アニタ・オディ (ヴォーカル)

Anita O'day (Vocal)

アニタ・オディ

本名:アニタ・ベル・コルトン (Anita Belle Colton)
1919年12月18日イリノイ州シカゴ生まれ。本名はAnita Colton。
2006年11月23日ロサンゼルスの病院に肺炎の治療のため入院中だったという。享年87歳。

1919年は日本では大正8年にあたる。父親はジェームス、母親はグラディスといい、2人ともカンサスシティー出身のアイリッシュ系だという。
「チャーリー・パーカーの真実」という本に何度かアニタは登場し、その度に「貧しかったアニタ」という書き方をされているので、
貧しかったのだろうしそのことは誰しもが知っていることでもあったのだろう。
最初は踊り子としてステージに上がるようになったのも目的は生活のためだったいう。ミドル・ティーンの時代に自らオディと名乗るようになったのだという。
O’dayとはラテン語のスラングで現金のことらしい。彼女によると欲しいものの名前をニックネイムとして付けたのだという。
トレードマークともいえる「ハスキー・ヴォイス」は7歳の時に受けた扁桃腺出術の失敗が原因というから、何が幸いするかわからないものである。
1939年1月19歳の時、マックス・ミラーのコンボに加わりシカゴの“オフ・ビート・クラブ”に出演しデビュー。
その後ニューヨークに進出、約1年間52丁目のクラブ“スリー・デューセズ”にマックス・ミラーのトリオと出演している所をジーン・クルーパに見初められて引き抜かれ、41年3月にジーン・クルーパのバンドに迎えられた。
この時の録音、「オール・リート」と「ジョージア・オン・マイ・マインド」が初吹き込みという。
2年間クルーパのバンドで歌っていたが、ロイ・エルドリッジと一緒に歌った吹込み「レット・ミー・オフ・アップタウン」が大ヒットし、彼女の名がジャズ・ファンに知られるようになったという。
その後短期間ウッディー・ハーマン楽団を経由した後、44年3月から45年まで当時プログレッシヴな方針を取っていたスタン・ケントンのバンドに迎えられ、
「アンド・ハー・ティアーズ・フロウド・ライク・ワイン」のヒットを飛ばした。だが1年足らずで退団、45年夏から再び短期間であったが、クルーパのバンドに戻った。
この前後にアニタは“エスカイア誌”の批評家投票をはじめとする人気投票でニュー・スター部門で首位を獲得、クルーパのもとを離れて独立の意思を固めたとされる。
1947年2月初めて自分の名前でレコードを出したが、売れ行きはいまいちだった。48年秋にカウント・ベイシー楽団と“ロイヤル・ルースト”に出演したが、
この時にはすでにバップの影響が少なからずみられ、モダンな唱法を確立していたという(未聴です)。この期間に彼女の真価を発揮させるだけの企画のレコーディングがなかったことが悔やまれる。
58年にニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演し大成功を収め1950年代末には彼女の名は不動のものになった。
この時のニューポート・ジャズ・フェスティバルの模様は映画「真夏の夜のジャズ」という題で公開されヴィデオ化もされたようだが、しばらくは入手不可能になっている。
現在ではYouTubeで簡単に見られる。
粟村政昭氏は、「白人最高の女性シンガー」であるとし、彼女の欠点を「声に甘さが無さすぎること、音域が狭いこと、音程がフラットしやすいこと、歌詞をあまり大切にしなこと等」とあげつらっておいて、しかし「彼女の持つ天衣無縫のジャズ・フィーリングと抜群の無比のテクニックはこれらを補って余りある」と絶賛している。
女性ジャズ・シンガーとして大御所的な存在であり、そのハスキーな歌声と巧妙極まりない歌い回しは後の女性歌手に多大な影響を及ぼした。

レコード・CD

「アニタ・オディ・シングス・ウィズ・ジーン・クルーパ(CBS 20AP 1439)
"Let me off uptown"(Columbia CK 65625)
"Stan Kenton-1944"(Queen-disc -054)