民主党のフランクリン・ルーズベルト(写真右)は、1944年11月7日第40回アメリカ大統領選挙で、史上初の4選を果たしていました。そして1945年1月22日、副大統領にはハリー・トルーマンが指名され、その4期目がスタートします。その頃には、アメリカを中心とする連合国軍が、ヨーロッパ戦線においても、太平洋戦線においても勝利は確定的になっていました。そんな中4月12日フランクリン・ルーズベルト米大統領が急逝、副大統領のハリー・S・トルーマンが第33代大統領に昇格します。新大統領に就任したトルーマンは、「日独の無条件降伏まで戦う」と宣言します。
ヨーロッパ戦線においては、前年1944年6月6日「史上最大の作戦」と言われる「ノルマンディー上陸作戦」決行し、ヨーロッパ大陸に上陸した連合軍は、空からはドイツ国内に激しい空爆を行い、陸地でもじりじりとドイツ国内に迫っていきます。ソ連が1月17日にポーランドのワルシャワを占領するなど着実にナチス・ドイツを追い詰め行きます。そしてついに4月20日ソ連軍がベルリン郊外に迫り、砲撃を行った上で、戦車隊が市外へ突入し、市街戦が始まります。この状況でナチス・ドイツ総統のアドルフ・ヒトラーは妻のエヴァ・ブラウンと共に4月30日に自宅で自害して果てます。ヒトラーから次期首相を託されたゲッペルスも翌5月1日6人の子供を殺害した後夫婦で自害。ドイツ国防軍最高司令部作戦部長、アルフレート・ヨードルがフランスのランスで降伏文書に調印、スロベニアでの戦闘が停止した5月15日ヨーロッパ戦線が終結するのです。
前年44年マーシャル島、トラック島、サイパン島を奪取し、マリアナ諸島を手中に収めたアメリカは大規模な航空基地を建設、日本本土への長距離爆撃機B-29による空襲が開始されます。3月10日の東京大空襲では、10万人を超す死者が出る事態となりました。既に2月には硫黄島の戦い開始され、3月26日硫黄島玉砕、アメリカ軍は勢いに乗り、沖縄へ上陸、沖縄戦が開始され、6月21日アメリカ軍が沖縄を占領します。
ドイツの降伏により、残る枢軸国は日本だけとなります。この日本への対応を巡り、7月17日、ドイツ東部に位置するポツダムにアメリカ大統領トルーマン、イギリス首相チャーチル、ソ連スターリンら集まり協議を行います。しかしこの日の前日アメリカは、ニュー・メキシコ州の実験場で史上初の原子爆弾の爆発実験に成功していました。連合国側は、7月26日ポツダム宣言を発表し、日本に無条件降伏を要求しますが、日本はこれを黙殺します。
そしてアメリカは、8月6日午前8時15分広島市へ人類史上初めて原子爆弾を投下するのです。これを受けて8月8日深夜、ソ連が日ソ中立条約を破棄して、日本に宣戦布告、8月9日未明には、ソ連軍が満洲へ侵攻します。さらにアメリカは8月9日午前11時02分、長崎市へ原子爆弾投下を行うのです。8月11日には ソ連軍が日ソ国境を越えて南樺太へ侵攻を開始します。これらを受け日本政府は緊急に御前会議を招集、8月14日ポツダム宣言の受諾を決定し、駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告します。国内においても翌8月15日ラジオ放送で玉音放送で、ポツダム宣言の受諾を日本国民に発表されたのです。
1945年6月5日ドイツには中央政府が存在せず、統治権は連合国4カ国(米英仏ソ)に掌握されることが宣言されます(ベルリン宣言)。このことが後にドイツ、首都ベルリンの分断を招くことになります。そして11月20日には、ドイツの戦犯を裁くニュールンベルク裁判が開廷します。 日本においては、ソ連は原爆投下後の宣戦布告であり、日本がポツダム宣言受諾後も攻撃を続け、8月18日ソ連軍が千島列島への攻撃を開始し、占領地区においては暴行、強姦など悪行の限りを尽くし、日本人捕虜をソ連国内への移送し、過酷な強制労働を科します。さらにソ連は北海道占領を米トルーマン大統領に要求しますが、トルーマンは18日に拒否回答を行います。これにより日本の分割統治は避けられることなります。 しかしその後もソ連の軍事行動は続いていましたが、8月30日マッカーサー連合国軍最高司令官が日本本土に到着し、米太平洋軍総指令部 (USAPA 後に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP))が設置されることにより、北海道占領へのようやくソ連の軍事行動は停止されますが、9月3日ソ連軍は日本の北方領土を占領し、その状態は現在でも続いているのです。
第二次世界大戦後の世界の枠組みをどのようにするかという連合国の戦後処理構想については、連合国側の二人の首脳(イギリス首相チャーチルとアメリカ大統領ルーズヴェルト)によって、既に1941年8月9日の大西洋上における会談において協議が始まっていました。その後ソ連を加え、1943年のモスクワ宣言、カイロ会談、テヘラン会談など協議を重ね、1945年6月、51か国が参加したサン・フランシスコ会議で設立し、10月24日に発足しました。
前年同様この年も東西とも5チームで戦われ、西地区優勝のクリーヴランド・ラムズが、東地区優勝のワシントン・レッドスキンズを15対14という接戦で破って優勝しました。
ゴルフ … 1944年、1945年は全米プロゴルフ選手権だけが行われました。翌1946年からは他のメジャー3大会も再開されます。因みに1945年の全米プロゴルフ選手権優勝者は、バイロン・ネルソンでした。1944年の作品を対象とするこの年の第17回(1945年3月15日発表)アカデミー賞の作品賞に輝いたのは、レオ・マッケリー監督ビング・クロスビー主演の「我が道を往く(Going my way)」でした。この作品は、作品賞の他監督賞、主演男優賞、脚色賞など7部門でオスカーを獲得しました。ストーリーはニューヨークの下町にある古びた教会を舞台に、そこに関わる人々の心温まる交流を描いた作品です。派手なアクションや取り立てて見せ場もない地味な作品ですが、それが却って大戦で荒廃した人々の心に沁みたのかもしれません。映画の中で歌われた『星にスイング(Swinging on a star)』は44年度、年間ヒット・チャートNo.1に、『アイルランドの子守歌(Too-Ra-loo-ra-loo-ra)』は、第9位に輝きました。
1945年のヒットチャートを見てみましょう。
| 順位 | アーティスト | 曲名 |
| 1 | レス・ブラウン&ドリス・ディ(Les Brown & Doris Day) | センチメンタル・ジャーニー(Sentimantal journey) |
| 2 | アンドリュース・シスターズ(The Andrews Sisters) | ラムとコカ・コーラ(Rum & Coca-Cola) |
| 3 | ペリー・コモ(Perry Como) | ティル・ジ・エンド・オブ・タイム(Till the end of time) |
| 4 | レス・ブラウン&ドリス・ディ(Les Brown & Doris Day) | マイ・ドリームス・アー・ゲッティング・ベター・オール・ザ・タイム(My dream are getting better all the time) |
| 5 | ジョニー・マーサー(Johnny Mercer) | オン・ジ・アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ(On the Atchison , Topeka & the Santa-Fe) |
| 6 | ハリー・ジェイムズ(Harry James) | イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム(It's been a long , long time) |
| 7 | ビング・クロスビーとカーメン・キャヴァレロ(Bing Crosby & Carmen Cavallaro) | アイ・キャント・ビギン・トゥ・テル・ユー(I can't begin to tell you) |
| 8 | サミー・ケイ(Sammy Kaye) | チッケリー・チック(Chickery chick) |
| 9 | ジョニー・マーサー(Johnny Mercer) | アク・セン・チュ・エイト・ザ・ポジティヴ(Ac-cent-tchu-ate the positive) |
| 10 | ヴォーン・モンロー(Vaughn Monroe) | ゼア・アイヴ・セッド・イット・アゲイン(There ! I've said it again) |
年間1位に輝いたのは、レス・ブラウン楽団の「センチメンタル・ジャーニー」。バンドの専属シンガー、ドリス・ディ(写真左)が歌っていました。ドリス・ディは、日本でも人気のある女性シンガーですね。2位は相変わらず人気のある女性コーラス・グループ、ザ・アンドリュース・シスターズの「ラムとコカ・コーラ」は、別に「コカ・コーラ」のコマーシャル・ソングとかではなく、もともと1943年にトリニダードでヒットしていたものだという。シスターズはこの曲のカリプソのリズムが気に入ったのだという。3位の「ティル・ジ・エンド・オブ・タイム」は、1945年に出版されたポピュラー・ソングで、何人かのアーティストによる共作となりましたが、最もヒットしたのがペリー・コモのもので、ビルボード誌で10週連続で1位を獲得し、200万枚以上のセールスを記録したそうです。4位再びレス・ブラウン楽団とドリス・ディ。この年は大いに人気を得ていたことが分かります。5位は作詞家でもあるジョニー・マーサーが作詞し、ポール・ウエストンが作曲した曲で、タイトルの"Atchison, Topeka and the Santa Fe"とは、いわゆる「サンタフェ鉄道」のことらしい。バックのザ・パイド・パイパースの軽快なコーラスが光っています。
6位は、Tp奏者ハリー・ジェイムズが率いる楽団の「イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム」。こちらも日本でも人気のある女性シンガー、ヘレン・フォレストが歌っています。この曲は、「お久しぶりね」と訳されることある曲で、戦争が終わって帰還した配偶者ないしは恋人を迎え入れる立場の観点から書かれていて、大戦終了を受けて大ヒットになったといいます。7位の「アイ・キャント・ビギン・トゥ・テル・ユー」は、昔は日本でもたくさんレコードが出ていたピアニストのカーメン・キャヴァレロの伴奏をバック歌われるバラード・ナンバー。映画「ドリー・シスターズ」で使われ、翌1946年のアカデミー賞歌曲賞にノミネートされましたが、ジョニー・マーサーの「On the Atchison, Topeka and the Santa Fe」に敗れました。8位の「チッケリー・チック」は、子供向けに作られた曲で、女性シンガーのナンシー・ノーマンがリード・ヴォーカルを務めています。9いはまたもやジョニー・マーサーです。"Ac-cent-tchu-ate the positive"というのは変わったタイトルですが、これはマーサーが、ある神父の説教を聴きに行った時、その神父が"Accentuate the positive, eliminate the negative"(前向きになれ、消極的になるな)と説教した時、その"Accentuate"を「Ac-cent-tchu-ate(アク・セン・チュ・エイト)」というアクセントが耳に残り、映画「Here Come The Waves」のために新たに曲を書くことになった時に使ったものだと言います。10位のヴォーン・モンローの「ゼア・アイヴ・セッド・イット・アゲイン」は、ボビー・ヴィントンが1964年にカヴァーし、それも大ヒットしたバラード・ナンバー。ヴィントンのカヴァーは、日本では「ブルー・ファイア」という邦題だったといいます。邦題は原題とは異なり「ミスター・ブルー」という愛称から意図的に「ブルー」のついたタイトルと曲のイメージからつけられたようです。
大戦の勝利も見えてきたとはいえ、まだまだ戦闘は続いており、まだたくさんのミュージシャンたちが徴兵されていましたが、ジャズ界の動きはこの年1945年は実に活発なものがありました。一部例外もありますが、スイング時代からの名門ビッグ・バンドも活動を続けていましたし、そしていよいよ新しいジャズのスタイル、ビ・バップ旋風が本格化しつつありました(写真右はコンボで演奏するディズとバード)。一方ニューオリンズ・リヴァイヴァル運動も活発でした。後にモダン期の中心をなす著名ミュージシャンも続々と現れ始めました。先ずはじっくりと見ていきましょう。
この年も第二次世界大戦の戦時下のため、「メトロノーム(Metoronome)」誌のポール・ウィナーの選出とその結果に基づいたレコーディングは行われませんでした。
ライオネル・ハンプトン(写真右)は、まだ終戦には至っていなかったこの年の4月、自己名義でのコンサートをカーネギー・ホールで開催した。もしかするとデューク・エリントン以来の黒人ジャズメン名義のコンサートだったのかもしれません。詳しくは「ライオネル・ハンプトン 1945年」をご覧ください。
アンディ・カークの吹込みは、1曲しか持っていませんが、ハンク・ジョーンズの極めて初期録音であることが注目されます。詳しくは「アンディ・カーク 1945年」をご覧ください。
残念ながら、これまでの常連、ジミー・ランスフォード、アール・ハインズなどの録音は保有していません。
レコーディングは数多く行われたようだが、僕の持っているトミー・ドーシーの1945年の録音は5曲だけです。その中には上記デューク・エリントンの項でも触れたバンマス交換企画も含まれています。実はこの企画の聴き処は、その作曲者で、ドーシー楽団が才人サイ・オリヴァーが作編曲を担当、ドーシーがオリヴァーで来るなら、エリントン側は才能では引けを取らないで勝負だとばかりに、ビリー・ストレイホーンに曲を書かせたようです(但し作者名はエリントンになっています)。詳しくは「トミー・ドーシー 1945年」をご覧ください。
これまでのスイング、ダンス・ミュージックに飽き足らず、新しい音を目指したビッグ・バンドを取り上げましょう。通常ここで思い浮かぶのは、白人バンドならスタン・ケントン、ウディ・ハーマンそしてボイド・レーバーンで黒人バンドとしては、ビリー・エクスタインが挙げられると思います。しかしスイング時代から活動しているため、何となくスイング・バンドに分類されるアーティ・ショウですが、その前進意欲は全く緩むことが無く、新しいサウンド作りに取り組んでいました。却ってスタン・ケントンなどは、特にビ・バップに共鳴したというわけではなく、単なるダンス音楽を忌避して、彼なりのサウンドづくりを目指していました。
ビ・バップ・バンドの先駆けとも言われるウディ・ハーマンの楽団ですが、どうもハーマン自身にそういった先取の精神があったかと言うとかなり疑問です。しかし彼の場合スタッフ=バンド・メンバーが優秀でした。この時期辺りから、ジャズ史上名高いウディ・ハーマンの「ファースト・ハード」が本領を発揮しだします。詳しくは「ウッディ・ハーマン 1945年」をご覧ください。
日本では非常に評価が低いボイド・レーバーン。しかしこの時期Tpのディジー・ガレスピー、Asのジョニー・ボスウェルを擁し、最も斬新な演奏を行っていました。しかしその吹込みは、「ギルド」や「ジュエル」といった超マイナーなレコード会社に行われており、録音データも整っていません。詳しくは「ボイド・レーバーン 1945年」をご覧ください。
ビリー・エクスタインのバンド(写真左)は、史上初のバップ・ビッグ・バンドと言われ、前年1944年に歴史的なレコーディングを行いました。その後バンドの要、ディジー・ガレスピーが辞め、チャーリー・パーカーと行動を共にし始めます。エクスタインは、ディズの後釜に、新進気鋭のトランぺッター、ファッツ・ナヴァロを据え、作・編曲にタッド・ダメロンを迎え、斬新なバンドを維持して行くのです。詳しくは「ビリー・エクスタイン 1945年」をご覧ください。
ディジー・ガレスピーは、この時期しょっちゅうチャーリー・パーカーと過ごしていたと言います。そして1945年1月二人は初めて商業目的の録音を行うことになります。その後は白人テナーサックス奏者、ジョージー・オウルドやボイド・レーバーンの吹込みに加わったり、自己のセクステットで吹込みを行ったりしていましたが、2月以降バードとの共演吹込みが多くなります。この吹込みが非常に重要です。詳しくは「ディジー・ガレスピー 1945年」をご覧ください。
さてビ・バップのもう一人の中心人物チャーリー・パーカー(以下バード)です。前項ガレスピーで触れたように、ジャズ史上極めて重要な吹込みが行われます。またサヴォイへ自身初のリーダー吹込みを行いますが、バードはそこで当時弱冠19歳の新人Tp奏者、マイルス・ディヴィスを起用します。マイルスとの初共演録音です。そして年末には、パーカーの人生に大きな影を落とす西海岸への遠征が行われるのです。詳しくは「チャーリー・パーカー 1945年」をご覧ください。
ジョージ・ルイスは、この年、バンク・ジョンソンの録音に参加するとともに、自己の名を冠したバンドで、レコーディングを行っています。詳しくは「ジョージ・ルイス 1945年」をご覧ください。
ウッドン・ジョー・ニコラスはこの年初レコーディングを行います。ニコラスは、生涯のほとんどをニューオリンズで暮らしたという生粋のニューオリンズっ子です。プレイのキャリアについて全てが分かっているわけではありませんが、引退してしばらくトランペットを吹いていなかったバンク・ジョンソンに比べると、地元ニューオリンズで演奏活動を続けていたように思われます。そのためプレイにもブレが無く、吹き切れているように思われます。彼のような存在にスポット・ライトが当たったということこそが、ニューオリンズ・リヴァイヴァルの成果だと思われます。詳しくは「ウッドン・ジョー・ニコラス 1945年」をご覧ください。
テイルゲート・トロンボーンの伝説的な名手、キッド・オリィ(写真右)の1944年8月復帰第1回目のレコーディングに続き、この年も素晴らしい録音を"Good time jazz"レーベルに残しています。詳しくは「キッド・オリィ 1945年」をご覧ください。
前年1944年は膨大なタウンホール・コンサートの放送音源がありましたが、僕の持っているこの年はTp奏者のワイルド・ビル・ディヴィソン名義のレコーディングに加わった録音のみです。詳しくは「エディ・コンドン 1945年」をご覧ください。
マグシー・スパニアは、この年も活発に演奏活動を行っていたようです。詳しくは「マグシー・スパニア 1945年」をご覧ください。
前年1944年新しい響きの音楽、ビ・バップへの積極的な取り組みを見せたコールマン・ホーキンスのこの年の録音を聴くと、<バップ志向>というかバップの香るものともう一つは<生粋スイング>が混在しているように感じられます。写真は、左からハワード・マギー(Tp)、ホーク(Ts)、オスカー・ペティフォード(B)。詳しくは「コールマン・ホーキンス 1945年」をご覧ください。
この年1945年不名誉除隊から解放されたレスターは、早速レコーディングを開始します。その中には、当時として珍しい、ナット・キング・コール(P)、バディ・リッチ(Ds)とのトリオ演奏なども含まれます。詳しくは「レスター・ヤング 1945年」をご覧ください。
ロイ・エルドリッジは、この年白人バンドリーダー、アーティ・ショウのメイン・ソロイストとして数々の名ソロを残していますが、自身としてはビ・バップ系のボイド・レーバーンのバンドに魅かれていたようです。詳しくは「ロイ・エルドリッジ 1945年」をご覧ください。
コールはこの年も西海岸で活動していました。レスター・ヤングの項で取り上げたような注目のレコーディングも西海岸で行っています。詳しくは「ナット・キング・コール 1945年」をご覧ください。
この年のブルーノート・レコードは未だディキシーランド・ジャズやスイング・ジャズ、ブルースを中心にレコーディングを行っていました。ただ前年1944年に比べれば、レコーディングの数は増えているようです。
フリップ・フィリップス(写真右)は、この年1945年もウディ・ハーマン楽団を中心に活動していましたが、当時は進歩的なテナー奏者という評価もあったのかチャーリー・パーカーの加わったレッド・ノーヴォの吹込みなどにも参加しています。詳しくは「フリップ・フィリップス 1945年」をご覧ください。
まだ大戦中であり、バンドメンの確保に奔走しながらもなんとか自身のバンドを維持していたようです。詳しくは「ジョージ・オウルド 1945年」をご覧ください。
ラッキー・トンプソン(写真左)は、スイングとバップの間を埋めるミュージシャンと言われますが、正にその言葉通りベイシー楽団や進歩的と言われるボイド・レーバーンの楽団などで活躍していた。目を引くところでは、女性シンガー、ダイナ・ワシントンの伴奏をミルト・ジャクソン、チャールズ・ミンガスを擁する自己名義のバンドで行ったことでしょう。詳しくは「ジョージ・オウルド 1945年」をご覧ください。
コーキー・コーコランは、こう言っては何だが、特にジャズ史に残るようなミュージシャンではありません。そんな彼の数少ないリーダー作が吹き込まれました。その面子が大変興味深いのです。詳しくは「コーキー・コーコラン 1944年」をご覧ください。
アニタ・オデイは、この年全くスイングしないドラマーに腹を立て、スタン・ケントンのバンドを辞め、古巣のジーン・クルーパのバンドに復帰します(写真右はアニタとクルーパ)。()詳しくは「アニタ・オデイ 1945年」をご覧ください。
アニタ・オディに代わってケントン楽団に入ったのは、ジューン・クリスティでした。ジューンもまた人気を博するシンガーに育っていきます。写真はジューン・クリスティとスタン・ケントン。詳しくは「ジューン・クリスティ 1945年」をご覧ください。
ビリー・エクスタインのバンドでデビューしたサラ・ヴォーンは、この年チャーリー・パーカーなどビ・バップ・ジャズメンとレコーディングを行っています。詳しくは「サラ・ヴォーン 1945年」をご覧ください。
僕の持っているビリー・ホリデイの音源は、この年は多くありません。彼女はこの頃ジミー・モンローと最初の結婚をし、最愛の母を亡くします。詳しくは「ビリー・ホリデイ 1945年」をご覧ください。
ザ・パイド・パイパーズは、前年1944年トミー・ドーシー楽団を解雇されますが、その人気は衰えず、ダウンビート誌では1944年から49年、メトロノーム誌では1944年から51年まで、ヴォーカル・グループのポール・ウィナーでした。詳しくは「パイド・パイパーズ 1945年」をご覧ください。
R&Bとも言うべきレコードが人気を博しだします。特にルイ・ジョーダン率いるバンド、ティンパニー・ファイヴ(写真右)のレコードが大ヒットとなります。詳しくは「ブルース・ピープル 1945年」をご覧ください。
このコーナーは、ミュージシャンの自伝や評伝に出てくる記述で1943年とはどういう時代だったのかを探ってみようというコーナーです。僕が持っている自伝・評伝はそれほど多くはなく、また僕の力量の低さなどからうまくいくかどうか不安ですが、トライしてみます。
まだその演奏が本篇に登場しないミュージシャン達を生まれた順に並べてみましょう。マイルス・ディヴィスとチャールズ・ミンガスは、レコーディング・デビューしましたので、このコーナーからは割愛します。
| ミュージシャン名 | 生年月日 | 生地 | 自伝・評伝 | 著者 |
| ジョン・コルトレーン | 1926年9月23日 | ノース・カロライナ州ハムレット | 評伝『ジョン・コルトレーン』 | 藤岡靖洋 |
| ビル・エヴァンズ | 1929年8月16日 | ニュージャージー州プレンフィールド | 評伝『幾つかの事柄』 | 中山康樹 |
| 穐吉敏子 | 1929年12月12日 | 旧満州国遼陽 | 自伝『ジャズと生きる』 | 穐吉敏子 |
| ウエイン・ショーター | 1933年8月25日 | ニュージャージー州ニューアーク | 評伝『フットプリンツ』 | ミシェル・マーサー |
[ジョン・コルトレーン]
ビル・エヴァンスは、1929年8月16日生まれなので、15〜16歳に当たります。1943年の時に触れた息子のエヴァン・エヴァンズが編集した若き日のビルの演奏遺稿集CD"Bill Evans/Very Early"(右)には、1944年の録音は収められていないが、1945年の録音が収められています。
| Piano | … | ビル・エヴァンズ | Bill Evans |
| Tenor sax CD-4. | … | オルビー・ディールマン | Alby Dielman |
| Tenor sax CD-5. | … | ジョージ・バシェ | George Bache |
| Bass | … | ウォルト・"ケイ"・コワルスキー | Walt "Kaye" Kawalski |
| Drums CD-4. | … | ジョージ・バシェ | George Bache |
| Drums CD-5. | … | オルビー・ディールマン | Alby Dielman |
| CD-4. | 家族からハリーへ レディス・アンド・ジェントルマン | To Harry from family - Ladies and gentleman |
| CD-5. | 家族からハリーへ インプロヴァイジング | To Harry from family - Improvising |
ビルの兄ハリーへ送られた演奏で、1943年の「C・ジャム・ブルース」のレコードに一緒に収録されたものらしい。本来の持ち場はCD-5.のようにバシェがテナーでディールマンがドラムのようですが、交替して演奏したようです。ビルがブギー・ウギーを弾き始め、テナーが吹き始めるが少々キーがズレているように聴こえる。そしてたどたどしいDsソロとなると、堪えきれずビルは笑ってしまいます。楽しい雰囲気が伝わってきます。CD-5.は本来の持ち場に戻った演奏で、ビルはテクニックがすごく"Fingers"と呼ばれていたのに納得できます。バシェもなかなかのソロを聴かせてくれます。
| Piano | … | ビル・エヴァンズ | Bill Evans |
| Tenor sax | … | ジョージ・バシェ | George Bache |
| Bass | … | コニー・アトキンソン・ジュニア | Connie Atkinson Jr. |
| Drums | … | フランク・"フルフィ"・ロベル | Frank "Fluffy" Wrobel |
1944年冬に加わったダンス・バンドのリーダーの息子コニー・アトキンソン・ジュニアが加わります。