなり違うのである。また録音場所についてもディスコグラフィーはカリフォルニアのハリウッド、CD解説はサンフランシスコとしていて、相違がある。
Charles”Baron”Mingus presents his symphonic airsというバンド名は同じ。
<Personnel>
Vern CarlsonJohn CoppolaAllen SmithAndy PeeleTrumpet
Haig EshowBob LowryHawes ColemanTrombone
Bob OlneyAlto sax、Clarinet&fluteBud HoovenAlto sax
Morrie StewartAlex MegyesyDon SmithTenor sax
Herb CaroBaritone saxDante PerfumoFlute
Jean McGuireCelloRichard WyandsPiano
Charles MingusBass
Carl TjaderDrumsJohnny BergerPercussion
Herb GayleVocal"He's gone"のみ

と大分ディスコグラフィーとは異なるのである。

ではどうなのか、どちらが正しいのか?というと僕には判断をくだせるだけの材料がない。しかし、全体のサウンドを聴くと厚みから言って”Jazz Discography Project”のテンティット(10名)の演奏とは思えないのである。
1.He's Goneには絶対にチェロが入っている。とにかく変わったアレンジの曲だと思う。ハーブ・ゲイルの歌を聴くとそんな変な曲とは思わないが、バックの演奏は変わっている。セロの奏でる荘厳な響き、ハープシコードに見立てたピアノのプレイ諸々実験的な作品だと思う。

2.Story Of Love … Fentone2002B
これもかなり個性的だ。学究的なコメントができないのが残念だ。アンサンブルのテーマの後、先ずはテナー・サックスがソロを取り、いったんアンサンブルになりテナー・サックスのソロとなる。このソロは誰であろうか?マイルスかなぁ?でもあまりマイルスっぽくないのである。

ではCDのパーソネルが正しく、ディスコグラフィーが誤っているのであろうか?そうも思えない。何せマイルス自身がレコーディングしたと言っているのだ。
そうなってくると中山氏が自叙伝で言及している再編集説というのがちょっと頭をかすめる。一度ディスコグラフィーのメンバー録音したものにCD解説のメンバーでの演奏をオーヴァーダブしたことも考えられる。

この録音のことはもしかすると識者には既に解決済でとても有名な話かもしれない。ともかくマイルス、ミンガスのそれからの活躍ぶりはご承知の通りであり、大変興味をそそられる録音ではある。今後何か分かることがあったら追記していきたい。

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第62回2014年8月3日

チャールス・ミンガス 「ザ・ヤング・レベル」Vol.2

チャールス・ミンガス入門その3 1945年

 


ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。
九州、四国、中国地方は台風12号の影響で記録的な大雨が降り被害が増大しているようです。心から見舞い申し上げます。
一方、僕の住んでいる関東南部は連日の晴天の猛暑日で熱中症になる方が激増しています。とにかく湿度が高く蒸し暑い日が続いていて、日本は熱帯地方に入ったのかと思われるほどです。
本日(8月3日)午前中に散歩に出ましたが今年の森は、笹や低木が増えかつての雑木林というイメージが薄れてきています。この森の良さは鬱蒼とした森ではなく、下生えの少ない日本の低地には珍しい(と思います)さっぱりとしたさわやかな感じだったのですが、高温多湿の日本でその状態を維持するのは大変なことのようです。人手が入らないと美しい森の維持は難しいようです。


















カミサンが5年前くらいにお知り合いから頂いた「月下美人」が初めて咲きました。いただいたのは30僂らいの茎1本で、鉢に土を入れ指しておけば簡単に根付き、成長し花が咲くと聞いてきたようですが、我が家では茎は伸びるものの全く花が付きませんでした。譲ってくれた方も不思議がり育てるのに難しい花ではないのに…と言っていたそうで、今まで咲かすことのできなかった我々は少々肩身の狭いを思いをしていました。
それはともかく一晩しか咲かない花なのでこれまで見る機会がなく、初めて見る大きな花と甘い匂いに驚きました。













第62回Charles Mingus “The young rebel” Vol.2
チャールス・ミンガス入門その3 1945年

PROPERBOX 77 CD

「ザ・ヤング・レベル」CD・ジャケット

チャールス・ミンガスが偉大な音楽家だということに異論を唱えるジャズ・ファンはいないだろう。僕もまったくすごい才能の持ち主だと思う。そして強烈な個性の持ち主でもある。その彼がどのように考え生きたのかということとレコードやCD等に残された作品にどう反映されたのか或いはあまり関係ないのかなどを解き明かすことが僕にできるかというと多分出来はしないだろうが、取り組んでみたいと思うのだ。
そもそもミンガスの人生を少し多く知ることができたとしてそれが彼の芸術を解き明かすことにつながるかどうかは分からないが、まぁぼちぼちやってみよう。
まず、人物紹介のページでも取り上げたが、彼は1922年4月22日にアリゾナ州の生まれだが、ロス・アンゼルスの学校に入り、トロンボーンをブリット・ウッドマンについて学び、次いでセロに転じ、レッド・カレンダーについて16歳の時ベースを学んだ。
さらに5年間ニューヨークフィルのメンバーに学び、ハイスクール在学中にバディ・コレット共に音楽生活に入ったという。西海岸で育ったのだ。
40年にはリー・ヤング、41〜43年にはルイ・アームストロング、46〜48年、ライオネル・ハンプトンと経験を積んだという。18〜22、3歳にかけてのころであるが、もし16歳で初めてベースを学んだのならキャリア2年くらいでプロのバンド入りしたことになる。なんという習熟のスピードか!
以前は47年にハンプトン時代が初レコーディングと思われていたが、最近では45年にラッセル・ジャケー(Russell Jacquet)の楽団によるものが最初と言われている。
そしてこの4枚組のCDボックスにはその45年のラッセル・ジャケー・バンドでの録音は収録されていないが、大変便利なCDボックスだ。僕がジャズを聴きはじめた1969年においては考えられないことだ。当時の方が時代は近いといっても(その前に知識もなかったが)、当時ラッセル・ジャケー(Russell Jacquet)楽団のレコードを買いたいと思っても入手は難しかったのではなかろうか?
「ザ・ヤング・レベル」CD・ボックス

まず1945年23歳で初レコーディングを経験してから、矢継ぎ早にレコーディングに加わり、ディスコグラフィーでは10のレコーディング・セッションが記されている。そのうち3つのセッションがこのCDに収録されている。
前回マイルスとのレコーディングに先立つ1945年のミンガスを今回「入門その3」として取り上げてみたい。

このCDに取り上げられているのは3つのセッションだが、これも“Jazz discography project”とは、若干記載が違う。 まず、“Jazz discography project”記載の10セッションを並べてみる。○の数字がCD収録セッションである。

1.1945年初め Russell Jacquet all stras CD未収録
2.1945年5月 Howard McGhee sextet CD未収録
.1945年6月 Charles Mingus Sextette
  全4曲録音中3曲を収録
ぁ1945年8月2日 Illinois Jaquet and his all stars
全3曲録音中1曲を収録
5.1945年8月2日 Wynonie Harris with Illinois Jacquet and all stars
6.1945年8月中旬 Illinois Jacquet and his all stars
7.1945年8月28日 The Jaque Rabbit
8.1945年10月4日 Ernie Andrews with Wilbert Baranco Trio
9.1945年11月 Bob Mosley and his all stars
.1945年12月10、12、13日 Dinah Washington with Lucky Thompson’s all stars

では収録されていないセッションについてはコメントできないので、収録されているものについて書いていこう。
まず“Jazz discography project”では上記の順だが、CDではを1945年夏と記載し、いら収録している。今回はあくまでCDを基にして行こう。
ぅ札奪轡腑
1945年8月2日 Illinois Jacquet and his all stars ロス・アンゼルスにて行われた録音から3曲。
<Contents>
1.Merle’s mood
2.Wondering and thinking of you
3.(I don't stand ) a ghost of a chance
<Personnel>
ラッセル・ジャケーRussell JacquetTrumpet&Vocal
イリノイ・ジャケーIllinois JacquetTenor sax
Arthur DennisBaritone sax
Bill DoggettPiano
Charles MingusBass
Al WichardDrums

上記がCD表記。しかしディスコグラフィーでは若干違っていて、8月2日の録音は2の2.Wondering and thinking of youだけで、1と3は1945年8月中旬の録音でメンバーも若干異なる。因みにトランペットのラッセル・ジャケーはイリノイ・ジャケーの実兄。

”1.Merle’s mood”をなぜ取り上げたのかというと多分ピアノのイントロの後ベースの短いフィル・インがあるからだろう。単純な曲でホーン中心のアンサンブルの後、Tp、P、Tsのソロが続くが聴きどころはやはりイリノイのTsだろう。イリノイらしいフリーキー寸前のソロがいかにもである。ミンガスはダウンビートを強調したサポートを展開している。
”2.Wondering and thinking of you”は一転してヴォーカル物である。ヴォーカルはラッセル。ここでもイリノイのテナーが強力である。
”a ghost of a chance”ヴィクター・ヤング作詞ビング・クロスビー、ネド・ワシントン作曲のスタンダード。この録音はイリノイのテナー・プレイを楽しむためナンバーであろう。ベン・ウエブスターを彷彿とさせるようなバラード・プレイを聴かかせる。
続いてCD収録はセッションである。
1945年 夏 Charles Mingus sextet ロス・アンゼルスにて録音。
<Contents>
4.The Texas hop
5.Lonesome woman blues
6.Swingin’ an echo
<Personnel>
N.R.(Nat)BatesTrumpet
Maxwell DavisWilliam(Brother) WoodmanTenor sax
Robert MosleyPiano
Charles MingusBass
Roy PorterDrums
Oradell MitchellVocal

これに対しディスコグラフィーではまずバンド名をCharles Mingus Sextetteとしている。通常の“Sextet(六重奏団)”ではなく、“Sextette”にはどんな意味が込められているのか?ネット辞書によると「一まとまりとみなされる6人」という意味があるようだ。単なるSextetより絆が強いんだということを云いたかったのか、それとも?
それにしてももうリーダー作なのかという驚きはある。”Excelsior”というレーベルのレコード会社に吹き込まれたことになっているが、これはどう云うレーベルであろうか?不勉強のため分らないが、最近のバンドがお手軽にやる自主録音とは違うような感じがする。
またこのセッションでは4曲が収録されたことになっているがそのうちの3曲である。

”4.The Texas hop”はミンガスの作。アタマのブレークでミンガスのフィルが聴ける。何となくヒット狙いの曲のような気がする。ソロはイリノイっぽい演奏を展開する。
”5.Lonesome woman blues”はグリフィンという人の作ったスロー・ブルース・ナンバー。
”6.Swingin’ an echo”はミンガスの作。ミンガスの作だが後のような変わった展開はない。ベースも通常のリズム・キープ重視パターンのような気がする。テナー・サックスをフューチャーした曲だが、ミンガスのソロも聴ける。

そしてCD1945年最後の収録は1945年12月12日と13日に行われたDinah Washington with Lucky Thompson and his all stars の録音に参加したものである。

<Contents>

7.Beggin’ Mama blues…1945年12月12日
8.Paciffic coast blues…1945年12月13日
<Personnel>…両日とも同じ
Karl GeorgeTrumpet
Jewel GrantLucky ThompsonTenor sax
Gene PorterBaritone sax
Milt JacksonVibraphone
Wilbert BrancoPiano
Charles MingusBass
Lee YoungDrums
Dinah WashingtonVocal

この2曲はCDとディスコグラフィーの記載がほぼ一致している。ディスコグラフィーによるとこのダイナ・ワシントンを中心にしたセッションは3日間12月10日、12日、13日行われ各日4曲計12曲が録音された。
”7.Beggin’ Mama blues”ここでもミンガスは堅実なプレイに徹している。
”8.Paciffic coast blues”これもブルース・ナンバー。前曲7と8はミンガスの作。当時ダイナ・ワシントンがどこまでスターになっていたかはこれからの検証だがもうこの時点で次作を女性シンガーに歌わせるとはやはり只者ではないと感じさせる。

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第63回2014年8月10日

チャールス・ミンガス 「ザ・ヤング・レベル」Vol.3

チャールス・ミンガス入門その4 1946年

 


ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。
写真は8月8日に散歩した時のものです。杉などが多いところです。
進み方の遅い台風11号は各地で大変な被害をもたらしているようです。僕の住む地域は今日(8/10)風雨が強く外出するときは難儀をしましたが、それほど大きな被害はなくやり過ごすことができました。




















近況を少し書いてみようと思います。何の興味もないって?それはそうだと思いますが、少しばかりおつきあいを…。
僕はこの3月末いわゆる年度末に定年退職し現在は再雇用の契約社員として依然と同じ職場で働いています。退職前と今では何が変わったかというと、具体的に一番変わったのは、給料です。何せ正社員時代の約3分の一です。そして正社員時代も決して高額な給与ベースではありませんでした。
僕の勤める会社でこの4月にて年を迎えたのは4人です。うち1人が再雇用制度を利用せず退社しました。実はその唯一辞めた方が最も社歴が長かったのです。僕を含めその他の3名は中途採用者です。辞められた方のみがプロパーでした。
僕はちょっと機会があり、その辞められた方と話す機会がありました。その方曰く「絶対今の会社を辞めない方が良い」ということです。その方は大学卒業後新卒として会社に入社し、38年間勤めました。その方は自分がこの会社しか知らない「井の中の蛙」と思っており、今更ですが他の会社を経験したい、他の視線を持ちたいということで再雇用に応募しないと言っていました。そして別の会社の入社試験(もちろん中高齢者向き)を受けているようですが、なかなか世間は厳しい、以前に比べ3分の一に減った今の年収を出す会社は少ない、景気回復などという話も聞くがそれは世間をインフレ調に持っていきたい自民党の策略ではないか、世の中は相も変わらず不況だと言っていました。景気がいいのは一部の企業だけでしょう。僕等のような中高年には縁遠い話のような気がします。










第63回Charles Mingus “The young rebel” Vol.3
チャールス・ミンガス入門その4 1946年

PROPERBOX 77 CD

「ザ・ヤング・レベル」CDVol.1・ジャケット

「これはデジャヴか?」と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、安心してください、そうではありません。レッキとした(?)ジャズ・ディスク・ノートの第63回です。今回またも3連続で同じCDを取り上げてしまいました。マイルス・ディヴィスとの共演で1946年と思われるBaron Mingus presents his symphonic airsを取り上げました。ここで他の作品を取り上げると中途半端な感じがするので1946年の他の動きも見ておこうと思います。しかしCD4枚組のまだ。

1946年のミンガスの吹込みは“Jazz discography project”に11のセッションが記録されている。この内CDには前回マイルスとのレコーディング(CDは否定)以外には2つのセッションが収録されている。まず、ディスコグラフィー記載の11セッションを並べてみる。○の数字がCD収録セッションである。

1.1946年1月 Wilbert Baranco and his rhythm bombardier CD未収録
2.1946年1月 Ivie Anderson and her all stars CD未収録
.1946年初期 Charles Mingus and his orchestra
  全4曲録音中3曲を収録
4.1946 or 47 or 49年 Baron Mingus and his rhythm
ァ1946 or 47 or 49年 Baron Mingus presents his symphonic airs
前々回取り上げたMiles Davis参加と思われる録音。
6.1946年春 Howard McGhee and his orchestra
7.1946年4月26日 Lady Will Carr and her trio
8.1946年4月 Baron Mingus and his octet
.1946年5月6日 Baron Mingus and his octet
10.1946年後半 Gene Morris quintet
11.1946年 Jazz at the Philharmonic

収録されていないセッションについてはコメントできないので、収録されているに付いて。
CDの記載によると、1946年1月 Charles Mingus sextette
ロス・アンゼルスにて録音された3曲を収録(ディスコグラフィーでは4曲録音と記載)。
<Contents>
9.Ain’t jivin’ blues
10.Shuffle Bass boogie
11.Weird nightmare

<Personnel>
Karl GeorgeJohn PlonskyTrumpet
Henry CockerTrombone
Willie SmithAlto sax
Lucky ThompsonTenor sax
Gene PorterBaritone sax
Wilbert BarancoPiano
Charles MingusBass
Lee YoungDrum
Claude TrenierVocal
となっている。
しかしディスコグラフィーでは若干違っている。録音がロス・アンゼルスで行われたというところは同じだが、録音は1946年の初めとし、バンド名はCharles Mingus and his orchestraとなっている。
CD記載のメンバーは10人で、そもそも6重奏団ではない。CDの記載ミスか?
メンバー自体は双方そう大きく異ならず、相違点は2点。
1.ディスコグラフィーではAlto saxにJewel Grantが加わり2名である。
2.ディスコグラフィーではGuitarにBuddy Harperが加わったことになっている。

3曲ともミンガスのオリジナルである。先ず思うのは当時ミンガスは23歳、初レコーディングから1年くらいの若造である。前回取り上げた45年の初リーダー録音と同じExcelsiorというレーベルに行われた。Excelsiorというレーベルはどんなレーベルなのであろうか?西海岸のマイナー・レーベルとは思うが…。
初録音にもヴォーカリストを入れているが、今回の録音にも2曲にヴォーカルを入れている。あまりミンガスらしくない感じがするが、この頃は好みだったのだろうか?それともレコード会社の要望か?こう云った辺りを評論家の先生にはちゃんと検証してほしいのである。
9.Ain’t jivin’ blues…イントロに短いミンガスのフィルが入る。その名の通りブルースであるが、P、Tpの1コーラスずつソロを取る。歌バックのアンサンブルが面白い。
10.Shuffle Bass boogie…ノリの良いブギ・ウギ調の曲。ミンガスのソロがフューチャーされる。聴きどころの多いソロだ。
11.Weird nightmare…当時のティン・パン・アレイのような感じがする。売れ筋狙いだったのだろうか?

続いて.についてCDでは以下のようなデータが記載されている。
1946年4月20日 Baron Mingus and his octet ロス・アンゼルスにて録音された4曲を収録(ディスコグラフィーでは5曲録音と記載)。
<Contents>
12.Make believe
13.Bedspread
14.Honey , take a chance with me
15.This subdues my passion

<Personnel>
Karl GeorgeJohn AndersonTrumpet
Britt WoodmanTrombone
Buddy ColletteAlto sax
William(Brother) WoodmanTenor sax
UnknownBaritone sax
Buddy HarperGuitar
Lady Will CarrPiano
Charles MingusBass
Lee YoungDrum
Claude TrenierVocal
まずディスコグラフィーでは録音日が異なり、46年5月6日となっている。他に異なる点は、
1.ディスコグラフィーでは、TrumpetはKarl Georgeのみ。
2.ディスコグラフィーでは、TromboneはBritt Woodmanではなく、Henry Cokerが担当。
3.ディスコグラフィーでは、Alto SaxはBuddy Colletteではなく、Willie Smith。
4.ディスコグラフィーでは、Tenor SaxはWilliam(Brother) Woodmanではなく、Lucky Thompson。
5.ディスコグラフィーでは、Baritone saxは入っていない。
6.ディスコグラフィーでは、GuitarにIrving Ashbyが参加したことになっている。


12.Make believe…ミンガスの作、Claude Trenierの歌入り。当時のポップ・チューンのような気がしてならない。
13.Bedspread…Collette作となっているが、Buddy Colletteのことか?何となく昔のエリントン風なアンサンブルがあり、Tp、Ts、Tb、P、As、Bの短いソロがありアンサンブルに戻る。
14.Honey , take a chance with me…ミンガス作、歌入り。間奏部のアンサンブルとベース・ソロという組み合わせは変わっている。その後のアルト・ソロもいい感じだが、これも当時のポップ・チューンのような気がしてならない。当時は一般受けを狙っていたのだろうか?
15.This subdues my passion…ミンガス作。何となくエリントンの「チェルシーの橋」を思わせるような曲。アルトもホッジス風だ。

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第64回2014年8月14日

カーメン・マクレエ 「アフター・グロウ」



ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

今年のお盆休みは8月8日から16日までと長い期間とれるので、かなりの渋滞が予想されるお盆本番を前8月11日から郷里の仙台へ行ってきました。と言ってももう仙台に家はないのでホテルへ泊まり、墓参りをし、親戚を訪ね、高校からの親友と旧交を温めるのが目的です。
写真は休憩を取った多分福島県の東北自動車道のどこかのサーヴィス・エリアで付近の山を写したものです。この時大失敗をやらかしました。しばらく使っていた小銭入れを失くしたのです。小銭入れと言っても500円硬貨が3枚以上入っていたので多分2,000円くらいは入っていたと思います。この写真を撮る前に細かいお金でペットボトルのお茶を買ったのははっきりしているので、このサーヴィス・エリアで失くしたものと思われます。しかしそれ以上に居たいのは、失くした小銭入れは二人の娘が誕生日にプレゼントしてくれたポール・スチュアートのもので、結構気に入っていたものだったことです。早く娘に謝らなければなりません。酔ってもいないのに財布を無くしたのは初めての経験です。歳のせいでボケたのでしょうか?情けない!













仙台・文化横丁 仙台に着いた8月11日は、道が混んでいて到着が予定より遅れたので、1軒だけ親戚に挨拶をし、ホテルに入りました。呑兵衛夫婦の我々は、早速夕食をと仙台の飲み屋街へ繰り出しました。向かった先は昭和の匂いがプンプンする文化横丁の「源氏」という居酒屋です。太田和彦さんの「居酒屋放浪記」などで有名なお店で、一度行ってみたいと思っていた店です。文化横丁からさらに入ったちょっとわかりにくい処にお店はあります。僕は仙台市で生まれ育ちましたが、大学から東京に出たので、実は仙台のお店はあまり知りません。帰郷した時もどちらかというと友人宅で飲んだりすることの方が多く、外に飲みに行くということはあまりありませんでした。











「源氏」の入り口
「源氏」は20人も入ればいっぱいくらいのカウンターだけの小さなお店です。割烹着を着た品の良い美人女将が一人で取り仕切っています。我々はまず生ビールでのどを潤し、地元「浦霞」の純米酒、秋田「高清水」の初しぼり、などを頂きました。つまみの注文ももちろんできるのですが、お酒を1合注文するとおつまみが1品付いてくるという珍しいシステムで、1杯目が「ホヤの燻製」、2杯目で「冷奴」、三杯目で「刺身(この日はカツオとシメサバ)」、4杯目は「味噌汁かおでん」です。普通ここまでらしいのですが5杯目を注文してしまった呑兵衛のわが夫婦には特別に「鮭とば」を出してくれました。客層は地元のサラリーマンとネットで調べてきた観光客という風情の若者という珍しい取り合わせでした。。

仙台・飲み屋街 仙台の皆さん、今日も元気に飲んでいるかな?また飲み行くよ!













第64回Carmen McRae “After glow ”

ヴィクター音楽産業 日本再発盤 MCA-3085(Stereo)


「アフター・グロウ」レコード・ジャケット

<Contents>

A面
B面
1.アイ・キャント・エスケープ・フロム・ユー (I can’t escape from you) 1.イースト・オブ・ザ・サン (East of the sun ( west of the moon))
2.今日あった人 (Guess who I saw today) 2.イグザクトリー・ライク・ユー (Exactly like you)
3.マイ・ファニーヴァレンタイン (My funny Valentine) 3.オール・マイ・ライフ (All my life)
4.リトル・シングス・ザット・ミーン・ソー・マッチ (The little things that mean so much) 4.絶体絶命 (Between the devil and the deep blue sea )
5.アイム・スルー・ウィズ・ラヴ (I’m thru with love) 5.ドリーム・オブ・ライヴ (Dream of live)
6.うまくやれよ (Nice work if you can get it) 6.パーディド (Perdido)

<Personnel>

 
カーメン・マクレエCarmen McRaeVocal&PianoPiano…A-1、4、B-2、6
レイ・ブライアントRay BryantPiano
アイク・アイザックスIke IsaacsBass
スペックス・ライトSpecs WrightDrums
1957年3月6日ニュー・ヨークにて録音

以前にも書いたが僕はこのカーメン・マクレエに対してまだレコードも持っておらず、まともに聞いたこともない時期から勝手に“知性派”というイメージを持っていた。僕はどうもこの“知性派”という言葉が苦手で、知性はピアニストと言われるビリー・テイラーもなかなか聴く気にならなかったほどだ。しかし「マクレエ=知性派」というイメージは勝手に自分が作り上げたものだということに気づき、やっと最近と言っても10年くらい前(もっと前かな?)に買った初めてのマクレエのレコードがこの「アフター・グロウ」である。
このレコードは確か以前は「ステージもすんで」というタイトルで出ていたような気がする。粟村師匠も「デッカ盤では一番良い。少々アクの強いきらいはあるが彼女のピアノ・ソロも聴ける傑作である」と太鼓判を押している。
色々総合すると、マクレエはデビューはベスレヘムで、その後55年にデッカ(MCAに買収される)に移り58年まで在籍、その後キャップに移っているようだ。デッカでの第1弾は55年録音の「バイ・スペシャル・リクエスト」、そして「トーチ!」、「ブルー・ムーン」、サミー・デイヴィス・ジュニアと共演した「ボーイ・ミーツ・ガール」と続きこのアルバは第5作に当たるという。
ベースに隠れるアイザックス 硬い表情のライト さて、以前は原題“After glow”を「ステージもすんで」と訳していたわけだが、現在はそのまま「アフター・グロウ」としている。“Glow”は白熱などという意味のようなので、かつては「白熱のステージを終えて」、「ステージで燃えた後で」と解釈されたのだろう。ジャケットを見るとマクレエはリラックスした様子であり、「ステージもすんで」というタイトルを納得していた。しかし不思議なのはバックを務めるレイ・ブライアント、ベースのアイク・アイザックス、ドラムのスペックス・ライトの表情が硬い。ベースのアイザックなどは顔を隠しているようですらある。不思議だなぁ。
ところで、FMなどで以前も聴いたことのある記憶はあるのだが、初めてレコードを買って聴くマクレエはどうだったか?ズバリ「素晴らしい」のである。はっきり言ってこのレコードに針を落とし曲が流れだすと、“知性派”もテクニックも何も関係なくなった。「ステージもすんで」というタイトルからリラックス・ムード漂う内容かと想像していたのであるが、緊張感あふれる雰囲気の下じっくりと歌いこまれるバラードは正に心にしみってくるような味わいである

まあともかく曲を聴いていこう。

A-1アイ・キャント・エスケープ・フロム・ユー (I can’t escape from you)
レオ・ロビン作詞、リチャード・A・ホワイティングの作曲で、1936年の映画「愉快なリズム」の中でビング・クロビーが歌いヒットしたという。
レコード解説は青木啓氏はヴォーカル物の解説では定評があるが、マクレエのしゃれた歌ときれいなタッチのピアノが楽しめるとしている。このヴォーカルはしゃれているのだろうか?「あなたからは逃れられないのね」としゃれているというよりしんみりしているように聴こえるのだが。解説ではピアノ・ソロとしているがベース、ドラムも入っているように聞こえる。

A-2今日会った人 (Guess who I saw today)
エリス・ボイドとマレー・グランドの共作という。1952年のショウ「ニュー・フェイス・オブ・1952」からのナンバーという。解説氏は夫の浮気の現場を見てしまった妻が帰ってきた夫をじわじわと締めるバラードという。そんなバラードだろうか?
わざとしゃれて日本語のタイトルを「今日会った人」としているが、直訳だが「今日、誰を見たと思う?」という方が感じが出ると思う。遅く帰ってきた夫に、妻が街に出かけ、たまたまバーに立ち寄った。そこである恋人を見たの。二人は恋に落ちていたわ。二人は私に気付かずバーを出て行った。〜」と続き最後に「私が見たのは誰だと思う」と繰り返す。そして最後に「私が見たのはあなたよ」と。こういう歌は歌い手がどういう解釈でどう歌うかですべてが決まると思う。解説氏が言うようにじわじわと締めて「浮気はやめた」と言わせるのもありだと思うがここは違うだろう。
「私が見たのはあなたよ」と歌うマクレエの悲痛さはどうだ。知らなかったフリをして今までの生活を続けるという手もある。しかしこの歌の主人公、マクレエが取り組んだ主人公は破局を覚悟で、「私が見たのはあなたよ」と叫んだのだ。劇的なエンディングではないか?これを云ってしまえば二人は破局なのだ、しかし敢えて言うことにした、そこまで話をドラマティックに展開していく力量を評価すべきだろう。

A-3マイ・ファニーヴァレンタイン (My funny Valentine)
ロレンツ・ハート作詞、リチャード・ロジャーズ作曲の大傑作、超有名曲。1937年のミュージカル・ナンバーというが、この曲も内容は複雑である。その複雑な心理的な歌をドラマティックに表現している。マクレエの力量のすごさが分かる。

A-4リトル・シングス・ザット・ミーン・ソー・マッチ (The little things that mean so much
テディ・ウィルソンが1939年に作曲しハロルド・アダムソンが詞を付けたものという。マクレエはテディの前夫人アイリーンに見い出されたという。ピアノもマクレエ。この歌も内容が複雑そうである。こういう曲こそ対訳が欲しい、僕の英語力では付いて行けない。

A-5アイム・スルー・ウィズ・ラヴ (I’m thru with love)
ガス・カーンが作詞し、マッティ・マルネックとファッド・リビングストンが作曲した1931年のヒット・ソング。後の59年マリリン・モンローが「お熱いのがお好き」で歌ったことがあるという。「あなたでなければ誰もいらいない。恋にはさよならするわ」という大意と思うがあっているだろうか?

A-6うまくやれよ (Nice work if you can get it)
アイラとジョージのガーシュイン兄弟の名作。1937年の映画「踊る騎士」の主題歌。A面唯一のスインギーなナンバー。マクレエは1973年と74年に吹き込んだアルバム“All the things you are”でも歌っている。お気に入りなのだろう。


サラ・ヴォーン・イン・ハイファイ B-1イースト・オブ・ザ・サン (East of the sun ( west of the moon))
ブルックス・ボウマンの1934年の作。Sarah Vaughnも第23回で取り上げたの1950年の作品“In Hi-Fi”で取り上げている。サラは低音を活かし、力のこもった歌いぶりだったが、マクレエはスインギーな展開にしている。

B-2イグザクトリー・ライク・ユー (Exactly like you)
ドロシー・フィールズ作詞ジミー・マクヒュー作曲の1930年のショウ・ナンバーだという。ピアノもマクレエ。ユーモラスな曲だというがスインギーなナンバーに仕上げている。ピアノ・ソロもスインギーで素晴らしい。声が金属的と言われるのはこういう曲を歌った時ではないかと思う。

B-3オール・マイ・ライフ (All my life)
シドニー・ミッチェル作詞、サミー・ステップ作曲の1936年の映画の主題曲。当時エラ・フィッツジェラルドをフューチャーしたテディ・ウィルソンのレコードが評判となったという。B面はスインギーなナンバーが多いが、この曲はしっとりと歌っている。

B-4絶体絶命 (Between the devil and the deep blue sea )
テッド・ケーラー作詞、ハロルド・アーレン作曲の1931年のショウ・ナンバー。これもスインギーなナンバー。珍しくスキャットを披露する。

B-5ドリーム・オブ・ライヴ (Dream of live)
マクレエ自身が編曲者ルザー・ヘンダーソン・ジュニアと共作したバラード。

B-6パーディド (Perdido)
1942年デューク・エリントン楽団のトロンボーン奏者ファン・ティゾールが作曲、2年後にはリー・レングスフェルダーとアーヴィング・ドレイクが詞を付けたものという。最後もスインギーなナンバーで締めくくる。エンディングのスキャットが小粋である。

マクレエという人は歌詞を大事にする歌手と言われる。マクレエは歌詞を読みそこに一つのドラマを見い出し、そのドラマを再現することが彼女にとって歌うということなのではないだろうか。

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第65回2014年8月19日

ディジー・ガレスピー 入門その1「ディジー・ガレスピー・イン・ベルリン」



ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

お盆交通渋滞を避けるため、早めに郷里に向かい13日に帰ってきました。行くときはやはり交通渋滞があり時間がかかりましたが、帰りの13日はスムーズに帰ってくることができました。
テレビのニュースを見ると連休最終日の8月17日日曜日の渋滞は大変なものだったようです。これまでは前々日16日の土曜日が混雑のピークになるはずですが、きっと渋滞に嫌気がさした人たちは最終日が空いていることをこれまでの経験から知っていて勝負に出たのではないでしょうか?正式なNEXCO東日本などの見解を聞いていませんが何となくそんな感じがします。
左の写真は8月15日終戦記念日午前中に散歩に行った時の写真です。地元に帰ってきていつもの散歩道をゆっくりと歩くとき、「ああ、無事に帰ってこれたな」とホッとします。















昨年5月6日の枝垂れ桜 今年8月13日の同じ枝垂れ桜 今回仙台でお世話になったホテル名物は中庭の枝垂れ桜です。左がこの間泊まった8月13日の写真、右が昨年5月6日の写真です。来年もきっと見事に咲いてくれることでしょう。













第65回Dizzy Gillespie “The Dizzy Gillespie reunion big band”
The way to Dizzy Gillespie Vol.1

レコード…MPS records YS-2305-MP(日本盤)
CD…Live in Berlin MPS 060251712677(輸入盤)


「ディジー・ガレスピー・イン・ベルリン」レコード・ジャケット

<Personnel>

Victor Paz 
ディジー・ガレスピーDizzy GillespieBand leader&Trumpet
ジミー・オーエンスJimmy OwensTrumpet
ディジー・リースDizzy ReeceTrumpet
ヴィクター・パズVictor PazTrumpet
ステュ・ヘイマーStu HaimerTrumpet
カーティス・フラーCurtis FullerTrombone
トム・マッキントッシュTom McIntoshTrombone
テッド・ケリーTed KellyTrombone
クリス・ウッズChris WoodsAlto Sax
ジェームス・ムーディJames MoodyTenor Sax&Flute
ポール・ジュフリーPaul JefferyTenor Sax
サヒブ・シハブSahib ShihabBaritone Sax
セシル・ペインCecil PayneBaritone Sax
マイク・ロンゴMike LongoPiano
ポール・ウエストPaul WestBass
キャンディー・フィンチCandy FinchDrums

<Contents>

A面
B面
1.シングス・トゥ・カム (Things to come) 5:29 1.コン・アルマ (Con alma) 10:15
2.ワン・ベース・ヒット (One bass hit) 6:35 2.シングス・アー・ヒア (The things are here) 7:40
3.フリスコ (Frisco) 7:55 3.テーマ−バークス・ワークス (Theme-Birks works)
録音日…1968年11月7日 ベルリン・ジャズ・フェスティヴァルにて実況録音

最近の仙台ヤマハ…8月11日撮影 僕が初めて買ったディジー・ガレスピーのアルバムである。チャーリー・パーカーとの歴史的なコンボではなくビッグ・バンドによる録音である。
このアルバム購入のきっかけとなったのは、高校時代にFM放送でガレスピーの“Manteca”を聴いたことであった。アフロ・キューバンのリズムに乗った正に熱狂的な演奏に興奮し、小遣いを貯め直ぐに仙台のヤマハへ向かった。しかし残念なことにその時仙台のヤマハには、ガレスピーの“Manteca”を収録したアルバムが無かったのである。ガレスピーは“Manteca”を何度も録音しているが、その時のヤマハにはいずれのアルバムも置いていなかった。
しかし僕の頭は既に「ガレスピー=ビッグ・バンド=熱狂・興奮」となっていたので、もうどうにも止まらず当時発売されたばかりのこのアルバムを購入することになった。結果、アフロ・キューバンのリズム物はなかったが、これはこれで素晴らしいアルバムであり、内容には満足、毎日可能な限りステレオのヴォリュームを上げ聴いていた。
以下はアルバムの日本語版解説から得た知識である。
毎年11月に行われる「ベルリン・ジャズ・フェスティヴァル」には目玉となる企画があるという。1968年の目玉企画は、ディジー・ガレスピーの再会ビッグ・バンドであったという。
レコード中央下部の帯 さてこの「再会ビッグ・バンド」とはどういう意味であろう。CDには何も書いてないがレコードにははっきりと“20th and 30th anniversary”と記してある。
まず20thであるが、ガレスピーは1948年初めてビッグ・バンドを率いてパリのサル・ブレイエルで講演を行った。これは、ヨーロッパにモダン・ジャズがもたらされた最初の歴史的な出来事であったという。この時のバンドというのが、ジョン・ルイス、ミルト・ジャクソン、ケニー・クラークといったモダン・ジャズの巨人たちを擁したすごいバンドだった。
そして30thであるが、彼自身も忘れていたことだが、1938年テディ・ヒル楽団の一員としてヨーロッパに渡っていたのである。その時はまだ無名だったが、あるフランスのドラマーが書き残しているという。
「ヒル楽団には将来恐るべしと思わせる若いトランぺッターが一人いる。レコーディングの機会を作らなかったのは残念至極だ。確かガレスピーとかいう名前だったが…」。
日本盤裏面 僕はこういう記念とはいえ、ヨーロッパの人たちが芸術にかける気持ちというのは恐ろしいものだと感じるのである。ガレスピーほどビッグ・バンドにあこがれたミュージシャンはいないといわれる。常にバンドを組む時はビッグ・バンドを目指し、どうしても状況が許さない場合はコンボに切り替えた。こういうことをよく知っているベルリン・ジャズ・フェスティヴァルの企画者ヨアヒム・E・ベーレントはしばらくの間ビッグ・バンドを持てないでいるガレスピーに最高のビッグ・バンドを編成して心行くまで吹きまくってもらおうと考えた。
この時も1年以上前から準備を進め、初期ガレスピー楽団の名アレンジャーギル・フラーに依頼し、選曲・編曲、および過去三世代に渡るガレスピー楽団員を集めた。そして数人の若手も起用し、ヨーロッパへの出発前に5日間に渡るリハーサルを行う。そしてイギリスへ渡り、二人のサイドメンを追加して、リハーサルを行い、ベルギー、デンマーク、スウェーデン、フィンランド・イタリアと巡演し、最後にベルリンへとやってきたのである。この頃にはメンバー間の意思の疎通もスムーズな最高の状態に仕上がっていたことだろう。
CDジャケット 「今のバンドに付いてどう思いますか?」というインタビューでの質問を受け、返したガレスピーの答えはありきたりのものではなかった。「前の方が良かった」などと答えるわけはないが、「1948年以来ベスト・バンド」と答えている。ガレスピーは1948年以来それまでに短い期間ではあるが、ビッグ・バンドは率いていないわけではない。それも50年代中期には国務省の依頼により中近東、南米巡演のビッグ・バンドも持っていたそれをも外して「ベスト」と言っているのだ。悪いわけがない!このアルバムは、音質の劣化を恐れてCDも購入した。右がそのCDですが、輸入盤で何の説明もないそっけないものです。
とはいうもののこのアルバムが日本で高く評価されているという印象がない。しかし世界的にはかなり高い評価を得ているのではないだろうか。そう感じるのはYahoo!などで”The Dizzy Gillespie reunion big band”で検索してみればわかる。このアルバムで一つの項が立っているのである。
また左のジャケット裏面の写真が正にベルリンでのコンサートの風景かどうかは分からないが、注目すべきはテレビらしい動画撮影カメラとそのスタッフがいることである。とにかく”The Dizzy Gillespie reunion big band”の映像はあるはずである。と力まなくても1968年のガレスピー・ビッグ・バンドの映像はたくさんYou tubeに上がっている。今回初めて知った。便利というか恐ろしい世の中になったものだ。

まあともかく曲を聴いていこう。


A-1シングス・トゥ・カム (Things to come)
1946年7月にミュージッククラフト盤に吹き込まれたガレスピーの傑作。編曲は鬼才ギル・フラー。評論家ヨアヒム・ベーレントはその著「ジャズ〜歴史と鑑賞」の中で、これをビッグ・バンド・ジャズの究極の姿であるとしている。
僕はアマチュアのビッグ・バンドでトランペットを吹いている知り合いに聴かせたことがある。彼は若くこの演奏を知らなかった。彼曰く「何という速さ!何というアンサンブル!意味のない複雑さではない素晴らしい複雑さ!すごい!ぜひ録音してください」と感激していた。本当にその通り、圧倒されます。
ムニャムニャとしたガレスピーの挨拶が始まりる。何を言っているのか英語力が無く分からないのが残念。ただジョークとして「よく早くスクールを抜けてこれたな」とかんきゃに語りかけて笑いを取る個所があると思うのですがどうでしょう?そうしたムニャムニャ挨拶の後、一転してアタマから火の出るようなスピード感あふれる伝説の名曲が爆発するのである。これも演出の妙であろう。

A-2ワン・ベース・ヒット (One bass hit)
タイトル通りベースをフューチャーした曲でかつてレイ・ブラウンが演じた役割をポール・ウエストが演じている。これも編曲はギル・フラー。
ウエストのベースが聴きどころなのは当然だが、なんといってもギル・フラーの編曲が素晴らしい。

A-3フリスコ (Frisco)
ピアノのマイク・ロンゴの作編曲。タイトル「フリスコ」とはサン・フランシスコのことだという。8ビートの曲でアンサンブルの後ジェイムス・ムーディのエモーショナルなフルート・ソロとなる。こういう曲のアンサンブルではバリトン・サックスというのは威力を発揮するなぁ。
中間部のアンサンブルの後、御大ガレスピーのソロとなるが、初めは抑え気味にしかもソウルフルなスタートから次第に盛り上げていく。後半部ののアンサンブルはこのバンドでしか聴けない圧倒的な盛り上がりである。短いがエンディングのTpと何か(Flと思っていたがどうも違うようだ)のデュエットは背筋がゾクッとするようなキュートなカッコよさである。


B-1コン・アルマ (Con alma)
ガレスピーの作でレイ・ブライアントなどいろいろなプレイヤーに取り上げられスタンダード化している。テーマ演奏部にはカウベルを起用したりおしゃれな雰囲気を出している。ちょっとラテン・フレーヴァ―を感じさせる。まずソロはアルトのクリス・ウッズで、続いてマイク・ロンゴのピアノ、御大ガレスピーと続く。

B-2シングス・アー・ヒア (The things are here)
A面1曲目”Things to come”に対する答えのような題名。これもガレスピーの作。
スリリングなトランペット・セクションから、ガレスピーのソロが始まり、若手ジミー・オーエンスのフリューゲル・ホーンとデュエットを演じ、オーエンス⇒ガレスピーとソロが続く。
次にクリス・ウッズとジェームス・ムーディのアルト・デュエット、続いてトロンボーン多分カーティス・フラーとテド・ケリー、さらにサヒブ・シハブとセシル・ペインのバリトン・デュエットとなり、ドラム・ソロ
B-3テーマ−バークス・ワークス (Theme-Birks works)
おなじみのガレスピー楽団のクロージング・テーマ。

とにかくビッグ・バンド・ジャズを感じさせてくれる素晴らしいアルバムです。買って損はない1作。

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第66回2014年8月24日

オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド



ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

この土日は友人の別荘に招かれ、山中湖に行ってきました。別荘のある場所は標高1100メートル、都会の暑さと比べると涼しい別天地でした。ただ天候は晴れたり曇ったり一時小雨という変わりやすいもので外に出るときは傘を持つべきかどうかなど少々悩ましいものがありました。写真は別荘地の山の頂上から山中湖を望んだものです。木々が多くて山中湖はよく見えません。

















前菜 パスタ ローストビーフ 今回ご招待いただいたのは我々夫婦ともう一組のご夫婦です。別荘のオーナー夫婦を含め3夫婦はもともとテニスを通じて知り合い、かれこれ四半世紀に渡ってお付き合いをしてきました。我々以外の2組のご夫婦はテニスもうまく、僕など足手まといの感もあるのですが、今回も3時間ほどコートを借りてテニスを楽しみました。
また今回はもう一つ別の楽しみもありました。オーナーのご主人はしばらく前から料理にはまりその腕前を披露してくれるというのです。何とイタリアン・レストランで修業までしていたと聴いてビックリしました。そのお料理が右の写真です。左は前菜、ナスをバルサミコ酢とワインに1日漬けたものに生ハムを載せた料理やスペイン風オムレツなどのプレート、真ん中が夏野菜のパスタ(パスタはもう1種類あった)、右端がローストビーフすべて美味!ワインが進んで本日は軽い二日酔いです。
このご主人は広告のデザイン事務所を経営されていました。今度レストランをオープンすることを考えていると聞いてまたビックリです。因みに歳は僕より一つ下の59歳、決断力と実行力のある方なので来年あたりはお店を開いているかもしれません。





第66回Original Dixieland Jass Band

CD…”Dixieland Vol.1” AudioPark APCD-6001
「白人草創期ジャズ音楽 ディキシーランド」CDジャケット

<Personnel>

 
ニック・ラロッカNick LaRoccaCornet
エディー・エドワーズEddie EdwardsTrombone
ラリー・シールズLarry ShieldsClarinet
ヘンリー・ラガスHenry RagasPiano
トニー・スバーバロTony SbarbaroDrums

<Contents>

1.ダークタウン・ストラッターズ・ボール (Darktown strutter's ball)
2.ディキシー・ジャズ・バンド・ワン・ステップ (Dixie jass band one step) 


録音日…1917年 ニューヨークにて録音


前世紀の20世紀は「戦争の世紀」と言われます。たくさんの戦争がありましたが、規模が大きかったのは第一次と第二次の世界大戦です。1914年6月28日オーストリアの皇太子が暗殺されるサラエボ事件が起きます。これに対してオーストリアがセルヴィアに宣戦布告し第一次世界大戦へと拡大していきます。そして1917年4月6日アメリカがドイツに宣戦し戦況のゆくへが傾きます。1918年11月第一次世界大戦の休戦協定が締結され大戦は終わりを迎えます。今年は第一次世界大戦が始まって100年目に当たります。
アメリカがドイツに宣戦した1917年ジャズの世界でも大きな出来事がありました。史上初めてジャズの演奏が録音されたのです。1917年1月30日ニューヨークにおいて大手レコード会社コロムビアがスタジオでO.D.J.B.(オリジナル・デキシーランド・ジャズ・バンド Original Dixieland Jass Bandの略)の演奏を録音したのです。
僕はミーハーなのでこういう録音というのを聴いてみたくて仕方ないのです。聴いたところでどうなるものでもないとは思いつつもレコードやCDを探しました。もちろんオリジナルのSP盤など手に入るはずもありません。そこで見つけたのが今回ご紹介するCDです。
ジャズの起源は19世紀末から20世紀の初頭にかけてニューオリンズを中心とする地域と言われます。ジャズを生み出したのは黒人たちと言われますが、最初のレコードはイタリア系移民2人、アイルランド系移民1人、イギリスからの移民2人のヨーロッパ系移民の白人バンドでした。
ここからちょっとややこしくなります。ジャズのレコードが最初に発売されたのは1917年3月8日でヴィクターからO.D.J.B.の”Dixie jass band one step”と裏面”Liverty stable blues”です。コロムビアがレコードを発売したのは17年5月になってからです。実はこのCDやこの件を扱ったWebなどでは次のような表現をされています。
「最近になってヴィクターの方が実は録音も先でコロムビアの方が後から録音、発売されたことが分かってきた。」
これはどういうことでしょう?これまでは「コロムビアは史上初めて1月30日にジャズ演奏を録音、しかし発売はヴィクターの後塵を拝した」ということかと思っていたら、実は5月に発売されたコロムビアのレコードは2月26日以降の録音だったということであり、史上初ではないということになります。では1月30日のコロンビアのジャズ録音はどうしたのでしょうか?失われたのでしょうか?それとも実際は行われなかったのでしょうか?どうもよく分かりません。
まとめると
ヴィクターは当初トランペットの名手でバディ・ボールデンに次ぐ2代目ジャズ王と言われたフレディ・ケパード(黒人)に録音の話を持ち込みます。しかしケパードはそんなことをしたら自分の演奏方が盗まれると言って断ったということです。そこでヴィクターは録音の依頼をO.D.J.B.に持ち込んだというのです。そして2月26日2曲目の「ディキシー・ジャズ・バンド・ワン・ステップ」と”Liverty stable blues”(CG未収録)を録音、驚異のスピードで3月8日に発売したというのです。そしてこのレコードは大ヒットすることになります。

一方コロムビアはヴィクターの大ヒットを見て慌てて5月に1曲目に収録された「ダークタウン・ストラッターズ・ボール」と裏面の”Indiana”(CD未収録)を発売します。この2曲は1月30日に録音した史上初のジャズ録音と言われてきましたが、実際はヴィクターよりも後の録音ということが最近分かったということのようですが、ではいつ録音されたものなのかは記載がありません。
当時O.D.J.B.がジャズ界においてどのような存在だったのか(ケパードに次ぐ存在だったのか)とか何故ニューヨークレコーディングが行われたのかなど疑問はいくつかありますが今後少しづつ勉強していきたいと思っています。
がともかくこのような貴重な音源が日本で復刻されて購入すれば聴くことができる状況にあるということは素晴らしいことだと思います。

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第67回2014年9月7日

オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド Vol.2
「ザ・オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド」

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。

ご覧いただいているのは先週の日曜日8月31日午前中に散歩に出た時に移しました。先週も今週(9/7)もぐずついた天気で気分もイマイチ盛り上がりません。
盛り上がっていると言えばテニスの全米オープンです。日本人として96年ぶりに準決勝進出した錦織圭選手がランキングNo.1のノバク・ジョコヴィッチを破り初の決勝進出です。まさにスゴイ!!!としか言いようがありません。この中継はWOWOWの独占放送でしたので、加盟していない僕は見ることができませんでしたが、気になって眠れず朝6時に起きてニュースを見ました。このままの勢いで是非日本人初のグランドスラムを奪取してほしいです。がんばれ!K!!。

もう一つ盛り上がっていると思われるのが9月5日(金)から始まった東京JAZZです。僕は職場が会場の東京国際フォーラム近いので、無料の地上広場でのライヴを少しだけ見ました。最初に登場したデンマークのKlezmofobiaというバンドです。民族音楽のようで悪くはないのですが、ジャズではありません。なぜジャズ・フェスティヴァルと銘打ってジャズ以外のバンドを出演させるのかがどうしても分かりません。ジャズ・フェスティヴァルと銘打つならジャズをやるべきだし、違う音楽のバンドが出演するなら違うフェスティヴァル名にすべきだと思います。同様のことは東京JAZZ以外にも行われているようですが。












散歩の途中で見かけた栗 今回のアップは前回から2週間経ってしまいました。なぜ時間がかかったかというとPCがダウンしたからです。8月29日の金曜日にはほぼ内容を打ち込み終わり土日でHTML化してアップしよう、今回は余裕があるぞ、土日は天気が悪そうなのでじっくり取り組める、と思っていたらスリープしたディスプレイが戻りません。翌日はPCの電源を入れても全くディスプレイが反応しなくなりました。全く突然のことです。
僕はホームページなどをやっていますが、実は全くPCには詳しくありません。途方に暮れてPCメーカーのサポート・センターへ電話し指示された通りに修復を試みたのですが、土日月は何の変化もありません。
でどうしたのかというと昨日の土曜日電源を入れると何と普通に立ち上がったのです。そして今日に至ります。今後どうしようと思っているかというと、まずディスプレイが映らなくなる原因がPC本体によるものなのかディスプレイに問題があるのか特定できていません。もし次に映らなくなったら
.妊スプレイを購入した近所のヤマダ電機に持ち込みチェックしてもらう。
▲妊スプレイに問題があると判明したらまだ保証期間内なのでそのまま修理を依頼する。
もしディスプレイに問題が無ければPC本体の問題なのでサポート・センターが言うように初期設定を行う。そ藉設定してもどうにもならないことがあるようです。その場合はPC買い替えということしかないようです。
大幅に収入ダウンした定年オジサンには実にイタイ出費です。





第67回Original Dixieland Jass Band Vol.2

“Original Dixieland Jazz Band in England 1919/20(number 2)”

COLUMBIA ZL-1071(10インチレコード)
「ザ・オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド」レコード・ジャケット

<Personnel>

 
ニック・ラロッカNick LaRoccaCornet
エミール・クリスチャンEmile ChristianTrombone
ラリー・シールズLarry ShieldsClarinet
ビリー・ジョーンズBilly JonesPiano
トニー・スバーバロTony SbarbaroDrums

<Contents>

A面
B面
1.センセイション・ラグ (Sensation rag) 1.アリス・ブルー・ガウン (Alice blue gown)
2.スフィンクス (Sphinx) 2.マイ・ベイビーズ・アームズ (My baby’s arms)
3.バーンヤード・ブルース (Barnyard blues) 3.アイヴ・ガット・マイ・キャプテン (I’ve got my captain working for me now)
4.スーダン (Soudan) 4.アイム・フォーエヴァー・ブロウイング・バブルス (I’m forever blowing bubbles)
5.タイガー・ラグ (Tiger rag)

録音日…1919年2月から1920年7月 イギリス・ロンドンにて録音

前回史上初のジャズのレコードということでO.D.J.B.の録音を含むCDを紹介したが、実は僕は普段あまり聞かないが今日ご紹介する10インチアルバムを持っている。これもやはり高校生の時京都に修学旅行に行った時に買ったものだ。どのお店でなぜこのレコードを買ったかは覚えていないが、「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド」というバンドはとても古いバンドという知識はあって、当時でも余りレコードはレコード店に並んでいないので、貴重盤=将来高値といういやらしい考えがまたもや擡げたのだろう。

ということで今回も引き続きO.D.J.B.を取り上げよう。
レコード・ラベル さてまず僕の持っているレコードだが、日本コロムビアからダイヤモンド・シリーズの1枚として発売されたもののようだ。解説は故野口久光氏で、解説の冒頭に「今から40数年前の1917年の2月24日ジャズ史上初のレコーディングを行ったO.D.J.B.」という紹介があることから、1955年頃までには発売されたレコードと思われる。そして注目は「1917年の2月24日ジャズ史上初のレコーディング」という行で、前回紹介したCDとの記述には食い違いがある。
くどいようだが、前回の記述をまとめるとコロムビアが1917年1月30日に史上初のジャズのレコーディングを行った。しかし先に発売したのはヴィクターで2月26日に録音を行い3月8日に発売した。しかしコロムビアが1917年1月30日に録音したというのは間違いで、どうもヴィクターの後らしいということだった。そしてここでコロムビアは2月24日初録音説が登場(と言ってもこちらの説の方が先に出されただろうが)したことになる。
今ここで僕に結論が出せる訳はないが今後この問題はウォッチして行こうと思う。3年後のジャズ・レコーディング100周年記念イヴェントがあるかどうか分からないが、行われるとすれば新資料などが出てくるかもしれない。是非期待したい。
次にこの注目点はこの録音はO.D.J.B.が1919〜20年にかけてイギリスに滞在中に行われたということである。当時はまだラジオなどのない時代である。1917年に初録音が行われたジャズという音楽をどうしてイギリス人は知っていたのだろうか。いやジャズを知っていて呼んだのではなく、「アメリカ生まれのアメリカで大流行しているジャズという音楽があります。その人気No.1バンドが来英します。」ということだったのだろう。
レコード帯 歴史的名演集とある またこの録音のメンバーは前回の初レコーディング時とはトロンボーンとピアノ2人のメンバーが替わっている。まずトロンボーンであるが、初録音時のエディ・エドワーズは一身上の都合で退団し、エミール・クリスチャンに替わったという。さらにピアノのヘンリー・ラガスは渡英直前スペイン風邪のため急逝する。当初J・ラッセル・ロビンソンが加入したが、ロンドン到着後夫人の急病の報が入り帰国せざるを得なくなる。そのため急遽イギリスのラグタイム・ピアニストであるビリー・ジョーンズを加入させたとレコードの解説にある。僕にとって意外なのはこの時点でイギリスにラグタイム・ピアニストがいたということである。
次にこのレコードは1920年ごろとは思えないくらいに音がいいことに驚く。前回のCDよりはるかに音質が良く聴きやすい。CD同様原盤はSP盤から起こしていると思われるのだが…。
最後に、ジャケットを見ると“In England 1919/20 [Number 2]”との記載がある。ということは[Number 1]が存在するのだろうか?
因みに師粟村政昭氏はその著『ジャズ・レコード・ブック』において、バンドとしてそしていずれのメンバーも取り上げてはいないが巻末の<基本的ジャズ・レコード・ライブラリ 150枚>の1枚として“O.D.J.B. Jazz from New Orleans”(ヴィクター RA-5328)を挙げている。そして僕はこのレコードは見たことが無い。今は貴重品として扱われているのだろうか?

内容に行く前に少し当時のジャズの状況などを書いておこう。と言っても僕に独自の知識があるわけではないので、僕の持っている実に少ないジャズの歴史関係の本の要約ではあるが…。
因みにネタ元は大和明著「ジャズの黄金時代とアメリカの世紀」、油井正一著「ジャズの歴史」、エドワード・リー著「ジャズ入門」、ヨアヒム・E・ベーレント著「ジャズ」、ガンサー・シュラー著「初期のジャズ」などである。


大和明著 「ジャズの黄金時代とアメリカの世紀」

先ず当時のジャズの状況について

1910年代まだ草創期のジャズにおいても、比較的黒人大衆に好まれたブラス・バンドやその系統をひくホットなブルース・フィーリングと力強い集団即興演奏を主体とした演奏スタイルのものとどちらかというと白人向けの上品なソサエティー・バンドの系統をひき洗練された室内音楽的な演奏の2系統のジャズがあったという。つまりニューオリンズで、ジャズを演奏するのは、黒人だけの特権ではなく初めから白人バンドもあったようである。しかし黒人たちが演奏し始めたジャズの元になる音楽をどのような経緯で白人たちが演奏するようになったかは今後の研究課題としたい。

ディキシーランド・ジャズとは

白人ミュージシャン達も黒人たちのジャズ演奏を早い段階から模倣し始め、ジャズの発展の一翼を担うことになった。ディキシーランド・ジャズとは本来黒人ニューオリンズ・ジャズを模倣し、三管編成を主体とした集団即興演奏やソロを交えて進行する、白人バンドの演奏に対して使われた。しかし40年代以降は黒人、白人バンドを問わずこのような初期のジャズ・スタイルを指して使うようになった。
因みにディキシーは米国南部、ディキシー・ランドはニューオリンズ及びその周辺の沼沢地を指す名称。

“Jazz”という言葉の語源

ジャズという言葉の語源については諸説あり定説はない。1915年シカゴで白人バンドを率いていたトム・ブラウンは、この言葉を最初に使ったのは自分であると主張した。しかし既に1913年3月6日発行のサンフランシスコ新報の記事において使用されており、現在わかっている限りではこれが最初にジャズという語を音楽用語として使ったものといわれている。
だがそれ以前から体育競技のスピードとエネルギーを表すスラングであり、性的意味にも使われた“Jass”という語(もっと前にはJasmとかGismと綴られていたという)があった。1917年になると、“Jas”とか“Jass’”“Jaz’”“Jasz”“Jascz”のように様々に表記されて印刷物に定期的にみられるようになった。これらの語はどうやらアフリカやアラビアに起源を津語らしい。また活気ある会話を意味するフランス語の動詞“Jaser”(ジャゼ/速める)に由来する語という説もあるが、どれも決定的な確証はない。
1910年代のあるジャズ・ミュージシャンによれば、ジャズという語は1913年から15年ごろにかけては一般に使われていたという。1910年代も半ばになると、彼らの中には自分のバンド名にJass Bandという名称を付けるものも出てきた。いずれにせよジャズという名称は1910年代半ばに普及していったと思われる。O.D.J.B.も1917年に発売されたレコードにおいては“Jass”と表現していたが、18年に再発売された時には“Jazz”に替わっているという。
しかし一般には10年代前半においては、“ジャズ”という用語はまだまだ世に知られていなかった。

初レコーディングの背景について

1916年にフレディ―・ケパード(黒人)のバンドがニューヨークに進出して成功を収めた時、ヴィクターはレコードの録音を申し出たことがあったことは前回触れた。
一般的には、ケパードが法外な金額を要求したことと、自分のプレイがレコードになって出回ると自分のプレイが盗まれるのではないかと懸念したためこの話は見送られてしまったという記述が多いが、油井氏は録音の話を持ち込んだヴィクターに対するケパードのヤクザまがいの金の要求に恐れをなし翌年O.D.J.B.がニューヨークにやってくるまで録音を見送ったがその主な原因は「金」と書いている。他はケパードの人となり(「クジラの口」というあだ名で獰猛な巨人だった)が中心。油井氏はO.D.J.B.はたまたま初録音という栄誉にありついてだけでジャズ史的に価値のあるバンドではないと判断していたのだろうか?因みに大和明氏の著作でもO.D.J.B.については史上初のジャズ録音を行ったという事実のみで他の記載がない。大和氏も油井氏と同じ考えだったのだろうか?
ついでながら黒人のジャズ・バンドの録音は、1922年6月にキッド・オリーのバンドがロサンゼルスで行うまで待たなければならなかった。また、O.D.J.B.のライヴァルと目されたニューオリンズ・リズム・キングス(New Orleans Rhythm Kings N.O.R.K.と略)の1923年の演奏は前回ご紹介したCDに収録されている。
油井正一著「ジャズの歴史」

バンド<O.D.J.B.>について

大和氏も油井氏と異なり最も多く言葉を費やしているのはガンサー・シュラー氏で、「O.D.J.B.についてこのグループに対して正当な評価が下されたことはほとんどなかった」とし、内容的にはエドワード・リー氏と近い感じもするが、詳細な検討を行っている。
まず、僕は知らなかったことだが、O.D.J.B.というバンドは、これまで極端に貶されてきたのだという。「これまで」とはいつまでかというとシュラー氏が「初期のジャズ」を著わしてその正しい評価を行うまでということだろう。さて貶された原因はいくつかあるが、一つはO.D.J.B.の不遜な態度が挙げられるだろう。
1917年初めてニューオリンズからシカゴを経由し、ニューヨークに進出した白人のジャズ・バンドであり史上初のジャズ録音を果たしたことで、ためらいもなく自分たちを「ジャズの創始者」と称していたという。この主張が全くばかげていることは言うまでもない。
またラロッカとエドワーズは「譜面の読めないピアニストを見つけるまで何人のピアニストを試したかわからないほどだ」といった挑発的な言い回しで大衆をたぶらかし続けたことである。
またラロッカを始めとしてとO.D.J.B.のメンバーは、自分たちは譜面が読めないから自分たちの演奏は事実上その場で即興されたもので演奏ごとの着想に基づくものである(つまりアドリブ)と主張した。しかし彼らの録音は例外なくコーラスの正確な反復であって懸命なる暗記の所産であることは明白であるという。しかしこれらのことはジャズ界に付きものの<吹かし>の一つとも考えられよう。
次に人気取りのためにコメディや田舎風の効果を用いた点で、多くのジャズ評論家はこの点を持って、彼らの演奏を全面的に避難しているようである。<コメディや田舎風の効果>とは楽器による動物の鳴き声などの挿入のことで、O.D.J.B.の楽員は三つの動物の声―馬のいななき、雄鶏の鬨の声、ロバの鳴き声―が自分たちの発明であると主張した。<吹かし>である。
しかしながらプレストン・ジャクソンは、ジョー・オリヴァーがブレイクで「雄鶏や赤ちゃんを模倣したこと…デキシーランド・ジャズ・バンドの楽員たちがオリヴァーの周辺にいて、彼のバンドからたくさんの着想を学び取ったこと」を指摘した。加えてブラスの奏者ならだれもピストン系の楽器では半分のまた3/4のヴァルヴの響きで多様な動物の鳴き声が簡単に出せることは知っている。こうした響きは楽器の初心者だって、ヴァルヴのキーを下まできちんと押さえられない時、或いはヴァルヴが動かなくなるとき発見する音なのだ。従って、ラロッカがこうした響きを発見して曲に取り入れたのは自分が最初であったと主張するのはとんでもない自惚れである。
しかし納屋の動物の鳴き声は、シカゴやニューヨークでのO.D.J.B.の観客にとっては主要な魅力の一つだったという。しかしながら多くの批評家たちはこれらの効果音がO.D.J.B.の音楽において占めた役割を誇張するきらいがあった。実際にはアール・フューラーやルイジアナ・ファイヴのようなO.D.J.B.模倣者たちが、これらの田舎臭い効果音を濫用したのに対し、O.D.J.B.自身はこの効果音をごく控えめに用いたのに過ぎない。というのは一面ではこのバンドの奏者たちの器楽上の技巧が余りに拙かったために、三つのそうした効果音しか作り出せなくて、1曲の演奏では或いはどの演奏でもそれらを機械的に反復することで満足していたからである。
エドワード・リー著「ジャズ入門」 これらのことでO.D.J.B.は大いに批判は受けたものの、20年代におけるジャズの急速な普及に伴って、多くの音楽家たちが新しいジャズの音楽語法やそのもたらす金銭的利益に引き付けられつつあった中で、アームストロングやモートンの水準にははるかに及ばなかったが、彼らは自分たちの楽器では影響力を発揮した指導者であったし、新しいアンサンブルの発想を普及させるうえで多大な貢献を果たしたとしていると評価している。
O.D.J.B.は、その登場の前に北部のキャバレーやダンス・ホールで演奏されていたた礼儀正しい音楽と比べれば、珍しくて前例のないほどけばけばしく、厚顔無恥なまでに粗野な音楽だったという。さらに第一次世界大戦に由来する社会状況の急速な変化もまたそうした要因の一つだった。O.D.J.B.は音楽によってこうした変化を引き起こしたというよりはむしろ、そうした変化を利用し、それを明確にするにふさわしい時期に正に登場したように見えるという。
エドワード・リー氏は、確かに黒人のスタイルを最初に模倣したものとしての彼らの演奏には限界もあり、粗野な点も目立つが、本質的なところも彼らは捉えている。彼らがニューオリンズの名手たちと接しているからであろう。ビートは荒削りであり、ドラマーは黒人のスタイルにみられない一本調子で叩いているが、見事なテンポで演奏している個所もあるし、クラリネットは当時の黒人ジャズの生命とでもいうべきあの刺激的な動きをある程度身に付けているようである。またハーモニーとメロディに関してはしっかりしていると評価している。
O.D.J.B.の歴史は、独学の音楽家たちが徐々に集団を形成して、突然に世界的な名声を獲得し、そして同様に突然の解散があり、その中間には著作権をめぐる百万ドルの訴訟、嫉みによる幾つかのトラブル、アルコール中毒、若年の死などの事件があった。後の売れっ子になったロック・バンドなどによく見られるパターンの先駆けでもあった。
さて、こうしたO.D.J.B.に限らず白人バンドは結局廃れてしまうことになるが、エドワード・リー氏によればそれは彼らが黒人のリズム並びに表現上のテクニックの使い方をしっかりと把握していなかったからである。黒人の使う表現上のテクニックとは一種のレトリック、またリズムのテクニックとはリズムの遊びのようなものとみなしてよいだろう。
特に初期のジャズの中にはっきりと感じ取れる暖かみとユーモアのセンスを作り出しているのはおそらくこの遊びの要素であろうが、20年代の白人バンドは、黒人たちのテクニックを知っており、それがどのように実現されるかも大筋聴きこんでいるのだがうまく行かないことが多かった。白人たちの耳がアクセントと共生とをはっきり区別できるほど鋭くなく、さらにリズムの持続性とリズムの多様性の間のバランスの存在を感知できなかったからであるという。ちょっと難しい話だ。
このバンドのリーダーはニック・ラロッカ(Cor)で、彼はバンドの音楽的インスピレイションの担い手であった。彼の最初のバンド(1908)は、ニューオリンズで既に主流を占めていた小編成のグループで、コルネット、クラリネット、トロンボーン、リズムからなり、ラグタイムを演奏した。ラロッカは当時パート・タイムの音楽家で、「即興演奏」はやれたが譜面が読めなかった。その後練習を重ね、「パパ」・ジャック・レインの様々なパレード・バンドに加わるようになった。
ドラマーの「パパ」・ジャック・レインは、ニューオリンズで最も人気のある白人音楽家であり、1910年までには、これらのバンドは、フランスやドイツの行進曲の演奏をほとんどやめて、ジョプリンの「シャドウ・ラグ」や「楓の葉のラグ」などのラグタイムの曲や「プラリーヌ(Praline)」あるいは「第二のラグ(No.2 rag)」や「ミートボール(Meat ball)」のような昔ながらの通俗音楽などを演奏するようになったという。
ヨアヒム・E・ベーレント著「ジャズ」 後者の2つの曲は後にO.D.J.B.によって採用され、それぞれ「タイガー・ラグ(Tiger rag)」および「馬車屋のブルース(Barnyard blues)」の名前で有名になった。これらの曲が、ラロッカとその他の白人の音楽家たちが、レインのバンドの下で修業を積んだ時期に行事のあるたびにニューオリンズの町を行進した数多の黒人バンドの演奏を聴くことを通じて練習を重ねた曲であったことは間違いない。O.D.J.B.はこのように実際には即興の演奏を行わなかった。
変奏をやろうとした唯一の奏者はドラマーのトニー・スバーバロだけだったというのが真相である。彼はコーラスごとに変奏しただけではなく、ドラムスやカウベルやウッドブロックやシンバルなどのたくさんの楽器を巧妙に組み合わせて、1曲の中でも相当に多彩な演奏を行った。スバーバラの自在な演奏は他の奏者の硬直した演奏と比べると殊更に目立つところがある。例えばラロッカの音域はほぼ1オクターヴに留まるし、リズム面での着想もまた限られていた。それでいて彼は単純なやり方ではあるが、スバーバロを除く仲間の誰よりもリズミックなドライヴ感を表現した。ラロッカはとりわけシンコペイトされた「リード・イン」の楽句において、楽句をしばしばスイングさせる。彼とスバーバロの両者がこのバンドの迫力を作り出したと断定して差し支えない。エドワーズは旋律やリズムの着想の点ではかなり柔軟性に乏しいがこの時期に彼以上のトロンボーン奏者がいたかどうかは疑わしい。エドワーズは「クラリネット・マーマレイド(Clarinet marmalade)」のような曲の場合にはいくつかの相当にきびきびした対旋律をときには作り出すことができた。この曲はもちろんラリー・シールズが得意とした有名な曲で、彼の華麗でしなやかな響きをくっきりと浮き彫りにする。ピアニストのヘンリー・ラガスは、バンドが年にロンドンに向かう直前に死亡した。1917年の録音では彼の存在がはっきりしないために彼の仕事を評価することは難しいが、清潔な音を出す感受性の豊かな奏者であったようである。
1915年にはニューオリンズの町はジャズ音楽で溢れるばかりのありさまで当然町の外部の興行関係者たちがこれに目を付けてシカゴのような都市へ持ち込んだ。しかしこの新しい音楽はシカゴでは未知なものではなかった。というのはピアニストのトニー・ジャクソンやジェリー・ロール・モートンは言うまでもなく、ビル・ジョンソンのオリジナル・クレオールバンド(フレディ・ケパードが在籍していた)、コルネット奏者のティグ・チェンバーやシュガー・ジョニー・スミス、トロンボーン奏者のロイ・パルマ―など−全員ニューオリンズの人間−が皆一時期はシカゴへやってきたことがあったからである。
ガンサー・シュラー著「初期のジャズ」日本語版 いずれにせよニューオリンズには音楽家が過剰にいて極端な競争が行われており、音楽で生計を立てることが困難だったのに対しシカゴは彼らに新天地を提供してくれた。数年たたないうちに多くのニューオリンズのグループがシカゴのグループとサウス・サイドの歓楽街の静かなストリング・アンサンブルに交替することになった。そうしたグループの中にトム・ブラウンのバンドや1916年のO.D.J.B.のような、クレオールや黒人のジャズを模倣する白人たちのグループたちのグループがあったのである。
そのころニューヨークでは、ケパードやその他のクレオールのバンドは本物の成功をまだ収めていなかったのに、1917年O.D.J.B.はニューヨークに進出しコロンバス・サークルにあった「ライゼンウェバーズ・レストラン」に出演、力強く明るい活力にあふれた刺激的な演奏によって、大成功を収めた。O.D.J.B.は、ニューヨークで爆発的な人気を得たのだった。確かに年O.D.J.B.以前にケパードやジェイムス・リース・ユーロップのグループがニューヨークに刺激的な音楽を齎してはいたのだが、O.D.J.B.ほどに活気に満ち元気溢れる音楽をニューヨークの人々は聴いたことが無かった。彼らははほとんどソロのないパンチにとんだコレクティヴ・スタイルで初期のジャズ・スタンダード曲を有名にしていった。その中には「タイガー・ラグ」、「オリジナル・ディキシー・ランド・ワン・ステップ」(1917年録音)、「ジャズ・バンド・ボール」(1919年録音)などがある。これらはこれらは彼らの18番のレパートリーとなり、野口氏によると彼ら自身の作とされた。
また、ニューヨークではシカゴと違って白人にせよ黒人にせよO.D.J.B.以外のニューオリンズの音楽家を聴く機会にかけていた。O.D.J.B.の一見乱雑な集団演奏は、単純な旋律とさらに単純な伴奏のつけられた音楽ばかり長年聞かされてきた後では、全く新しい体験だった。「大衆のダンスが静かで厳粛で優雅なしぐさの踊りから、素直でやたらと身体を動かし素早くきびきびした踊りへと移行する時期に、またキャバレーやヴォードヴィルの巡業において…「納屋の動物の鳴き声の音楽」や「珍奇な」響きに対する一貫した嗜好が登場する時期に、合致していた。最後に彼らに匹敵する腕前のグループでも黒人であれば成功を不可能とする人種差別路線が明確に敷かれていたこともまた間違いない。加えてこのバンドが時折使う納屋の動物の鳴き声が音楽外的な注目を引き寄せるところもあった。
但し、レコード解説の故野口久光氏は、O.D.J.B.が最初のレコーディング・アーティストに選ばれたのは偶然の要素もあるが、それだけではなくそれなりの理由もあったとし、次のように述べている。「この時代にニグロのジャズ(ラグタイムやストンプ)の演奏技術、形式、スタイルを十分消化した上で白人の嗜好に合わせていたことと独自のレパートリーを創り、親しみやすい個性を持っていた」からであるとしている。
シュラー氏は野口氏と見解が近いがもう少し詳しく分析し、O.D.J.B.はニューオリンズの黒人音楽を単純化された枠組みにまで還元した。黒人音楽の新しい着想や革新的楽想を大衆が理解できるような圧縮された決まりきったフォーマットにまで縮小した。そうしたものとして幾多の成功の確実な成分を備えていた。中でも身体に、内臓にまで訴えるリズミックな勢いがあった。このリズミックなドライヴ感が極めて粗雑な音楽言語を用いて表現された。O.D.J.B.の音楽の旋律や和声は当時の黒人の最良のバンドが表現する柔軟性や時折見せる繊細さを全く持ち合わせていなかったけれども、O.D.J.B.は表現力の代わりに単純なエネルギーを音楽的着想の代わりに単純な枠組みを提示することによって大衆的魅力を獲得する術を見出したと表現している。しかしシュラー氏などは「タイガー・ラグ」などは元々は「第二のラグ(No.2 rag)」というタイトルの曲だったと記述している。
さて、ではケパードやシュガー・ジョニーのグループとそっくりな演奏しかやらなかったのにODJBは何故ニューヨークで圧倒的な評判を獲得できたのだろうか?そしてまた何故その1年前にシカゴでそのような評判を収めることができなかったのだろうか?
ガンサー・シュラー著「初期のジャズ」 シュラー氏は、もちろんシカゴ時代の録音が残っていようもなく現在確かめる術はないが、シカゴ時代のO.D.J.B.自体がまだ成長の途上にあり、クラリネット奏者がアルサイド・ナンツからラリー・シールズに替わったことなどによってその年の終わりころになって初めてグループとしてまとまってきたという。つまり、耳の肥えた観客の前で、定期的に仕事をし、練習し、演奏することができたシカゴの時代において、バンドが鍛えられたということである。
このグループの当初大雑把だった集団演奏がシカゴ時代に洗練されただけでなく、他の全てのグループとを区別する要素、すなわちその苛烈なドライヴ感と当時の常識よりもはるかに速めのテンポで曲を演奏する能力はこの時代に習得されたという。
そしてO.D.J.B.はシカゴで標準を上回る成功を収めたグループとしてその名前が当地を訪れたアル・ジョルソンのようなショウ・ビジネスの関係者を通じてニューヨークの興行関係者の周辺に伝わっていったのである。
O.D.J.B.は急に評判になって、しかもほとんど同じくらい急に名声を失い、1924年にはすでに過去の人になってしまった。しかしその前の時期においてすら中身の薄い音楽は擦り切れだしていた。ジャズ一般のそしてまた多くの黒人音楽家たちと異なってO.D.J.B.は20年代の前半においてティン・パン・アレイからどっさり出版されてくる新しい大衆歌謡を自分たちのスタイルに吸収することができなかった。このことは1917年の最初の録音からしても明らかである。その後の1920〜22年の録音では、レコード会社からの圧力で、自分たちの限られた演奏曲目には異質な歌謡を録音せざるを得なかった。その結果がデキシー・ランドとダンス音楽の中間のどっちつかずの音楽だった。ビート、ドライヴ、野暮なまでに図々しいエネルギー感―言い換えればこのバンドの特色だった成分―が後期のレコードでは抑制されて、商業的なフォックス・トロットのレコードとほとんど変わるところがなかった。


さて、やっとのことでこのレコードである。O.D.J.B.はジャズ史上初のレコーディングをし、全米に熱狂の渦を巻き起こしたが、1919年にはハマースミス・パレスで公演を行い、初めてイギリスにジャズを持ち込んだ。因みに「ハマースミス・パレス」というのは、ロンドン西部、ハマースミスの駅前の大通り(Shepherd's Bush Road)にあるちょっと大きめのライヴハウス。the Clashのジョー・ストラマーに(White Man) in Hammersmith Palaisという曲(日本では「ハマースミス宮殿の白人」というタイトルにされてしまったのだが)を書かせたのは、このライヴハウスでの彼自身の経験だという。ハマースミス・パレスは1919年、ジャズ専門のハコとして、トラム(路面電車)の車庫だった建物を改装して、オープンした。その後ダンスホールとして人々に娯楽の時を提供してきた。イヴニング・スタンダードによると、当時のダンスホールというものは「階級」の区別なく人々がフロアで一緒に踊る、という場所だったようだ。「階級社会」のなかでのそういう場でニューオーリンズのジャズバンド――その空間は「そこにしかない何か」のある存在だったのだろう。

A-1 センセイション・ラグ (Sensation rag)
てO.D.J.B.の十八番の一つであることは先に記した。トロンボーン奏者エディ・エドワーズということになっているが、レコード解説の野口久光氏も元はラグタイム・ピアニスト草分けの1人ジョゼフ・ラムの作曲したピアノ曲だという。シュラー氏によれば、彼らのレコーディングされた曲はあらかじめ準備され練習されて何年間も同じ形のままであった。 この曲はこれ以前にニューヨークでも録音された曲であるが、フォーマットは正確に同一なAABBCCBABCBであり、それぞれ反復されるA、B、Cと3回目のA、B、Cの箇所は全くのオウム返しの演奏に過ぎないという。

A-2 スフィンクス (Sphinx)
この時代に流行した東洋趣味を代表するポピュラー・ダンス・ナンバーという。このリズムを「オリエンタル・フォックストロット」といったという。 A-3 バーンヤード・ブルース (Barnyard blues)
彼らの十八番中の十八番。何度も引き合いに出された「馬車屋のブルース」。ラロッカの作と表示されているがシュラー氏の指摘が正しければ元は「ミートボール(Meat ball)」というトラディショナルなナンバーである。ここで先に何度も出てきた鶏や馬や牛を模したブレイクを聴くことができる。

A-4 スーダン (Soudan)
これもこの時代に流行した東洋趣味を代表するポピュラー・ダンス・ナンバーであろう。

A-5 タイガー・ラグ (Tiger rag)
O.D.J.B.のみならずデキシーランド・ジャズで最も有名な曲の一つ。これもラロッカが作者ということになっているが、シュラー氏によれば「第二のラグ(No.2 rag)」というトラデショナルなナンバー。さらに彼らは1917年に「エオリアン」というレコード会社、1918年ヴィクター、そして1919年に英国で録音した本盤と3回レコーディング行っている(後にもレコーディングしているが)、全く同様の展開であるという。
どうも彼らは著作権ということを知らないニューオリンズの古老たちの作った曲を次々と自分たちのものにしていい多様な印象がある。


B-1 アリス・ブルー・ガウン (Alice blue gown)
1919年に上演されたミュージカル[アイリーン]の中で使われた優雅なワルツ曲だという。彼らはそのまま3/4というワルツのママ演奏している。後にモダン・ジャズの時代にに三拍子のジャズが登場し今では普通に演奏され聴かれているがこれはその先駆け的録音という。解説の野口氏はコマーシャルな妥協とも見れるが、このワルツ演奏にはジャズのフィーリングがちゃんと入っているという。
これをジャズのスピリッツを活かしながらワルツに取り組んだ先駆的演奏と取るかシュラー氏の言うように「デキシー・ランドとダンス音楽の中間のどっちつかずの音楽」と取るかは微妙な判断であろう。

B-2 マイ・ベイビーズ・アームズ (My baby’s arms)
前曲と同様ハリー・ティアニー(作曲)とジョセフ・マッカーシー(作詞)コンビによる1919年の「1919年のジーグフェルド・フォリーズ」の中で歌われたとロット・ナンバーという。

B-3 アイヴ・ガット・マイ・キャプテン (I’ve got my captain working for me now)
名作曲家アーヴィング・バーリンが1919年に書いたヒット曲という。

B-4 アイム・フォーエヴァー・ブロウイング・バブルス (I’m forever blowing bubbles)
1918年のミュージカル[パッシング・ショウ]の中で使われたこれもワルツ・バラッド。後に4拍子に直されてジャズで演奏されることも多いというが、ここではそのまま3拍子で演奏されている。

まとめ

解説の野口氏もA面の東洋調の2曲、B面の4曲は当時としてもコマーシャルな意図で録音されたものであろう、これまで知られていないO.D.J.B.の1面を知る好資料と言えるとしている。特にB面のワルツ2曲は珍中の珍であると述べている。
要はシュラー氏の言うレコード会社からの圧力で、自分たちの限られた演奏曲目には異質な歌謡を録音せざるを得ず、その結果がデキシー・ランドとダンス音楽の中間のどっちつかずの音楽になってしまった実例ということであろう。 シュラー氏は最後にこう締めくくる。「とはいえODJBについてバランスの取れた評価を下すとすれば「センセイション・ラグ」、「クラリネット・マーマレイド」、「ディキシー・ジャズ・ワン・ステップ」、「馬車屋のブルース」のような彼らの最良の録音は、短所と長所、悪趣味とよき音楽的直観とがごちゃ混ぜに含まれている作品だったということになる。しかしO.D.J.B.は、後に残した音楽とは別に良かれ悪しかれ形成期のジャズにおいて決定的な役割を演じた。彼らに全くふさわしくないとは言い切れないやり方でその役割を果たしたのである。

かなり長くなってしまいました。多分今後もうこのバンドを取り上げることはないだろうと思ったら、ついついあれもこれもと手元の資料にあることを書いてしまいました。

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第68回2014年10月11日

ソニー・ロリンズ 入門その1
「サキソフォン・コロッサス」

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。


今回のアップは前回から1か月経ってしまいました。なぜ時間がかかったかというとご覧いただいた方はお気づきでしょうが、ホームページのドメインを「.net」から「.jp」に移行しました。移行した理由は「.net」がスパム・メールの攻撃を受け、一時対応がまずく、僕が取得したアドレスを閉じてしまいました。お金を取られる等の実害はなかったのですが、精神的にかなり滅入ってしまい、次に進む気に中々なれずにいました。その他にもありますが次回以降に書いてみたいと思います。
今回はとにかくアップすることが目標とします。
あんなスパム・メールに悩まされるとは、情けなくて仕方ありません。僕の勤める会社はある大手企業の子会社です。僕の会社は親会社の指導があり、抜き打ちでスパム・メールや迷惑メールをテストで配信されその対応をチェックされるなど日頃からかなりスパム、迷惑メール対策を経験してきたつもりでした。ところが実際個人サイトに来られてみると実に情けない対応しかできませんでした。















月下美人2輪 昨年まで咲いたことのない月下美人が9月になって同時に2輪咲きました。あまりに嬉しく一眼レフを取り出して撮影しました。しかしこうやってみると狭いのは仕方ないとしても実に手入れの行き届いていない乱雑な庭だなぁと恥ずかしい気持ちです。








朝の月下美人 ご存じの方が多いと思いますが、月下美人は一晩しか咲きません。一晩だけ大きな花を咲かせ、甘い強烈なにおいを漂わせ受粉を行い翌朝には萎んでしまいます。写真は翌聴萎んでしまった花です。力尽きたという感じがしませんか?







ジョー・サンプル

訃報

ジャズ・クルセダーズの立ち上げから加わり、その後ジャズが取れたクルセダーズやソロ・プレイヤーとしても活躍したキーボード奏者でありピアニスト、作曲家でもあるジョー・サンプル氏が亡くなりました。75歳だったそうです。
ジャズ・ファンの方は実はあまりな縁がないだろうと思われますが、僕はファンクやフュージョンも好きだったので結構よく聴きました。ファンクやフュージョンでの演奏を聴いていたので、僕にはピアニストというよりキーボード奏者という印象の方が強いです。ピアニストとしてのクルセダーズ以外の演奏は音がキラキラしすぎて余り好みではありませんでしたが…。


第68回Sonny Rollins“Saxophone Colossus”

Prestige LP 7079 {Prestige SMJ-6501M(DTG-6001)}
”Prestige LP 7079”は”Prestigeから発売された時のオリジナルのナンバー。僕は日本ビクターから発売された何度目かの再発盤”Prestige SMJ-6501M(DTG-6001)”で聴いている。 「サキソフォン・コロッサス」レコード・ジャケット

<Personnel>

 
ソニー・ロリンズSonny RollinsTenor sax
トミー・フラナガンTommy FlanaganPiano
ダグ・ワトキンスDoug WatkinsBass
マックス・ローチMax RoachDrums

<Contents>

A面
B面
1.セント・トーマス (St. Thomas) 1.モリタート (Moritat)
2.ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ (You don’t know what love is) 2.ブルー・セヴン (Blue seven)
3.ストロード・ロード (Strode rode)

録音日…1956年6月22日 ハッケンサック/ルディー・ヴァン・ゲルダー・スタジオにて録音




「サキソフォン・コロッサス」帯付きレコード 大きく出たものである。この録音時ロリンズは26歳である。まだまだ期待の新人といったところではなかったか。そして吹きこまれたレコードのタイトルは「サキソフォン・コロッサス」つまり「サキソフォンの巨人」である。僕は知識が少ないジャズ入門者だが、他に「コロッサス(巨人)」という言葉が付く作品を知らない。しかしそのことに異を唱える人は数少ないように思われる。つまりそれほどの名盤なのだ。こんな名盤を僕なんかが語っていいのか?20年も30年も早いのではないかと思う。しかしこのアルバムこそが僕が初めて買ったロリンズのアルバムなのである。入門盤なのだ。そもそも20年もたったら僕はこの世にいない。
僕はジャズを聴きはじめた高校生時代、このアルバムを聴く前から、本などを通じて既にこのアルバムのことは知っていた、天下の名盤ということも読んでいた。僕は当時ジャズ・レコード購入リストなるものを作っていたが、実はそんなものを作る必要はなかったのだが…、なにせジャズ・アルバムなど2〜30枚程度しか持っていないのだからほとんど全て購入対象なのだ。しかしそういうリストを作ったりするのがまた楽しいのだ。今度お金が出来たらこれを買おう、いやあれを買おうと考えるときである。ちょっと話がそれたがそんな購入リストのこのアルバムは常に上位に位置していた。しかし「常に上位にいた」ということはなかなか買わなかったということである。何故か?このアルバムは天下に名高い名盤のためかどのレコード店にもあるのである。並んでいるのだ。そうなると何となくありがた味がないのだ。
しかしそんな僕がこのレコードを買いにレコード店に飛び込むことになる。それは実際にこのアルバムを、1曲だけだが聴いたことによる。それは当時オンエアされていたFM放送(当時住んでいた仙台にはFMはNHKしかなかった)でこのアルバムの1曲がかかったのである。日曜日午前にオンエアされていた番組で番組名もパーソナリティも覚えていないがこのアルバムの1曲「モリタート」がオンエアされたのだ。聴いた僕は他のジャズも知らないくせに「これがジャズだ!これこそがジャズだ」と入れ込んだのであった。僕は今でもジャズという言葉を聴いて先ず頭に浮かぶのはこの「モリタート」なのである。
思い起こせばこの番組でいろいろな名演を聴き「ジャズっていいなぁ、素晴らしいなぁ」と思ったのだった。チャールス・ロイドの「フォレスト・フラワー」もディジー・ガレスピーの「マンテカ」もこの放送で初めて聞いたと思う。
さて、このアルバムは天下の名盤と言われいろいろな評論家の方々を含め多数の人たちが評論というか解釈を発表しているようだ。評論家の方にとっては多分このアルバムに取り組むことは必須課程なのではないかと思える。それは何故かというとこのアルバムは単なる名盤であるだけでなく、謎の多い問題作と言われているからだろう。もちろん僕にその問題を詳らかにし、新解釈を行うなどという力量などあろうはずがない。またここでいろいろな評論家の方の意見を集大成するような資料も知識も持ち合わせていない。
勝手に師と仰ぐ粟村政昭氏の評論を参考に純粋にジャズ入門者の僕はどう聴くのかということを書いていきたい。このアルバムを聴くことによって、ますますジャズが好きになりロリンズにも興味を持ち少しずつではあるロリンズのアルバムも集めるようになったのである。
「サキソフォン・コロッサス」CD ミュージシャンごとに項を分け紙数は少ないが凝縮されたコメントが素晴らしい『ジャズ・レコード・ブック』において粟村氏は、「レスター・ヤング直伝の緊張と弛緩、安定さと不安定さが微妙に入り混じったロリンズ独自のスタイルは何度聴いても感動的である」とした上で、「ロリンズの最高作はズバリ言って『サキソフォン・コロッサス』(本作)と『ウェイ・アウト・ウエスト』(Contemporary 3530)の2枚であると考えている」としている。そして師のもう一つの著『モダン・ジャズの歴史』では2曲について詳細な検討を行っている。この粟村氏の評論は曲紹介のところでご紹介したい。
まずこのアルバムについて僕が感じるところは、プロデューサーなどのスタッフ、メンバー達がじっくり話し合い綿密な計画を基に緻密に作り込んでいった傑作ではないということである。ものの本によればライヴァル的存在のブルーノート社は事前に必ずギャラを支払ってのリハーサルを行い、そのレコーディングの狙いや方向性などをはっきりさせた上で実際に発売用のレコードの吹込みに臨んだというが、これに対しプレスティッジはミュージシャン同士のスポンテニアスな魅力を重視し(実際は経費の削減が主目的だろうが)、録音当日わずかな打ち合わせのみで吹込みに突入するいわゆるプレスティッジお得意のブローイング・セッションの一発取りであったと思われる。曲によって若干の破綻とまでは言えないが、打ち合わせ不足が感じられる箇所などがある。僕が言いたいのはブローイング・セッションが良くないということではない。僕はミュージシャンではないが、そういった一発触発的に盛り上がってなされる好プレイの連鎖というのは確かにあると思うのだ。では、ミュージシャンは何も考えずにぶらりとスタジオ入りするのかというと、そういう人、場合もあるだろうがそうではなく、事前に綿密に準備を行って吹込みに臨んだのではないかと思う。
特にこのレコードでは、そしてロリンズに関しては。僕の感じでは、ロリンズは緻密にこの日のプレイの計画を立てていたと思う。しかし、自分の計画を他の3人には伝えていなかったのではないか、意図的に。共演のフラナガン、ワトキンス、ローチという3人はどんな状況にも力を発揮できる同世代の強力な面子である。自分の仕掛けるプレイにどんな対応を見せるのか楽しみだったかもしれない。
そんな若干の破綻なども見せながらやはり僕もこのアルバムは大傑作だと思うのである。その最大の魅力は何か?ずばり図抜けたロリンズのインプロヴィゼーションである。そしてその前にテナー吹奏そのものである。まずロリンズのテナーの音がいい、大好きである。太く、深い素晴らしい音色である。僕の思うこれぞテナーの音なのだ。意外とジャズ評論などでミュージシャンの音色について語られることは少ないような気がするがこれは大事である。かのマイルス・ディヴィスも「音色が一番大事、この音色こそ俺だ。この音色を作り出すのにこそ苦労したのだ」ということを語っているではないか。
さてそろそろ、この吹込みにまで至るロリンズの来し方、この語の行く末については今後の課題として、僕にとってのロリンズ入門盤「サキコロ」の曲を聴いていこう。

「サキソフォン・コロッサス」A面ラベル A-1セント・トーマス (St.Thomas)
余りにも有名なロリンズ代表曲。ライヴなどでも何度も演奏されている名刺代わり的な曲の初演というか初吹き込みである。セント・トーマスとは、カリブ海ヴァージン諸島の中心的な島の名前で、ロリンズの母方の出身地であるという。タイトルから想像されるようにカリプソ・ナンバーで、マックス・ローチが叩きだすカリプソのリズムで曲は始まる。
テーマ吹奏の後まずはロリンズがソロを取るがここでのリズムはカリプソを継続している。そしてローチのカリプソ風のソロが入る。ローチのソロは次第にジャズ的な4ビートに変わっていって終わり、短いブレイクの後ミディアム・ファーストのロリンズのソロとなるがここでのソロは豪放なドライヴ感あふれるもので。そしてフラナガンのソロを取りテーマに戻る。テーマもバックは最初は4ビートだが後にカリプソに代わり終焉を迎える。

A-2ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ (You don’t know what love is)
サム“ザ・マン”テイラーの『ハーレム・ノクターン』かと慮りの豪快なロリンズの低音を活かした太いトーンにドキッとする。ドン・レイとジーン・デポールの合作したこの曲は日本では「恋の味をご存じないのね」と訳されることが多いがこのアルバムの表記に従って英語の読みそのままとした。何となくこの作品のみが問題なしというか問題作ではないように言われているような気がするが、どうしてどうして…。僕にはこの曲には明確なテーマの提示がない、要は主旋を崩しまくりのプレイのような気がする。曲名の提示がなく一体どれほどの人がこの曲が「恋の味をご存じないのね」と分かるだろうかと思う。僕は分からなかった。入門者だから当然かな?
解説の佐藤秀樹氏によるとロリンズの吹くバラードは男性的なトーンの中に人間的な暖かさを持っているのが特徴でそこに私達を引き付ける魅力があるというが全く同感だ。これぞテナー・サックスという音色に引き込まれる。2コーラス半に及ぶロリンズのソロは、溢れる情感の中に極めて強い表現力を持っているが、途中ダブル・タイムを使ったローチのアプローチも見事だし、フラナガンのデリケートなピアノ・ソロも絶品だ。

A-3ストロード・ロード (Strode rode)
ロリンズのオリジナルで、このアルバム唯一のアップ・テンポのナンバーである。タイトルはシカゴにいた時によく顔を出したクラブ【ストロード・ラウンジ】に因んだナンバーであるという。そしてこの曲には「ストロード・ロードの謎」と言われる演奏の「乱れ」、「揺らぎ」があるという。しかし不明な僕にはその「乱れ」の原因どころかどこが「乱れ」なのかがよく分からない。特に「乱れ」を感じないのに「乱れ」を探すというのも変な話だが少し丹念に聴いてみる。
解説の佐藤氏によると、曲の構成はA(12小節)、A(12小節)、B(4小節)、A(12小節)の計40小節が1コーラスと変則的な構成となっており、「テーマの後ロリンズの3コーラスとフラナガンの2コーラスのソロに続いてロリンズとローチの4小節交換が12回繰り返されテーマに戻る」としているが、ロリンズのソロは2コーラスの間違いであることが分かったくらいである。でもフォー・ヴァースも4小節×2人×12回で合計96小節は、通常コーラス単位で行われることが多いと思われるので、半端な数字だ。これも事前に回数を決めていなかったのかもしれない。ロリンズの合図でアタマ抜きの主旋律に戻ったのだろう。
解説の佐藤氏はロリンズの男性的な面が打ち出されているが、短いフレーズを重ねていく強烈な迫力を持ったヴァリエーションは、セロニアス・モンクの影響を感じずにはおれないという。ともかくここでもロリンズの豪快なアドリブ展開が堪能できる。


「サキソフォン・コロッサス」B面ラベル" B-1モリタート (Moritat)
佐藤氏によると「ロリンズの人気を高めた代表作でこの演奏にしびれ彼のファンになった人も大勢いる」というが僕もその一人である。僕が最初に聴いたFMでは詳しい解説があったかも知れないが全く覚えていず、ただ単にこれを聴いて見せられたのだが、そんな吾人がそんなにいるとは知らなかった。
曲そのものは「マック・ザ・ナイフ」という別タイトルでも知られているが、1928年初演のミュージカル「三文オペラ」のためにクルト・ワイルが書いたもの。ジャックナイフを隠し持っているマック・ヒースという主人公が、ナイフ使いのマックという歌詞から「マック・ザ・ナイフ」という別名が付いたという。では「モリタート」はどうかというとドイツ語で「殺人鬼」という意味だそうだ。この曲のハッピーな感じからすると意外である。ドイツ人に何が好きと尋ねられたら「モリタート」と答えたら、引かれること間違いない。ドイツでは昔から祭りの最中に歌手たちが中心となって町中で殺人鬼の恐ろしい犯罪について歌うという変わった風習があり、この曲の作詞家であるベルトルト・ブレヒトがこのことを題材に作詞したためこのタイトルが付けられたという。作曲クルト・ワイルもこの祭りに使う小型オルガンが奏でるメロディを実際に聴いてそれを参考に一晩で書き上げたという。
世界的に有名になったのは、男性シンガー、ボビー・ダーリンが1959年のアルバムに収録、そこからシングル・カットされなんと9週間もヒット・チャートの1位を維持し60年グラミー賞最優秀レコード賞を受賞してからであろう。ということはロリンズが取り上げた方が先である。それにしてもロリンズはどこでこの曲を知りやってみようと思ったのだろうか?
解説の佐藤氏は、4コーラスに渡るロリンズのソロが圧倒的な魅力を発散しているという。続くフラナガンの2コーラスのソロの後の1コーラス半のフォー・ヴァースも見事だしローチ、ワトキンスのソロも素晴らしいとしている。
師粟村氏はさらに詳しく分析する。長いが、極めて長いが引用する。
ロリンズがこのセッションで示したものは、ビ・バップ以来のアドリブに対する伝統を十分に踏まえたうえで、テーマに始まる長いソロ・コーラスに一つの作品として評価することのできるような構成(性格)を与えることであった。それは彼のかつてのアイドル、コールマン・ホーキンスが聴かせたような8小節単位のメロディアスなヴァリエーションを次々に重ねていくといったやり方ではなく、チャーリー・パーカーが常に試みたような専攻のようなアイディアをちゅうちょなく音にするといった奔放さとも違ったどちらかというと観念的にはレスター・ヤングに近いコンセプションであった。つまりレスター・ヤングが短い或いは限られたソロ・スペースの中で生かした一種独特の連想感覚―初めは無意味に聞こえた奇妙なフレーズが、次の瞬間になくてはならない一説となって甦るといった余人には追随不能な非凡な着想を、50年代のロリンズは、よりモダンなコンセプションとはるかに長いソロ・コーラスを通して具象化したのである。
粟村政昭著「モダンジャズの歴史」 例えば「モリタート」を聴いてみるとよい。演奏は、おなじみのテーマのメロディーに始まって、4コーラスの悠容たるロリンズのソロとなるが、続くフラナガンのピアノ・ソロ2コーラスが終わって、テナーとリズムによる4小節の交換が始まったところで突然ロリンズがアイディアを見失う。ピアノ・ソロが終わったところで自分が出ることは決まっていたのだから、そこでロリンズが戸惑うはずはないという考えで聴けば、それはわざとそういう吹き方をしたのだということになるが、ともあれここでロリンズは唐突な3音フレーズを7度にわたって泰然と繰り返す。したがってそこだけ取り上げるといかにも不自然で、木に竹を継いだような立ち上がりだという他ないが、一息継いだ後、歓喜に満ちたフレーズが泉のように溢れだすと、先に異様な印象を与えた4小節が突然対比的に重要な意味を持っていた(あるいは付加された)ことが明らかになってくる。しかもこの1節は演奏が終わってみると、全体の流れの中で決して苦し紛れの思い付きとして退けられるような場違いのパートにはなっていない。
以下のたり庵の聴いたところ
先ずちょっとややこしいのは、“コーラス”という言葉。バンド等をやっていた人にはおなじみだと思うがそうでない人には分かりにくいのでは?例えば8小節のメロディーAを2回繰り返し、メロディーBが8小節入り、8小節のメロディーAで締めくくる曲があるとすればこのAABA計32小節が1コーラスとなる、演歌などでいえば第1コーラスが「1番」、第2コーラス目が「2番」にあたる。粟村師の解説で「?」と思うのは、この曲を小節数を計りながら聴くとテーマの1番が16小節で、同じメロディー(多少の違いはあるが)が同じく16小節続く。すると17小節から32小節は第2コーラス(2番)かというとそうではなく、この曲のテーマは2回続けて演奏されるのがふつうなのだそうで、1小節目から32小節までが1コーラスとカウントするのだそうだ。そういう知識がないと「4コーラスに渡るソロ」が64小節か128小節なのかが分からない。
先ず組み立てはイントロなしで直接テーマに入り1コーラス(32小節)ロリンズが吹いた後ロリンズのアドリブ展開になる。これは氏の言うように正に悠容たるソロで実に聴き応えがある。そしてフラナガンのソロが2コーラス、その後のドラムとカルテット合奏とドラムの4小節ずつの交換が1コーラス半入る。この合奏の初めの4小節に粟村氏は注目するのである。前述のように「ロリンズがアイディアを見失う」「唐突な3音を7度も繰り返す」と。しかしぼくはそれほど唐突な感じがしないのである。各パートのソロが終わってドラムとの4小節交換はジャズでは普通に行われることである。その初めをどう入るかは注目の箇所である。なにせ4小節で一応の決着を付けなければならないのだ。インパクトがある入り方をし、できるならドラム・ソロ4小節後の合奏部にも生かしたいところだ。そう聴くと逆に自然に聞こえるのだが…。それだけ僕の感受性は鈍いのだろうか
。 その交換が1コーラス半(48小節)続き、ローチのソロが1コーラス続いてワトキンスのソロが1コーラス半その後粟村氏の言うように歓喜に満ちた主旋律を基にしたソロを半コーラス、テーマを半コーラスそしてロリンズのカデンツァで大団円を迎えるという構造だ。 僕がちょっとばかり気になるのはローチのソロ交換の最後の4小節を叩き終ったあと微かにベースの入る音が聞こえる。これはワトキンスが間違えて出たものだと思う。そしてローチのソロも本当に素晴らしいし、フラナガンがバックを付けるワトキンスのソロもメロディアスで聞き応え十分だ。これだけ名演を記録したのだから、ワトキンスのトチリなど気にしない、次行こう!ということだったような気がしてならない。

ソニー・ロリンズ B-2ブルー・セヴン (Blue seven)
佐藤氏は「モリタート」の名演に酔った人もこのロリンズの作品の持つ底知れぬ魅力には完全に心を奪われるであろうという。まず曲そのものの構成も一風変わっているが、演奏の持つ無限の深みは聴くたびに驚きを増すし、問題作という点では本アルバム中最高のものである。この曲があるから単なる好アルバムではなく、問題作であり重みのある作品になったのだという。
ガンサー・シュラー氏がいみじくも名づけた「テーマに基づく即興」の手法によるアドリブの醍醐味がたっぷりと味わえるし、ローチとのインタープレイは入神の域に達しているという。さらに全員のソロ構成は互いに抜き差しならぬ効果を生んでいる点も見逃せないし、そこから生まれる微妙な均衡感とスリリングなすごさは到底言葉で表されるものではないとする。
粟村氏解釈
「モリタート」に聴かれたような闊達なアイディアの飛躍は見られないが、それとは対照的に予め考え抜かれてきたのではないかと思えるようなロジカルなインプロヴィゼーションが次々に積み重ねられて聴く者を圧倒する。この曲はセロニアス・モンクの“Well , you need’nt”(57年6月録音)に通ずるリズム・セクションの蹉跌が指摘されているが、ハーモニーによると同時に、原曲のメロディ・アイディアをも発展させたロリンズ自身のソロはこれこそ真のヴァリエーション・テクニックであるとして称賛を集めた。
もちろんこうした考え方自体は殊更目新しいものではなく、既に20年代においてジェリー・ロール・モートンが実践に移しているしモダン・エイジに入ってからも、モンクやジョン・ルイスが作編曲者並びにリーダーとしての立場から積極的に取り組んできた目標であったが、ロリンズの場合は純粋にインプロヴァイザーとしての立場からこれに挑戦したころが注目されたのであった。
この曲は基本的にはB♭のブルースであり、ベースとドラムのウォーキング・ラインによって誘導されるテーマは、3つの主音から成り立っているが各々のフレーズは短く、しかも長い休止符によって明確に区切られている。この基本構造は前後3回に渡って現われるロリンズのソロ・コーラスを通じて変わらないが、これが演奏全体に一つの安定した統合感を与えていることは明らかである。ロリンズの用いるフレーズの大半は初めに提示された断片的なテーマの各部に基づいているが、彼はこれらを巧みに装飾し創り換えられた新しいメロディーを基にしてさらに新たな即興演奏を試みていく。この曲のロリンズのアドリブが、Thematic(主題に関する、語幹を形成する) Improvisationと称された由縁である。一方、テーマの12小節の主旋律とはまた別にこの演奏を印象付けている今一つの短い3小節のメロディーがあるが、これはテナー・ソロの冒頭12小節目から14小節目にかけてちょっとした【字余り】のような形でさりげなく示される。従って一聴した時には誰しもこのフレーズの持つ意味には気付かないのだが、演奏が進んでテナーの9コーラス目で突然この小楽句が復活し、以後11コーラスと13コーラスで執拗に繰り返されるに及んで、初めて先の3小節が重要な布石であったことが判然としてくる。もちろんこれは前の「モリタート」の場合と同じく、あらかじめロリンズが後のことを頭に入れて吹いたのか、それともそのフレーズに誘発される形で次のソロ・コーラスが出来上がったのか、その辺りの解釈はいささか微妙なようにも思えるのだが、いずれにしてもロリンズのアドリブが前後の繋がりを意識して巨視的な立場で組み立てられていたことだけは間違いない事実であった。ロリンズとローチは、この曲を演ずるに当たって「なぜみんなは、ファースト・コーラスが終わると、メロディーを捨ててしまってコードだけに頼るのだろう」というモンクの言葉を念頭においていた由だが、50年代の前半、マイルスと並んで何度かモンクとも共演した経験を持つロリンズが「テーマとソロの間には、常に有機的な繋がりが無くてはならない」とするモンクの考え方に早くより大きな影響を受けていたであろうことは十分に考えられる。このセッションに3か月先だって録音されたマイルスの“Veird blues”において既にロリンズが“Blue 7”に通ずるフレーズを多用していたという発見もこの間の事情に勿論通ずるものであろう。
と詳細に解説している。
僕がこの曲の本質を味わえるようになるまではもう少し時間がかかりそうな気がする。

最初に買ったLPは引っ越しその他で行方不明となり、現在は後に購入したもちろん日本での再発盤を聴いている。そしてこのアルバムは繰り返し聴くことが予想されたのでCDも購入した。

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第69回2014年10月19日

ラムゼイ・ルイス
「ジ・シン・クラウド」

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。


18日・19日の土・日でもう30年以上前から続いている仲間とテニス合宿に山中湖に行ってきました。写真はホテルから撮影した19日朝の富士山です。19日の日曜日は快晴で暖かく絶好のテニス日和でした。山中湖は標高も高く少し紅葉が始まっています。来週からは恒例のもみじ祭りが始まるようです。秋、いよいよ本番ですね。














近所の金木犀 右は少し前9月末の近所の金木犀です。独特の甘い香りが漂います。



前回のアップは前々から1か月経っていました。スパム・メールで気落ちしていたのですが、何とか立ち直りかけPCに向かうと今度はPCのスイッチを入れてもディスプレイに何も表示されません。立ち上がっていないのかそもそもディスプレイに問題があるのか?そこで前々回書いたようにまずディスプレイを購入した近所のヤマダ電機に持ち込みました。 そして調べてもらった結果、液晶のバックライトが切れているというのです。購入したのが今年3月なので半年で壊れたことになります。もちろん修理を依頼しました。
そして修理が完了するまで2週間以上もかかりました。我が家にはPCはデスクトップ1台しかなく、ディスプレイがなければ何もできません。こういうことについてメーカーの態度には大いに疑問を感じます。戻ってきた製品に「ご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした」というような表記は一つもありません。購入者に迷惑をかけているという意識があるのでしょうか?
そもそも半年で壊れる製品を作り、それを販売店まで持ってこさせ取りに来させお詫びの一言もないというのはユーザーをバカにしているしか思えません。ヒドイものです。





第69回Ramsey Lewis“The in crowd”

グローブ(アーゴ原盤) SMJ-7328(SGL-7102)日本ビクターから発売の日本盤
「ジ・イン・クラウド」レコード・ジャケット

<Personnel>

 
ラムゼイ・ルイスRamsey LewisPiano
エルディー・ヤングEldee YoungBass & Cello
レッド・ホールトRedd HoltDrums

<Contents>

A面
B面
1.ジ・イン・クラウド (The “in” crowd) 1.スパルタカス/愛のテーマ (Love theme from Spartacus)
2.君に恋してから (Since I fell for you) 2.黒いオルフェ/悲しみよさようなら (Felicidade)
3.テネシー・ワルツ (Tennessee waltz) 3.カム・サンデー (Come Sunday)
4.トーキン・アバウト・ミー・ベイビー (You been talkin’ ‘bout me baby)

録音日…1965年5月13,14,15日にかけてワシントンのボヘミアン・キャヴァーンズ(Bohemian caverns)にてライヴ録音




「メル・テイラー/ドラムス・ア・ゴー・ゴー」レコード・ジャケット 小学校の時はヴェンチャーズが好きだった。あのテケテケである。もちろんビートルズ、ストーンズ、ジェイムス・ブラウンなども好きだったが、今回関係するのはヴェンチャーズである。ヴェンチャーズが特徴的なのはインスツルメンタルのバンドであるということである。
ヴェンチャーズは今でも毎年夏来日し人気があるようだが、僕が聴き出したころは日本だけだが正に人気絶頂のころであった。メンバーはドン・ウィルソン(リズム・ギター)、ノーキー・エドワーズ(リード・ギター)、ボブ・ボーグル(ベース)、メル・テイラー(ドラムス)という白人4人組だった。そしてそのころはヴェンチャーズのレコードを集めようとしていたが、高校生よりお金がなくほとんどはシングル盤が中心でアルバムは3枚しか持っていない。
ヴェンチャーズはメンバーが個人で活動するということがほとんどなかったように思われる。それぞれのメンバーがヴェンチャーズを離れたレコーディングした例というのは、ドン・ウィルソンが歌ものを吹き込んだものとドラムのメル・テイラーが「ザ・マジックス」という怪しげなバンドと録音した「ドラムス・ア・ゴー・ゴー」(“Drums a-go-go” Mel Taylor and the Magics in action BP-7461東芝音楽工業から発売 U.S.A. WS-1624)というアルバムしか知らない。
今となってみればこの「ドラムス・ア・ゴー・ゴー」というのは不思議なアルバムでドラマーがリーダーなのにドラムソロはなし、1965年に録音されたようだが全篇インスツルメンタルでオリジナル曲は無し、でどこからどう聴いてもヒットする要素が見当たらない。日本ではヴェンチャーズの人気に便乗して少し売れたような気がするが本国アメリカでヒットするとは思えない内容である。その時のヒット曲を中心にイージー・リスニング的に演奏してみましたというアルバムである。
前置きがかなり長すぎたが、このアルバムのA面3曲目に「ザ・イン・クラウド」(本来は“ジ・イン・クラウド”だと思うがレコードではそうなっている)が収録されている。8ビートで実に軽い演奏ぶりであるが、どうももともとはジャズの曲ではないかと思っていた。そしてジャズを聴くようになってある時「そうだ、『ジ・イン・クラウド』のオリジナルを聴いてみよう」と思ったのである。実はこの曲のオリジナルではなかったのだが、そんな風にしてこのラムゼイ・ルイスのアルバムを購入したのであった。
この曲に関してはそのタイトルにも興味を持った。“The“in”crowd”とはどういう意味だろうか。多分「群衆の中にいる人」というような意味だと思う。孤立しておらず「中」にいる人という意味だろう。たまたま読んだエドガー・アラン・ポー(Edger Allan Poe)に日本訳『群衆の人』とい短編がある。僕はこれを読んだとき一番最初に思い出したのが「これは英語では“The “in” crowd ”なのではないだろうかということである。そしてラムゼイ・ルイスの『ジ・イン・クラウド』は何か関係があるかもしれない、エドガー・アラン・ポーにインスパイア―された作品かもしれないと思い込んでしまった。実際のところは分からないが多分違うような気がする。因みにこの曲のオリジナルはラムゼイ・ルイスではなく、ドビー・グレイ(Dobie Gray)という黒人R&Bシンガーが歌ったものである。歌詞があるのだ。それを聞けば分かるだろうとは思うがそこまで気力がなく申し訳ない。

「ポオ小説全集 第2巻」『群衆の人』収録 A-1 ジ・イン・クラウド (The “in” crowd)
  確証はないのだが、多分ジャズ・ナンバー最大のヒット曲はブルーベックの“Take five”、リー・モーガンの“The sidewinder”などではなくこの曲ではないかと思う。ジャズ部門ではなく何といったらいいのか一般の部門である。1965年10月9日付けランキングで5位を記録している。因みに1位はビートルズの『イエスタディ』。オリジナルのドビー・グレイのレコードは1965年2月20日付で13位に上がり、次いでラムゼイ・ルイスが取り上げTop5を獲得したことになる。この曲は5月の録音なので、ラムゼイにすれば最近のR&Bのちょっとしたヒット曲を取り上げてみました的な扱いだったのかもしれない。
その後すぐにメル・ルイスとマジックスが取り上げ1965年中に録音するという人気ぶりだった。
僕はこういうところが分からないのである。良い曲とは思うがそれほど大ヒットになるように思えない曲が大ヒットになったりする、感性が違うといえばそれはそれで仕方ないのだが。

A-2 君に恋してから (Since I fell for you)
古いジャズのバラード・ナンバーで元々はピアニストでバンド・リーダーでもあるバディ・ジョンソンの作だという。ルイスはしっとりとブルージーな演奏を行っている。

A-3 テネシー・ワルツ (Tennessee waltz)
1946年ピー・ウィー・キングが作曲し、レッド・スチュワートが作詞し1948年にはじめて録音されたカントリー・ミュージックの大ヒット曲。カントリー系ではハンク・ウィリアムスのものがヒットし、1950年女性シンガーパティ・ペイジがカヴァーしたものが世界的なミリオン・ヒットとなった。日本では絵里千恵美が歌ったものが当時としては40万枚を超す大ヒットとなり、彼女の代表曲にもなった。.ポピュラー・ファンで知らぬ人はいないほどの有名曲。
ここでの演奏はエルディーのチェロをフューチャーしたものになっていて、フラメンコ風のイントロを付けたり、ユニークなヴァージョンとなっている。

A-4 トーキン・アバウト・ミー・ベイビー (You been talkin’ ‘bout me baby)
解説のいソノ・てルオしによると、ガーネット、ハーシュ、リヴィエラのチームによって作られた黒人独特のしゃべり方を曲名にしたものという。ジャズではなくR&B風のナンバー。


B-1 スパルタカス/愛のテーマ (Love theme from Spartacus)
帝政ローマ時代を舞台とした歴史映画「スパルタカス」のテーマ音楽で、アレックス・ノースが作曲。解説のいソノ氏によれば、エキゾティックな雰囲気を狙ったラムゼイのコード・ワークも結局はゴスペル風になってしまうというところがミソであるという。

B-2 黒いオルフェ/悲しみよさようなら (Felicidade)
これも映画「黒いオルフェ」からのナンバーで、アントニオ・カルロス・ジョビンの傑作の一つ。元々は“Felicidade”(フェリシダード:幸福))という意味のポルトガル語がタイトルという。いわゆるソウル・ボッサ的な編曲だが音使いはブルージーな感じがする。

B-3 カム・サンデー (Come Sunday)
デューク・エリントンの作品。組曲「ブラック、ベージュ・アンド・ブラウン」の中の1曲。ほぼピアノ・ソロのような展開。

このアルバムを聴いてもなぜかジャズを聴いたという感じがしない。僕はこの人のレコードはこれしか持っていないのだが、これから他の録音を聴いてみようという気にもならない。どうにもジャズを感じないのだ。

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第70回2014年10月26日

ハービー・ハンコック
「テイキン・オフ」

ご覧いただきありがとうございます。定年オジサン<のたり庵>のジャズ学習帳です。


イベントも終わって通常パターンの土日が戻ってきました。先週のテニス合宿はもちろん楽しさ満載で、何の不満もないのですがふと無事にいつもの生活に戻るとそれはそれでホッとするものがあります。
雨や台風、PCディスプレイの故障、スパム・メール攻撃など気が滅入ることもあり最近森にも来ていませんでした。僕の住む南関東はまだ紅葉という段階には至っていませんが、木々の緑も夏の時とは少し変わってきたようです。









森で見つけた吉祥草 森で見つけた花です。近くに小さな立札があり「吉祥草(キチジョウソウ)」という名前であることを初めて知りました。とても縁起のいい名前です。




今から3、4年前妻と宮ヶ瀬ダムにドライヴに行った時に売店でシイタケの菌を植え付けたクヌギの丸太を買いました。売店のオジサンは庭に転がしておくだけで2、3年もするとシイタケが生えてくるよと言っていたのですが、これまで全くその兆候が見られませんでした。ところが今朝起きると写真のような大きなシイタケが生えていてビックリしました。
妻は「秋の収穫、秋の収穫」とはしゃいでシイタケを取り、大きいものを結婚して近くに住んでいる長女のところ届け、残りはベーコンと一緒に炒めて味わいました。僕はそのままバターで炒めてちょっと醤油をたらすだけのよりシンプルな食べ方をしたかったのですが…。でもビールのつまみには最高でした。もっと生えてこないかな。












第70回Herbie Hancock“Takin’ off”

Blue Note ST-84109 EMIミュージック・ジャパンより発売の日本盤CD
「テイキン・オフ」CD・ジャケット

<Personnel>

 
ハービー・ハンコック Herbie HancockPiano
フレディー・ハバードFreddie HubbardTrumpet
デクスター・ゴードンDexter GordonTenor sax
ブッチ・ウォーレンButch WarrenBass
ビリー・ヒギンズBilly HigginsDrums

<Contents>

A面
B面
1.ウォーターメロン・マン (Watermelon man) 1.ザ・メイズ (The maze)
2.スリー・バッグス・フル (Three bags full) 2.ドリフティン (Driftin’)
3.エンプティ・ポケッツ (Empty pockets) 3.アローン・アンド・アイ (Alone and I)

録音日…1962年5月28日 ニュージャージー・イングルウッド/ルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオにて録音にてライヴ録音




「メル・テイラー/ドラムス・ア・ゴー・ゴー」レコード・ジャケット 今回は前回と同様メル・テイラー『ドラムス・ア・ゴー・ゴー』つながりのアルバムを取り上げてみよう。『ドラムス・ア・ゴー・ゴー』にはもう1曲ジャズのナンバーが取り上げられている。それはこのアルバムのB面1曲目に収録されている“Watermelon man”である。ご存じのようにオリジナルはハービー・ハンコックで初リーダー・アルバムの本作“Takin’ off”に収録されている。しかし当時僕はジャズ・ミュージシャンはほとんど名前も知らなかったのでこのアーティストも知らなかった。因みに『ドラムス・ア・ゴー・ゴー』ジャケット裏面の解説にはオリジナルはハービー・ハンコックのことは書かれていない。何故だろうか?それはたぶんそんなことを書くまでもなく、誰の作品かみんなわかっているよね的な感じが伝わってくる。
ジャケット裏面の解説には「ウッディ・ハーマンやカウント・ベイシー等も取り上げているが、中でもモンゴ・サンタマリアの演奏は63年4月27日と5月4日にビルボード誌ホット100のランキングで10位まで上がった」と書いてある。これまたジャズとしては大ヒット作である。また僕がこの作品を主に聴いているCDの原田和典氏の解説によると、そもそも本盤がすぐに注目を浴びることはなかったが、先述のモンゴ・サンタマリアのレコードのヒットによって元祖のこのアルバムにも注目が集まるようになったのだという。
「モノ&ステレオ コレクターズ・エディション 2LP セット」レコード・ジャケット しかし、ハンコックが62年に録音し発売された楽曲のカヴァーが1年もしない63年に出て、しかも大ヒットするということはそれだけこの楽曲を当代のミュージシャンが認めたということであり、すごいことだと思う。
そして、原田氏によるとこの曲のカヴァーは、ハーマンやベイシーどころか白人女性シンガージュリー・ロンドン、ピアノの大先輩アール・ハインズ、エロール・ガーナー、イギリスのロックバンドであるマンフレッド・マン、ファンクのJB’sなども録音しているという。そしてその末端の一つがメル・テイラーだったという感じが漂ってくる。それほど魅力ある曲、僕が感じるのはミュージシャンにとって魅力ある曲なのだと思う。
しかし、僕にとってこのアルバムは、ハービー・ハンコックのデビュー盤、“ウォーターメロン・マン”の初録音ということだけではない実に不思議なアルバムと思えるのである。
因みに僕がいつこの曲のオリジナルがハービー・ハンコックだということを知ったのかは全く覚えがない。いつの間にか知っていたことになるが、ともかくこのアルバムはレコード店などで見かけることはほとんどなかった。そして僕が現在聴いているのは、ご覧のレコードとCDである。もともとCDしか持っていなかったがある時、2in1アルバムを入手した。レコード1はモノラル、レコード2はステレオ録音となっている。CDはブルーノート復刻盤として廉価盤として出たものである。このCDは廉価で入手しやすくお奨めである。
「モノ&ステレオ コレクターズ・エディション 2LP セット」レコード・ジャケット裏面クレジット さらに自分の不明さをさらけ出すことになるが、この2in1アルバムで初めて知ったことがある。レコード・ナンバーを見るとLP1モノラルがBLP 4109、LPステレオがBST 84109とある。そうか、そうだったのかブルーノートでは、「BLP ○○○○」がモノラル盤、「BST 8○○○○」がステレオ盤だったのだ…。
さて、まずこのアルバムはハンコックの初リーダー・アルバムとして名高いが、タイトル“Takin’ off”はどういう意味であろう?“Take off”テイク・オフが離陸というような意味なので、「正に離陸しているところですよ」ということだろう。どこへ?「空の高みへ」。よほどブルーノート期待の新人だったのだろう。そしてその通り飛翔していくのである。そういえば同じブルーノートにルードナルドソンの“Lou takes off”というアルバムもあった。
ちょっと横道にそれたが、では何が不思議化というとズバリ!デクスター・ゴードンの参加である。ゴードンお参加に異を唱えるわけではない。収録全6曲全てハンコックの作であり、それほどプロデューサーのアルフレッド・ライオンはハンコックの才能を認めていたと思うが、録音の人選はライオンが行ったと思われる。そしてテナーにゴードンを入れたのだ。
メンバーについてみて行こう。リーダーはハービー・ハンコック、1940年生まれの22歳、日本でいえば大学卒業したてというところである。詳しくは<Personnel>を見て欲しいが、60年にTpのドナルド・バードに見いだされ、確かではないが1961年4月にドナルド・バードの“Chant”が初レコーディングと思われる。その後バードの“Royal flush”、“Free form”とドナルド・バードの作品のサイド・マンとしてレコーディングに参加するが、初吹き込みから約1年でリーダー・アルバムの録音をすることになる。
そしてトランペットのフレディー・ハバード。彼は1938年生まれの24歳。同じく38年生まれのリー・モーガン、ブッカー・リトルに比べ若干の遅咲き感はあるものの、両者の長所を併せ持つ柔軟なプレイが認められ頭角を現し始めたところと言ってよいだろう。1958年コルトレーン最後のプレスティッジ・セッション(”The believer”)に参加し1960年4月にはエリック・ドルフィーの初リーダー・アルバム『惑星』に起用されるなどハード・バップからフリー/アヴァンギャルドに至るまで幅広い柔軟性を持ちそして約2年前の1960年6月に初のリーダー・アルバム”Open sesami”をブルーノートに吹き込み、新主流派トランぺッターNo.1の座を築きつつあった。
ベースのブッチ・ウォーレンは22歳、ケニー・ドーハムに見いだされニューヨークに進出、その堅実なプレイを買われいろいろな大御所たちとも共演し、これら一連のブルーノートでの録音に参加した後、セロニアス・モンクのコンボに招かれている。その柔軟性に富んだ実力が認められつつある有望な新人だった。ビリー・ヒギンズは26歳、彼こそハード・バップからオーネット・コールマンにいたるまで幅広い対応力を誇るジャズ・ドラム期待の新人であった。しかしゴードンは約40歳バップ以前のビッグ・バンドを皮切りに初期バップ時代に活躍、50年代という脂の乗るべき時を麻薬でフイにしたが、60年に復帰61年からブルーノートを中心に吹込みを開始したところであった。
もしハンコック、ハバード、ウォーレン、ヒギンズだけだったらブルーノート期待の新人を集めて作られた新しいジャズということで分かりやすかったろう。しかしそこに過去の遺物ともいえるゴードンを持ってきたのだ。そのココロは何であろう。本当のところはライオンに聴いてみなければわからないが、ハンコックを中心に見れば「若い奴らだけではなく、重鎮を重しとして乗っけられた」ということかもしれないし、ゴードンを中心に見れば復活後のゴードンはブルーノートを中心に録音を行っているが、「大丈夫、行ける、若い奴らともOKだ」とけしかけられたということか、或いは「もう一皮むけろ」ということだったのかもしれない。いずれにしろこの辺りの事情を知っているのはハンコックしか生きておらず、しかるべき評論家なりにきっちり取材の上明白してもらいたいものである。しかし何も考えず音だけを聴けばそこに違和感はない。
内容については曲ごとに紹介したいが、アルバム全体について解説の原田氏の言葉を紹介しよう。「ウォーターメロン・マン以外の5曲ではむしろホレス・シルヴァー・クインテット、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ、そしてハンコック自身も在籍したドナルド・バードクインテットといったブルーノートの人気バンドをそこはかとなく参照したかのような音作りがうかがえる」とし、ハンコック自身のピアノについては「清新なピアノ・タッチの背後からウィントン・ケリー、ホレス・シルヴァー、ビル・エヴァンスなど当時の人気ピアニストの影を感じられる」そして「本作におけるプレイはまるで自分のジャズマンとしての履歴を音で語っているかのように響く」と述べている。

「2LP セット」モノラル・ラベル A-1 ウォーターメロン・マン (Watermelon man)
  言わずと知れた大ヒット曲。後にファンク・フュージョン・バンド「ザ・ヘッド・ハンターズ」でもガラッとアレンジを変え取り上げている。 A8小節+B8小節=16小節1コーラスのファンキーな8ビートのナンバーなので、各自がどんなファンキー・フレーズを繰り出すかが聴きどころだろう。8小節のリズム隊によるイントロの後テーマが来るが、ピッタリタイミングを合わせずプァ〜と吹き出すハバードは「俺は生まれつきファンキーだからね!」といっているようだ。ソロはハバード3コーラス、ゴードン3コーラス、ハンコック1コーラスと先輩方に華を持たせたような形だ。ハバードがゴードンのソロ・パートの1小節まで食ってしまい、1小節間を置きゴードンが入る。ゴードンも年齢差を感じさせない全く違和感ないソロを展開する。

A-2 スリー・バッグス・フル (Three bags full)
解説の原田氏によるとハンコック風モード取り組みナンバーという。6/8拍子の斬新で緊張感のあるテーマの後ハバード、ゴードン、ハンコックとソロ・オーダーは前曲と同じ。各自のソロも実に聴き応えがあるが、特にハンコックの紡ぎだすフレーズは変わっていて新鮮な響きがある。この曲も前曲同様フェイド・アウトで曲が終了する。

「2LP セット」モノラル・ラベル A-3 エンプティ・ポケッツ (Empty pockets)
この曲を作曲した時にハンコックはポケットが空っぽ(Empty pockets)の極貧状態だったという。 ダッダーンというピアノの弾くパターンで始まる。このピアノのコードの響きも新しさを感じる。テーマのメロディー・ラインも新鮮だ。各自のソロもこのパターンで始まり、ヒギンズのロールからスインギーな4ビートが展開する。ハバード、ゴードン、ハンコック共ファンキー・フレーズ満載のソロが素晴らしく聴き応えのある。

B-1 ザ・メイズ (The maze)
“Maze”を直訳すれば「迷路」だが、この曲にどのような意味を込めたのだろうか。この曲だけJohn H Scottなる人物との共作になっている。
ちょっと暗めなテーマでスタートする。テーマの後短いピアノ・ソロが入りハバードのソロに移る。ここでのハバードのソロは堂々としたもので、吹き切れている感じだ。そしてそして短いピアノのソロが入りゴードンのソロに入るという一風変わった構成が、これまでの枠組みにとらわれない新鮮さを感じさせる。ゴードンもダーティー・トーンを組み入れたりと熱演を聴かせる。そして本格的なハンコックのソロになる。イントロでは暗い色調だったテーマがエンディングでは熱情的な感じに変化させている。

B-2 ドリフティン (Driftin’)
これもファンキー調の曲で親しみやすく実に覚えやすいメロディー・ラインを持っている。この曲はゴードンからソロを取る。フレーズ満載の素晴らしいソロだ。続くハバードのソロもチャーミングでありながら哀愁を感じさせるようなフレーズが印象的だ。ハンコックもハバードの創った流れに沿ったソロの組み立てで魅き込まれる。

B-3 アローン・アンド・アイ (Alone and I)
解説原田氏は内省的な彩りを持っていると述べている。ナイーヴなピアノのイントロの後にゴードンがメロディー・ラインを切々としかし決して大仰ではなく歌い込む。短いハバードの吹奏の後のハンコックのピアノも哀愁を帯びた切々とした語り口でハバードもそれを受けついで切々と吹き込んでいく。原田氏の言うように各自が自己を見つめ直すような内省的な色彩を感じさせる。。

僕はこのアルバムが世に出てから相当に後になって聴いたわけだが、全体として実に立派なモダン・ジャズのアルバムであると思う。そしてすべての曲の作曲及びアレンジもハービー・ハンコックと思われるが、そのプレイと共に将来を嘱望されたというのは実によく分かる。そしてその通り大活躍をしていくのである。

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