1924年3月27日 ニュージャージー州ニューアークの生まれ。
1990年4月3日がんのため死去。
モダン・ジャズが生んだ最初の、そして最高の歌手と言われる。
ギターを弾いて余暇を楽しむ音楽好きの大工職人の父と洗濯婦の母も
ニューアークのマウント・ザイオン・バプチスト教会の讃美歌合唱団の一員という音楽好きの家庭に生まれる。
自身も子供のころから生地の教会などで歌っていたという。
31年〜39年まではピアノを、後にはオルガンも加えて習っていたという。
1942年10月ハーレムのアポロ劇場恒例のアマチュア・コンテストで見事に優勝を遂げた。
因みにこのコンテストの第1回は1934年であり、その時の優勝者は14歳のエラ・フィッツジェラルドであった。
そしてエラはそれがきっかけとなりチック・ウエップ楽団の専属歌手となっている。
このコンテストの優勝の報酬は1週間のアポロ劇場出演だったらしく、サラが出演中、
彼女の歌を聴き感心したビリー・エクスタインは自らが専属歌手となっていたアール・ハインズのバンドに推薦し、
11月から歌手兼セカンド・ピアニストとしてハインズのバンドに加わった。
ちょうど1年間在団した後、エクスタインが独立して新バンドを結成するや彼と行動を共にした。
このエクスタインが結成したバンドこそ史上初のバップ・バンドと言われ、
チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーなどが在団していた。
つまり彼女の周りには、バップを創出していった逸材が取り囲んでいたといえる。
このモダン・ジャズの創造過程において、彼女は自然とバップのビートやコード、フレイズを身に着けて行った。
彼女の先輩にあたるビリー・ホリディやエラ・フィッツジェラルドなどが才能を引き出された時期
とは全く異なる環境から彼女はそのキャリアをスタートさせた訳である。
さらに面白いのは、このビリー・エクスタインはモダン・ジャズ・ヴォーカルの始祖ともいわれるが、
エクスタインは彼女との相互影響で自分のスタイルを確立していった面もあり、
モダン・ジャズ・ヴォーカルはこの2人によって創造されていったということもできるだろう。
サラの初レコーディングは1944年12月5日エクスタイン楽団の伴奏で"I'll wait and pray"を
デラックス・レコードに吹き込んだものである。
さらにコンチネンタル・レコードにディジー・ガレスピーやジョージ・オールドらと4曲、
翌45年5月にはガレスピー、パーカーのコンビをバックにギルド、
コンチネンタル両レコード会社に歴史的な録音を行った。
なおこの時の録音はイギリスのスポットライト・レコードからパーカー名義のアルバム”Every bit of it”の中に収録されている。
この45年エクスタインのバンドを離れ、歌い手として本格的な活動を開始した
45年末から46年初めにかけてコパカパーナ・ラウンジでジョン・カービー楽団と共演したのをはじめ、
カフェ・ソサイエティ、オニックス、ダウンビートなど有名クラブで歌い、東海岸から西海岸まで活動を広げて行った。
1946年9月17日トランぺッターのジョージ・トレッドウェルと結婚。
トレッドウェルの楽団などと数多くの吹込みを行い、モダンでユニークなスタイルを確立していったとされる。
49年には大手レコード会社であるコロンビアと契約、同年1月20日から吹込みを開始する。
この契約は53年まで続くがこの時期が彼女が最も円熟し、高い音楽性を発揮したといわれる。
しかし時としてあまりにも技巧におぼれすぎる面が現れることもあったと評する向きもあったが、
この時代にはアメリカ以外の国のジャズ・ファンからも称賛を浴びるようになり、
47年にはエス久ワイヤ誌のジャズ・スター人気投票の新人賞を獲得、47年〜52年までダウンビート誌、48年〜53年までメトロノーム誌と、
当時の2大ジャズ誌の人気投票の女性歌手部門を独占するにまで至った。その後の50年、60年代と順調にキャリアを積み重ねていった。
"Billy Eckstine"(Ember FA 2010)
"Charlie Parker/Every bit of it"(Spotlite SPJ150D)
"Charlie Parker/A Studio choronicle"(JSP RECORD JSP915)
「ビリー・エクスタイン/トゥゲザー」(ISJ-40010)
"Hall of fame/Sarah Vaughan"(Past perfect 220209)