ドイツを代表する偉大なジャズ評論家ヨアヒム・ベーレント氏はその著『ジャズ』において「ルイ・アームストロングは1924年フレッチャー・ヘンダーソンのビッグ・バンドに加わり、それまでコマーシャルで平凡だったバンドに大きな刺激を与えた。1924年こそ本当のビッグ・バンド・ジャズが生まれた年であるとさえ言える」と述べ、本HPにたびたび登場する音楽家ガンサー・シュラー氏もその著『初期のジャズ』において、「そもそもルイの加入する前のヘンダーソン楽団とルイの加入してからのヘンダーソン楽団は天と地ほどの違いがある」と書いている。
そしてシュラー氏はその著『初期のジャズ』に「最初の偉大なソロイスト」という章を設けルイ・アームストロングのフレッチャー・ヘンダーソン楽団入団についてさらに詳しく述べている。
「彼のソロはその後数十年間のジャズのスタイルの全体の方向を規定した」とし、さらに「ソロイストとしてのアームストロングの登場は、フレッチャー・ヘンダーソンのバンドに入団した時期に符合する。このバンドで、ルイは、オリヴァーの楽団の場合よりも、障害のない文脈の下で、自己の創造的な器楽奏者としての才能を試すことができた。実際、ヘンダーソンは既に、ソロイストと相当に洗練された編曲を強調することによって、ニューオリンズ以降のジャズのスタイルを確立するリーダーの一人になっていた。そんな彼は若いルイをバンドの売り物ソロイストとしてルイを雇用したのである。これによって、サッチモは、自己の音楽的個性を発揮し、二次的な特徴や模倣を取り除き、自己の成熟したスタイルを確立する格好の機会が与えられた」と綴る。つまりジャズ史上最大の改革者の一人ルイ・アームストロングは、ヘンダーソンのバンドに加入してから、加入することによって真にその偉大な歩みを始めることになったというのである。
しかし実際は、ヘンダーソンは別なトランペット奏者ジョー・スミスの方が気に入っていて、サッチモは2番目の選択肢だった。ジョー・スミスはそれまで何回かヘンダーソン・バンドの録音に参加していたが、常任メンバーとしての入団を断られた。
そしてその後楽員たちからの要請もありサッチモの起用に踏み切ったという。しかし一方ヘンダーソンはエセル・ウォーターズの公演に同行した際に、ニューオリンズで若きルイ・アームストロングの演奏を聴いた1921年の日のことを覚えていたことは間違いないという。当時のアームストロングに感銘しニューヨークに連れてこようとしたという伝説も残っているという。
右の写真は1924年ルイ加入後のヘンダーソン楽団。写真は左から右へ、Howard Scott、Coleman Hawkins、Louis Armstrong、Charlie Dixon、Fletcher Henderson、Kaiser Marshall、Buster Bailey、Elmer Chambers、Charlie Green、Bob Escudero、Don Redmanである。
そのルイ・アームストロングがヘンダーソン楽団に在籍するのは1924〜1925年にかけての約1年間である。では早速1924年を聴いていきたいと思いますが、残念なことに僕の持っている音源は多くない。前にご紹介したCD「フレッチャー・ヘンダーソン/スタディ・イン・フラストレイション」と今回初登場の「ルイ・アームストロング/若き日」の2枚である。ルイが加わったヘンダーソン楽団の1924年の録音は、前者に5曲、後者には1曲が収録されている。しかしヘンダーソンのディスコグラフィーを見ると初録音10月7日から年末にかけて合計21面分の録音が記録されている。つまり保有している音源は3分の1にも満たない。残りの15面分の音源を今後入手できるかどうかは分からないが、もし入手できるようなことがあれば追記したい。
録音データを見ていてブラス・セクションで気になることがある。
“A study in frustration” CDの記載
9月24日までは、エルマー・チェンバースとハワード・スコット両者ともコルネットをプレイ。
10月7日以降の5曲…エルマー、ハワード、ルイ3者ともコルネットではなくトランペットをプレイ。
「若き日のルイ」レコードの記載
“Words”1曲ではあるが3者ともコルネットをプレイ。
ルイのディスコグラフィーでの記載
10月7日以降の録音21面中1面分を除き全て、エルマー、ハワード、ルイ3者ともトランペットをプレイ。
例外の1曲というのが、「若き日のルイ」収録の“Words”で、エルマー、ハワードの2人はトランペット、ルイのみコルネットorトランペットと記載
これはディスコグラフィー及びCDの解説とも一致している。つまりバンドのブラス部門は、ルイの加入後コルネットからトランペットに切り替えたことになる。しかしこれはいかなる理由によるものであろうか?今のところこの点について言及している資料を見つけられていない。
いずれにせよ、全体的なサウンドを考慮してブラスの主体をコルネット⇒トランペットという切り替えを行ったことは確かである。なぜここでコルネットからトランペットに切り替えたのであろうか?そもそもコルネットとトランペットはどう違うのだろうか?僕には詳しい知識はないのだが、その大きな違いはトランペットは管が1巻で、コルネットは間が2巻ということで、管自体の長さは同じだが、コルネットの方が小さく、マウスピースや吹き方等によって変わるので一概には言えないが、コルネットの方が太く柔らかい音がするといわれているが…。
ともかく1924年9月24日と10月7日というほぼ2週間の間にヘンダーソン楽団はバンドのサウンドを変更するという重大な決断を行ったことになります。なぜこのことに各評論家の方々は言及しないのだろう?それともこれは僕が知らないだけで既に解決済の問題なのでしょうか?あまり期待はできませんが、何か分かったら追記していくことにしよう。
Band leader & Piano | … | フレッチャー・ヘンダーソン | Fletcher Henderson | ||||||
Cornet | … | ルイ・アームストロング | Louis Armstrong | 、 | エルマー・チェンバース | Elmer Chambers | 、 | ハワード・スコット | Howard Scott |
Trombone | … | チャーリー・グリーン | Charlie Green | ||||||
Clarinet & Alto sax | … | ドン・レッドマン | Don Redman | 、 | バスター・ベイリー | Buster Bailey | |||
Tenor sax & Clarinet | … | コールマン・ホーキンス | Coleman Hawkins | ||||||
Banjo | … | チャーリー・ディクソン | Charlie Dixon | ||||||
Tuba | … | ラルフ・エスクデロ | Ralph Escudero | ||||||
Drums | … | カイザー・マーシャル | Kaiser Marshall |
曲名 | 原題 | 録音日 | アルバム |
ゴー・アロング・ミュール | Go 'long mule” | 1924年10月7日 | A study in Frustration |
上海シャッフル | Shanghai shuffle | 1924年10月10日 | A study in Frustration |
コペンハーゲン | Copenhagen” | 1924年10月30日 | A study in Frustration |
ワーズ | Words | 1924年10月30日 | Young Louis |
ハウ・カム・ユー・ドゥ・ミー・ライク・ユー・ドゥ | How come you do me like you do | 1924年11月17日 | A study in Frustration |
エヴリバディ・ラヴズ・マイ・ベイビー | Everybody loves my baby | 1924年11月22日 | A study in Frustration |
ゴー・アロング・ミュール(「騾馬(ラバ)を追う」)
この曲だけクラリネット&アルト・サックスはバスター・ベイリーかセシル・スコットだという。さたシュラー氏の分析は、
「1924年当時には、キング・オリヴァーのバンドの新しい第2コルネット奏者としてのルイの名声が急に高まって来ていて、この野心溢れるバンドの財産になることは明らかだった。ヘンダーソン楽団が当時のニューヨークでどれほど革新的と意識していたにせよ、ルイが加入した1924年時点では彼らよりもルイの方が一歩進んでいたことは明白である。今日大半の人が、アームストロングとコールマン・ホーキンスをジャズのソロイストとして対等な存在として評価するであろうが、1924年時点では両者の間には巨大な落差があった」という。それを証明するのがこの曲であるという。そして次のように続く。
「ルイのソロは、その感性と旋律上を自由に動き回るという点で本物のソロであるのに対し、ホークの随所に行われる短いソロはアンサンブルの一部、或いは上向、下降によるコードの構成音の素描の様な響きである。それらは旋律ではなくその断続的なリズムは今日では了解し難いところがある。
この曲は素材そのもの(この場合には、1924年の当時ですら古めかしかったケイク・ウォーク風な曲)の要請とバンドの奏者たちの素材への込み入った対応の間で、どちらかが優位を占めるのかという様式上の綱引きが生ずる典型的な例でもあった(ちょっと分かり難い)。ある水準ではルイとレッドマンは、ラバのいななきの「ノヴェルティ」的な模倣に没頭する(実際にはそれらはラバというより馬のいななきのように聴こえる=ラバと馬のいななきはどう違うのか僕には分からないが)。別な水準では、ホワイトマン楽団の人気トランペット奏者ヘンリー・バスの工夫したワゥ・ワゥ・スタイルによる全面的に編曲されたトランペットの三重奏を耳にする。その少し後では高い音域のクラリネットの二重奏が聞こえるが、こちらの方は全面的に譜面化されたものではないことが分かる。レッドマンは旋律をきっちり演奏するが、他方ホークはそのすぐ下の音域でそれと緩やかな2声の和声を構成する即興的な旋律線を奏する―この二重奏は譜面の演奏と即興との実践的な妥協である。そして多くの不連続な層を持つ様式の背後に、優秀な音楽家が常に追求する細部の工夫がはめ込まれていることが分かる。ラバのマネをした各楽句の裏では、レッドマンとヘンダーソンの間でやり取りされるささやかなリズム上の実験が聞こえてくる。そこではリズム・セクションのスペイン風な伴奏に乗って、クラリネットが旋律の変奏形を2/2拍子で演奏する。
アンサンブルの後に先ずTpのソロが入り、その後Cl、Tsが絡んだ部分がありさらにもう一度Tpのソロがある。どちらもルイなのだろうか?ホーキンスのTsソロというのは、確かにシュラー氏の言う通りだと思うが指摘されないと分からなかった。確かにTpソロはメロディーに囚われてはいないような気がする。Tpソロの後間髪なしに「いななき」フレーズが出てくるところはルイではないのではないかと思う。アンサンブルのワゥワゥTp三重奏はとても面白いと思う。
僕のような審美耳を持っていない人間にはシュラー氏のような詳しい解説は有用だなぁと感じる。
上海シャッフル
シュラー氏によれば、1924年の大ヒット曲の一つである『ライムハウス・ブルース』(未聴)の二番煎じを明らかに狙った作品であるという。そして次のように記述する。「レッドマンには音の経済的活用のセンスがあり、いくつかの非凡な着想に基づいて、これを見事にやってのけた。これらの全ての初期の「実験的]録音に共通することだが、レッドマンはここでもわずかな着想を極端に深く展開して、当時のジャズとしては異例な完成度の高いスタイルと形式にまでまとめあげている。導入の楽句がいくらか変形されてコーダとして再登場する。当初のリズム(譜例2A) が変形されて(譜例2B)精巧なストップ・タイムのコーラスに登場して、チャーリー・グリーンの元気な量感のあるトロンボーンのソロを背後で支える箇所にみられるように、伴奏のリズムのパターンが異なった文脈で何度も使われる。この曲は録音されたものとしては黒人の楽団で初めてオーボエを使用した試みで、レッドマンが3度の間隔を空けた2本のクラリネットに伴奏されて旋律を吹いている。」
ここでもTpソロがあるがルイなのだろうか?シュラー氏は言及していない。Tbソロのバッキングの複雑さに対してTpのソロのバッキングはフラットな2拍子である。ソロがルイだとすれば、バッキングを複雑にするよりもシンプルにすることでソロを引き立てる効果があると判断したのかもしれない。レッドマンのアレンジが聴きどころということだろう。
コペンハーゲン
シュラー氏は、「レッドマンの仕事の中で飛躍的な前進を刻印した作品であるとする。この曲の活発なテンポのおかげで、10インチの円盤、3分間の枠内で彼の器楽的想像力を発揮する時間が与えられた。何故ならば、テンポが早ければ早いほど、一つのレコードにたくさんのコーラスが盛り込めるし、おまけにクラリネット奏者のバスター・ベイリ―の加入に寄ってバンドは11人編成まで拡大されていた。」
さらに「レッドマンは売り物のソロイストとしてのルイ・アームストロングの加入に伴って、この驚異的なソロイストの演奏にふさわしい様式上の枠組みを発見しなければならなかった。一つの解決策はテンポにあった。編曲家にとっては、速いテンポよりも遅いテンポの方がソロイストの自由な即興と張り合うことが難しいものである。というのは、ソロイストにとって、速いビートよりも遅いビートの方が即興を膨らませる方法がたくさんあることは明らかだからである。活発なテンポは、リズミックな弾みが自動的につくので、即興者と編曲者の葛藤を解決する。或いは回避する一つの手法だった。レッドマンのもう一つの解決は、ルイがこの時期成長の過渡期にあって、ニューオリンズの集団即興の技法に未だ近い位置にいたために、その技法とより新しいソロ+セクションのスタイルを橋渡しすることができるという事実の直観的認識に依拠するものだった。「コペンハーゲン」はレッドマンのこの直感を見事に具現化した作品だった。
またこの「コペンハーゲン」の大半は、オーケストレイションの観点から見ると、4小節の楽句へと断片化されているが、にもかかわらずその演奏の響きは驚くほど細切れな感じを与えない。これはレッドマンがブラスとリードの間の対照を明快に強調したという事実のせいである(譜例3)。ブラスとトリオの箇所は、クラリネットのトリオの箇所と対比され、各楽器部の分離は、各楽器が混ぜ合わせられる場合には、集団即興と対象となる譜面化されたセクション層を並置することによって強調された。
構造的な枠組みは1924年の段階としてはかなり複雑で革新的である−モートンにしてもこのようなものはまだ実現していなかった−だけでなく、音色やテクスチャアや音域の対照を十分に活用した細密な思考の所産であることを明らかにしている。特定の手法だけが延々と展開される個所はどこにも登場しない。今日このレコードを聴くと、セクションの演奏とソロの演奏への移行が余りに円滑なことに驚嘆させられてしまう。B3の箇所において、チャーリー・グリーンがこの曲のきびきびした雰囲気を捉えそこなっているだけである。「コペンハーゲン」がこれほどまとまって響く理由の一端は、演奏がリズム・セクションがゆるぎなく「直進的」なアプローチによって結束しているところにある。演奏全体があたかもリズムのアセンブリー・ラインに乗っている気配なのだ。
レッドマンが曲の末尾に至って、楽句の長さを不均等にし始める様子に注目すると面白い。C2の箇所では1小節ずつのブレイクが登場し、A1の4小節のアンサンブル奏は3小節からさらには最終的に2小節へと徐々に縮小される。それでいて、そうした4小節の断片は、A1の予想外の再登場によって新たな脈絡の下へ紛れ込まされる。最後の4小節では、最初はA1の再度の反復の様に響く楽句が半音階的に下降する「結末」にまで変形される。そこでは、この曲は調性の3全音のせいで、和声的には中空に宙づりにされたような感覚を残す。
編曲の手法としてのクラリネットのトリオについて付言すると、これは従来ヘンダーソンか、レッドマンの手法とみなされてきた。しかしまずヘンダーソンと考えるのは間違いである。レッドマンと考えると、自分自身リード奏者のレッドマンがクラリネットのトリオを強調し、普及させたことは確かであるのだが、彼が実際にこの工夫を発明したとは信じがたいが、これらクラリネットが3声体の和声で演奏していたかは判然とはしないが、そのように演奏していたのではあるまいか。というのはすでにサキソフォーンの3声体の和声付けが登場していたし、楽器を掛け持ちするリード奏者が勢ぞろいしていたホワイトマンの楽団では1924年に先立ってクラリネットのトリオを使っていたこと、また当時の章で最も人気のあった見世物の一つが、ウィルバー・スウェットマンの3本のクラリネットの同時吹奏であったからである。」
訳文がかなり混乱している感じがするがともかくこの作品の出来栄えはことのほか素晴らしいとしている。
ワーズ
飯塚経世氏の解説がついている。曰く
「1924年頃のヒット曲で、チャールストン・ダンスのふさわしい快適な演奏が楽しめよう。ソロはルイ・アームストロングのコルネットにコールマン・ホーキンスのテナー・サックス、それにチャーリー・グリーンのトロンボーンなど。」因みにチャールストン・ダンスは1920年代アメリカで一世を風靡したダンスの一種。1923年の黒人だけのレビュー“Running wild”の中で、ジェームス・P・ジョンソン作曲の“Charleston , South Carolina”に合わせて踊ったのが最初と言われる。
シュラー氏がことのほか素晴らしいとした”Copenhagen”と同日の録音である。出だしはここではTp(或いはCorによる)トリオ演奏で始まる。レッドマンの作戦だろう。ディスコグラフィーとレコードでのブラス・セクションの記載の相違がある。
ここでのルイのソロは闊達で素晴らしいと思うし、ホーキンスのソロも”Go 'long mule”の時と比べると単なるオブリガード風ではなくソロという感じが色濃くなっている。早くもルイの影響が出始めたのだろうか?
ハウ・カム・ユー・ドゥ・ミー・ライク・ユー・ドゥ
編曲に関しては変にひねくり回さず非常に平易で、落ち着いて聞け、現代的な感じさえする。アンサンブルが終わりTpソロがありソロの中間でTbと絡み、さらにソロ、アンサンブルが入り短いTsソロが入って終わる。
エヴリバディ・ラヴズ・マイ・ベイビー
Tpのリードでテーマが始まる。複雑なアンサンブルのあとTp、Bj、Tbの短いソロが入る。最後にルイの掛け声風のヴォーカルが入って終わるが、ルイのヴォーカルが聴けるのはこれが最初ではないか?
さて、シュラー氏は6.エヴリバディ・ラヴズ・マイ・ベイビー (Everybody loves my baby)と7.ハウ・カム・ユー・ドゥ・ミー・ライク・ユー・ドゥ (How come you do me like you do)については格段触れてはいないが、「1924年後半と1925年初期のヘンダーソンの「コペンハーゲン」以外の全ての録音が過剰なヴィブラートと凡庸なセクション書法を満載し、出来合いの編曲の水準と変わり映えしない大袈裟な感想やコーダのつけられた作品へと復帰している。ルイだけが飛びぬけて素晴らしく聞こえるのは、スウィングの幅が大きく、しばしば時代に数十年先んじてビハインド・ザ・ビートの間隔を込めて演奏しているからである」と述べ、ルイ以外を全く評価していない。
ところで”A study in frustration”では大体年代順に曲を並べているが、この2曲に関しては7曲目”How come you do me like you do”が11月17日、6曲目”Everybody loves my baby”が11月22日と順番が異なる。どういった理由であろうか?
さて1924年ルイが参加した録音はヘンダーソン楽団以外にもある。
ヘンダーソン・バンドのピックアップ・メンバーの一人として、当時非常に人気が集まっていた女性ブルース・シンガーの伴奏バンドに参加して吹込みを残している。その歌手たちの中には、マ・レイニーやアルバータ・ハンターなどの大物もいる。その他にもクラレンス・ウィリアムス(Piano & Band leader)の主宰する吹込みにも名前が見える。最も早いクラレンスとの吹込みは10月16日に行われたブルー・ファイヴの吹込みであった。そこで初めて一方の雄シドニー・ベシエと共演を果たしている。
一説によるとブルー・ファイヴの前任のトランぺッターが新たに加わったベシエのプレイに圧倒され、まともな演奏が出来なくなったためベシエに対抗できるトランぺッターを探したところルイに白羽の矢が立ったのだという。ルイとベシエは不仲だったそうで、二人は対抗意識から火花を散らすような激しいプレイをお互いぶつけ合ったという。この時の録音は3曲記録されており、そのうちの1曲“Texas moaner blues”はシュラー氏も取り上げている注目のソロであるが、まことに残念ながら未聴である。
因みにシュラー氏は二人の確執、火花を散らすインター・プレイには言及していない。また粟村師はベシエの項で「『N.O. jazz』(Decca8283 廃盤)に聴けるサッチモとの共演が素晴らしい」と書いているが、このDecca盤がこの期の録音を収容したものかどうかは分からない。しかしざっとディスコグラフィーを見ただけだが、この時期しか二人の共演は見当たらず、後にお互いが一家を成してから仲の良くない二人が旧交を温めるという雰囲気はなかっただろうと思われる。
「この時期」のルイとベシエの共演の録音を僕は一つだけ持っている。それが後に取り上げる12月22日の「レッド・オニオン・ジャズ・ベイビーズ」名義のものだ。
なお、ルイはこの後もクラレンス・ウィリアムズ関連の録音に参加しているが、ベシエは12月の録音まで参加していない。
ベシエに替わって参加しているのはバスター・ベイリ―である。バスター・ベイリ―は10月10〜13日に行われたヘンダーソンの吹込みからバンドに加わったのだが、ヘンダーソン・バンドではクラリネットを吹くことが多くたまにアルトなどに持ち替えているが、面白いことはブルー・ファイヴではベシエと同じくソプラノ・サックスを吹いていることである。これはリーダー、クラレンスの指示だったのかそれとも自ら判断したのかは分からない。またブルー・ファイヴはクラレンス・ウィリアムズの企画もののような感じで、トロンボーンや歌手が入れ替わって録音を行っている。
さらに1924年11月にはレッド・オニオン・ベイビーズというバンドも登場するが、これもどうやらクラレンス・ウィリアムズが関わっているらしい。初の録音は11月26日注目はピアノにリル・アームストロングつまりルイの奥さんが、キング・オリヴァーのバンドを辞めて入っていることである。いくつか録音はあるが、僕が持っているのは「ザ・ズミソニアン」に収録されている12月22日の録音でシドニーベシエが参加しているのである。
Cornet | … | ルイ・アームストロング | Louis Armstrong | |||
Trombone | … | チャーリー・アーヴィス | Charlie Irvis | |||
Soprano sax | … | シドニー・ベシエ | Sidney Bechet | |||
Piano | … | リル・ハーディン・アームストロング | Lil Hardin Armstrong | |||
Banjo | … | バディ・クリスチャン | Buddy Christian | |||
Vocal | … | アルバータ・ハンター | Alberta Hunter | & | クラレンス・トッド | Clarence Todd |
Record1 B-2. | ケーキ・ウォーキング・ベイビーズ(・フロム・ホーム) | Cake walking babies (from home) |
どうもこのバンドはクラレンス・ウィリアムスがリル・ハーディン・アームストロングをフューチャーするために組織したバンドのようだ。リル・ハーディン・アームストロングはご存じのようにルイ・アームストロングの妻で、ヘンダーソン・バンドに加わるためにニューヨークに来ていたルイを追ってニューヨークに来ていたという。因みにルイとリルはどちらも再婚同士で1924年2月4日(一説には5日)に結婚している。つまりBlue fiveとThe red onion babiesはどちらもクラレンス・ウィリアムスのプロデュースで、違いはピアノがクラレンスかリルかというだけと理解して間違いないようである。
ただどうしてクラレンスがリルにこのように肩入れしたのかは、よく分からない。夫を追ってニューヨークに出てきたか弱い女性を不憫と思ったのだろうか?因みにシュラー氏はリルのピアノを全く評価していないが。
そしてもう一つ注目は、シドニー・ベシエが再び加わっていることである。僕はこういったデキシーランド系のジャズで、クラリネットではなくソプラノ・サックスが使われたものを初めて聴いた。クラリネットの方が聴き慣れているので僕に違和感はないのだが。ともかくこの演奏はルイとベシエの絡みが凄まじい。火花を散らしている。確かにお互いに盛り立て合うというより競い合うという感じだ。こういうデキシー系音楽は初めて聴いた。
ヴォーカルのハンターはこの年少し前の11月に若きピアニスト、デューク・エリントンに初レコーディングの機会を与えている当時人気のブルース・シンガーだが、ここではルイとベシエに霞んでほとんど存在感がない。トロンボーンのアーヴィスは所々で存在感のある吹奏ぶりを示している。
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