本名:エドワード・ハモンド・ボートナー・ジュニア(Edward Hammond Boatner Jr.)
1924年7月22日マサチューセッツ州ボストン生まれ。
1982年7月22日ワシントンD.C.にて死去。
ビ・バップ期およびハードバップ期に活躍したジャズ・サックス奏者。
同世代の他のサックス奏者に比べると、最も多くの録音を行った一人であり、生前に100点以上の録音を残した。
ボストンで生まれたが、ミシガン州のサギノーで育ったという。
父親は大学の音楽教授で、母親はピアノ教師、兄弟もクラシック音楽の教育を受けたピアニストという音楽的な家庭環境だったという。
1943年に初めてチャーリー・パーカーと出逢った。後にスティットの述懐したところによると、
二人は互いの演奏スタイルが非常に似通っていることを認め合ったという。
スイング時代から、経験を積み、1940年代初頭タイニー・ブラッドショウのビッグ・バンドの花形ソロイストだったという。
最初期の録音は、ビリー・エクスタインやディジー・ガレスピーとの共演によって1945年に行われた。
1945年から1949年まで、ビリー・エクスタインのビッグ・バンドにおいて、バップの先駆者であるデクスター・ゴードンや
ジーン・アモンズと並んで、アルト・サックスを担当した。
その後はアモンズやバド・パウエルと共演したが、1948年から1949年まで麻薬密売の罪でレキシントン監獄に収容された。
1960年に短期間マイルス・デイヴィスのグループのメンバーとなったが、この時の録音は、1960年のツアーのライブ音源しかない。
それというのもマイルスが、スティットの酒癖の悪さのために解雇し、ハンク・モブレーを後任に据えたからだという。
1964年7月10日から16日にかけて開催された「第1回世界ジャズ・フェスティヴァル」に、J・J・ジョンソン・オールスターズのメンバーとして来日した。
晩年は首に悪性黒色腫を患っていたという。
1982年7月12日からソニー・スティット・カルテットの日本全国縦断ツアーが予定されていたが、体調不良のため演奏不能となり、帰国。
そして帰国の3日後の1982年7月22日にワシントンDCで死亡した。
その際の新聞各紙訃報では、皮膚がんが死因と報道された。
1945年のビリー・エクスタインの吹込みに名前が見える。
"Dexter Gordon/Kind of Gordon"(House of jazz 220156)
「ディジー・ガレスピー/シングス・トゥ・カム」(Columbia YW-7534-EV)
"Dizzy Gillespie/Professor bop"(Atlantis ATS-11)
"Dizzy Gillespie/Groovin high"(Savoy MG-12020)
"The Fats Navarro story"(Properbox 11)
"Fat Navarro/The 1946-49 small group sesions"(Blue moon BMCD 1016)