僕の作ったジャズ・ヒストリー 30 ビ・バップの時代2 1945年

第二次世界大戦下のアメリカ

トルーマン大統領

民主党のフランクリン・ルーズベルト(写真右)は、1944年11月7日第40回アメリカ大統領選挙で、史上初の4選を果たしていました。そして1945年1月22日、副大統領にはハリー・トルーマンが指名され、その4期目がスタートします。その頃には、アメリカを中心とする連合国軍が、ヨーロッパ戦線においても、太平洋戦線においても勝利は確定的になっていました。そんな中4月12日フランクリン・ルーズベルト米大統領が急逝、副大統領のハリー・S・トルーマンが第33代大統領に昇格します。新大統領に就任したトルーマンは、「日独の無条件降伏まで戦う」と宣言します。

ヨーロッパ戦線

ヨーロッパ戦線においては、前年1944年6月6日「史上最大の作戦」と言われる「ノルマンディー上陸作戦」決行し、ヨーロッパ大陸に上陸した連合軍は、空からはドイツ国内に激しい空爆を行い、陸地でもじりじりとドイツ国内に迫っていきます。ソ連が1月17日にポーランドのワルシャワを占領するなど着実にナチス・ドイツを追い詰め行きます。そしてついに4月20日ソ連軍がベルリン郊外に迫り、砲撃を行った上で、戦車隊が市外へ突入し、市街戦が始まります。この状況でナチス・ドイツ総統のアドルフ・ヒトラーは妻のエヴァ・ブラウンと共に4月30日に自宅で自害して果てます。ヒトラーから次期首相を託されたゲッペルスも翌5月1日6人の子供を殺害した後夫婦で自害。ドイツ国防軍最高司令部作戦部長、アルフレート・ヨードルがフランスのランスで降伏文書に調印、スロベニアでの戦闘が停止した5月15日ヨーロッパ戦線が終結するのです。

太平洋戦線
原子爆弾

前年44年マーシャル島、トラック島、サイパン島を奪取し、マリアナ諸島を手中に収めたアメリカは大規模な航空基地を建設、日本本土への長距離爆撃機B-29による空襲が開始されます。3月10日の東京大空襲では、10万人を超す死者が出る事態となりました。既に2月には硫黄島の戦い開始され、3月26日硫黄島玉砕、アメリカ軍は勢いに乗り、沖縄へ上陸、沖縄戦が開始され、6月21日アメリカ軍が沖縄を占領します。
ドイツの降伏により、残る枢軸国は日本だけとなります。この日本への対応を巡り、7月17日、ドイツ東部に位置するポツダムにアメリカ大統領トルーマン、イギリス首相チャーチル、ソ連スターリンら集まり協議を行います。しかしこの日の前日アメリカは、ニュー・メキシコ州の実験場で史上初の原子爆弾の爆発実験に成功していました。連合国側は、7月26日ポツダム宣言を発表し、日本に無条件降伏を要求しますが、日本はこれを黙殺します。
そしてアメリカは、8月6日午前8時15分広島市へ人類史上初めて原子爆弾を投下するのです。これを受けて8月8日深夜、ソ連が日ソ中立条約を破棄して、日本に宣戦布告、8月9日未明には、ソ連軍が満洲へ侵攻します。さらにアメリカは8月9日午前11時02分、長崎市へ原子爆弾投下を行うのです。8月11日には ソ連軍が日ソ国境を越えて南樺太へ侵攻を開始します。これらを受け日本政府は緊急に御前会議を招集、8月14日ポツダム宣言の受諾を決定し、駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告します。国内においても翌8月15日ラジオ放送で玉音放送で、ポツダム宣言の受諾を日本国民に発表されたのです。

日本分割統治案

戦後処理

1945年6月5日ドイツには中央政府が存在せず、統治権は連合国4カ国(米英仏ソ)に掌握されることが宣言されます(ベルリン宣言)。このことが後にドイツ、首都ベルリンの分断を招くことになります。そして11月20日には、ドイツの戦犯を裁くニュールンベルク裁判が開廷します。 日本においては、ソ連は原爆投下後の宣戦布告であり、日本がポツダム宣言受諾後も攻撃を続け、8月18日ソ連軍が千島列島への攻撃を開始し、占領地区においては暴行、強姦など悪行の限りを尽くし、日本人捕虜をソ連国内への移送し、過酷な強制労働を科します。さらにソ連は北海道占領を米トルーマン大統領に要求しますが、トルーマンは18日に拒否回答を行います。これにより日本の分割統治は避けられることなります。 しかしその後もソ連の軍事行動は続いていましたが、8月30日マッカーサー連合国軍最高司令官が日本本土に到着し、米太平洋軍総指令部 (USAPA 後に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP))が設置されることにより、北海道占領へのようやくソ連の軍事行動は停止されますが、9月3日ソ連軍は日本の北方領土を占領し、その状態は現在でも続いているのです。

平和維持への新たな取り組み … 国際連合
国連ビル‐ニューヨーク 第二次世界大戦後の世界の枠組みをどのようにするかという連合国の戦後処理構想については、連合国側の二人の首脳(イギリス首相チャーチルとアメリカ大統領ルーズヴェルト)によって、既に1941年8月9日の大西洋上における会談において協議が始まっていました。その後ソ連を加え、1943年のモスクワ宣言、カイロ会談、テヘラン会談など協議を重ね、1945年6月、51か国が参加したサン・フランシスコ会議で設立し、10月24日に発足しました。
この「国際連合」は、国際連盟を継承したものではなく(国際連盟は46年に解散)、第二次世界大戦での連合国が結集して組織したまったく新しい機関です。

アジア諸国の独立運動
東南アジアの多くの国は、大戦前はヨーロッパ列強の植民地でした。そのヨーロッパ列強を武力で追い出し、取って代わろうとしたのが軍国日本だったと言えます。その日本が大戦で敗れてアジア諸国から駆逐されると、当然ヨーロッパ列強は大戦前の状況に復帰しようとします。しかしそんな動きに待ったをかけたのが、アジア諸国に起こった民族自決運動、独立運動です。それに対し大戦で勝利したヨーロッパ列強は、軍隊を派遣して制圧しようとします。こうした独立運動は、ヴェトナム、インドネシア、マレーシア、シンガポールなどで巻き起こります。かなり複雑な経緯を踏みますが、インドの独立もこれらの一連の動きと無関係ではありません。
その中でちょっと複雑なのが、朝鮮半島です。朝鮮半島を植民地化していたのは、日本で抵抗運動はあったものの、植民地化していた日本を追い払ったのは自力ではなく連合国でした。朝鮮半島には、北からソ連が、南からは米軍が進攻します。結果として北緯38度線を境として、ソ連軍が朝鮮北部を、米軍が南部を占領し、朝鮮半島の分断が行われるのです。そしてそれは現在でも続いていることはご承知の通りです。

第二次世界地戦後のアメリカは国際連合を主導すると共に、ソ連を中心とした社会主義・共産主義圏に対して自由世界を守るという理念が前面に出され、西側自由世界のリーダーとして軍事面、経済面での役割を担っていくという、新たな帝国主義の性格を持つようになっっていきます。一方ソ連は、スターリン体制の下、戦後復興を名目に東欧圏に勢力を伸ばし、共産化、ソ連の傘下に組み入れる戦略を強力に推し進めます。ファシズムに対するの自由主義戦いが終わると同時に、自由主義陣営と共産主義陣営の対立は、1946年1月開催される第1回国際連合総会から明確となっていきます。

アメリカの大衆スポーツ・芸能

デトロイト・タイガース
[プロ野球]
第二次大戦が終わり近くなったこの年1945年は、勝利を目前にした安堵感からかつてないほど大量の観客が野球場に押し寄せました。4球団が有料入場者数で100万人を超え、16球団の合計が前年の870万人から大幅に増加し、1,000万人の大台を突破しました。これは史上初のことです。ヨーロッパ戦線が5月に終結したのでヨーロッパに参戦した選手は、早く帰国して1945年のシーズンに途中から加わりました。
シリーズは、1945年4月17日に開幕し10月10日に全日程を終了しました。ナショナル・リーグはシカゴ・カブスが7年ぶり16度目のリーグ優勝を果たし、アメリカン・リーグはデトロイト・タイガースが5年ぶり7度目のリーグ優勝でした。ワールド・シリーズはデトロイト・タイガースがシカゴ・カブスを4勝3敗で破り、1935年以来10年ぶり2度目のシリーズ制覇(写真右)を達成しました。
[アメリカン・フットボール]

前年同様この年も東西とも5チームで戦われ、西地区優勝のクリーヴランド・ラムズが、東地区優勝のワシントン・レッドスキンズを15対14という接戦で破って優勝しました。

他のスポーツ
「我が道を往く」ポスター ゴルフ … 1944年、1945年は全米プロゴルフ選手権だけが行われました。翌1946年からは他のメジャー3大会も再開されます。因みに1945年の全米プロゴルフ選手権優勝者は、バイロン・ネルソンでした。
テニス … 戦時中は、4大大会中全米オープンのみ行われました。翌1946年からその他3大会も開催されるようになります。因みに1945年の全米オープン優勝者は、フランク・パーカーが2連覇を果たします。

<映画>

1944年の作品を対象とするこの年の第17回(1945年3月15日発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのは、レオ・マッケリー監督ビング・クロスビー主演の「我が道を往く(Going my way)」でした。この作品は、作品賞の他監督賞、主演男優賞、脚色賞など7部門でオスカーを獲得しました。ストーリーはニューヨークの下町にある古びた教会を舞台に、そこに関わる人々の心温まる交流を描いた作品です。派手なアクションや取り立てて見せ場もない地味な作品ですが、それが却って大戦で荒廃した人々の心に沁みたのかもしれません。映画の中で歌われた『星にスイング(Swinging on a star)』は44年度、年間ヒット・チャートNo.1に、『アイルランドの子守歌(Too-Ra-loo-ra-loo-ra)』は、第9位に輝きました。

[ポピュラー・ミュージック]
「センチメンタル・ジャーニー」

1945年のヒットチャートを見てみましょう。

順位アーティスト曲名
レス・ブラウン&ドリス・ディ(Les Brown & Doris Day)センチメンタル・ジャーニー(Sentimantal journey)
アンドリュース・シスターズ(The Andrews Sisters)ラムとコカ・コーラ(Rum & Coca-Cola)
ペリー・コモ(Perry Como)ティル・ジ・エンド・オブ・タイム(Till the end of time)
レス・ブラウン&ドリス・ディ(Les Brown & Doris Day)マイ・ドリームス・アー・ゲッティング・ベター・オール・ザ・タイム(My dream are getting better all the time)
ジョニー・マーサー(Johnny Mercer)オン・ジ・アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ(On the Atchison , Topeka & the Santa-Fe)
ハリー・ジェイムズ(Harry James)イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム(It's been a long , long time)
ビング・クロスビーとカーメン・キャヴァレロ(Bing Crosby & Carmen Cavallaro)アイ・キャント・ビギン・トゥ・テル・ユー(I can't begin to tell you)
サミー・ケイ(Sammy Kaye)チッケリー・チック(Chickery chick)
ジョニー・マーサー(Johnny Mercer)アク・セン・チュ・エイト・ザ・ポジティヴ(Ac-cent-tchu-ate the positive)
10ヴォーン・モンロー(Vaughn Monroe)ゼア・アイヴ・セッド・イット・アゲイン(There ! I've said it again)
ドリス・デイ

年間1位に輝いたのは、レス・ブラウン楽団の「センチメンタル・ジャーニー」。バンドの専属シンガー、ドリス・ディ(写真左)が歌っていました。ドリス・ディは、日本でも人気のある女性シンガーですね。2位は相変わらず人気のある女性コーラス・グループ、ザ・アンドリュース・シスターズの「ラムとコカ・コーラ」は、別に「コカ・コーラ」のコマーシャル・ソングとかではなく、もともと1943年にトリニダードでヒットしていたものだという。シスターズはこの曲のカリプソのリズムが気に入ったのだという。3位の「ティル・ジ・エンド・オブ・タイム」は、1945年に出版されたポピュラー・ソングで、何人かのアーティストによる共作となりましたが、最もヒットしたのがペリー・コモのもので、ビルボード誌で10週連続で1位を獲得し、200万枚以上のセールスを記録したそうです。4位再びレス・ブラウン楽団とドリス・ディ。この年は大いに人気を得ていたことが分かります。5位は作詞家でもあるジョニー・マーサーが作詞し、ポール・ウエストンが作曲した曲で、タイトルの"Atchison, Topeka and the Santa Fe"とは、いわゆる「サンタフェ鉄道」のことらしい。バックのザ・パイド・パイパースの軽快なコーラスが光っています。
6位は、Tp奏者ハリー・ジェイムズが率いる楽団の「イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム」。こちらも日本でも人気のある女性シンガー、ヘレン・フォレストが歌っています。この曲は、「お久しぶりね」と訳されることある曲で、戦争が終わって帰還した配偶者ないしは恋人を迎え入れる立場の観点から書かれていて、大戦終了を受けて大ヒットになったといいます。7位の「アイ・キャント・ビギン・トゥ・テル・ユー」は、昔は日本でもたくさんレコードが出ていたピアニストのカーメン・キャヴァレロの伴奏をバック歌われるバラード・ナンバー。映画「ドリー・シスターズ」で使われ、翌1946年のアカデミー賞歌曲賞にノミネートされましたが、ジョニー・マーサーの「On the Atchison, Topeka and the Santa Fe」に敗れました。8位の「チッケリー・チック」は、子供向けに作られた曲で、女性シンガーのナンシー・ノーマンがリード・ヴォーカルを務めています。9いはまたもやジョニー・マーサーです。"Ac-cent-tchu-ate the positive"というのは変わったタイトルですが、これはマーサーが、ある神父の説教を聴きに行った時、その神父が"Accentuate the positive, eliminate the negative"(前向きになれ、消極的になるな)と説教した時、その"Accentuate"を「Ac-cent-tchu-ate(アク・セン・チュ・エイト)」というアクセントが耳に残り、映画「Here Come The Waves」のために新たに曲を書くことになった時に使ったものだと言います。10位のヴォーン・モンローの「ゼア・アイヴ・セッド・イット・アゲイン」は、ボビー・ヴィントンが1964年にカヴァーし、それも大ヒットしたバラード・ナンバー。ヴィントンのカヴァーは、日本では「ブルー・ファイア」という邦題だったといいます。邦題は原題とは異なり「ミスター・ブルー」という愛称から意図的に「ブルー」のついたタイトルと曲のイメージからつけられたようです。

ジャズ・レコーディングの大活況

チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピー 1945年

大戦の勝利も見えてきたとはいえ、まだまだ戦闘は続いており、まだたくさんのミュージシャンたちが徴兵されていましたが、ジャズ界の動きはこの年1945年は実に活発なものがありました。一部例外もありますが、スイング時代からの名門ビッグ・バンドも活動を続けていましたし、そしていよいよ新しいジャズのスタイル、ビ・バップ旋風が本格化しつつありました(写真右はコンボで演奏するディズとバード)。一方ニューオリンズ・リヴァイヴァル運動も活発でした。後にモダン期の中心をなす著名ミュージシャンも続々と現れ始めました。先ずはじっくりと見ていきましょう。

ポール・ウィナーズ録音 … 「メトロノーム・オールスターズ」

この年も第二次世界大戦の戦時下のため、「メトロノーム(Metoronome)」誌のポール・ウィナーの選出とその結果に基づいたレコーディングは行われませんでした。

黒人ビッグ・バンド

カウント・ベイシー
1944年9月ロスアンゼルスで、レスター・ヤングとジョー・ジョーンズが逮捕されてしまいますが、ベイシーは、Tsにラッキー・トンプソン、Dsにシャドウ・ウィルソンを入れ、活動を続けます。契約先のコロンビアへのレコーディングも行っていたようですが、残念ながら僕は持っておらず、僕の持っている唯一の1945年の録音は1月にシカゴのリンカーン・ホテルに出演した時の放送音源のみです。詳しくは、「カウント・ベイシー 1945年」をご覧ください。
デューク・エリントン
前年1944年の末に所属するヴィクターとAFMとの和解が成立し、ヴィクターは早速エリントンのレコーディングを開始しました。またホテルなどからのラジオ放送なども増えています。ただこの年はカーネギー・ホールへの出演はありません。1年を通じて非常にメンバーの移動が少なく、そういった意味では安定した年だったと言えるでしょう。
また戦時中にもかかわらず、史上初めての試みであるブルー・ネットワークを使っての3元同時中継放送への参加や白人人気バンドのトミー・ドーシー楽団との、バンマス交換セッション(写真左:デュークとドーシー)を行うなど極めて多彩な活躍ぶりを示しました。詳しくは「デューク・エリントン 1945年」をご覧ください。

ライオネル・ハンプトン
ライオネル・ハンプトンとアンディ・カーク

ライオネル・ハンプトン(写真右)は、まだ終戦には至っていなかったこの年の4月、自己名義でのコンサートをカーネギー・ホールで開催した。もしかするとデューク・エリントン以来の黒人ジャズメン名義のコンサートだったのかもしれません。詳しくは「ライオネル・ハンプトン 1945年」をご覧ください。
アンディ・カークの吹込みは、1曲しか持っていませんが、ハンク・ジョーンズの極めて初期録音であることが注目されます。詳しくは「アンディ・カーク 1945年」をご覧ください。
残念ながら、これまでの常連、ジミー・ランスフォード、アール・ハインズなどの録音は保有していません。

白人ビッグ・バンド

ベニー・グッドマン
ベニー・グッドマンは、アメリカのポップ音楽界のトップ・スターとして10年近く君臨した後、1944年3月に突然バンドを解散してファンを驚かせました。解散の原因は、彼のブッキング・エージェンシーであるMCAとの葛藤に起因すると言います。しかし彼は、すぐに自分が第一線から外れたことを寂しく思うようになり、未だいざこざが片付いていないにもかかわらず、1945年3月に新しいバンドを立ち上げます。詳しくは「ベニー・グッドマン 1945年」をご覧ください。
トミー・ドーシー

レコーディングは数多く行われたようだが、僕の持っているトミー・ドーシーの1945年の録音は5曲だけです。その中には上記デューク・エリントンの項でも触れたバンマス交換企画も含まれています。実はこの企画の聴き処は、その作曲者で、ドーシー楽団が才人サイ・オリヴァーが作編曲を担当、ドーシーがオリヴァーで来るなら、エリントン側は才能では引けを取らないで勝負だとばかりに、ビリー・ストレイホーンに曲を書かせたようです(但し作者名はエリントンになっています)。詳しくは「トミー・ドーシー 1945年」をご覧ください。

新進気鋭のビッグ・バンド

これまでのスイング、ダンス・ミュージックに飽き足らず、新しい音を目指したビッグ・バンドを取り上げましょう。通常ここで思い浮かぶのは、白人バンドならスタン・ケントン、ウディ・ハーマンそしてボイド・レーバーンで黒人バンドとしては、ビリー・エクスタインが挙げられると思います。しかしスイング時代から活動しているため、何となくスイング・バンドに分類されるアーティ・ショウですが、その前進意欲は全く緩むことが無く、新しいサウンド作りに取り組んでいました。却ってスタン・ケントンなどは、特にビ・バップに共鳴したというわけではなく、単なるダンス音楽を忌避して、彼なりのサウンドづくりを目指していました。

アーティー・ショウ
海軍を病気のため除隊したアーティー・ショウは、療養を終え、前年1944年11月にはハリウッドでレコーディングを開始しています。スイング時代最高のトランペット奏者の一人と言われるロイ・エルドリッジを擁し、そこに若い新進気鋭のミュージシャンを新たに迎えサウンドの若返りに挑戦するレコーディングが大いに興味を惹きます。写真左はアーティー・ショウのコンボ、グラマシー・ファイヴ。詳しくは「アーティー・ショウ 1945年」をご覧ください。

ジューン・クリスティとスタン・ケントン
スタン・ケントン
スタン・ケントンは上記のようにビ・バップに共鳴したというわけではありませんでした。ケントン自身の真の情熱は作曲と編曲にあり、バンドが彼の楽器だったのです。ともかくケントンの楽団は、戦時下でありながら、順調に仕事をこなしていました。しかし1945年に入って大きくその陣容は変わります。まずケントン楽団に初めてヒット作をもたらした、人気女性シンガー、アニタ・オディが退団します。そして若手のホープ、テナー・サックスのスタン・ゲッツもほぼ同じ時期に退団するのです。オディの後釜には、ジューン・クリスティ(写真右:ケントンと)が入り、バンドとしての人気は不動だったようです。ただ以外にこの年録音が多くありません。また僕の持っている音源も少ないです。詳しくは「スタン・ケントン 1945年」をご覧ください。

ウッディ・ハーマン

ビ・バップ・バンドの先駆けとも言われるウディ・ハーマンの楽団ですが、どうもハーマン自身にそういった先取の精神があったかと言うとかなり疑問です。しかし彼の場合スタッフ=バンド・メンバーが優秀でした。この時期辺りから、ジャズ史上名高いウディ・ハーマンの「ファースト・ハード」が本領を発揮しだします。詳しくは「ウッディ・ハーマン 1945年」をご覧ください。

ボイド・レーバーン

日本では非常に評価が低いボイド・レーバーン。しかしこの時期Tpのディジー・ガレスピー、Asのジョニー・ボスウェルを擁し、最も斬新な演奏を行っていました。しかしその吹込みは、「ギルド」や「ジュエル」といった超マイナーなレコード会社に行われており、録音データも整っていません。詳しくは「ボイド・レーバーン 1945年」をご覧ください。

ビリー・エクスタイン

ビリー・エクスタインのバンド(写真左)は、史上初のバップ・ビッグ・バンドと言われ、前年1944年に歴史的なレコーディングを行いました。その後バンドの要、ディジー・ガレスピーが辞め、チャーリー・パーカーと行動を共にし始めます。エクスタインは、ディズの後釜に、新進気鋭のトランぺッター、ファッツ・ナヴァロを据え、作・編曲にタッド・ダメロンを迎え、斬新なバンドを維持して行くのです。詳しくは「ビリー・エクスタイン 1945年」をご覧ください。

ビ・バップ本格化

ディジー・ガレスピー

ディジー・ガレスピーは、この時期しょっちゅうチャーリー・パーカーと過ごしていたと言います。そして1945年1月二人は初めて商業目的の録音を行うことになります。その後は白人テナーサックス奏者、ジョージー・オウルドやボイド・レーバーンの吹込みに加わったり、自己のセクステットで吹込みを行ったりしていましたが、2月以降バードとの共演吹込みが多くなります。この吹込みが非常に重要です。詳しくは「ディジー・ガレスピー 1945年」をご覧ください。

チャーリー・パーカー

さてビ・バップのもう一人の中心人物チャーリー・パーカー(以下バード)です。前項ガレスピーで触れたように、ジャズ史上極めて重要な吹込みが行われます。またサヴォイへ自身初のリーダー吹込みを行いますが、バードはそこで当時弱冠19歳の新人Tp奏者、マイルス・ディヴィスを起用します。マイルスとの初共演録音です。そして年末には、パーカーの人生に大きな影を落とす西海岸への遠征が行われるのです。詳しくは「チャーリー・パーカー 1945年」をご覧ください。

ニュー・カマーとビ・バップ・ボーイズ

ニュー・カマー1 … マイルス・ディヴィス
この年レコーディング・デビューしたミュージシャンの中で、後々まで大きな存在であり続けたのがマイルス・ディヴィスです。1944年9月故郷セントルイスを出て、ニューヨークにやって来たマイルス。探し回ったチャーリー・パーカーとも会うことができ、パーカーやガレスピーの推薦で、4月24日初めてのレコーディングを経験するのです。詳しくは「マイルス・ディヴィス 1945年」をご覧ください。
ニュー・カマー2 … チャールス・ミンガス
チャールス・ミンガスの初レコーディングはいつなのかは、実ははっきりしません。普通ミュージシャンにとって初のレコーディングというのは、記憶に残るものだと思うのですが、彼の自伝などには一切その記述は見当たりません。ともかく詳しくは「チャールス・ミンガス 1945年」をご覧ください。
ニュー・カマー3 … ファッツ・ナヴァロ
ビッグ・バンドで若き日を過ごした早逝の天才トランぺッター、ファッツ・ナヴァロ(写真右)は、初吹込みを、アンディ・カークのトゥエルヴ・クラウズ・オブ・ジョイ時代に行っていますが、生憎持っていません。そして彼の才能を見出し、ディジー・ガレスピーの退団後その後釜として起用したのは、世に初めてビ・バップ志向のビッグ・バンドを結成したビリー・エクスタインでした。この年の録音でナヴァロがその素質を十分に発揮しているとは思えませんが、その少ないソロのチャンスに、ディズの影響を受けながらもその才能を感じさせるプレイを行っていることはよく分かります。詳しくは「ファッツ・ナヴァロ 1945年」をご覧ください。
ニュー・カマー4 … ミルト・ジャクソン
ディジー・ガレスピーによって、その才を認められたミルト・ジャクソンは、ディズとバードの西海岸への遠征隊のメンバーとして、帯同します。ステージに穴を空けることが予想されるバードの補完としてでした。そしてその西海岸で、女性シンガー、ダイナ・ワシントンの伴奏を務めたラッキー・トンプソンのバンドの一員として、チャールズ・ミンガスと共に初レコーディングを経験します。詳しくは「ミルト・ジャクソン 1945年」をご覧ください。

ニュー・カマー5 … オスカー・ピーターソン
日本でも大変人気があるピアニスト、オスカー・ピーターソンのレコーディング・デビューもこの年でした。意外にブギー・ウギーが多いのに驚きます。詳しくは「オスカー・ピーターソン 1945年」をご覧ください。
ニュー・カマー6 … ハンク・ジョーンズ
オスカー・ピーターソンとは対照的なプレイ・スタイルと思われるハンク・ジョーンズも、ニューヨークに出、ビ・バップの洗礼を受けたと言われます。しかしその初レコーディングは、アンディ・カークのバンドのピアニストしてでした。詳しくは「ハンク・ジョーンズ 1945年」をご覧ください。

ニュー・カマー7 … ソニー・スティット
ジャズの革命児、チャーリー・パーカーとプレイ・スタイルが似ていると言われながら、革命児とは呼ばれないソニー・スティット。しかし同世代の他のサックス奏者に比べると、最も多くの録音を行ったと言われるスティットもこの年、ビリー・エクスタインのバンドでレコーディング・デビューしています。詳しくは「ソニー・スティット 1945年」をご覧ください。
ニュー・カマー8 … レイ・ブラウン
ディジー・ガレスピーとチャーリー・パーカーの西海岸への遠征隊のメンバーに選ばれたレイ・ブラウンは1945年12月ニューヨークから列車でカリフォルニアへ向かい、西海岸でレコーディングを行います。これが初レコーディングかどうかは不明ですが、僕の持っているものでは、これがレイ・ブラウンの初出です。詳しくは「レイ・ブラウン 1945年」をご覧ください。
ニュー・カマー9 … ジョー・オルバニー
バップ派の新進気鋭のピアニスト、ジョー・オルバニー。このレコーディングが初かどうかは確認できていませんが、ジョージー・オウルドの率いるビッグ・バンドにおいて、そのプレイを記録しています。詳しくは「ジョー・オルバニー 1945年」をご覧ください。

ニュー・カマー10 … エロール・ガーナー
ビ・バッパーということではなく、ワン・アンド・オンリーと言われる"Behind the beat"スタイルで一本で演奏を行い、一時期大変人気があったピアニスト、エロール・ガーナーもこの年ジョージー・オウルドの率いるビッグ・バンドにおいて初レコディング行っています。詳しくは「エロール・ガーナー 1945年」をご覧ください。

ビ・バップ・ボーイズ1 … スタン・ゲッツ
スタン・ゲッツ(写真左)は、1945年2月在団していたスタン・ケントンのバンドの首席サックス・ソロイストになります。その頃ゲッツは、レスター・ヤングに夢中で何とかバンドにレスターのコンセプトを持ち込めないか考えていました。これに対して、全くリーダーのケントンの理解が得られず、4月に退団します。その後ジミー・ドーシーのバンドを経て独立、バップの洗礼を受けます。そんな折ベニー・グッドマンからオファーを受け、秋に入団します。詳しくは「スタン・ゲッツ 1945年」をご覧ください。
ビ・バップ・ボーイズ2 … デクスター・ゴードン
デクスター・ゴードンが特にビ・バップを志向していたかどうかは分かりませんが、この年ビ・バッパー達との録音が増えていることから見てもやはり大きな影響を受けていると考えるべきでしょう。詳しくは「デクスター・ゴードン 1945年」をご覧ください。

ビ・バップ・ボーイズ3 … ドド・マーマロサ
ドド・マーマロサ(写真右)はこの年、アーティ・ショウの楽団に在団中でした。その中でも折があれば存在感を感じさせるピアノ・プレイを行っていました。詳しくは「ドド・マーマロサ 1945年」をご覧ください。
その他若手ミュージシャン達
アート・ブレイキー … この年もビリー・エクスタイン・バンドを支える強力リズム隊の中心として活躍していました。詳しくは「アート・ブレイキー 1945年」をご覧ください。
バーニー・ケッセル … この年もアーティ・ショウの楽団に在籍し、幾つかソロを記録しています。詳しくは「バーニー・ケッセル 1945年」をご覧ください。
マックス・ローチ … 1945年になると、マックス・ローチは当代一のビ・バップ・ドラマーと目され、ディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーとの共演が増えます。詳しくは「マックス・ローチ 1945年」をご覧ください。

バンク・ジョンソン・ブラス・バンド

ニューオリンズ・リヴァイヴァル

バンク・ジョンソン
その主役とも言えるバンク・ジョンソンは、1944年の暮れから45年の春にかけて、ボストンに出向き、シドニー・ベシェとクラブで働いていました。その後、1945年ウィリアム・ラッセル氏はもともとジョージ・ルイスの家でバンク・ジョンソンの1945年の録音は行います。ここで貴重なのは、「ブラス・バンド」による演奏が記録され、バンク自身によるニューオリンズでの葬儀について語っていることでしょう。詳しくは「バンク・ジョンソン 1945年」をご覧ください。

ジョージ・ルイス

ジョージ・ルイスは、この年、バンク・ジョンソンの録音に参加するとともに、自己の名を冠したバンドで、レコーディングを行っています。詳しくは「ジョージ・ルイス 1945年」をご覧ください。

ウッドン・ジョー・ニコラス

ウッドン・ジョー・ニコラスはこの年初レコーディングを行います。ニコラスは、生涯のほとんどをニューオリンズで暮らしたという生粋のニューオリンズっ子です。プレイのキャリアについて全てが分かっているわけではありませんが、引退してしばらくトランペットを吹いていなかったバンク・ジョンソンに比べると、地元ニューオリンズで演奏活動を続けていたように思われます。そのためプレイにもブレが無く、吹き切れているように思われます。彼のような存在にスポット・ライトが当たったということこそが、ニューオリンズ・リヴァイヴァルの成果だと思われます。詳しくは「ウッドン・ジョー・ニコラス 1945年」をご覧ください。

キッド・オリィ
キッド・オリィ

テイルゲート・トロンボーンの伝説的な名手、キッド・オリィ(写真右)の1944年8月復帰第1回目のレコーディングに続き、この年も素晴らしい録音を"Good time jazz"レーベルに残しています。詳しくは「キッド・オリィ 1945年」をご覧ください。

エディ・コンドン

前年1944年は膨大なタウンホール・コンサートの放送音源がありましたが、僕の持っているこの年はTp奏者のワイルド・ビル・ディヴィソン名義のレコーディングに加わった録音のみです。詳しくは「エディ・コンドン 1945年」をご覧ください。

マグシー・スパニア

マグシー・スパニアは、この年も活発に演奏活動を行っていたようです。詳しくは「マグシー・スパニア 1945年」をご覧ください。

その他の大御所たち

コールマン・ホーキンス・クインテット
コールマン・ホーキンス

前年1944年新しい響きの音楽、ビ・バップへの積極的な取り組みを見せたコールマン・ホーキンスのこの年の録音を聴くと、<バップ志向>というかバップの香るものともう一つは<生粋スイング>が混在しているように感じられます。写真は、左からハワード・マギー(Tp)、ホーク(Ts)、オスカー・ペティフォード(B)。詳しくは「コールマン・ホーキンス 1945年」をご覧ください。

レスター・ヤング

この年1945年不名誉除隊から解放されたレスターは、早速レコーディングを開始します。その中には、当時として珍しい、ナット・キング・コール(P)、バディ・リッチ(Ds)とのトリオ演奏なども含まれます。詳しくは「レスター・ヤング 1945年」をご覧ください。

ナット・キング・コール
ロイ・エルドリッジ

ロイ・エルドリッジは、この年白人バンドリーダー、アーティ・ショウのメイン・ソロイストとして数々の名ソロを残していますが、自身としてはビ・バップ系のボイド・レーバーンのバンドに魅かれていたようです。詳しくは「ロイ・エルドリッジ 1945年」をご覧ください。

ナット・キング・コール

コールはこの年も西海岸で活動していました。レスター・ヤングの項で取り上げたような注目のレコーディングも西海岸で行っています。詳しくは「ナット・キング・コール 1945年」をご覧ください。

ブルーノート・レコーズ

ブルーノート・レコード・CDボックス この年のブルーノート・レコードは未だディキシーランド・ジャズやスイング・ジャズ、ブルースを中心にレコーディングを行っていました。ただ前年1944年に比べれば、レコーディングの数は増えているようです。
アート・ホーデス … 「アート・ホーデス 1945年」をご覧ください。
ピグミート・マーカム … 「ピグミート・マーカム 1945年」をご覧ください。
ベイビー・ドッズ … 「ベイビー・ドッズ 1945年」をご覧ください。
ベニー・モーテン … 「ベニー・モーテン 1945年」をご覧ください。
アイク・ケベック … 「アイク・ケベック 1945年」をご覧ください。
ジミー・ハミルトン … 「ジミー・ハミルトン 1945年」をご覧ください。
ジミー・シャーリー … 「ジミー・シャーリー 1945年」をご覧ください。
サミー・ベンスキン … 「サミー・ベンスキン 1945年」をご覧ください。
シドニー・ベシェ … 「シドニー・ベシェ 1945年」をご覧ください。

その他のジャズメンたち

フリップ・フィリップス
フリップ・フィリップス

フリップ・フィリップス(写真右)は、この年1945年もウディ・ハーマン楽団を中心に活動していましたが、当時は進歩的なテナー奏者という評価もあったのかチャーリー・パーカーの加わったレッド・ノーヴォの吹込みなどにも参加しています。詳しくは「フリップ・フィリップス 1945年」をご覧ください。

ジョージ・オウルド

まだ大戦中であり、バンドメンの確保に奔走しながらもなんとか自身のバンドを維持していたようです。詳しくは「ジョージ・オウルド 1945年」をご覧ください。

ラッキー・トンプソン
ラッキー・トンプソン

ラッキー・トンプソン(写真左)は、スイングとバップの間を埋めるミュージシャンと言われますが、正にその言葉通りベイシー楽団や進歩的と言われるボイド・レーバーンの楽団などで活躍していた。目を引くところでは、女性シンガー、ダイナ・ワシントンの伴奏をミルト・ジャクソン、チャールズ・ミンガスを擁する自己名義のバンドで行ったことでしょう。詳しくは「ジョージ・オウルド 1945年」をご覧ください。

コーキー・コーコラン

コーキー・コーコランは、こう言っては何だが、特にジャズ史に残るようなミュージシャンではありません。そんな彼の数少ないリーダー作が吹き込まれました。その面子が大変興味深いのです。詳しくは「コーキー・コーコラン 1944年」をご覧ください。

シンガー達

アニタ・オディとジーン・クルーパ
アニタ・オデイ

アニタ・オデイは、この年全くスイングしないドラマーに腹を立て、スタン・ケントンのバンドを辞め、古巣のジーン・クルーパのバンドに復帰します(写真右はアニタとクルーパ)。()詳しくは「アニタ・オデイ 1945年」をご覧ください。

ジューン・クリスティとスタン・ケントン
ジューン・クリスティ

アニタ・オディに代わってケントン楽団に入ったのは、ジューン・クリスティでした。ジューンもまた人気を博するシンガーに育っていきます。写真はジューン・クリスティとスタン・ケントン。詳しくは「ジューン・クリスティ 1945年」をご覧ください。

サラ・ヴォーン

ビリー・エクスタインのバンドでデビューしたサラ・ヴォーンは、この年チャーリー・パーカーなどビ・バップ・ジャズメンとレコーディングを行っています。詳しくは「サラ・ヴォーン 1945年」をご覧ください。

ビリー・ホリデイ

僕の持っているビリー・ホリデイの音源は、この年は多くありません。彼女はこの頃ジミー・モンローと最初の結婚をし、最愛の母を亡くします。詳しくは「ビリー・ホリデイ 1945年」をご覧ください。

パイド・パイパーズ

ザ・パイド・パイパーズは、前年1944年トミー・ドーシー楽団を解雇されますが、その人気は衰えず、ダウンビート誌では1944年から49年、メトロノーム誌では1944年から51年まで、ヴォーカル・グループのポール・ウィナーでした。詳しくは「パイド・パイパーズ 1945年」をご覧ください。

ティンパニー・ファイヴ

ブルース・ピープル

R&Bとも言うべきレコードが人気を博しだします。特にルイ・ジョーダン率いるバンド、ティンパニー・ファイヴ(写真右)のレコードが大ヒットとなります。詳しくは「ブルース・ピープル 1945年」をご覧ください。

ミュージシャンの自伝・評伝が語る1945年

このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1943年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみます。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。マイルス・ディヴィスとチャールズ・ミンガスは、レコーディング・デビューしましたので、このコーナーからは割愛します。

ミュージシャン名生年月日生地自伝・評伝著者
ジョン・コルトレーン1926年9月23日ノース・カロライナ州ハムレット評伝『ジョン・コルトレーン』藤岡靖洋
ビル・エヴァンズ1929年8月16日ニュージャージー州プレンフィールド評伝『幾つかの事柄』中山康樹
穐吉敏子1929年12月12日旧満州国遼陽自伝『ジャズと生きる』穐吉敏子
ウエイン・ショーター1933年8月25日ニュージャージー州ニューアーク評伝『フットプリンツ』ミシェル・マーサー
[ジョン・コルトレーン]
マイルスと同い歳、1945年は18〜19歳です。フィラデルフィアへやって来たコルトレーンは、製糖工場やキャンベル・スープの工場で働きながら、オルンスタイン・スクール・オブ・ミュージックへ通い、音楽の基礎を学ぶ傍ら、母親から17歳の誕生日に送られたアルト・サックスを手に、フィラデルフィアの地元ミュージシャンたちとジャム・セッションに興じる日々を送っていました。
しかし太平洋戦争も終息に向かいつつあった8月6日海軍に入隊します。アメリカ本土で軍事教練を受けた後の11月28日、二等海兵隊員としてハワイ、オアフ島の真珠湾で任務に就きますが、その時には戦争は終わったいました。コルトレーンは、通信施設の内勤でしたので、自由時間には思い切りアルト・サックスの練習に励む事が出来ました。そして「メロディ・マスターズ」という黒人ビッグ・バンドに加入することもできました。

[ビル・エヴァンズ]
ビル・エヴァンスは、1929年8月16日生まれなので、15〜16歳に当たります。1943年の時に触れた息子のエヴァン・エヴァンズが編集した若き日のビルの演奏遺稿集CD"Bill Evans/Very Early"(右)には、1944年の録音は収められていないが、1945年の録音が収められています。

<Date & Place> … 1945年5月18日 多分エヴァンズ家か居住地のスタジオだと思われます。

<Personnel>

Pianoビル・エヴァンズBill Evans
Tenor sax CD-4.オルビー・ディールマンAlby Dielman
Tenor sax CD-5.ジョージ・バシェGeorge Bache
Bassウォルト・"ケイ"・コワルスキーWalt "Kaye" Kawalski
Drums CD-4.ジョージ・バシェGeorge Bache
Drums CD-5.オルビー・ディールマンAlby Dielman

<Contents> … "Bill Evans/Very early"(E3 records)

CD-4.家族からハリーへ レディス・アンド・ジェントルマンTo Harry from family - Ladies and gentleman
CD-5.家族からハリーへ インプロヴァイジングTo Harry from family - Improvising

ビルの兄ハリーへ送られた演奏で、1943年の「C・ジャム・ブルース」のレコードに一緒に収録されたものらしい。本来の持ち場はCD-5.のようにバシェがテナーでディールマンがドラムのようですが、交替して演奏したようです。ビルがブギー・ウギーを弾き始め、テナーが吹き始めるが少々キーがズレているように聴こえる。そしてたどたどしいDsソロとなると、堪えきれずビルは笑ってしまいます。楽しい雰囲気が伝わってきます。CD-5.は本来の持ち場に戻った演奏で、ビルはテクニックがすごく"Fingers"と呼ばれていたのに納得できます。バシェもなかなかのソロを聴かせてくれます。

<Date & Place> … 1945年 多分地元のラジオ放送録音

<Personnel>

Pianoビル・エヴァンズBill Evans
Tenor saxジョージ・バシェGeorge Bache
Bassコニー・アトキンソン・ジュニアConnie Atkinson Jr.
Drumsフランク・"フルフィ"・ロベルFrank "Fluffy" Wrobel

1944年冬に加わったダンス・バンドのリーダーの息子コニー・アトキンソン・ジュニアが加わります。

<Contents> … "Bill Evans/Very early"(E3 records)

CD-1.「今宵の君は」(The way you look tonight)
この演奏は1945年のいつか分かりませんが、地元のラジオに出演した時の放送録音であろうと中山康樹氏はその著『ビル・エヴァンズを聴け!』に書いています。MCが「ウィリー・フィンガーズ・エヴァンズ」と紹介しています。演奏は取り立ててどうこう言うレベルのものではありませんが、"フィンガーズ"と呼ばれていた天才だったという証明でしょう。

この1945年の夏、アトキンソンのダンス・バンドのレギュラー・メンバーになっていたエヴァンズは、学校の夏休みを利用してペンシルヴァニア州ミルフォードの軍のキャンプで演奏を行います。しかし大戦も終了し、アトキンソンのバンドに所属していたメンバーが次々とバンドに復帰してきます。臨時雇いだったエヴァンズ、テナーのバシェ、息子のコニーは過剰人員となり、バンドを離れ、学業中心の生活に戻ります。

[穐吉敏子]
エヴァンズと同じ1929年うまれですので、1945年は14〜15歳。そのころは、陸軍病院での看護手伝いのために、興城市にいました。自伝によると、あまり記憶が定かではないと断わったうえで、戦争に負けたという噂が立ち、ざわざわと雑音の入ったラジオで天皇の声を聴いたといいます。いわゆる「玉音放送」でしょう。最初は実感が涌かずボーっとしていたが、生徒たちの中には、泣き出す人もいたと言います。その興城から家族のいる遼陽に帰ります。遼陽では、侵略してきていたソ連兵が度々やって来て、物を取っていったと言います。ソ連兵は手当たり次第に婦女子を強姦したというので、両親は気が気ではなかったでしょう。そんな中でも、ソ連による占領が落ち着いてくると、ソ連兵慰問の音楽界なども開かれ、ピアノを弾いたそうです。その後ソ連が撤退し、代わって中国共産軍、蒋介石軍がやってきて同じ家の2階に住んだそうです。家にあったピアノもその頃取り上げられたそうです。激動の時代だったと言えます。

[ウエイン・ショーター]
1933年生まれなので、11〜12歳です。この年初めて1863年にチャールズ・キングズリーによって書かれた長編物語「水の子供たち」(Water babies)を読みます。この物語はウエインの何かを強く刺激し、深く心に残ります。また12歳の時、小学校でパフォーマンスやスピーチを披露する発表会が開かれ、ウエインも代表の一人選ばれます。ウエインは緊張のため眠れなかったそうです。さらにこの頃から、視覚芸術の才能を発揮し出し、〔フットボールの試合〕と題した絵で、市の水彩画コンクールで優勝します。このことが一つの転機となり、ニューアークのアーツ・ハイスクールに進学することになるのです。入学後、ウエインは絵画に没頭し、将来は画家かイラストレーターになりたいと思うようになっていました。

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