1921年2月13日オクラホマ州オクラホマ・シティ生まれ。
1955年5月25日ネヴァダ州ラス・ヴェガスにて死去。
4人兄弟の末っ子としてオクラホマシティで生まれ、幼少期をオクラホマで過ごした後、
1929年に家族とともにミシガン州デトロイトに移住した。
1935年初め、ノース・イースタン高校に入学、その後キャス工科高校に転校し、1936年に卒業前に退学した。
グレイは10代の頃にクラリネットを習い始めが、レスター・ヤングのレコードを聴いて、テナーサックスに転向した。
地元のダンス・パーティーで演奏するパートタイムの楽団で演奏を始め、別の仕事のオーディションで、
若いピアニスト、ドロシー・パットンの目に留まり、後に雇われた。その後ミシガン州のローカル・バンドに移った。
1943年アール・ハインズ楽団の当時テナー・サックスの空きがなかったためアルト・サックス奏者として雇われたが、これが大きな転機となった。
アール・ハインズ楽団は全国的に知られていただけでなく、ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーといった
新進気鋭のビ・バップ・ミュージシャン達が去就したバンドだったからである。
1946年後半ハインズ楽団を離れ、カリフォルニア州ロサンゼルスに定住した。
到着後すぐに、自分の名義でサンセット・レーベルに最初のセッションを録音した。
ロサンゼルスで、当時繁栄していたセントラル・アベニュー沿いのクラブでプレイし、好評だったため、
ダイヤル・レコードのオーナーだったロス・ラッセルに認められた。
ここで行われたデクスター・ゴードンとのテナーバトルは評判となり、名声が広まった。
1947年アル・キリアン率いる小さなバンド以外単発のセッションで活動していた。
ベニー・グッドマンとコンサートで共演し、気に入られコンボに雇われた。
このグループには、若いスウェーデンのクラリネット奏者スタン・ハッセルガード、テディ・ウィルソンが参加していた。
このグループは経済的に成功せず、バンドは結局解散したが、
彼の名は東海岸でも新進気鋭のミュージシャンとして名を馳せるようになっていた。
1948年後半から1949年初頭にかけて、カウント・ベイシー楽団で活動する一方、
タッド・ダメロンやアル・ヘイグらと共演した。
1949年、ベイシー楽団を辞め、ベニー グッドマンのバンドに戻ったが、次第に居心地が悪くなり、
また個人的にも結婚生活が破綻しつつあり、プレイ自体も下降線をたどるようになる。
そして再びグッドマンの楽団を退団し、ベイシー楽団に復帰した。
しかし相変わらずベイシー楽団はツアーに次ぐツアーで、結局1951年に退団する。
この頃から、麻薬に手を染めるようになり、それが悪影響し、演奏にも衰えが見え始めるようになる。
1955年5月ベニー・カーターのバンドに雇われた。しかしリハーサルには参加したが、5月25日のクラブのオープンには現れなかった。
そしてその翌日、ラスベガス郊外の砂漠で首を折って死亡しているのが発見された。
グレイの死の状況は今でも謎に包まれている。
死因については、様々な情報源が伝えているが、テディ・エドワーズは次のように伝えている。
「1955年5月、ラスベガスでグレイがホテルの部屋で薬物の過剰摂取で亡くなったとき、現場にいた。
ロサンゼルスでベニー・カーターのグループと活動していた友人たちは警察に迷惑をかけたくなかったため、
彼の遺体を車に乗せて砂漠まで運んだ。車から降ろした際に遺体は地面に落ち、首の骨が折れていた。それだけだ」と。
"Billy Eckstine"(Ember FA 2010)
"Wardell Gray/Easy swing"(Contact record STD1032)